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検索結果: 633件

亡くなった主人に会いたくてたまらない

二度目の投稿です、以前、主人が亡くなって26日目ですというタイトルで相談させていただきお二人のお坊さんから、目には見えなくても、あなたが想うとき必ずご主人は優しい眼差しであなたを見守ってくれています四十九日が過ぎても、ずっとそばにいてくれますよと回答いただき涙が溢れ心から嬉しくありがたく思いました、でもまた私の心は揺れています、毎日、時間ごとに分刻みに揺れ動きます、大変失礼な言い方だとわかっているのですが、お坊さんだって生きている人間なのにどうして亡くなった人がそばにいるとわかるのでしょうか?大切な人を亡くしてしまったらそのようにおもわなければ生きていけないから、そういう考え方をするんでしょうか?わからないんです、いくらそばにいてくれると思っても私には見えないし声も聞こえない何も感じない主人と出会って30年以上、今年の6月は結婚28年目でした、今思えば不思議なことに去年の結婚記念日には私が初めて手作りのケーキを作り、その前の年は主人が初めて、いつもありがとうと書いたケーキを買ってきてくれました そして娘がお腹にいる時の日記を読み返していたらなんの記念日でもないのに3月13日パパがママにピンクの花を買ってきてくれましたと書いてあり3月13日は主人の命日です、それと私はブラックなコーヒーが大好きだったのに主人がいなくなってからそれが突然飲めなくなり主人の好きだった甘い缶コーヒーを毎日飲んでいます、出会ってからずっと会えない日もあったけど声を聞かない日はなかったので亡くなってからずっと声が聞こえない手を握れないのがたまらない毎日作っていたお弁当はキッチンに置いたままです、失礼な質問かもしれませんがどうか教えて下さい。

有り難し有り難し 255
回答数回答 3

宗派が違っても、、、

私は元々浄土真宗で、結婚しても浄土真宗です。 ですが、主人の母方の祖父が天台宗の僧侶でした。祖父はもう亡くなり、今は主人の叔父が お寺を引き継ぎ僧侶をしております。 身内には相談しにくいのでこちらに相談させていただきます。 私が主人に出会った時には 義祖父は亡くなっていたのですが ここ最近 5年間排除していたテレビが引っ越しにより復活し、世の中の情勢を耳にし、目にして 天変地異、殺人、事故などで亡くなるニュースが絶え間なく流れていて 死について深く考える事が増え、そんな時、テレビの見る番組を制限し、空いた時間を 義祖父の執筆した本やなどを読む時間に充てるようになりました。 義祖父の本を読んでるうちに天台宗に興味を持つようになり 先日、義祖父が得度した延暦寺や、他 天台宗のお寺を廻って来ました。 仏像も大好きで 自分の守護本尊が大日如来様なので 延暦寺で大日如来様を目の前にした時は 感動というより 感謝 でした。 自分が矛盾しているようですが、宗派は天台宗が好きで なのに 私は浄土真宗、、、こんな矛盾 しているのが 自分でよくわからなくなり、 でも、元は インドの仏陀から始まっているのだし 問題はないのかな と思うのですが 宗教、宗派関係なく 好きなものは好き で構わないのでしょうか? 全ては自分の心の中に留めて 自己流の信仰をすればいいのでしょうか?

有り難し有り難し 42
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2021/10/27

彼女のお父さんがお亡くなりになられました

こんにちは。 昨日、私の彼女のお父さんが癌のためお亡くなりになられました。まだ若く70歳でした。 2年前の11月に年内までと余命宣告を受けておりましたが、お父さんの生きる気持ちが強かったのか余命宣告を受けた後もしばらくはとても元気に生活をされていたと聞いています。 ここ数ヶ月は体調の悪化で入退院を繰り返し、後半は酸素マスクが必要な状態となっており、私もそのタイミングで初めてご挨拶をさせていただきまして、そのちょうど1週間後に息を引き取られました。 彼女は、お父さんがいなくなった悲しみや「余命宣告されてから2年間もあったんだからもっとお父さんの写真や動画を撮ったり、親孝行しておけばよかった」といった後悔を感じているようです。 こうした悲しみや後悔の心の状況にある彼女にお坊さん方から、何かお言葉をいただけると幸いです。 また、これからもっと想い出を作っていきたかっただろう彼女の気持ちや、お会いした時のお父さんの顔を思い浮かべると私自身も辛くなる時があります。 私の心の持ち方や彼女にこれからどう接していくのが良いのかも合わせてアドバイスいただけたらなと思っております。 どうぞ、よろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 9
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南無阿弥陀仏をおとなえする意味について

私の家は浄土宗の檀家です。 浄土宗(浄土真宗も同じだと思います)では、「ただ南無阿弥陀仏を唱えれば、臨終に際して阿弥陀様が現れて浄土に連れて行ってくださり、そこで悟りをひらいて救われる」という思想だと理解しております。 しかし、どうしても心の中にもやもやが残ってしまいます。 といいますのは、「南無阿弥陀仏を唱えれば浄土に連れて行ってもらえ、悟りをひらける(=救われる)」というのを裏を返せば、「南無阿弥陀仏を唱えない人は悟りをひらけない(=救われない)」ということになってしまわないかと思うのです。 「自分に帰依しないもの、信じないものは救わない」などと、阿弥陀様はおっしゃるようには思えないのです。そんな心の狭い方ではないと思うのです。 おそらく「信じるものは救われる、でも信じてない人も救ってあげるよ」とおっしゃると思うのですが、ではそうなると「南無阿弥陀仏」をお唱えするのに果たして意味があるのかどうか、唱えても唱えなくても救われるのであれば、なぜ「南無阿弥陀仏を唱えると良い」とされているのかという疑問がわいてきます。 つまり 「南無阿弥陀仏を唱えないと救われない」→阿弥陀様はそんな心の狭い方だろうか? 「南無阿弥陀仏を唱えなくても救われる」→じゃあなぜ南無阿弥陀仏を唱える必要があるのか? という板ばさみといいますか、ジレンマに陥った気分になるのです。 これについて、お坊さんの見解をお聞きしたく、よろしくお願いします。

有り難し有り難し 712
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