お久しぶりです。 この1ヶ月、身体面では不調なことはありますが、精神面では安定しています。講演会などに参加し、いろいろな方の話を聞いて学んでいます。 仕事で人間を相手にしていますので、どうしても「人間とは?」と考えてしまいます。 以前、hasunohaへの問答で、性善説の立場であると述べさせていただきました。しかし、人間は「悪」の要素が強く、性悪説の立場になりました。 他の生き物は、個体維持や種族維持以外には、他を侵害したり、欲を持ったりしません。生存が約束されている限り、他の動物も人間と同じように優しい心を持っています。 人間が、他の生き物と違うのは「欲」を持っていることです。 「人民を支配したい」、「美味しいものをたくさん食べたい」、「快適なところに住みたい」、「大きなところに住みたい」。「~たい」ばかりだと気づきました。その点において、他の生物とは違うのだと思います。 性悪説の立場に立ってから、自分に対しても、他人に対しても期待をしなくなりました。それで、精神的に安定しているのかなと思います。 交渉をすることもありますが、ダメもとで構えているので、拒否されても「そうだよね」って心構えでいられますし、いい結果になれば感謝の気持ちが生まれます。 いろいろな事件や情勢を見ても、あらゆる可能性を想定することができるので、あまり怒りの感情を持たなくなりました。 差別が生じるのは、「自分達の生存や生活が脅かされる可能性があるから」だと思います。精神障害者などの差別も、突き詰めれば患者の心理状況が理解できなかったり、自分の生活に悪影響があると思っていたりするからでしょう。私だって、訳のわからないものはまず距離を取って様子を見ます。そういうことを考えると、差別が生まれるのも仕方ないと思います。 「悪を憎む心」と「寛容な心」は両立しないのではないかと思うようになりました。 行いは罰しなければなりません。しかし、その先の原因を解消しなければ、罰しても意味がないのではと思います。 人間について考えると難しく、その人間を教育するのは難しいなと思います。自分はそんなに人を導く立場にないと思います。 まとまりがなく申し訳ありません。 人間とは何なのでしょうか?
最近、言いたいこともいえない社会になってるような気がするのです。 周りに気を使いすぎるというか、少しでも自分の意見が社会一般の常識と違えばすぐに炎上しますし、自分がどうありたいかよりも周りからどう思われたいかをみんな大事にしているような気がします。 たしかに昔と違って同性愛等、個人の生き方や個性を尊重する良い社会になりました。 しかし、同調圧力が強くなったというか「世知辛い」世の中になったような実感があるのです。 世の中は少しずつよくなっていってるはずなのに、たまに息苦しく感じるのはなぜなのでしょう。
こんにちは。 この度、被災された方々には心から お見舞い申し上げます。 連日の猛暑がニュースのトップになっており、 世界的にも各地で記録的な熱波が発生し 死者や搬送者が続出しているとの事、 このままでは地球は大丈夫なのかな、と心配になります。 本当に人間の発生させる温暖化ガスの影響なのか、 冷静に分析しなければならないでしょうが、 製造業に携わる者として、責任を感じずには居られません。 だからと言って家族もいる身では仕事を辞める訳には行きません。 私が辞めても工場は相変わらず生産を続けるでしょう。 結局何の解決にもなりません。 最悪のケース、異常気象が一過性のものでなく、 私達の生産活動に原因があり、なおかつ後戻りできない所まで 来てしまっているとしたら・・・ 子孫たちに何と詫びれば良いのか分かりません。 4歳の娘と生後8ヵ月の息子の未来を思うと、 気持ちが落ち着きません。 以前にも似たような質問をした記憶がありますが、 私は50億年後には太陽の寿命も尽きて、地上の生物は死滅する のを知っています。だからこそ「今を生きる」事の大切さを教えられました。 が、こんなにも目に見える形で危機が訪れる事、 さらに私達の責任である可能性がある事、 平安ではいられません。 私達や子供達の世代なら何とかなるかも知れませんが、 孫や、その先には・・・ 私が仏道を学び実践し、「今ここ」を精いっぱい生きる 境地を得たとしても、過酷になる環境の中で子孫達が じわじわと衰滅するのを防げなければ、何の意味が あるでしょうか。 私は輪廻転生は信じてません。死後についてはお釈迦様にならい 「無記」とするのが適切な態度と思います。 が、もし輪廻が真実ならば、私には解脱も救いも浄土も要りません。 ひたすら転生して子孫達に寄り添い、共に悩み苦しみながら 最後の日まで一緒に過ごしてあげたい、と願います。 私がこう考えるのも煩悩でしょうか? 手遅れかも知れませんし、大勢に影響は無いかも知れませんが、 暇を見つけて、ささやかながらエコ活動や環境保護活動を 行いたいとは思います。 (もっとも、私の考えがただの杞憂である可能性も、 まだあるのですが。そうであって欲しいと願います) 質問と言うには余りに漠然としすぎてしまいましたが、 ご意見を頂ければ幸いです。
先日、いろいろあって祖母含め家族の前で泣いてしまいました。 仕事がつらい、思うように生きられていない、 現状がなかなか変わらない、不安が一向に消えない… そんな自分が嫌になり、もっと、胸を張れる生き方ができなきゃ… と思ってしまい、だんだんと胸が苦しくなり、思わず泣いてしまいました。 それを見て父からは、 「大学も卒業して人前で泣くのは情けないぞ」と一喝された後、 「それをどう変えるか、行動を変えてみろ」と言ってくれました。 そこからは毎日を大切に生きてみようと、思い直しました。 しかし、仕事場にいると、どうしても「早く終わらないかなぁ」 「この人たちと一緒にいたくないな」と考えてしまい、毎日を大切に生きられていないなと、つい帰りの電車の中で不安になってしまいます。 一体、この不安はどうやったら解消されるのでしょうか?
はじめまして。 いつも有り難く皆様の回答読ませていただいております。 ここ数年雷がとても怖くなってしまい困っています。しかも今年の春に出産し、今は子育て中なので、自由に避難もできなくなりました。 どうにか自宅で耐えるしかありません。 恵みの雨とはわかっているのですが、急にピカッと光ったり、ドーンという地響き轟音が恐ろしくてたまりません。 お寺は山の上などに建っていることも多いですよね?お坊さんは、雷なんて全然怖くないのでしょうか?怖さはあるけど、我慢できるのでしょうか?何か怖さが薄れるアドバイスがあったら教えて頂きたいです。
人間、とりあえず、日本では、20歳(そのうち18歳)になったら「大人」と見なされます。でも、20歳になったからといって、特に見た目が変わる訳ではありません。生まれたら、毎日毎日、確かに成長したり老いたりしていきますので、長い目で見たら、変化にも気づきますけれども…例えば、はい!大人になりました!では「ヒヨコ→ニワトリに!」ってほどビックリ仰天な変化はしないですよね。赤ちゃんとおじいちゃん&おばあちゃんが同じとは思えないですけれども…また、見た目を気にしてはいけない!とは言いますが…もし仮にですけれど、私たち人間が「ヒヨコ」だったなら、「ニワトリ」にはなれないのではないでしょうか?見た目も含め、中身においても、です。自然界で生き抜く為に、体の色などを変化させなきゃならないから、ヒヨコ→ニワトリと変化していく生き物がいる、明らかに子どもから大人になったと分かる生き物と一緒に考えるのは、私もどうか思います。でも、もし私たちが「ヒヨコ」だったなら、何故、「ニワトリ」になれないのか?と、私が思ってしまうのかと言いますと…人間は、生きている限り、ずっとずーっと修行の毎日じゃないですか、毎日毎日、ずっとずーっと修行を重ねても、死ぬまでずっとずーっと修行は終わらない…言うなれば、「ヒヨコ」のまま死んでいく…みたいな…意味不明なことを言ってすみません。でも、私の中では、人間はすごく未熟で、どんなに努力しようと修行を重ねようと、やっぱり未熟で、洗練された風な人でさえ未熟だから、洗練された風な人でさえ修行し続けなければならなくて…うーん…つまりは、死ぬまで修行しても、「人間ヒヨコ→人間ニワトリ」になれないのではないではないか?と…私の言わんとすること、伝わりますでしょうか…?答えが欲しくて書いているのではありませんが、皆様は、もしこの私の意味不明な発想、「人間は一生ヒヨコ」「人間ニワトリにはなれない」説?みたいなものを、どのように思われるかと思い、長々と書かせていただきました。読んで下さった方、ありがとうございます。
私は10代の頃レイプ に合い子供を堕しました。相手は友人の彼氏と名乗る男でした。思えば本当に小さな頃からそういった性犯罪ばかりに合います。姉からも性的な遊びをよくされていたり、暴行もよく受けていました。小さい頃は小学校の通学途中、毎日写真を撮られていたおじさんから誘拐されたり、親が選んだ家庭教師の先生からパンツの中を触られたりました。お風呂に入っていると窓がつーっと空いて犯人と目が合い防犯ライトや柵は全て壊され4年間続きました。電車を待っていれば、ホームでいきなり知らないおじさんに腕を掴まれて一緒に飲みに行こうと無理やり電車に乗せらされたり、アパレル勤務していれば変なストーカーにしつこくされ。障害者の方からも、なぜかすごく好かれていきなり抱きつかれたり盗撮されることが多いです。一人暮らしすれば下着泥棒や、防犯シャッターに穴を開けられました。3年前は相手の信号無視で事故に遭い利き腕を失いました。ひき逃げで犯人は見つかっていません。警察は私が退院した半年後防犯カメラが近くにあったことを見つけて伝えると見てなかったし、もうデータも消え、死ななかっただけよかったと思ってくださいと言われました。なぜ犯罪をしても許される世の中なのでしょうか。レイプ からPTSDで、記憶障害や自殺未遂の中で自分の夢を希望にして生きてきました。PTSDを克服するために様々なことをしてきました。脳科学の勉強、体を鍛えたり、防犯スプレーを独自で開発したり、毅然とした態度で振る舞うため沢山の勉強をしました。外に出るのが怖くて仕方ありません。夢は続けていて、そのために生きていますが、その業界は男性中心の業界で戦っていますがやはり男性のセクハラがひどく殺したくなります。ストレスで40度の不明熱が3ヶ月続いて死にそうになったり、片耳が聞こえなくなったりしました。過去の経験が元で自分の行動に制限をかけてしまいます。子供を失った経験から、自分は子供を持つ権利がないと思い積極的に作ろうと思えません。女児や女性が強姦され、殺害されるニュースをみるたびに怒りが湧いて、なぜ去勢しないのかと思います。私はこのことから何を学ぶべきでしょうか。私が小さい頃からよく色んな声が聞こえていました。レイプを受ける前、宇宙へ連れて行かれて啓示をうけました。その後から、人生がどこか違う場所で起こっているような感覚です。何か原因がありますか
最近の殺人事件などの辛いニュースを見ては、心が乱れています。 いつか自分もニュースのような目にあうのではという気持ちがあり、不安でたまらなくなります。 特に最近は、変なところで恨みを買ったり、意識されて事件に巻き込まれるといったケースが後を絶たないように思います。その為、極力人間関係を広げないように近所の方ともコミュニケーションをとらないようにしたり、夢であった花屋を開くことも断念しようか(不特定の人が来店するから)など考えてしまうほど。 死というものがとても怖く、急にこの世を去ってしまった人たちの無念を考えると寝られないほど辛いのです。 何をするにも不安が先にきて、楽しむことが出来ません。こんな時代にどのような心持で生きていけばよいのでしょうか…。
この世に神などいない。 この世に神なんていないと思います。世の中は不公平と不平等の上に成り立っていると思います。この世に苛立ちしか感じません。 今まで生きてきて、努力が実ったことなんてありません。そんな私を周りの人間はつまらない人間だと見下して来ました。 役者を始めたのもそんな自分が悔しかったからです。 ですが鬱になっただけ。チャンスなんか一度もありませんでした。舞台の主演に俺より目立つなと虐められて、努力の無意味さを知りました。 鬱と闘ってる間、誰も助けてくれませんでした。 今では30歳になり、アルバイトさえ受かりません。 無駄な経験なんて無い。綺麗事だと思います。私がこんな事を言っている間に友人は結婚し、子供もいます。私はどんどん落ちぶれています。 こんなですから、女性にすら相手にされたこともありません。 楽しそうにしてる人間を見ると憎くなる気持ちを抑えるので精一杯です。 私の人生が浮上するイメージなんか1mmも湧きません。というか、期待するだけその分絶望するだけなので悲しいです。 這い上がろうという気持ちも湧きません。努力が実ったことがないので、どうせ上手くいかないとしか思えません。 もう、最悪あても無く彷徨って死のうと思います。自殺はしません。ですが、精一杯生きるつもりもありません。 神なんていません。いるというなら、一度姿を見せてみろ。
人間、いろいろな欲望がありますが、 最近、問答で性欲について話題に上がっていたので、それについて取り上げようと思います。 今年にはいって、欲望は自分自身の理性によって抑えるものだと考えるようになりました。欲望の種類によっては、法的に制限を加えられていますが、基本的には自分自身の理性でコントロールします。 理性を身に付けるためには、訓練や教育が必要だと考えます。 この前、コーヒーショップでコーヒーを飲んでいると、ダメージジーンズを着た若い女の人が目の前を通りました。そのダメージっぷりは半端ではなかったので、性欲をかきたてられましたが、当然そこは理性で抑えます。 でも、世の中、抑えられない人もいて、罪をおかしてしまう人もいます。この違いは何だろうかと考えました。あくまで、仮説です。 欲のままに動くことによる他人への影響を考えることができていないのではないかと思いました。 欲のままに動くことで、相手を傷つけるかもしれません。 性欲だと、子供が生まれる可能性があります。 中絶は、母体に影響を与えます。 もし生まれたら、一人前の大人にするために何千万という費用がかかります。 養育を放棄すれば、不幸な人生を歩ませてしまう可能性があります。 他者に敬意を払い、大切にするという気持ちがあれば、性欲を満たすために違法な行動を起こすことは減ると思うのです。ストレスによってというのもあると思うので、ストレスマネジメントも必要です。 自分たちがどのように生まれてきたか? 異性を大切にするとはどういうことか? 体の仕組みを含む人間理解が必要だと思います。その中には、性教育も含まれるのだと思います。 欲望やストレスをコントロールする術を身につける教育が必要だと思いますが、そこから目を背けているように思えてなりません。 都立のある特別支援学校で生徒間の性行為を防ぐため、性教育を行ったところ、都議会で問題視され、教育に政治が介入したことがありました。 性欲はないことにすることはできないので、どう向き合うか教えることが大事かと思います。 イスラム世界のように、男女で活動する場を分けたり、女性は外を歩くとき全身覆わなければならないという決まりを作ったりするなら別です。 大人も子供も、向き合わなければならない問題は真剣に向き合うことが大切だと思います。 ご意見いただければ、幸いです。
よくある話なのですが、病気になった時、そんなもの大した事はない、大丈夫と言いながら、自分が病気になるとコロッと主張が変わってしまう人がいると思うのですが、何故病気になった相手の事を想像する事ができないのでしょうか? 己が立場に立った場合には主張を簡単に変化させてしまう、これは想像力の欠如が原因でしょうか?
綺麗事だらけで窮屈な社会になりつつある、と私は思います。 お坊さんは、どのように考え、お感じになられますか? 私がそう考えるようになったのは、先日、起こった新幹線殺傷事件がきっかけです。 己の憂さを晴らすために、無関係な方々を殺傷した犯行は到底、許されるものではありません。 ですが、犯人の境遇については同情できるものがあると思います。 生活が逼迫し誰にも助けを求めることができず、自殺するか、殺人を起こすか、といった究極の選択まで追い詰められてしまうのは、とても他人事に思えません。 運よく恵まれた人生を生きている人々は、そんな境遇にいる人がいるなんて想像もできないのでしょう。 「甘えている。」「落伍者は、こういう凶悪犯罪を起こしうるから処分すべきだ。」と綺麗事を並べ立てています。 社会に当たり前のように存在している儒教的な価値観が、不遇な人間の精神をより追い詰めてしまう側面はあるのではないでしょうか。
世の中、不安を煽り、人を商品として見ているのではと思います。 他の世代は分かりませんが、 私と同じ30代かそれより下の世代を見たり、自分の経験から感じたりしたしたことです。 私は私立の中高一貫校で過ごしました。 中学入学当初の学年主任の先生は、 「受け入れた以上、絶対に退学者を出さない」という気持ちでやっていたようです。ところが、周りの先生は、「退学者を出さないと、生徒がだらけてしまう。」、「早めに判断して、公立に行かせた方が生徒のためだ。」というのを耳にしました。ちなみに、西日本は、公立よりも私立の方が進学実績が高いところが多いです。 就活の時に、私立学校も受け、内定を頂きましたが、私が通っていた私立学校と同じ考えで嫌悪感を抱き、公立学校に就職しました。 何だか、生徒を商品として考えているんだなと感じてしまいました。高校の監督が中学校に出向き勧誘したり、大学の監督が高校に出向き勧誘したりするのを見ても、人を商品として見ているのかと思ってしまいます。もちろん、しっかりとした理念を持って教育を行っているところもあります。 最近では、婚活市場も盛んになってきました。私も、独り身で不安に思って、婚活イベントに参加したことがあります。4月から復職を目指していましたが、3月に腸閉塞で入院してしまい、婚活イベントに参加しても相手女性に失礼だと思い、婚活はやっていません。本を読んだり、どこかに行ったり、今しかできないことをやっています。もちろん、結婚相談所や婚活イベントの業者の中にも、しっかりとした理念を持って誠実に対応しているところはあると思います。 親戚のおばさんや母親から、「相手をよく見て選びなさいよ」、「いい人がいたら、パッと掴みなさいよ」と言います。身内だからそういう言い方になるのだと思いますが、どこか人を商品として見ているようで違和感を感じます。私の相手ということは、相手は女性です。同じ女性の立場としてどのように思うのだろうかと思います。 他の男性はどうか分かりませんが、心ある男性なら相手を支えられる自信がなければ、結婚に踏み切らないと思います。結婚はそれだけ重いものだと思いますので、益々踏み切れません。困難があるから、それだけ楽しみもあります。 社会改革するには、人の不安を除かねばなりませんが、嘆いても仕方ないので、自分で自分を認め、輝きたいです。
私の両親に、最近、「本を信用するなよ」と言われます。どういう考えでいっているのか分かりませんが、信用するしないではないと思います。ある状況では正解でも、ある状況では不正解になることがあります。 本との関わり方については、親には説明しました。 多くの人が、 本=教科書=知識を身に付ける というふうに考えているのかなと思います。 本はあくまでも、著者や組織の「考え」を述べたもの。何も考えず鵜呑みにすれば、それは怪しい新興宗教になってしまいます。軸をもって主体的に考えることが大切だと思います。 本を尊重し、主体的になって考えることが、自分の新たな人格を形成することになるのだと思います。そのためには、判断のセンサーとなる「感性」と生体が情報を受けとる「五感」を鍛えることが重要だと自分の経験から感じています。 日本人は、宗教というと否定的な考えが多いかなと感じます。「イスラム教は怖い」と言われていますが、「本当なのか?」と思って、大学の教養課程のとき、イスラム世界の講義を取りました。教え自体は、その地域で生きていく知恵だと思いました。宗教が悪いということではなく、間違った解釈のもと、間違った行動をすることが問題だと考えています。それは、どの宗教や国、会社、組織にもいることです。 「宗教」は、「大学の研究」と何も変わらないという考えに至りました。言葉を表面的にしか捉えていないことが原因かと思いました。立体的、空間的に捉えることが大切だと思いました。 自分で判断し、実行したことについては、自信を持てるようになりました。実は判断するって難しいことだなと思っています。だからといって、自分で判断することを逃げてはいけないなと思います。それでは、AIかそれ以下になってしまいます。相手(人や物など、世の中の全て)に対して尊重し、学びを見いだしていけたらなと思います。
別の問答で、 「したいけどしないが大切な修行」というアドバイスを見ました。 なるほどなと思いました。 人間は、他の生き物より高度に自分で環境を調整する能力を身に付けてしまいました。それゆえ、環境に左右されず、いつでも欲望を発動することができるようになってしまいました。 高度な社会を秩序整然と維持していくには、社会への適応の仕方や欲望の押さえ方を学ぶ必要があると思います。 最近の5歳児に対する虐待死事件は、悲しい事件ですが、事件から学ばないと、同じような事件は繰り返されると思います。 母親がやったことは悪いこと。しかし、母親の立場になると、生育歴の中で歪んでしまったり、元のパートナーや現パートナーから家庭内暴力を受けていたりしたのではないかと思います。あくまで推測です。現パートナーに頼らなければ生きていけない母親の事情もあったのかもしれません。他の動物で行われている子殺しが行われていたのかもしれません。 父親の方にも原因があるはずです。 逮捕された両親には罪を償ってもらうのと同時に、しっかり治療(自己を真正面から見つめる)してほしいなと思います。周りも自立するための手立てを講じる必要があると思います。心理士の力が必要かもしれません。 物事の道理を理解すると、あらゆるハラスメントはなくなるのではないかと思います。 例えば、セクハラ。女性は、生理や妊娠、出産、閉経でホルモンバランスを大きく崩しやすいです。どれぐらい崩れるかというのは、個人や置かれた環境によって違うのだと思います。体の大きな変化は、気分や感情に大きく影響します。男性は、女性のそういう体の特徴をしっかり理解していないといけないと思います。女性の中でも、マタニティーハラスメントをする人がいますが、同性なのに何で想像力がないんだろうと思います。一方、男性は、絶えず種を作り続けています。それが貯まってくると、性欲を抑えられないのかもしれません。男女の体のことを理解していると、少しは自己コントロールできるのではないかと思います。 人間はどうしてもこれまでの経験から、人生のルールを無意識に決めてしまいます。これは、自分の勘でも何でもなくて、アメリカの精神医学界で考え出された認知行動療法で、患者側が自助努力で解決できるように書かれた本に書いてありました。文字にして唱えると、人生のルールは書き換えられると思います。
こんにちは。20代後半のれーみゃーといいます。 私には、高齢の母と障害のある兄弟が1人います。父は幼少期に離婚しておりいません。今まで家族のために生活費やそれ以外のお金を少しばかりだしたりしていました。近々ですが、一度一人暮らしをしてみたかったの始めるのですが、自分の家族の将来について非常に不安になることがあります。 幸い母も大きな病気もせず働いていますが、将来母が認知症になったらどうしよう…最近だと兄弟が受け止っている基礎年金障害の支給停止になるというニュースがありそうなってしまったらどうしよう…などまだ起こってもいない未来にものすごくビクビクしています。 将来を考えてくれる恋人もいます。私自身も将来家庭を築きたい、やりたいことも思いっきりしたい。けど、本当に自分の幸せだけ考えていいのかと自分の将来について非常に迷いがでてしまっています。 家族にそのことを伝えると「私達は私達でなんとかやっていくし、ちゃんと家計も見直していくからやれるようになっていくよ。余計なことをしない、しがみつかない。不安になったってしょうがない。それが一番なんだよ」といってくれますが…私は自分の幸せを考えて生きてもいいんでしょうか…なにか、いいお言葉を貰えると嬉しいです。
なぜ、いじめやパワハラがなくならないか考えてみました。 結論は、「なくならない」 ネガティブ感情や言動(不徳?)によって引き起こされるのではないかと考えました。 恐怖、不安、怒り、イライラ、不快感など。 価値観の固執は、他の価値観を受け入れないことになり、不安や怒りに繋がると考えました。 異質者対しては、大多数のものは不安や恐怖の感情を引き起こします。 社会不安は、生存の危機感を生み出します。 これらのことは、動物にも見られることで、個体の生存に関わることだと思います。老若男女、人種、民族に関わらず、互いの人権を尊重することが、いじめやパワハラのない社会に近づくのだと思います。 このようなストレスマネジメントや人権教育は、本来教育が担うべきものだと思いますが、残念ながらできていないように思います。日本のどこかの学校では、カリキュラムに取り入れていると聞いたことがあります。 医療や福祉の分野の方がだいぶ進んでいて、教育で生み出した問題を医療や福祉が引き受けているのが現状のように感じます。 人間は、自分の体を含む自然現象に逆らうことはできません。ライフイベントで、ホルモンバランスが崩れることがあります。そのようなときにどう対応するのか、男女差で体の中のバランスや変化がどのように変わるのか、互いを理解することが大切なのだと思います。互いを理解できなかったり、無理に抗ったりするから、ネガティブな感情が生まれるのだと思います。 楽観的思考でも、否定的思考でもなく、批判的思考ができるようにする。 起こったことをあるがままに受け入れる。 徳を積んでいきたいと思います。 以上のように考えましたが、仏教ではどのように考えますか?
日大のアメフト部のタックル事件。 実名で名前を出して会見をした若い選手の勇気は素晴らしいなと思うと同時に、違反行為をして苦しむ前に適切な行動がとれれば良かったのにと思ったり、未来ある若者が指導者によって潰されたのかと思うと、心が痛みます。 自分がやってしまった悪いことを謝罪し、指示があったとはいえ、人のせいにはしない心の強さを感じます。 でも、これって、スポーツ界だけの問題ではないのではないかと思います。加計学園の文書改ざん問題でどこかの職員が自殺したのと繋がる気がします。上意下達が強い企業もそうだと思います。 日本社会の大きな組織で生きていく手段を教える方法として、監督やコーチがそういうことを教える思考が生じるのもやむを得ないと思います。社会の真実を教える方が優しさだと考えていたのかもしれません。 自分自身がやってしまうかどうかは別として。 もちろん、学校やスポーツの場でそういうことがあってはならないと、私は思います。 トップの欲の強さが出たのか、価値観が固定していたのか、歪んだ優しさだったのか、私自身の人生について考えるニュースでした。
いつもお世話になっております。 私は青年実業家です。でも人には言いません、言えません。 詳細はプロフィールご参照願います。 この若さで私がそれとわかると、妬んできて悪意ある行動に出たり はたまた騙そうとする人がいるからです。 祈願寺のお坊さんや行者の先生たちにはもう言えます。 「実はね…こういうわけなの。他の信徒さんやお客さん、 には何があっても伝わららないようにお願いしますね」 とこっそりと耳打ちしようと思います。 お寺や道すがらでいきなり知らない人に 「よくくるんですか?」「どのくらいの頻度で来るんですか?」 「職場どのへん?遠いの」「学生さん?」 などといきなり聞かれることがあります。本当に困ります。 れっきとした要配慮個人情報なので、 「そういう話はできません」ときっぱりお断りしていますが。 最近仲良くなった人いわく、 「そりゃこんな娘さんがこんな中途半端な時間に出歩いてたら 不思議に思う人もいるよ」とのことでした。 外出の際は基本スーツなので、 「外回りなんですよ〜」とでも言えばごまかせるんでしょうが… なんだかすごく悪いことをしているような気分です。 「ヤツらは無知!」わかってはいるのですが… お知恵をお貸しいただきたく存じます。 よろしくお願いいたします。
今の社会の状況に危機感を感じます。睡眠がとれないぐらい不安に感じてはいませんが、「何とかならないかな~」とは思います。まずは、私自身が気付いて、自分自身を改革しようと 取り組んでいるつもりです。 多くの人が「ghost」になっているのではと思い、ある意味、恐怖さえ感じます。ここでいう「ghost 」とは、幽霊という意味ではありません。イメージするなら、生命科学で出てくる「ghost cell」で、中身のない細胞膜からなるような感じです。空っぽです。 本質を追求しなくなり、本質を追求するはずの大学が、職業学校と化し、学歴というラベルを得るために学校に通う。その学歴をいかして、自分の人生を切り開き、社会に貢献するならいいのですが、ラベルに依存してしまう。その依存に、危機意識を感じずにはいられません。本質を追求することが、異文化理解に繋がり、他者理解に繋がると思うのです。私も、つい最近まで、全く中身のない人間でした。今も中身がありません。中身がないということに気づきました。病気になったのは、考える時間ができて、ある意味ラッキーです。 芯がしっかりした中身を付けていって装飾するのが大切なはずだと思います。しかし、和紙を丸めて筒を作り、そこに学歴というラベルや重り、有名企業というラベルや重り、重要なポストというラベルや重りをつけていっているような教育を行っているのではないかと感じます。これでは、人生の早い段階で潰れてしまうと思います。ある意味、成人前に潰れてしまうのは幸せです。やり直しがしやすいと思うからです。成人後だと、自己責任と片付けられます。大事なものを忘れ、後生に引き継がれていないのではないかと思います。その大事なものがどの世代で忘れ去られたかはわかりません。私たちの世代かもしれませんし、その上の世代かもしれませんし、さらに上の世代かもしれません。どこかでメスを入れないと、どんどん人間が弱くなっていくと思うのです。人間を強くするのが、家庭教育であり、地域教育であり、学校教育であり、生涯学習だと思うのです。それが機能しているのかと思うのです。 そんな中でも、それぞれの道の素晴らしい実践家がいます。その方たちを見て、私自身がまず改めることかなと思います。