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「お寺・行事・お参り」を含む問答(Q&A)一覧

お寺に通うことは可能ですか

3度目の質問になり恐縮です。 新型コロナがおさまった後の話ということで、ご相談させていただけますか。 タイトルのとおり、お寺に通うことは可能かどうかについてです。 私は子供のころ、比較的お寺に親しんで育ちました。 法事以外でも、近所のお寺でご住職様のお話を伺ったこともありますし、仲の良かった友人の実家もお寺でした。 両親は、お寺の方を信頼し、お墓参りなども大切にしていたと思います。お寺の静けさと、さりげない人の気配に、子供時代の私は安心したことを覚えています。 その後、私の実家のお墓は兄が守ってくれることになり、私は地元を離れて結婚しました。 夫の実家は、事情があってどの宗教からも距離を置いており、夫の両親も夫も、今後お墓を持つ予定はないそうです。 そのため、私と家族は今、お寺や神社、教会といったすべての宗教と縁のない生活を送っています。 しかし、私は近年、年を重ねるごとに様々なことを考えるようになり、また子供のころのように、時々お寺に行ってお坊様のお話を伺ってみたくなりました。夫は「自分は宗教にはかかわらないが、君が一人で行くぶんには構わない」と言ってくれています。 少し地域のお寺を調べてみましたが、檀家でないのに一人でふらりとお寺を訪れるのは少し敷居が高い気がいたしました。法話の会も開催されているようですが、檀家の方や年上の方ばかりだと少し気おくれしてしまいそうと感じたり、一人で参加するのが不安であったり、いろいろなことを気にしてしまいます。 それならば一人で仏教を勉強しようかとも思いましたが、私は仏教を学びたいというよりは、どちらかというと、お寺やお坊様とつながりを得たいのだと思います。 私には今、ふと心が迷ったときに、自分の家以外に向かう場所がないからです。 お坊様に個人的に悩み事を相談するために伺いたいわけではなく、ただ、お堂でしばらくの時間座らせていただくだけでも十分気持ちが安らぐ気がいたします。 もちろん、自分の家は安らぐ場所ですが、ずっと引きこもってばかりです。 社会との接点として、お寺とつながりを持ちたいというのは、あまり一般的な考えとはいえないでしょうか。(ふさわしくない場合は、はっきりご教示くださってかまいません。申し訳ありません) 御多忙な折に、読んで頂きありがとうございました。

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複数のお寺、手元葬のあり方が知りたい

私には2人の父がいます。私が5歳の時に他界した父、12歳~22歳までの養父(他界)血のつながったちちのお墓は遠く離れた場所にあり、数年に1度ぐらいしか行けません。 養父の納骨堂は近くにありますが、そこには母が再婚する前に亡くなった養父の奥さんにあたる人と一緒に入ってらっしゃいます。 ずっと一人暮らしをしてた母が自分もそこに入らないといけないと、お寺には関わってきましたが何だかとても寂しそうでした。 その母も認知症になり、介護のため私は夫に許しを受け母と2年近く同居しましたが、私が頑張ることが出来ず、心身ともに疲れ果て母を施設に預けてしまい2年がたちます。 実家は空き家になるため、お寺に相談して過去帳だけ手元に持っていればいいとの事で仏壇はそのまま養父と奥様の名前の書いた過去帳を持っています。 10年間養父にはお世話になりましたが、そちらのお寺とは繋がりを持つきになれず、母がもし亡くなってもそのお寺に入れる事は考えられません。 母は私の手元に置いておきたく思っています。 血の繋がった遠くにいる父もどうにか手元に置けないかと悩んでいますがそちらのお寺こそまったくの疎遠になっています。 母が記憶のある間は年に数回遠いお寺にお金を送っていたようです。 私が嫁いだせいで旧姓の2つの名字のお墓があり、どうしたらいいのか困っています。 そもそも母を手元に置いても成仏出来るのか?49日や1周忌などはどうしたらいいのか? ほとんど行けないお寺に置いておくよりいつでも傍で話しかけられるようにしたい!と思うのは生きている私達のわがままなのでしょうか? 妹がいてその話もしています。初めは「じゃ、私はどこに拝みに行ったらいいの?」と言っていましたが、手元にいてもらえれば会いに行かなくてもいい事がわかり納得しいます。 妹ももっと遠くに住んでいるため納得してくれたようです。 疎遠になってる実父のお墓はいずれにせよちゃんと私の代で供養しないといけないと思っているのですが、どれだけの費用がかかるのか怖くて聞くに聞けずにいるのです。 ご先祖さまの事なので手をあわせつつ悩んでいます。

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真言宗僧侶と神主の資格は両立できますか?

僕は仏教と神道が大好きで神様と仏様を同じように尊い存在として崇敬しています。 明治以前両者の距離は極めて近くほぼ同じ存在と言ってもよい状況でした。 僕はそれこそが仏教、神道双方の良い所でありそれが自然な形であると信じています。 今は失われてしまった神仏習合を実践しこれから先神道と仏教の距離を少しでも近づけることができるように、また双方の立場から物が見れるように僧侶兼神主になることが僕の目標です。 僕の家も寺院なのですが父にこのことを話すと家の宗派ではこの夢を実現するのは難しいと言われました。 そこで僕は真言宗の僧侶になろうと思っています。 そのための具体的な道筋もある程度決めてあります。 真言宗の大学に通い僧侶の資格を取った後、神主の養成学校で神主の資格を取り将来的に神社本庁の神社で働くという感じです。 寺院ではなく神社の側で働くのは、鎮守社や権現様をお祀りする形でどちらかと言えば神道の要素に寛容な仏教に比べ神道は明治時代に徹底的に仏教要素を排除した状態のまま基本的に変わることなくそのまま今現在まで続いており仏教以上に神仏習合の下地が出来ていないからです。 宗派として真言宗を選んだ理由は元々真言宗に興味があった事と歴史上真言宗は他宗派や神道など他の教えに対し積極的に共通点を探し共に進んでいく姿勢を持っていたからです。 しかし一つ問題があります。 真言宗における僧侶の資格と神道における神主の資格、この両立が出来るのかが分からない点です。 先ほど書いた通り僕は神社で働きます。 その状態でも僧侶の資格を持ち続けることは真言宗では可能なのでしょうか? 知り合いに真言宗のお坊さんや信徒の方がいないため聞いて確かめることも出来ません。 勿論お金や労力など神主の仕事をしながらも宗派、教団のために出来ることは全て果たしていきたいと思います。

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小さな冤罪

彼岸会に参らせて頂き、別院で2時間程の行事に参加した後の事です。 本殿(観光地となっています)前の野外で親子で順に1人づつお線香に火をつけていた時、本殿の奥から 「あんたお金払わないといかんよ」と怒鳴られました。あぁ、間違いかな と思い「払いましたよ」と応じたところ 「ずっと見ていたから払っていないの分かるよ」「悪い事はしたらいかん」「この人が払ったよ、見とった あんたは払っていない」 と、こちらが いついつこういう形で払ったという度に表に出てくる事なく中から大声でおっしゃるので、本殿の中に入りお参りするのも悲しく辛い状況になりました。 「この人が払ったのは見た」という、この人とは私の家族です。家族でひとりだけお線香代をくすねる訳無いと思うのですが。 お線香代は、良心販売方式で箱に100円入れる様になっていて本殿中からは3M以上離れています。 同行していた幼い子がお中日のお線香初体験を楽しんでいましたので、この子に気持ちが落ち込んだ事が伝わってはいけないと思い本殿にすすみ手を合わせましたが、疑いをかけた人物は不審な者を追うような目で睨みを利かせていて怖かったです。 まだ昨日の事なので、幼い頃から親しんだお寺に怖い印象が湧いてしまいそれが悲しく辛いです。どの様な心持ちで思い直せば良いのでしょうか?

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頂いたお菓子を捨ててしまった

こんにちは ことの発端は先月の節分の日です。 バス停でバスを待っている時に見知らぬ女性から声をかけられ、「もしよければ」とビニールの袋に麦チョコや小さいラムネが小分けにされているものを4つほど頂きました。 その方はお寺か神社の豆まきに行ってきたようでそこで頂いたものを私に分けてくれたようでした。  その時はありがとうございます。と受け取ってしまったのですがよく考えると、「知らない人から貰ったものを食べるのは怖いなあ」と考えてしまい、食べずに取っておき、捨てようかとも考えたのですが 「お寺で配られた物を捨てるのは罰当たりで仏様や神様が怒るのではないか」 と考えたりせっかくの善意を踏みにじる行為だと思ったり1ヶ月近く悩み、とうとう昨日帰省するために部屋を掃除した時やはり知らない人から貰った食べ物を食べるのは自分にはできないと心の中で「ごめんなさい」と思いながら捨ててしまいました。 ですが、今も捨てたことで天罰が下るのではないかと不安です。 訳が長くなってしまい申し訳ありません。 このようにお寺で配られたものを頂いたのに捨ててもよかったのでしょうか。 もし許されないことなら捨ててしまった今何をすればよいでしょうか。 よろしくお願いします。

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