お忙しい中、申し訳ありません。 心にずっとわだかまっていることを聞いていただきたく存じます。 昔見た道徳の教科書の内容で心に残っているものがあります。 バスにある若者が乗ってきました。 若者は優先席に座りました。 次のバス停でお年寄りが乗ってこられましたが、若者は席を変わりません。 別の席の乗客が「変わればいいのに」「若いのに」と陰口を言います。 若者はうつむいて座っています。 お年寄りは「次で降りるから大丈夫だよ。」と言い、次のバス停でバスを降りました。 次の瞬間、乗客たちは驚きました。 若者もバスを降りていきましたが、若者は足が不自由だったのです。 乗客たちは沈黙に包まれ、バスはバス停を後にしました。 私は、この話を読んで「結局何をしても人は文句を言われるし、誤解されたくなければ優先席に座ったり、バスに乗ったりすべきでない」と感じました。 あまりにも、救いがないように思われショックだったのか、先生のしてくださった解釈は記憶にはありません。 お坊様はこのお話を読んでどのようにお感じになりますか。 このお話は、子どもたちに何を教えたかったのでしょうか。
現在29歳、難聴が発覚してから15年。健聴と、難聴、人生半分ずつ生きてきました。 年々難聴が進行し、昔に比べれば周りに隠すことなく打ち明ける事は抵抗なく出来るようになってきたものの、コミュニケーションはどんどん取りづらくなってきており、目に見えない障害が故に、なかなか理解して貰いにくい状態が辛いと感じる事が多々あります。とくに、飲み会など楽しい場で会話の輪の中に入りづらいと感じた時。本当はみんなと楽しみたいし、こういう場こそ人間関係を深める絶好の場だと思うのに、話の腰を折るのが嫌で、何度も聞き返しにくい、皆も楽しみに来てるのに通訳も頼みづらい。なので、無理して参加しても、雰囲気を乱さないように話の内容が分からなくてもニコニコ笑って相槌うって。終わった後は楽しかった事より疲労の方が大きくて。飲み会に誘われた時も正直躊躇してしまいます。どうすれば、楽しめるようになるのでしょう。
高齢者の安楽死についてご意見をお願い致します。90歳になる身内の者が倒れ入院となった際、医師に言われました。平均寿命を超えているからもういいのではと。つまり、延命治療をせずに逝かせるということです。家族は反対し、できうる限りのことをしてほしいと願いましたが、いざ胃瘻をどうするかの際に、この医師は容態について虚偽の説明までして胃瘻を阻止しようとしました。 高齢者の医療負担が大きな問題となっていますが、この医師も口から食べられなくなったら寿命とは言うものの、だからといって家のように栄養を少しずつ減らして二三ヶ月で逝かせましょうだなどと私はどうしても疑問を拭うことが出来ません。 医師が捉える死と御坊様が捉える死とは違うとは思いますが、命を救うのが医療であって、そこに延命も何も無いのではと私は思ったりもするのです。蝋燭は燃え尽きてこそ終わりです。口から食べられない、平均寿命を超えていることから死に至らしめようと安易に考える医師に私は命に対する驕り高ぶりと恐ろしさを感じます。たとえ口から食べられずとも、今その目の前に尽きていない命があるのですから。
私の家は浄土宗の檀家です。 浄土宗(浄土真宗も同じだと思います)では、「ただ南無阿弥陀仏を唱えれば、臨終に際して阿弥陀様が現れて浄土に連れて行ってくださり、そこで悟りをひらいて救われる」という思想だと理解しております。 しかし、どうしても心の中にもやもやが残ってしまいます。 といいますのは、「南無阿弥陀仏を唱えれば浄土に連れて行ってもらえ、悟りをひらける(=救われる)」というのを裏を返せば、「南無阿弥陀仏を唱えない人は悟りをひらけない(=救われない)」ということになってしまわないかと思うのです。 「自分に帰依しないもの、信じないものは救わない」などと、阿弥陀様はおっしゃるようには思えないのです。そんな心の狭い方ではないと思うのです。 おそらく「信じるものは救われる、でも信じてない人も救ってあげるよ」とおっしゃると思うのですが、ではそうなると「南無阿弥陀仏」をお唱えするのに果たして意味があるのかどうか、唱えても唱えなくても救われるのであれば、なぜ「南無阿弥陀仏を唱えると良い」とされているのかという疑問がわいてきます。 つまり 「南無阿弥陀仏を唱えないと救われない」→阿弥陀様はそんな心の狭い方だろうか? 「南無阿弥陀仏を唱えなくても救われる」→じゃあなぜ南無阿弥陀仏を唱える必要があるのか? という板ばさみといいますか、ジレンマに陥った気分になるのです。 これについて、お坊さんの見解をお聞きしたく、よろしくお願いします。