2024/02/25偽善的な自分に嫌気がさす
こんばんは、初めて質問させていただきます。
私は日々、誠実でありたい、優しくありたい、善く生きたいと願って目の前の人と接することを心がけていますが、よく何が本当の「誠実」なのか分からなくなって、たびたび自信を失ってしまいます。
たとえば、私はひとの悪口を言うのが苦手です。友人と誰かの悪口で盛り上がり、たとえその場では楽しかったとしても、のちのち悪口を言ってしまったことを深く後悔してしまいます。
「自分のことを棚に上げてひとを悪く言えるほど、自分はできた人間でもないのに。」といった具合です。
私の価値観に則るなら、ひとの悪口に関わる話題には安易に同調せず受け流したり、宥めたりするべきでしょう。
しかし、こういったときの話し相手が自分の大切な友人となると、私はすっかり困ってしまいます。
「人の悪口を言わない」という私の選択は、「相手の話に乗らない」「同じ土俵に立たない」「大切な相手と同じだけ"悪い人"にならない」ことを意味します。
それは、大切な友人を突き放して自分が上に立とうとする行為でもあります。
ひとの悪口を言わない、という選択をすることで、「私」という人間の一貫性を獲得することはできても、同調してくれることを期待していた相手にとってそれは裏切りで、偉そうで、友人関係として不誠実な対応だと受け取られるかもしれません。
実際、私が友人の愚痴を聞くとき、友人の疲れた心に寄り添うことを心がけつつも、誰かをひどくこき下ろす言葉をなだめたり、つい相手がたを庇ったりなんかすると、友人はきまって悲しそうな顔をするというか、ばつの悪そうな顔をさせてしまい、そういうときはとても心が痛みます。
会話が誰かを悪く言うフェーズに入った途端、私は、その話し相手にとって「居心地の良い人」ではいられなくなります。
「いつでも正しくある」ということは、「いつでも優しくある」ということと同義ではないのだと、つくづく思います。
結局私は、善人ぶりたいだけの浅はかな人間で、他者に嫌われるのが怖いだけの偽善者なのでしょうか。
しかし、大切な相手を傷つけ、悲しそうな顔をさせてしまうようなふるまいは、果たして誠実といえるのでしょうか。
仏様の教えになにかヒントがあれば、ご教示願いたいです。
有り難し 17
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