まずこのような世間の価値観から逸脱した相談が他の方々の目に触れてしまうことを先に謝罪します。 「夫婦それぞれで優秀な婚外子を作るのはエゴなのでしょうか」 私には婚約者がいます。モデルでインフルエンサーでポリアモリー(複数人を同時に愛する)の綺麗な女性です。 彼女は結婚したら北欧系の外国人の子供を産みたいと言っており、私もそれを歓迎しています。そして、私もロシア系の女性の子供が欲しいと彼女に伝えており承諾を得ています。私がロシア系ハーフの子供が欲しいのは母がロシア人クォーターだからです。 私は彼女の子供を愛せますし、彼女も私の子供を愛せるでしょう。そして私たち自身もお互い愛しています。 彼女は美人の生きやすさを知っています。ルックスが良いと人から常に好意を向けられ競争社会で優位に立ちやすいです。だから西洋の価値観に合う美人でハーフの子を産みたいといつも言います。 私は俗に言うイケメンではないですが、勉学や仕事などを努力でカバーしてきたので、彼女の言うことは1つの評価軸として理解できます。(ちなみに私が彼女の子供を望まないのは彼女自身が可愛い子を産める自信がないと言っているからです。) 優生思想やルッキズム、能力主義と言われても仕方ありませんが、 知能は教育次第で何とかなるものの、事実としてある程度遺伝しますし、容姿も確実に遺伝すると考えています。 今の価値観にそぐわないのは重々承知しておりますが、映画「ガタカ」のように遺伝子操作でデザイナーズベイビーを作った事例も中国であります。 優秀な子を作るのは親としてのエゴなのでしょうか。 私は大学時代から資本主義の研究をしており「資本主義の終わりを考えるより世界の終わりを考える方が容易い」と言われているこの世界に失望しています。 産まれた時から資本主義リアリズムという病に冒された世界で、新自由主義というゲームに勝つには容姿、人脈、経済力、教育、地理的優位性が必要だと思っています。 この救いようのない歪な世界に新たな人間を産み落とすなら容姿が良くて頭脳明晰の方が良いと思うんです。反出生主義を願わないならばこれしか道はないと思います。
お世話になります。 「中絶からの立ち直り方」と「水子供養の方法」についてアドバイスを頂ければと思い、御質問させて頂きます。 私は6年程前に中絶を行ってしました。 その頃、供養も行ってはおりましたが、平均そのお寺で供養するのは3年程で供養を終わらす方が多いと聞いたので、私も命日に1年に1度足を運んだきり3回行いその後放置しておりました。 そして当たり前ですが、年々、その自分のした罪の重さに、周りの友達が出産や子育てをしていく中で改めて取り返しのつかないことをした、親としての生きていく価値のなさ、この命の重さを年々理解し苦しくて苦しくて耐えきることができません。体が鉛のように重く、全身の硬直、手の震え、口から我が子の手が出てくるのではないかと思うほどの気持ちの悪さ、息苦しさ、怖さに押しつぶされだんだんと気力がなくなってまいりました。本当に闇の底にいるため、この世の人との差を感じまるで別世界で生きている気がしません。 安産祈願で有名な近所のお寺(中絶当初と同じところ)に再び足を運んでみましたが、夫婦仲良く妊婦姿、また子連れの家族の幸せそうなの中恥ずかしくく、また子供も違う所の方が喜ぶこではないか?水子さんが仲良くみんなで過ごせるお寺さんの方が良いのではないか?と思いもう一箇所別のお寺で供養を行っていただいてしまいました。 ところが「オンカカカビサンマエイソワカ」と唱えれば良いとお教え頂いたのですが、我が家は浄土真宗なのに何か違和感を感じる、先祖と違うところに行ってしまうのではないか…また我が子の霊は2箇所で供養もしてもらいさ迷っているのではないか…再びただただ罪を重ねているだけの自分に苦しく…また浄土真宗は三回忌すぎているし過去帳にも記載することができない…今後一体どうすれば良いのだろうか… 我が子の命の分までと精一杯人一倍生きなければと保育を勉強し試験を受けたりと、人の何十倍何百倍は努力して生きていこうと思い頑張ってきましたが、人間の体はやはり正直でもう気力がありません。死んでも償うことのできない罪を前にどのように前に進めばよいのか、立ち直り方がわかりません。自業自得ですが立ち直ることができません。 長々と本当に申し訳ございません。 またお忙しいところ申し訳ございませんが、お手隙の際にご回答頂ければ幸いにございます。 よろしくお願い致します。
お坊さんを怒らせてしまいました。 とある悩みについてお坊さんにメールしました。 悩みやすい性格であるため、何度もメールをしては、アドバイスをしてくれていた方でした。 その方から先日、アドバイスとともに、「1円でもよいから納めてください」「それかこれからも友だちでいてください」とメールがあったので、 私は「こちらこそ、これからも友達でお願いします」「いつもありがとうございます」と打ちました。 そしてしばらくして、新たな悩みについて相談したところ、 「なぜ1円も納めようとしないのか」というメールの返信が来ました。 「1円でもよいから納めてください」「それかこれからも友だちでいてください」の後者を選んだ理由は、 納め方がよくわからなかったからなのですが、これについてかなり怒っており、見た瞬間震えてきてしまい、メールを削除し、 今現在学業で忙しいから今度でよろしいでしょうか、と返信しました。 すると、この期に及んで言い訳するのか、とメールが来ました。 その前は、あなたの悩みやすいその性格が全ての原因だ、的なことも書いてありました。 それから返信はしていません。 ただ、信頼していた方だけにショックですし、納めることが義務だとは思いませんでした。 若干トラウマになりそうです。 この体験とどのように向き合えばよいでしょうか。
初めまして。 三歳の一人息子を持つ母です。 親の都合で一人っ子にしてしまう事への意見を頂きたく相談します。 経済的理由、 私の未熟さからこれ以上の子供を育てる自信がない事、 息子が大事すぎて二人目を妊娠・出産する事になった時に息子に寂しい思いをさせるのが嫌な事、 前回の妊娠中に私の体調面で周りに迷惑をかけた事、 などから一人っ子にしようと思っています。 主人も特に二人目を望んではいません。 でも周りは違うんです。 「2人目はまだ?」と何度も言われ、「一人っ子は可哀想」攻撃。 息子を同時期に出産したママ友はみんな二人目を出産済み。 四人家族の楽しい話を聞くと、息子に兄弟を作ってあげられない事に 罪悪感も感じます。 本当は私自身が二人目の子供を欲しいのかもしれません。 でもこれからの生活費の不安や、やっとらくになってきた子育て、 また一から新生児のお世話をする精神的余裕がないんです。 もう出産しなくていいんだと思うと心が楽になったりもします。 周りは子供が2人・3人が当たり前の環境で一人っ子を育てていく アドバイスを頂けませんか。 こんな親の都合で兄弟が持てない息子は、やはり可哀想な子なのでしょうか。
お忙しい中、申し訳ありません。 心にずっとわだかまっていることを聞いていただきたく存じます。 昔見た道徳の教科書の内容で心に残っているものがあります。 バスにある若者が乗ってきました。 若者は優先席に座りました。 次のバス停でお年寄りが乗ってこられましたが、若者は席を変わりません。 別の席の乗客が「変わればいいのに」「若いのに」と陰口を言います。 若者はうつむいて座っています。 お年寄りは「次で降りるから大丈夫だよ。」と言い、次のバス停でバスを降りました。 次の瞬間、乗客たちは驚きました。 若者もバスを降りていきましたが、若者は足が不自由だったのです。 乗客たちは沈黙に包まれ、バスはバス停を後にしました。 私は、この話を読んで「結局何をしても人は文句を言われるし、誤解されたくなければ優先席に座ったり、バスに乗ったりすべきでない」と感じました。 あまりにも、救いがないように思われショックだったのか、先生のしてくださった解釈は記憶にはありません。 お坊様はこのお話を読んでどのようにお感じになりますか。 このお話は、子どもたちに何を教えたかったのでしょうか。
高齢者の安楽死についてご意見をお願い致します。90歳になる身内の者が倒れ入院となった際、医師に言われました。平均寿命を超えているからもういいのではと。つまり、延命治療をせずに逝かせるということです。家族は反対し、できうる限りのことをしてほしいと願いましたが、いざ胃瘻をどうするかの際に、この医師は容態について虚偽の説明までして胃瘻を阻止しようとしました。 高齢者の医療負担が大きな問題となっていますが、この医師も口から食べられなくなったら寿命とは言うものの、だからといって家のように栄養を少しずつ減らして二三ヶ月で逝かせましょうだなどと私はどうしても疑問を拭うことが出来ません。 医師が捉える死と御坊様が捉える死とは違うとは思いますが、命を救うのが医療であって、そこに延命も何も無いのではと私は思ったりもするのです。蝋燭は燃え尽きてこそ終わりです。口から食べられない、平均寿命を超えていることから死に至らしめようと安易に考える医師に私は命に対する驕り高ぶりと恐ろしさを感じます。たとえ口から食べられずとも、今その目の前に尽きていない命があるのですから。
現在29歳、難聴が発覚してから15年。健聴と、難聴、人生半分ずつ生きてきました。 年々難聴が進行し、昔に比べれば周りに隠すことなく打ち明ける事は抵抗なく出来るようになってきたものの、コミュニケーションはどんどん取りづらくなってきており、目に見えない障害が故に、なかなか理解して貰いにくい状態が辛いと感じる事が多々あります。とくに、飲み会など楽しい場で会話の輪の中に入りづらいと感じた時。本当はみんなと楽しみたいし、こういう場こそ人間関係を深める絶好の場だと思うのに、話の腰を折るのが嫌で、何度も聞き返しにくい、皆も楽しみに来てるのに通訳も頼みづらい。なので、無理して参加しても、雰囲気を乱さないように話の内容が分からなくてもニコニコ笑って相槌うって。終わった後は楽しかった事より疲労の方が大きくて。飲み会に誘われた時も正直躊躇してしまいます。どうすれば、楽しめるようになるのでしょう。
私の家は浄土宗の檀家です。 浄土宗(浄土真宗も同じだと思います)では、「ただ南無阿弥陀仏を唱えれば、臨終に際して阿弥陀様が現れて浄土に連れて行ってくださり、そこで悟りをひらいて救われる」という思想だと理解しております。 しかし、どうしても心の中にもやもやが残ってしまいます。 といいますのは、「南無阿弥陀仏を唱えれば浄土に連れて行ってもらえ、悟りをひらける(=救われる)」というのを裏を返せば、「南無阿弥陀仏を唱えない人は悟りをひらけない(=救われない)」ということになってしまわないかと思うのです。 「自分に帰依しないもの、信じないものは救わない」などと、阿弥陀様はおっしゃるようには思えないのです。そんな心の狭い方ではないと思うのです。 おそらく「信じるものは救われる、でも信じてない人も救ってあげるよ」とおっしゃると思うのですが、ではそうなると「南無阿弥陀仏」をお唱えするのに果たして意味があるのかどうか、唱えても唱えなくても救われるのであれば、なぜ「南無阿弥陀仏を唱えると良い」とされているのかという疑問がわいてきます。 つまり 「南無阿弥陀仏を唱えないと救われない」→阿弥陀様はそんな心の狭い方だろうか? 「南無阿弥陀仏を唱えなくても救われる」→じゃあなぜ南無阿弥陀仏を唱える必要があるのか? という板ばさみといいますか、ジレンマに陥った気分になるのです。 これについて、お坊さんの見解をお聞きしたく、よろしくお願いします。