初めまして。タイトル通りなのですが 誰かに必要とされたい、愛されたいという気持ちが強すぎてしんどいです。 その反面、人からは興味を持たれず、愛されず、必要とされてないので余計に苦しくなり孤独感を感じる一方です。 人から必要とされないのならば生きてる価値なんてないと考えてしまうのです。 こういう気持ちをなくすにはどうしたら良いでしょうか? こころを無にして楽になりたいです。 文章力がないので支離滅裂かもしれません。すみません。よろしくお願いします。
父親は胃がんを発症し、病院でも匙を投げられ緩和ケアの段階に来ています。 言葉を発する事もなくなり、食事も殆ど摂らず寝ている事が一日の大半になりました。 息子として何かしてやりたいのですが父親としてはそれを望んでいないようです。 母親も椎間板ヘルニアを患い、介護自体も辛そうです。 自分は今、孤独と焦燥感がない交ぜになったような日々を過ごしています。 いずれ父親の死を看取る事になるでしょう。 その時の心構えが頭ではわかっていてもやっぱり割り切れないのです。 父とは折り合いが悪く「くたばっちまえ!」と何百回と思いましたが、いざその時が近づくと居ても立っても居られない自分の気持ちがわからないです。 これからどう日々を生きてゆけば良いのか無明の世界に居るようなものです。 どうか助言をいただけませんでしょうか?
社会や宗教はよく、「人は人を殺してはならない」と説きます。しかし、僕はこの問いに対して自らの内に納得できる答えを出すことが未だできていません。 決して僕自身は人を殺したいとは思いませんが、僕は別に人を殺したいなら殺してもいいと思うし、殺してしまったらならそれは仕方がないと思っております。 よく、自分が殺されたくないなら人を殺すな、だから人を殺してはならない、という回答を散見します。しかし僕はこれに納得していません。その相手が憎くて「殺されてもいいから、殺してやる」と思う場合、人を殺してもいい、ということになってしまうからです。 僕は度々報道される殺人事件のニュースを見ると悲しくなってしまうのです。「なぜ人は人を殺してはならないのか。」この問いに対する真実の答えがこの世のすべての人に知れ渡れば、殺人事件や戦争などという悲しい出来事がなくなると思うし、自殺もなくなると思うのです。 僕は決して殺人を犯した人がいなくなればいいなどとは思いません。殺人を犯してしまった人も、この地球に生まれ落ちた我らが同胞であり、兄弟であり、愛すべき存在だと僕は信じているからです。 そして、僕は生きる苦しみから逃れたい、自殺したいと思っていた時期がありました。自殺も、つまるところ「人(自分)が人(自分)を殺す」という事象に当たると思っています。自殺もいけないことだと真っ向から否定してほしいのです。 僕は生きる悦びを手にし、その生きる悦びを愛しているので自殺することはないと思います。しかし、この地球上に生まれ落ちた愛すべき存在を、殺人や自殺などといった形で失うことを、僕はただただ悲しいと思うことしかできないのです。 また、自殺の方法として餓死を選んだ場合、人は生きる苦しみから解放されるのでしょうか?一般的に自殺は生きる苦しみからの逃げ、だと僕は思っています。自殺の方法として餓死を選んだ場合、それは生きる苦しみと真っ向から向き合うことだと考えています。 近い将来、自分が餓死による自殺をしてしまうのではないか、と不安になる時があります。
アラサー主婦。3ヶ月の息子がいます。 自分の心の弱さに嫌気がさします。 元々オタク気質で、ゲームが好きです。 ここ数年ソーシャルゲームにどっぷり嵌まり、課金額が相当いきました。 結婚式の費用で200万貯めていましたが、途中からソシャゲの課金に給料のほぼ全額の月20万近く使うようになり、今は貯金が100万ちょっとになってしまいました。 過去に、流石にヤバイと思いアプリをアンインストールした時もありました。ただ、気になるキャラが出たりすると、またインストールして課金をする。課金するのが嫌でアンインストールする...そういうループが止まりません。 最近は、この課金の金額で別の何が買えるだろうか、と思うようになったし、旦那にも貯金額がバレて、何に使っているんだと呆れられてしまったので、またアンインストールしました。 息子はかわいいです。息子の為にももう絶対にインストールと課金をしたくありません。 ゲーム内の彼らはただのデータだとわかっています。わかっているのに、いい歳してゲームにつぎ込むのをやめられない自分が嫌です。 自分の心を強く持ち、脱課金をするにはどうすればいいでしょうか。 宜しくお願いします。
「たき木はひとなる、……」からはじまる、道元禅師が「現成公案」において「仏教にいうところの不生・不滅の考え方を説」*いているところでわからない点があるので質問させてください。 ①「薪は薪の法位に住して、さきありのちあり」の「さきありのちあり」とは、どのようなことを言っているのでしょうか。 ②その直後の文「前後ありといへども、前後際断せり」の「前後」は「さき」「のち」を言い換えたものであるとして、「前後際断せり」とはどのようなことを表しているのでしょうか。 ③「前後ありといへども、前後際断せり」の文において、なぜ「前後あり」と「前後際断せり」とは「といへども」でつながっているのでしょうか。対象をその前後に分析した場合、その対象は前後で分かれていると考えるのが自然だと思うのですが、ここであえて両者を逆接の確定条件でつなげているのはどのような狙いからなのでしょうか。 *増谷文雄全訳注『正法眼蔵(1)』(2004)p.47
人間とは偽善と悪の塊だとは思いませんか?
何故、葬式でお坊さんがお経を誰もわからない言葉で長々と読むのでしょうか?なぜそこにいる人々にわかるような言葉で読まないのでしょうか?あれじゃただの雑音です。 せっかくですし自分はお経の内容を知りたいと思っているのに、あれじゃ時間の無駄です。 ただでさえ悲しいのにあんなに長々と意味のわからない音を聞かせられるとか、お坊さんが人々にさらに苦しみをあたえています。 ああいう喋り方じゃなきゃ死者があの世に行けないということはないでしょう。 木で木を叩いて音を出し、声帯から決まった音を出さないと死者があの世に行けない理由もないでしょう。 ありがたいことを読んで悲しんでいる人の心を楽にさせてあげているわけではないでしょう。誰も理解できていませんから。 ああいうやり方にしないと死者への敬意を表せないわけではないでしょう。葬式で大事なのは心から悲しむことで、心から悲しみさえすれば決まった一つのやり方でやる必要はないからです。 自分が推し量るに、ああいうやり方じゃないとありがたみがなくなり誰にでも葬式ができるようになって、お坊さんが金儲けの手段を失うからだと思っています。 悟りを目指し、人々を救うことを目指しているお坊さんが、そのような誤魔化しをして金儲けをしている理由を教えてください。 攻撃的に感じるかもしれませんが、これは子供の頃から気になっていたことなので。どうか誤魔化さずに本当のことを教えて下さい。