(編集部より。回答者を指名した質問はできません。質問を修正しています。) 私は、8歳で義父から性的虐待を受け続け、母からは そんな私を「気持ち悪い」と言われ、実父からは、助けを求めた時に「おまえなど関係ない」と言われました。 あるお坊様が、「ご両親には、生まれてきたこと、今生きてることを感謝しなければいけない」と話しておられました。 そんな両親にでも感謝しなくてはいけないのでしょうか? 生まれてきたことを喜ばないといけないのですか? 怨んでも憎んでも苦しい、私の人生を殺した加害者でしかありません。 妹には先立たれてしまい、ついて行きたい気持ちでいっぱいです。 血縁の方が同じ目に合われていても、それでも感謝しなさいと教えられるのでしょうか? 生まれてきたことを後悔しています。
これは私自身が生きる中で抱いた怒りや悲しみではなく、hasunohaで数々の質問を目にする中で生じた仏教への一般的な関心に基づくことを最初にお断りしておきます。 H.S.クシュナーの『なぜ私だけが苦しむのか 現代のヨブ記』(齋藤武訳)を既にご存知かもしれません。この本は、私の理解する限りでは最後の章で次のような普遍的な問いを扱っています。 「なぜ、善良な人が(あるいは私が)不幸にみまわれたのか」 「私の苦しみが単なる不運であるなら、私が苦しんでいることになんの意味があるのか」 「正しい人も悪い人も同じように苦しむのだとしたら、だれが宗教なんか必要とするだろうか」 諸行無常、諸法無我、一切皆苦。「それはわかっているけれど……」「死んだあとのことを今いわれても……」というのが、これまた雑な理解に基づく感想で申し訳ありませんが、仏教徒にとってもまた正直な反応ではないかと感じています。一例として、ターミナルケアの現場において、死後の世界に関する教義が死への恐怖を有意に和らげているとはいえなかったという話をどこかで耳にしたことがあります。 これらの問いに対して、皆さんは時に誰かの、時にご自身の問題としてどのようにお考えになるでしょうか。あるいは宗旨の違いにより、そもそも仏教ではこうした問い自体が前提から不適切かもしれません。そうであれば、仮に目の前の方がこのような疑問や怒り(たとえば病気について)を投げかけてきた時、その方に対してどのようなお話をされるでしょうか?
人生ほとんど、誰かしらにいじめられています。 私は、どんくさく慌てものなところがあるからだと思います。 幼稚園から中学校はいじめに遭ったり、仲良くなった人にも「壁があって話しにくい」と言われ突然避けられたりして、人間関係がうまくいきませんでした。 それ以降は友人には恵まれましたが、高校時代は部活のコーチ、大学時代はアルバイト先の店長や研究室の先輩から、他の人には怒らないような細かいことで怒られたり厳しい言い方で叱られたりしていました。 就職先では上手くやりたい!と思っていましたが、就職先でもトップの人間に目をつけられ「使えない」「病気なのか」「給料泥棒」などと言われました。 転職しましたが、その先でも同じ様な扱い。 2回目の転職でやっと人間関係に恵まれましたが、結婚による転居を機に退職しました。 1年前に出産後、就職活動をしてこの春から働いていますが、そこでもある一人の先輩社員にまた目をつけられてしまいました。 この先輩社員をAとします Aは上司等にはいい顔をしていますが、周りに人がいなくなると近寄ってきて大声で怒鳴ってきつい口調で私を罵ってきます。 人間として扱われていないように感じます。 上司に相談したら「Aさんとは一緒に仕事しなくていいよう手配するね」と言われました。 しかし今日は欠員があり、どうしてもAと仕事をしなくてはならなくなりました。 間に上司が入り接触が少ないようにしてくれましたが、上司がいない所ではAはやはり先程のようになりました。 私がもっと仕事ができるようになれば、Aに意地悪をされなくなると思い出勤日数を増やそうと相談し承認されましたが、もう今日で心がポッキリ折れてしまい退職も考えています。 家では普通にしていましたが、ふとしたきっかけで感情が爆発してしまいました。 夫に話を聞いてもらいましたが、まだ辛く幼い子供も無理して明るく振る舞っているように見えました。 何で私ばっかりこんな目に遭うの?と考えると涙が止まりませんし、強くなれず家族に心配をかけてしまう自分も嫌です。 Aや私をいじめてきた人間達を殺したい気持ちでいっぱいですが、家族に迷惑をかけるわけにはいかないと必死で殺意を抑えています。 もういっそ消えてしまいたい。 こんな経験に意味はあるのでしょうか? こんなことのために産まれてきたんじゃないのに、と悔しいです。
私は現在大学で社会学を学び、多文化共生の道筋(異文化教育学)を調べたりしています。自分を含めた複数の文化的ルーツの人々が暮らしやすい環境を作る為です。 先駆者の理論などを学ぶにつれ、社会における自分の立ち位置を理解し、精神も依然と比べて安定はしているのですが、どうにも腑に落ちないわだかまりを感じるのです。 見た目が違うと言う理由だけで警察に職務質問されたり、日本でずっと育ったのに外国人(犯罪者)扱いされたり、慣れてくると「考えても仕方が無い」と無感覚になるので今は怒ったりはしないのですが。 以前聞いた仏教における「因果」の話に矛盾を感じてしまいます。私の認識では善因善果や悪因悪果の様に自分の不幸の原因が自分にあり、大概の場合は理に適っていると思います。差別や警察への対処法では本当に当てはまってて、知り合いの混血もけんか腰で話してたら公務執行妨害で押さえつけられてました。(;´Д`) しかし差別される苦しみ(果)が自分が捲いた(因)であるとは思えないのです。もしこの苦しみをもたらしている因果に心当たりがあるのであったり、私の解釈が誤っているのであれば教えていただけるとありがたいです。 理不尽?と言えば良いのかはわかりませんが、この様な社会において他者に対してどの様な心構えを持てば良いのかもご存じであればご教授願えないでしょうか。
お坊様へ 私は今、転職活動の最中にあります。 年齢的にも苦戦しております。 その中、たまたま講演会で 講師で食肉処理センターの社長の話を聞くことがありました。 興味があれば見学に来ませんか? というお話もございましたが諸事情でまだ連絡をしておりません。 パンフレットから企業研究をしておりますが「と畜」を行っているようです。 書いてある作業工程をインターネットで調べますと、一般的技術として行われる工程が殺生ですから私にとってはショックに感ずる可能性があります。 消費者として普段肉は食べております。 食卓に届くまでに欠かせない業種であると思います。 この会社に応募するかまだ分かりませんが、 お坊様から見て職務上避けられない殺生という事についてどのように考えたらよいかいくつか伺いたいと思います。 ・地元のお寺の行事ではお坊様が 「私の後に続いて唱えてください、では『不殺生』…」という形でお唱えしますが、これが守れないようになりますがどうしたらよいですか? ・この業種では100kg位の動物のと畜を専門にしており、 最初の工程では生きている状態の動物にかなり接近して処理を行うようですが、その動物にどのような態度で臨めばよいですか? (「感謝」はするべきだと思いますが、動物にとっては自分の生き死にですので、どこまで許してくれるかわかりません。 また、一日の処理頭数はかなりあるのが一般的なようなので、 「特別なお祈り動作」をしていると作業上事故の元になる恐れが考えられます。) ・ある程度頻繁にお祓いに行く、或いは毎日・毎週・毎月の単位で慰霊碑や近隣寺院にお参りに行くなどという事をするべきですか? (何らかのたたりなどへの心配) ・工場の衛生基準で持ち込めるか不明ですが、何かお守りを所持した方がよろしいですか? ・この仕事に従事することで、 将来例えば「お坊さんになることができなくなる」とか 「一定のお寺に参拝できなくなる」とか 何か仏教上のペナルティのような何かが発生することはありますか? とんでもない事を質問しているかもしれません。 ただ「TPPで日本の畜産がどうなるか」は他で調べられても、 こういうことはお坊様でないとお伺いできそうにありません。 大変恐れ入りますが、お坊様どうか何卒ご教示お願い申し上げます。
これは過激な提案であり、思考実験であり、私の望みです。 私の望みは、ありとあらゆる生命が、一瞬で、同時に、何の苦しみもなく死に絶えることです。私はこの世界に心底失望しており、肉体という物質からの脱脚を強く望んでいます。五感と意識を手放し、何も感じなくなりたくて仕方ありません。 自殺してもこの世界がある限り、また生まれてしまう可能性から逃れられません。それに絶望して、「何もないこと」を希求するようになりました。 人間は「全世界同時安楽死ガス」を開発するためだけにここまで進化したと思っている部分があります。 全生命の生殺与奪権を一部の人間が握ることになる点、自然に続いている生命を人為的な手段で終わらせる点、今まで誰もそんなことを言わなかった点を除けば、私の提案は遠い未来に訪れる太陽の消滅や阿弥陀様のもたらす救いと同質ではないでしょうか? 「存在しない」以外の希望がどこにも見当たりません。 生命の本能は他を侵害することにあります。人間だってその本能から逃れられていないばかりか、「自分を大切にしたい」という欲望のままに他者を排除する時代です。 今まで見て見ぬふりをすることでうまいことやっているように見せかけてきた沢山の苦しみが「多様性」や「人権」という言葉のもとに噴出し、その結果は今まで以上の苦しみの再生産です。 善意なんてものは、もともと神話の遺物でしかありません。 何かを犠牲にしなければ社会は成り立ちません。 ならば、全て消し去ってしまった方が良いとしか思えません。 「全生命同時安楽死ガス」が間違っているのだとしたら、私はどうすれば 良いのでしょうか?
以前、流産と不妊について相談させていただいた者です。その節は心のこもった回答をありがとうございました。 ご回答やそれ以前の問答を拝見したりして、少しずつ落ち着きを取り戻していますが、なかなかすぐに元気にというわけにはいかず、まだやっぱりもがいています。 ところで、以前TVでストーカーのニュースを見ていたとき、「ストーカーの人が幸せになれるとしたら、それは執着を手放して、他の道を進んだときだよね」と、家族に話しかけて自分でもはっとしたことがありました。私もそうだ、と思ったからです。 たぶん私は子供がほしいと思うあまりそのことに執着しているのではないだろうかと気がつきました。繰り返し流産して、いったん手にしたと思ったものを何度も失ったことで、余計にそれが強くなってしまったのかもしれません。 なんとかこの執着を手放したいと思ってきましたが、なかなか難しいようです。もともとこんな気持ちが背景にあったので、こちらの仏教に関連したサイトにご相談させていただいたのかもしれません。 説明が長くなってしまいましたが、このような執着を手放すための心の持ちようはあるのでしょうか?ご助言をいただければ幸いです。
3年前に結婚が破談になってから卑屈な自分となりうつ病を患ったりと安定しない日々を送ってきました。今はうつ病の薬もやめて体調も安定したのですか、卑屈な自分が前面に出ているのか声が出しにくく対人スキルがかなり落ちました。 もともとは人見知りもなく明るくて、よく話し積極的で前向きな性格だったのでこんな数年で自分の変わりように悲しくなります。お酒を飲むと明るい話せる昔の自分に近づくのですが。このままだとさらに独身だろうなと自分で分かりまたしょげてしまいます。どうしたらいいのか分かりません
女性週刊誌のカメラマンや、パパラッチのように、人の秘密を暴いてそれをお金にする職業の方は、どのような業をせおっているのですか? それがいいこと、悪いことというのではなく、週刊誌をみる私達がいるからこそ成り立つ、必要な職業なので、別に彼らを非難しているわけではありません。 しかし、彼らのせいで芸能界をおわれたり、社会的な信用を失って仕事をなくしたり、一つの記事が人の人生を破滅させることもあります。 もちろん、元々は隠れて悪いことをしていた人達が一番悪いのであって、彼らはその秘密を世間に暴いただけかもしれません。 だからといって、何をしてもいいというわけではないと私は思うのです。 日本の長い歴史の中でも、密告や告げ口をして金銭をもらっていた人はたくさんいたと思います。 仏教の世界では、そういう彼らはどんな立場にいるのでしょうか。 最近の過熱するワイドショーをみて、色々と考えてしまうのです。