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検索結果: 129件

他人を気にしすぎてしまいます

よろしくお願いいたします。 私は、常に他人からの評価を気にしてしまいます。 いろいろなことにそれは反映されますが、たとえば趣味で描いているイラストです。 自分ではとてもうまくできたと思っているし、実際以前に描いたものよりもずっと出来がいい、というものでも、思うような評価を貰えずに苦しむことが多々あります。自分と同等、もしくはそれ以下(であるように思ってしまいます)の作品が自分のものより評価されている、ということがさらに自分を苦しめます。 自己評価と他者評価とのギャップに苦しんでいる、と言えばいいのでしょうか。 しかし、絵を描くのは楽しく、やめたいとは思いません。 自分は自分、他人は他人、と思えればいいのでしょうが、そう理屈ではわかっていてもできません。 たとえば、自分というものを否定され続けてきたならば、生きていくために、肯定されるために「他者」を取り入れるほかどうしたらよかったと言うのでしょうか。 というのも、私は不美人ですが、小中の頃から勉強も運動も芸術も、そこそこにできたのです。しかし、勉強も運動もできて部活も強く、顔が可愛くて男女問わず人気者の女の子が幼馴染みとして長年隣にいた、という過去が私のこの人格形成に影響しているのではないか、と最近になって思うようにもなりました。 まとまらなくてすみません。 毎日苦しいです。助けてください。

有り難し有り難し 69
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自殺して親を後悔させてやりたい

私は今大学生で、血縁のある母とその再婚相手と暮らしています。 この生活が始まったのは小学校高学年の頃です。 最初はその生活もなんの苦もなく送れていたものの、段々と家での生活がしにくくなっていきました。 それが決定的になったのは中学一年生の夏休みです。家庭科の宿題を手伝って貰おうと思っていたのですが喧嘩をしてしまったので、その宿題は祖母に手伝ってもらおうと思い祖母と一緒に進めていました。宿題が終わり家に帰ると、継父は機嫌が悪く、その理由は「なんで自分の家で宿題ができないんだ」というものでした。その時には既に嫌いという感情はあったものの普通に接することはできている時期でしたが、その日首を締められた事を機に全く話さなくなりました。 3日前、大学の教科書等が家に届き、夕食後にそれを整理しようと思いリビングでテレビを見ながら整理していました。 すると突然、「邪魔。部屋でやれよ」と私が座っている椅子ごと蹴られました。もちろん、教科書の整理以外何もやっていないし、通路を塞いでる訳でもない。整理をする前に何かをした訳でもありません。 母には謝られ、「○○のことが1番だよ」と言われました。 正直、そんなことを言うのだったらさっさと別れて欲しいと思います。それに「結局別れない。私も大事だけど、あっちだって大事。」それって結局1番大事なのは母自身で、何も失いたくないだけなんじゃないかと思ってしまいます。 なんで自分の家で、しかも後から来た人の為に自分がこんなにも神経をすり減らして生きていけなければいけないのかが全く理解できないです。 継父を自分で殺す事も何度も考えました。ただそしたら自分が継父と同じ土俵に立ってしまうし、法律にだって反している。自分を余計に生きにくくしてしまうだけです。 だったら、もう自分が死んで後悔させてやりたいです。母はきっと後悔するでしょうが、継父がどう思うかはわかりません。ただ少なくとも生きにくくはなるだろうと思います。 私の周りの人たちはみんないい人だから余計にそうだと思います。 そんな人たちに多少なりとも迷惑をかけてしまうのは重々承知しています。 でも、もう本当に自殺する以外に楽になれる方法がわかりません。

有り難し有り難し 95
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死にたい気持ちが消えません。

40代の主婦です。小学一年生の男の子と夫の3人家族です。夫は一年前に転勤が決まり先に海外へ行きました。私は昨年の3月に子どもを連れて行くはずでしたが、コロナで入国制限がかかり行けなくなり、そのまま子どもと2人日本で過ごした後、ようやく最近夫のところへ行くことができ、ようやく一年ぶりに家族3人での生活が始まりました。 私は夫に会ってほっとしてしまったのか、こちらに着いて2週間ぐらい経った時に突然死にたくなり、夜にお酒を飲んだ後ドライヤーのコードを首に巻いて死のうとしていました。夫がすぐ浴室に来たので私は今も生きていますが、あの時夫が来てくれなかったら死んでいたかもしれません。 夫とその日朝まで話をして気づいたのですが、子どもと2人日本で過ごした一年の間、実は私はとても疲れていたのだと気付きました。子どもと2人だけの入学式、突然の休校で自宅で宿題をやる毎日、学校がようやく始まってママ友との面倒な付き合い、子どもが友だちとケンカして謝りに行ったり。夫とは毎週末LINEで会話していましたが、夫は平日は忙しくて毎日ちょくちょく話すことはできませんでした。その間も私はストレスで胃を壊したり、夜中に母子2人で眠るのがこわくなりお酒を飲みながらスヤスヤ眠る子どもの頬をなでて泣きながら朝まで起きていたり、この子のためにがんばろう、そういう気持ちで一年過ごしました。 そしてようやく夫のもとに来れたら、あ、もういいやと思ってしまったのです。あんなに子どものためにがんばれたのに、行きたい大学にも行けてしたい仕事もできて、結婚もできてかわいい男の子も産まれて、大変だったけどようやく夫のところに来れて、きれいな街にやってきて美味しいものを食べれたから、もういいや後悔しない、という気持ちです。 日本に帰りたいのかというとそういうわけではありません。今住んでいる国は人々も明るく、日本よりコロナの状況はよくありませんが、日本人という理由で差別されたり嫌なことをされたこともなく比較的住みやすいところです。 子どもが悲しむのになぜこんなことを考えてしまうのか自分でもよくわかりません。死にたい気持ちとどう付き合っていけばよいのでしょうか。

有り難し有り難し 19
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葬式をあげてほしくない

死後の事についてご相談があります。 私は宗教という考え方やそれに基づいた慣習、イベント自体は好きですが、私自身が何かの宗教に属することは避けたいと思っています。 私の知る上では各々の宗教の考え方と私自身の観念が合うことが少ないからです。 ただし、宗教のパロディである空飛ぶスパゲッティ・モンスター教には共感いたしておりますので、自称するときはパスタファリアンを名乗っています。 そこで、私が死んだ後、葬式をあげてほしくないと思っています。 特に仏教式の葬式です。 なぜなら、戒名をいただいた時点で、仏教徒になってしまい、仏教という枠に囚われてしまうからです。 悟りも輪廻も御免被りたいです。 衛生的な観点からは火葬自体はしても構わないのですが、法律が許しませんが、できればその後はゴミ箱にでも捨ててもらって処分してもらいたいと思っています。 家族にそのことを話すと、死んだら終わりだから死後の事など心配するなと言われるのですが、そうではなく、私がそのくくりにとらわれてしまうことを決定づけられることが不服なのです。 死後の世界云々は信じておりませんが、生きているうちはそのことが囚われであり、心配であります。 ただ、信じずとも無いことの証明は極めて難しい以上、ある可能性は0ではないというのが論理であり、公理です。 (論理、公理とは数学上の意味です。) ですから、その0ではない可能性で、仏教の枠に入ることで、悟れなければ輪廻を繰り返してしまうという観念に囚われてしまっているのです。 ただし、重ねて申し上げますが、悟り自体は御免被ります。 渇愛は人間の人間たる、また、人間の動物たる所以と思います。 私は人間らしさを捨てたくはありません。 仏教に従事していらっしゃるお坊さま方には相容れない考え方かも知れませんが、これが私の中の公理です。 さて、これは私の考え方を変える努力をして見たほうが良いのでしょうか? それとも、家族を説得するようにしてみたほうが良いのでしょうか? 相談する相手を間違っているような気もしますが、意見を伺えるかもしれない機会を捨てることはないと思い、ご相談差し上げます。 よろしくお願いします。

有り難し有り難し 411
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