今までの質問や他の方との問答で、個人的な悩みについて色々助けていただきました。ありがとうございます。 社会的に気になることについても、ここでお尋ねできるでしょうか。 貯金のおぼつかない生活をする中で、もし仕事が途切れて家賃も通信費も払えず情報も頼れる先も見つからなくなったような時、役所でも「まだ働ける可能性がある」「血縁者が存命」などで生活保護が受けられず追い払われてしまった時、行き当たったお寺で助けを求めることはできるのだろうかと疑問を持ちました。考えてみれば、ホームレスのような方をお寺で見かけたことはないように思います。 キリスト教の団体では募金や炊き出しをしているのを知っていますが、仏教ではあまり目につきません。 一部、セーフティネットとなるべく取り組んでおられるところもあるようですが、ネットで名前があがるのは一部の意識の高いお寺の個別の取り組みのように見えます。 歳末ですが、越年、越冬が難しいような方にいま頼られたら、お寺の皆さんはどのように対応なさいますか。 個々のお寺でなくても、困窮した人を現実的に助けているような場所、団体を紹介なさったりすることはあるのでしょうか。 せっかく公開の質問ですから、私だけでなく、今ネットは見られるにしてもいつ厳しい状況になるかわからないような人みんなのためと思ってお答えをいただければと思います。 これは厄介な質問と思われるかもしれませんが、よろしくお願いします。
はじめまして、ハスノハを初めて利用させていただきます。 タイトルにも書きましたが、私はお経が苦手です。 私自身、お経の何が苦手なのか分かりませんが聞いていると何故か落ち着かないようなソワソワモヤモヤした気持ちになってしまいます。 なので、お坊さんが家にお経を読みに来た時は仏間の隣にある自室に籠りイヤホンをつけて音楽を聴き帰るまでやり過ごしています。 しかし、大人になり親戚のお葬式に参加しなくてはいけない事も増えました。 やはり、お経を聴くと落ち着かない気持ちになってしまい早くお経が終わらないだろうかとついつい考えてしまい亡くなった故人やその家族に対して申し訳ない気持ちになってしまいます。 もし、少しでもこのお経を聴いてる最中のソワソワモヤモヤした気持ちを軽くする事が出来るアドバイスをいただけたならと思い相談を投稿させていただきました。 皆さん、お忙しいとは思いますがどうかアドバイスの程宜しくお願い致します。
初めまして、こんにちは。 多数ある質問の中、見ていただきありがとうございます。 自宅にて写経を始め、書き上げた枚数が増えてきました。 写経用紙で書き上げたものについては願文氏名・日付は書いてあります。 写経用紙が足りなくなったので書道で使われる半紙でも書き上げたのですが、こちらは幅が足りなかったため、最後の般若心経から後ろには願文・氏名・日付が書いてありません。 このような場合、後日 写経会へ参加の際に納経させていただこうと思っているのですが、半紙で書いた写経は失礼にならないように納経しない方が良いのでしょうか? これから納経と写経会を初めてさせていただくので、何か失礼にならないようアドバイスがあれば宜しくお願いします。
臨済宗の入室参禅、独参の作法について教えてください。 坐禅修行を離れていて長いブランクがあり、この度、再び独参の許しをもらえたのですが所作に自信がなく確認をしたいです。 僧堂や道場で微妙な違いはあると思いますが、一般論のように「喚鐘場の鐘を二度鳴らす→老師の部屋の前で低頭→三拝→・・・・・→終了」の感じで教えていただけると助かります。
こんばんは。 ハスノハに参加した時私は一応クリスチャンだったのですが、あれから色々あって、改教しようと思います。はっきり言ってしまうと、もうだいぶ前からすべての出来事に神の意志が働いて起こるというのが信じられなくなっていました。 最近わけあって近所のお寺さんでお世話になったので、まずはそこへお話を聴きに行こうと思います。ですが、そこは真言宗なので、通うと私は真言宗になってしまうのでしょうか? 以前仏教の本を読んだのがきっかけで、自分がすーっと入っていけそうな宗派のイメージができていて、それが真言宗ではないというだけで、真言宗が嫌というわけではないんです。 ただ、やっぱり最初にお話を聴きに行くお寺さんの宗派が違うといけないでしょうか。 ちなみに、私の家は普段どこか特定のお寺さんでお世話になっているのではなく、例えば父親の法事の際には植物園のようなお墓(父が眠っている所で、そこにお寺さんはない)にお坊様が短時間いらっしゃってお勤めをして帰られるという形です。 前は自分がお寺さんにお話を聴きに行くなんて考えていなかったのに、色々な事があってこんなふうになって、人の心も変わるものなんだなと実感しています。
母が亡くなり、家族葬をあげましたが 宗教の知識がなく兄も仕事で忙しいとバタバタと葬儀を、母は日蓮正宗だったようなので、葬儀屋さんに日蓮正宗のお坊様をお願いしましたが日蓮宗のお坊様しかお願いできないと言われ、同じ日蓮聖人 南妙法蓮華経だと思い、日蓮宗で葬儀をし、戒名をつけていただきました。私は、それがとても気になり、毎日毎日母にごめんなさいと手を合わせておりますが、兄はちゃんと心を持って供養すればいいと、いいます。49日の法要のお坊様はやはり、日蓮宗のお坊様にお願いするべきでしょうか?それとも日蓮正宗のお坊様にお願いするべきでしょうか?日蓮宗で戒名をつけていただいてしまったので日蓮正宗のお坊様はお願いできないのでしょうか?悔やまれて仕方がないです。親戚もなく、毎日、悩んでおります。お恥ずかしいですが、戒名を付け直してもらうなどのお金も潤沢にはございません。49日の法要をどの宗派のお坊様にお願いしたらいいのか、悩んでおります。
ご先祖様のお墓やお寺に 何か良いことがありますように と お参りすることは失礼なことでしょうか?
この夏に、義理の父が亡くなり義母が独りで暮らしております。 古くからの土地でしきたりも厳しく、法事などのお手伝いをしていても???と思うような風習も存在するような土地です。 義母はリウマチを患っており、股関節が悪いこともあり、普段の生活も色々と苦労しているようです。 近く法事を行うことになっており、前準備や当日の段取りなど色々相談しながら進めているのですが、その中でふと思ったことを質問させていただきたいと思います。 御仏飯についてなのですが、昨今はご飯はわざわざ自分で炊かなくてもコンビニでレトルトのご飯が売っています。 そういったものを御仏飯として使うのはダメなことなのでしょうか? 罰当たりな、、、という後ろめたさはありますが、義母の生活が少しでも楽になるなら、、、という理由でお聞きしたいと思います。 よろしくお願いいたします。
鎌倉の報国寺住職であられた菅原義道氏(故人)の本を数冊読みました。禅宗の僧侶だったことですので、以下老師と呼ばせて頂きます。老師は著名な僧侶だったらしいので、現在の僧侶のなかにも老師の著書を読まれたり、直接謦咳に接された方もおられるでしょう。 菅原老師のご著書を読んで感慨を深くしたことは、(少なくとも)菅原老師の寺院は「駆け込み寺」としての機能を持っていたことです。ご著書の中にこんな部分がありました。「自分の寺の境内で女子高生らしき若い女性を見つけた。深く悩んでいるように見えた。お寺に救いを求めて訪れたのだろうと思い、『さあ、さあ、そんなところに立っていても寒いから、中に入ってお茶でも飲まないか?』と言って寺の中に入れ、彼女の話を聞き始めた。」 今、こういうことをして下さる菅原老師のようなお坊さんて居るんですかね?少なくとも私は今まで一度も経験はありません。寺を一人で訪れたことは数十回もありますが。。 率直で恐縮ですが、今の仏教は「葬式仏教」と言われて久しい。人が死んで葬式を行い、それでお金を稼いでいるという意味ですよね?(はっきり言えば) なんでこんなことを聞くのかと言えば、私一年ほど前に近隣の浄土真宗の寺院の住職にお会いしたかった。仏教を学ぶ手ほどきも受けたかった。でも、メールを送っても電話をしても何の連絡もなかった。「お忙しいでしょうから、お手すきの時にお電話でもメールでも返信をお願いしたい」と伝えたのにも拘らずです。その浄土真宗寺院には、もう連絡する気も訪問する気もなくなりました。 今のお寺には菅原義道老師のお寺のような「駆け込み寺」的な要素はもう期待できませんか? 住職に面会を求めて何かの悩みを相談できるような雰囲気はもうありませんか? このhasunohaに登録されている僧侶の皆さんであれば、菅原義道老師のような方がおられるかもしれないと思ったのですが、いかがでしょうか? それとも今の仏教はもはや「葬式仏教」に堕してしまったんですか? 少々辛口になってしまいましたが、忌憚のない意見・質問を述べさせて頂きました。ただ、”私のように考えている日本人は決して少なくない”ということを忘れないでください。
最近気がついてびっくりした事があります 私のお家は曹洞宗で 毎朝うちのばあちゃんは お仏壇に手を合わせ般若心経を唱えてます。 ふと、お世話になってるお寺って どこなのかと思いばあちゃんに聞き そこのお寺を調べたところ 檀家になっているお寺さんが 違う宗派の浄土真宗でした 法要の時もお経が違うだろうに これって良いのか…?と思ってしまいました。 問題無いのですか?
はじめまして。 早速ですが聞いていただきたいことがございます。 昨日、義祖父のお墓参りに行きました。 主人の気持ちの問題などの事情があり、結婚してから約4年ほど立ってからのお参りでした。あまり慣れていないお墓参りで、なるべく粗相のないように気をつけていたのですが、三点ほど気になる行動をしてしまいました。 一つめは、本堂のお参りをするという作法を知らずに、お墓参りをしてしまったこと。 二つめは、仏花を買い忘れてしまったこと。お墓に着いてすぐに気がつき、主人にお花を買いに行こうと言ったのですが、お墓から車で10~15分程かかるため今回はお花なしでお参りしようという主人の意見に負けてしまいました。 三つめは、これが特に気になるのですが、お墓の掃除をする際に主人がお隣の墓石の台座部分を踏んでしまったことです。隣のお墓とはほぼ隙間がなく、主人は悪気はなくやってしまったようなのです。 気がついたときに慌てて主人に指摘し、足を乗せてしまったところを布巾で払い(石がごつごつしていて布巾で拭くと繊維が引っ掛かってしまうため)、使いきれなかったお線香を一束お供えしお詫びしました。しかし、隣のお墓にしてしまった非礼の正しいお詫びの仕方がわからず、これで良かったのかと不安と申し訳なさでいっぱいです。 親類に相談すれば主人の立場が悪くなってしまうため、恥を承知でこちらに相談いたしました。 長い文章で申し訳ありません。 ご教示頂けましたら幸いです。 よろしくお願いいたします。
11/4に、鎌倉の円覚寺様にお参りをし、その際に限定公開の舎利殿を拝観し、合わせて限定の御朱印もいただきました。 その場では気づかなかったのですが、帰ってから改めて御朱印を見てみると日付が十一月二日となっていました。 他にも同日円覚寺様にて何種類かの御朱印を受けておりますが、他のものはきちんと十一月四日となっています。 私は、どんな御朱印であろうと(たとえば字の上手い下手など)、これも御縁と思い気にしないですし、逆にこんなこともあるんだと、レアだと思ってたりするのですが、十一月四日に挟まれた十一月二日の御朱印。 これはお寺様にお知らせした方がいいのでしょうか? (日付が間違ってるのだから詫びの品を寄越せなどというものではありません) このような場合、お寺様的にはどのように対応されるのかお聞きしたいです。
普勧坐禅儀にある「坐処には厚く坐物を敷き、上に蒲団を用う」という文について質問です。 「坐禅の際には座布団などを敷き、その上に蒲団を置く」ということですが、 実際に座布団などを敷いて坐禅をしている曹洞宗のお坊さんをほとんど見かけたことがありません。 大本山である永平寺でも座布団などは使用しないようですが、 なぜ普勧坐禅儀の通り忠実に行じないのでしょうか。
こんにちは、はじめて質問します。 謝罪の気持ちを仏様に聞いてもらいたいのですが、こういった動機でお寺を訪ねていいものなのか疑問に思い、質問させて頂きました。 私は数年前、とある男性と交際しておりました。が、1年と持たず別れてしまいました。 別れ話は彼から、突然で一方的なものでした。好きだったこともあって、恥ずかしいことにヒステリーを起こしてしまいました。 今は吹っ切るために自分なりにたくさん努力してきたおかげか、だいぶ冷静になり、当時のことを俯瞰して振り返ることができるようになりました。 すると、別れ際だけでなく交際中も、彼に対して本当に失礼な言動が多々あり、相手を傷つけてしまっていたことに気付きました。 反省と後悔、謝罪の気持ちに苛まれ、「ごめんなさい」の気持ちが消えず、涙を流す夜もあります。 しかし、彼とのことを断ち切るために連絡は削除したため、連絡することはできません。 共通の知り合いもいないため、直接謝罪することは叶いません。 ただ謝罪の念で辛いので、それならば仏様に聞いてもらうのはどうだろう?という考えに至りました。 彼を傷つけてしまったこと、ヒステリーを起こして迷惑をかけたことを謝罪し、今後は同じことをしないよう自分を律するために手を合わせたい…… こういう思いがあるのですが、こんな動機でお寺を訪ねてもよいものなのでしょうか? 仏様に対しての無礼にはならないでしょうか? 訪ねる際は、お賽銭をして、長めに手を合わせるくらいにしようかと思っていますが、十分でしょうか? ご回答頂けますと幸いです。よろしくお願い致します。
明日長男の三回忌です お茶菓子は何がうれしいですか?
こんにちは。お忙しい中、私の質問を見て頂きありがとうございます。 おかしな話かもしれないので投稿を悩んだのですが、類似状況が何度か起こっている為、気になってしまい質問させて頂きました。 前々から「●月●日はお参り(寺社仏閣や先祖のお墓参り)に伺おう」と日にちを決め、準備を順調に進めていました。 ところが、前日 あるいは当日になって、以下のような事が突然起こり、お参りに伺えなくなるという事が何度も起こっています。 ※肉体面での体調不良→起き上がれない・動けない程の頭痛や腹痛など。或いは歩行が辛く感じるような外傷的な痛みなど(真っ直ぐ立てない、或いは長時間電車に揺られるのが困難な膝や腰、脚の痛みなど) ※精神面での体調不良→(現在重度のうつ病を患っており、治療と社会復帰に向けたリハビリに取り組み中の状態ですが)お参り前日や当日にショッキングな出来事に遭遇し、精神的にパニックを起こし、その後 全く動けなくなるという事があります。 医師から処方された薬を飲んで動こうとしても、ショックの度合いが強すぎる時は心も体もついていかない事が多く、結局「寝たきりで過ごす」事が多々あります(時間をかけてクールダウンすると治る、というか症状が収まるのですが、当初予定していたお参り当日に伺う事はできなくなります…) 以前、知人にこの話をした時に『そんなのはお前が弱いのが悪いんだよ。肉体的にも精神的にも強くなるしかないじゃん』と言われたことがあり、自分でも『やっぱり、私の弱さが全て悪いんだろうか…』とも思いました。 ただ、一方で…『もしかしたら、こんな状態の私がお参りに伺う事を神仏やご先祖様が嫌がっているのではないか…?』という気もしてしまうのです。 もしかしたら、私が未熟すぎるから、何か許しがたい非があるから、肉体的または精神的に問題があるから、『今のあなたの状態では来てはいけません。出直して来なさい』と示されているのではないか…?と。 そこでお坊様に質問をさせて頂きたいのですが『神仏やご先祖様から、参拝をお断りされる事』はあるのでしょうか?それとも、このような事は考えすぎなのでしょうか? 支離滅裂な文書で恐れ入りますが、お知恵を拝借頂けますと幸いです。お忙しい中恐れ入りますが、どうぞ宜しくお願いいたします。
神社・神宮とお参りする場所に関して質問がございます。 「ここへお参りしたら悪い事が起きた、自分と神社等の相性がある。」等を聞いた事がありますが、相性が合うか合わないかは、どう分かるのでしょうか? また相性が合わなくて悪い事が起こると言われているのは本当なのでしょうか? 例えば縁結び等が目的でお参りしたのに最悪の結果になった、等も聞いた事がありますが…
思うところがあり、初めて座禅会に参加しました。 初歩的な質問ですがお答えをお願いします。 ・禅寺では全員素足になるルールがあるのはどうしてですか? ストッキング履きでしたが取って素足になって下さいと言われました。素足だと夏は汗や匂いで不潔だったり、冬は直接冷たい床に触れると足先から冷えそうだと思いました。 ・座禅で喝を入れてもらいたいと思ってましたが・・ 私の中ではお坊さんが後ろからビシッと一発だけ肩を打つイメージでしたが、行った座禅会では希望者が自分から両手を合掌して自己申告してから前屈みになった背中を何度も打ってました。隣で自ら手を合わせて希望した男の人の背中でバンバーンと大きい音がしてるのを見ていざとなって躊躇ってしまいました。 あれって女性だとある程度は手加減していただける物でしょうか。 自分に喝を入れてもらいたくて座禅に来てるのに何を言っているのか本末転倒ですが現場では聞きにくいので質問させてもらってます。お答えをお願いします。
先日はお世話になりました。 遠方の神社に子宝守りを頂戴し、その月に妊娠がわかりましたがエコーで確認できる前に初期流産となりました。 会えない寂しさはありましたが、夫婦ともに今いる息子の存在が奇跡であること、お互いの優しさを再確認し結婚して良かったねまた会えるといいねと家族の絆を深めることが出来ました。お腹に来てくれたことに感謝しています。 お伺いしたいことですが、2つあります。 ①頂いたお守りは1年間有効と言われましたがお返ししたほうがいいですか? ②確認出来る前なので水子供養となると大袈裟かと思いしていないのですが、しないとお空に帰れないでしょうか?その際はどちらの神社へ行くべきでしょうか。 よろしくお願いします。
浄土宗のお坊さんに質問です。 お寺での日常勤行は朝・昼・晩の三回か、朝・晩の二回どちらなのですか? また、よろしければお寺の日常勤行差定を教えて頂きたいです。