最近の殺人事件などの辛いニュースを見ては、心が乱れています。 いつか自分もニュースのような目にあうのではという気持ちがあり、不安でたまらなくなります。 特に最近は、変なところで恨みを買ったり、意識されて事件に巻き込まれるといったケースが後を絶たないように思います。その為、極力人間関係を広げないように近所の方ともコミュニケーションをとらないようにしたり、夢であった花屋を開くことも断念しようか(不特定の人が来店するから)など考えてしまうほど。 死というものがとても怖く、急にこの世を去ってしまった人たちの無念を考えると寝られないほど辛いのです。 何をするにも不安が先にきて、楽しむことが出来ません。こんな時代にどのような心持で生きていけばよいのでしょうか…。
この世に神などいない。 この世に神なんていないと思います。世の中は不公平と不平等の上に成り立っていると思います。この世に苛立ちしか感じません。 今まで生きてきて、努力が実ったことなんてありません。そんな私を周りの人間はつまらない人間だと見下して来ました。 役者を始めたのもそんな自分が悔しかったからです。 ですが鬱になっただけ。チャンスなんか一度もありませんでした。舞台の主演に俺より目立つなと虐められて、努力の無意味さを知りました。 鬱と闘ってる間、誰も助けてくれませんでした。 今では30歳になり、アルバイトさえ受かりません。 無駄な経験なんて無い。綺麗事だと思います。私がこんな事を言っている間に友人は結婚し、子供もいます。私はどんどん落ちぶれています。 こんなですから、女性にすら相手にされたこともありません。 楽しそうにしてる人間を見ると憎くなる気持ちを抑えるので精一杯です。 私の人生が浮上するイメージなんか1mmも湧きません。というか、期待するだけその分絶望するだけなので悲しいです。 這い上がろうという気持ちも湧きません。努力が実ったことがないので、どうせ上手くいかないとしか思えません。 もう、最悪あても無く彷徨って死のうと思います。自殺はしません。ですが、精一杯生きるつもりもありません。 神なんていません。いるというなら、一度姿を見せてみろ。
人間、いろいろな欲望がありますが、 最近、問答で性欲について話題に上がっていたので、それについて取り上げようと思います。 今年にはいって、欲望は自分自身の理性によって抑えるものだと考えるようになりました。欲望の種類によっては、法的に制限を加えられていますが、基本的には自分自身の理性でコントロールします。 理性を身に付けるためには、訓練や教育が必要だと考えます。 この前、コーヒーショップでコーヒーを飲んでいると、ダメージジーンズを着た若い女の人が目の前を通りました。そのダメージっぷりは半端ではなかったので、性欲をかきたてられましたが、当然そこは理性で抑えます。 でも、世の中、抑えられない人もいて、罪をおかしてしまう人もいます。この違いは何だろうかと考えました。あくまで、仮説です。 欲のままに動くことによる他人への影響を考えることができていないのではないかと思いました。 欲のままに動くことで、相手を傷つけるかもしれません。 性欲だと、子供が生まれる可能性があります。 中絶は、母体に影響を与えます。 もし生まれたら、一人前の大人にするために何千万という費用がかかります。 養育を放棄すれば、不幸な人生を歩ませてしまう可能性があります。 他者に敬意を払い、大切にするという気持ちがあれば、性欲を満たすために違法な行動を起こすことは減ると思うのです。ストレスによってというのもあると思うので、ストレスマネジメントも必要です。 自分たちがどのように生まれてきたか? 異性を大切にするとはどういうことか? 体の仕組みを含む人間理解が必要だと思います。その中には、性教育も含まれるのだと思います。 欲望やストレスをコントロールする術を身につける教育が必要だと思いますが、そこから目を背けているように思えてなりません。 都立のある特別支援学校で生徒間の性行為を防ぐため、性教育を行ったところ、都議会で問題視され、教育に政治が介入したことがありました。 性欲はないことにすることはできないので、どう向き合うか教えることが大事かと思います。 イスラム世界のように、男女で活動する場を分けたり、女性は外を歩くとき全身覆わなければならないという決まりを作ったりするなら別です。 大人も子供も、向き合わなければならない問題は真剣に向き合うことが大切だと思います。 ご意見いただければ、幸いです。
よくある話なのですが、病気になった時、そんなもの大した事はない、大丈夫と言いながら、自分が病気になるとコロッと主張が変わってしまう人がいると思うのですが、何故病気になった相手の事を想像する事ができないのでしょうか? 己が立場に立った場合には主張を簡単に変化させてしまう、これは想像力の欠如が原因でしょうか?
綺麗事だらけで窮屈な社会になりつつある、と私は思います。 お坊さんは、どのように考え、お感じになられますか? 私がそう考えるようになったのは、先日、起こった新幹線殺傷事件がきっかけです。 己の憂さを晴らすために、無関係な方々を殺傷した犯行は到底、許されるものではありません。 ですが、犯人の境遇については同情できるものがあると思います。 生活が逼迫し誰にも助けを求めることができず、自殺するか、殺人を起こすか、といった究極の選択まで追い詰められてしまうのは、とても他人事に思えません。 運よく恵まれた人生を生きている人々は、そんな境遇にいる人がいるなんて想像もできないのでしょう。 「甘えている。」「落伍者は、こういう凶悪犯罪を起こしうるから処分すべきだ。」と綺麗事を並べ立てています。 社会に当たり前のように存在している儒教的な価値観が、不遇な人間の精神をより追い詰めてしまう側面はあるのではないでしょうか。
世の中、不安を煽り、人を商品として見ているのではと思います。 他の世代は分かりませんが、 私と同じ30代かそれより下の世代を見たり、自分の経験から感じたりしたしたことです。 私は私立の中高一貫校で過ごしました。 中学入学当初の学年主任の先生は、 「受け入れた以上、絶対に退学者を出さない」という気持ちでやっていたようです。ところが、周りの先生は、「退学者を出さないと、生徒がだらけてしまう。」、「早めに判断して、公立に行かせた方が生徒のためだ。」というのを耳にしました。ちなみに、西日本は、公立よりも私立の方が進学実績が高いところが多いです。 就活の時に、私立学校も受け、内定を頂きましたが、私が通っていた私立学校と同じ考えで嫌悪感を抱き、公立学校に就職しました。 何だか、生徒を商品として考えているんだなと感じてしまいました。高校の監督が中学校に出向き勧誘したり、大学の監督が高校に出向き勧誘したりするのを見ても、人を商品として見ているのかと思ってしまいます。もちろん、しっかりとした理念を持って教育を行っているところもあります。 最近では、婚活市場も盛んになってきました。私も、独り身で不安に思って、婚活イベントに参加したことがあります。4月から復職を目指していましたが、3月に腸閉塞で入院してしまい、婚活イベントに参加しても相手女性に失礼だと思い、婚活はやっていません。本を読んだり、どこかに行ったり、今しかできないことをやっています。もちろん、結婚相談所や婚活イベントの業者の中にも、しっかりとした理念を持って誠実に対応しているところはあると思います。 親戚のおばさんや母親から、「相手をよく見て選びなさいよ」、「いい人がいたら、パッと掴みなさいよ」と言います。身内だからそういう言い方になるのだと思いますが、どこか人を商品として見ているようで違和感を感じます。私の相手ということは、相手は女性です。同じ女性の立場としてどのように思うのだろうかと思います。 他の男性はどうか分かりませんが、心ある男性なら相手を支えられる自信がなければ、結婚に踏み切らないと思います。結婚はそれだけ重いものだと思いますので、益々踏み切れません。困難があるから、それだけ楽しみもあります。 社会改革するには、人の不安を除かねばなりませんが、嘆いても仕方ないので、自分で自分を認め、輝きたいです。
私の両親に、最近、「本を信用するなよ」と言われます。どういう考えでいっているのか分かりませんが、信用するしないではないと思います。ある状況では正解でも、ある状況では不正解になることがあります。 本との関わり方については、親には説明しました。 多くの人が、 本=教科書=知識を身に付ける というふうに考えているのかなと思います。 本はあくまでも、著者や組織の「考え」を述べたもの。何も考えず鵜呑みにすれば、それは怪しい新興宗教になってしまいます。軸をもって主体的に考えることが大切だと思います。 本を尊重し、主体的になって考えることが、自分の新たな人格を形成することになるのだと思います。そのためには、判断のセンサーとなる「感性」と生体が情報を受けとる「五感」を鍛えることが重要だと自分の経験から感じています。 日本人は、宗教というと否定的な考えが多いかなと感じます。「イスラム教は怖い」と言われていますが、「本当なのか?」と思って、大学の教養課程のとき、イスラム世界の講義を取りました。教え自体は、その地域で生きていく知恵だと思いました。宗教が悪いということではなく、間違った解釈のもと、間違った行動をすることが問題だと考えています。それは、どの宗教や国、会社、組織にもいることです。 「宗教」は、「大学の研究」と何も変わらないという考えに至りました。言葉を表面的にしか捉えていないことが原因かと思いました。立体的、空間的に捉えることが大切だと思いました。 自分で判断し、実行したことについては、自信を持てるようになりました。実は判断するって難しいことだなと思っています。だからといって、自分で判断することを逃げてはいけないなと思います。それでは、AIかそれ以下になってしまいます。相手(人や物など、世の中の全て)に対して尊重し、学びを見いだしていけたらなと思います。
別の問答で、 「したいけどしないが大切な修行」というアドバイスを見ました。 なるほどなと思いました。 人間は、他の生き物より高度に自分で環境を調整する能力を身に付けてしまいました。それゆえ、環境に左右されず、いつでも欲望を発動することができるようになってしまいました。 高度な社会を秩序整然と維持していくには、社会への適応の仕方や欲望の押さえ方を学ぶ必要があると思います。 最近の5歳児に対する虐待死事件は、悲しい事件ですが、事件から学ばないと、同じような事件は繰り返されると思います。 母親がやったことは悪いこと。しかし、母親の立場になると、生育歴の中で歪んでしまったり、元のパートナーや現パートナーから家庭内暴力を受けていたりしたのではないかと思います。あくまで推測です。現パートナーに頼らなければ生きていけない母親の事情もあったのかもしれません。他の動物で行われている子殺しが行われていたのかもしれません。 父親の方にも原因があるはずです。 逮捕された両親には罪を償ってもらうのと同時に、しっかり治療(自己を真正面から見つめる)してほしいなと思います。周りも自立するための手立てを講じる必要があると思います。心理士の力が必要かもしれません。 物事の道理を理解すると、あらゆるハラスメントはなくなるのではないかと思います。 例えば、セクハラ。女性は、生理や妊娠、出産、閉経でホルモンバランスを大きく崩しやすいです。どれぐらい崩れるかというのは、個人や置かれた環境によって違うのだと思います。体の大きな変化は、気分や感情に大きく影響します。男性は、女性のそういう体の特徴をしっかり理解していないといけないと思います。女性の中でも、マタニティーハラスメントをする人がいますが、同性なのに何で想像力がないんだろうと思います。一方、男性は、絶えず種を作り続けています。それが貯まってくると、性欲を抑えられないのかもしれません。男女の体のことを理解していると、少しは自己コントロールできるのではないかと思います。 人間はどうしてもこれまでの経験から、人生のルールを無意識に決めてしまいます。これは、自分の勘でも何でもなくて、アメリカの精神医学界で考え出された認知行動療法で、患者側が自助努力で解決できるように書かれた本に書いてありました。文字にして唱えると、人生のルールは書き換えられると思います。
こんにちは。20代後半のれーみゃーといいます。 私には、高齢の母と障害のある兄弟が1人います。父は幼少期に離婚しておりいません。今まで家族のために生活費やそれ以外のお金を少しばかりだしたりしていました。近々ですが、一度一人暮らしをしてみたかったの始めるのですが、自分の家族の将来について非常に不安になることがあります。 幸い母も大きな病気もせず働いていますが、将来母が認知症になったらどうしよう…最近だと兄弟が受け止っている基礎年金障害の支給停止になるというニュースがありそうなってしまったらどうしよう…などまだ起こってもいない未来にものすごくビクビクしています。 将来を考えてくれる恋人もいます。私自身も将来家庭を築きたい、やりたいことも思いっきりしたい。けど、本当に自分の幸せだけ考えていいのかと自分の将来について非常に迷いがでてしまっています。 家族にそのことを伝えると「私達は私達でなんとかやっていくし、ちゃんと家計も見直していくからやれるようになっていくよ。余計なことをしない、しがみつかない。不安になったってしょうがない。それが一番なんだよ」といってくれますが…私は自分の幸せを考えて生きてもいいんでしょうか…なにか、いいお言葉を貰えると嬉しいです。
なぜ、いじめやパワハラがなくならないか考えてみました。 結論は、「なくならない」 ネガティブ感情や言動(不徳?)によって引き起こされるのではないかと考えました。 恐怖、不安、怒り、イライラ、不快感など。 価値観の固執は、他の価値観を受け入れないことになり、不安や怒りに繋がると考えました。 異質者対しては、大多数のものは不安や恐怖の感情を引き起こします。 社会不安は、生存の危機感を生み出します。 これらのことは、動物にも見られることで、個体の生存に関わることだと思います。老若男女、人種、民族に関わらず、互いの人権を尊重することが、いじめやパワハラのない社会に近づくのだと思います。 このようなストレスマネジメントや人権教育は、本来教育が担うべきものだと思いますが、残念ながらできていないように思います。日本のどこかの学校では、カリキュラムに取り入れていると聞いたことがあります。 医療や福祉の分野の方がだいぶ進んでいて、教育で生み出した問題を医療や福祉が引き受けているのが現状のように感じます。 人間は、自分の体を含む自然現象に逆らうことはできません。ライフイベントで、ホルモンバランスが崩れることがあります。そのようなときにどう対応するのか、男女差で体の中のバランスや変化がどのように変わるのか、互いを理解することが大切なのだと思います。互いを理解できなかったり、無理に抗ったりするから、ネガティブな感情が生まれるのだと思います。 楽観的思考でも、否定的思考でもなく、批判的思考ができるようにする。 起こったことをあるがままに受け入れる。 徳を積んでいきたいと思います。 以上のように考えましたが、仏教ではどのように考えますか?
日大のアメフト部のタックル事件。 実名で名前を出して会見をした若い選手の勇気は素晴らしいなと思うと同時に、違反行為をして苦しむ前に適切な行動がとれれば良かったのにと思ったり、未来ある若者が指導者によって潰されたのかと思うと、心が痛みます。 自分がやってしまった悪いことを謝罪し、指示があったとはいえ、人のせいにはしない心の強さを感じます。 でも、これって、スポーツ界だけの問題ではないのではないかと思います。加計学園の文書改ざん問題でどこかの職員が自殺したのと繋がる気がします。上意下達が強い企業もそうだと思います。 日本社会の大きな組織で生きていく手段を教える方法として、監督やコーチがそういうことを教える思考が生じるのもやむを得ないと思います。社会の真実を教える方が優しさだと考えていたのかもしれません。 自分自身がやってしまうかどうかは別として。 もちろん、学校やスポーツの場でそういうことがあってはならないと、私は思います。 トップの欲の強さが出たのか、価値観が固定していたのか、歪んだ優しさだったのか、私自身の人生について考えるニュースでした。
いつもお世話になっております。 私は青年実業家です。でも人には言いません、言えません。 詳細はプロフィールご参照願います。 この若さで私がそれとわかると、妬んできて悪意ある行動に出たり はたまた騙そうとする人がいるからです。 祈願寺のお坊さんや行者の先生たちにはもう言えます。 「実はね…こういうわけなの。他の信徒さんやお客さん、 には何があっても伝わららないようにお願いしますね」 とこっそりと耳打ちしようと思います。 お寺や道すがらでいきなり知らない人に 「よくくるんですか?」「どのくらいの頻度で来るんですか?」 「職場どのへん?遠いの」「学生さん?」 などといきなり聞かれることがあります。本当に困ります。 れっきとした要配慮個人情報なので、 「そういう話はできません」ときっぱりお断りしていますが。 最近仲良くなった人いわく、 「そりゃこんな娘さんがこんな中途半端な時間に出歩いてたら 不思議に思う人もいるよ」とのことでした。 外出の際は基本スーツなので、 「外回りなんですよ〜」とでも言えばごまかせるんでしょうが… なんだかすごく悪いことをしているような気分です。 「ヤツらは無知!」わかってはいるのですが… お知恵をお貸しいただきたく存じます。 よろしくお願いいたします。
今の社会の状況に危機感を感じます。睡眠がとれないぐらい不安に感じてはいませんが、「何とかならないかな~」とは思います。まずは、私自身が気付いて、自分自身を改革しようと 取り組んでいるつもりです。 多くの人が「ghost」になっているのではと思い、ある意味、恐怖さえ感じます。ここでいう「ghost 」とは、幽霊という意味ではありません。イメージするなら、生命科学で出てくる「ghost cell」で、中身のない細胞膜からなるような感じです。空っぽです。 本質を追求しなくなり、本質を追求するはずの大学が、職業学校と化し、学歴というラベルを得るために学校に通う。その学歴をいかして、自分の人生を切り開き、社会に貢献するならいいのですが、ラベルに依存してしまう。その依存に、危機意識を感じずにはいられません。本質を追求することが、異文化理解に繋がり、他者理解に繋がると思うのです。私も、つい最近まで、全く中身のない人間でした。今も中身がありません。中身がないということに気づきました。病気になったのは、考える時間ができて、ある意味ラッキーです。 芯がしっかりした中身を付けていって装飾するのが大切なはずだと思います。しかし、和紙を丸めて筒を作り、そこに学歴というラベルや重り、有名企業というラベルや重り、重要なポストというラベルや重りをつけていっているような教育を行っているのではないかと感じます。これでは、人生の早い段階で潰れてしまうと思います。ある意味、成人前に潰れてしまうのは幸せです。やり直しがしやすいと思うからです。成人後だと、自己責任と片付けられます。大事なものを忘れ、後生に引き継がれていないのではないかと思います。その大事なものがどの世代で忘れ去られたかはわかりません。私たちの世代かもしれませんし、その上の世代かもしれませんし、さらに上の世代かもしれません。どこかでメスを入れないと、どんどん人間が弱くなっていくと思うのです。人間を強くするのが、家庭教育であり、地域教育であり、学校教育であり、生涯学習だと思うのです。それが機能しているのかと思うのです。 そんな中でも、それぞれの道の素晴らしい実践家がいます。その方たちを見て、私自身がまず改めることかなと思います。
痛ましい事件が起こってしまいました。 近所の人の話を聞くと、「優しい子だった」ということでした。最近よく聞く、容疑者の人物像です。 容疑者の人物像から、もしかしたら親や学校、同級生から精神的な抑圧がかかっていたのかなと推察しました。仮にそうだとしたら、早い段階で誰かが気づいて、専門的手だてを講じることはできなかったのだろうかと思います。 私は、「人間はもともと善い性質を持っている」と考えています。家庭や学校での学びや経験などを通して、間違った学習をすることによって社会規範から反れていくのだと考えています。色眼鏡をかけていくことにより、間違った見方をしてしまう可能性があります。 人間を含む哺乳類を観察すると、幼児期の母子関係が大事だと感じます。何らかの理由で離れてしまい、その後、周りの人たちからの裏切られる経験が重なると、より良い成長にならないと感じています。 事件が起こったときに、犯罪者本人に反省を促すことが大切だと思います。と同時に、犯罪者に対する治療が必要だと感じます。刑務所の中でも、矯正プログラムはあると思いますが、社会復帰して犯罪者自身が困ったときに相談できる窓口が必要かもしれません。 一方で、社会の方も、これまでの問題点を洗い出す契機になるかと思います。生活習慣の乱れが人間の体の弱いところに現れるように、社会の乱れも弱いところに現れるのだと思います。 環境ストレスや社会ストレス、内的ストレスへの対処法を教え、これらストレスによっておかしくなってしまった人を救うシステムを構築することが、日本国憲法が目指す社会の実現に必要なことだと考えています。 社会で生活していくだけでも精神的な歪みが生じるのに、社会に出る前の教育ですでに歪みを生じさせるが、その歪みを自己矯正する様々な手段を教えない。多くの知見の蓄積があるのに、生かせていないように感じます。 最近のニュースを見ていると、たまにこのような残虐な事件は起きますが、芸能人に関するスキャンダルや一地方の事故が全国ニュースで流れているのを見ると、憲法が求める理想社会に近づいているのかなと思います。 私自身も、「~すべき」という色眼鏡やネガティブに捉える色眼鏡をかけているので、気をつけたいと思います。
どうして、痛ましい事件というものは無くならないのでしょう? 「人殺し」のような大罪人は、永遠に地獄から出れないようになれば、 この世に大悪人などいなくなって平和な世の中が実現するのに・・・。 殺人事件などが起きるのは、 現代社会がそれだけ闇を帯びているからで、 「そんな社会の1構成人である自分にも無関係ではない」 そんな風に思って、生き方を省み、 自分にできることを日々実践していく・・・ そうすれば、真に平和な世の中というものを 実現できるでしょうか?
長時間労働、過労死、過労自殺、いじめ自殺、パワハラ・・・ 昔もあったのかもしれませんが、増えていると感じるのは気のせいでしょうか? いじめやパワハラの加害者の根底にあるのは、ストレスと自分の価値観への執着。 一方、その被害者も、根底に加害者と同じものがある。 そのように考えました。 価値観の押し付け合いと労働ややりがいの搾取。押し付けるから苦しくなり、搾取するから余裕がなくなる。私もそうなっていないか振り返る必要があります。 制度を作ることも大切だと思いますし、その対策として予算を投入することも必要だと思います。しかし、やってもらうだけでなく、一人一人ができることがあるのではないかと思います。 私自身は、紙に書いて見える化し、改善に取り組んでいるところです。染み付いた無意識は、改善するのが大変ですね。
芸能人や有名人が不倫したり女子高生にキスしたりのニュースが毎日のように流れてきています。 確かによくないことだし、その人たちに味方する気もないのですが、テレビから週刊誌から何から何まで袋叩きにしすぎで見ていて気分が悪くなってくるのです。 結局、売上になるからやってるだけで社会やその人を正したいなんて気持ちはない気がするから。 金儲けだけで生きていないお坊さんはこういう風潮をどのように感じるか聞いてみたいです。
就職活動中だった19歳の春。 ご縁を頂きました企業、当時は社会のことを全く知らなく熱心にお誘いして下さったが丁重にご辞退をさせていただきました。 あれから25年の長い歳月が過ぎ行き、再びご縁をいただく機会に恵まれました。 ご縁を導いて下さった方は故人となられたましたが、25年の四半世紀経ったいま再びチャレンジをしてみないか?と声をかけて下さったのかも知れません。 ご縁というものは繰り返さすことが出来るものなのでしょうか。
「石圧して笋斜めに出で 岸に懸かって花倒に出ず」(虚堂智愚の語録『虚堂録』) 「人は、恵まれた環境にある時、必死に考えることはありません。ですが、逆境にある時、人はどうやって切り抜けるかを必死に考えるものです。」 今、ある本を読んでいて、ほとんど私の中では納得できるものでしたが、この一文は引っ掛かってしまいました。 例えば、 ・生活保護受給者で、貰った分を全てギャンブルに使ってしまう人がいます。(見方によっては、この人たちが富を蓄えている人が払った税金を使うことで、景気を循環させる働きをしていると捉えることができ、全体的には役に立っていると考えられます。) ・教育。義務教育は、最低限、教えることが決まっています。でも、子どもが考えるきっかけを奪ってしまっているのではないでしょうか? 福祉・医療・教育は、人が改善する力や治癒する力を引き出すことが必要だと思いますが、現代の日本の教育は、受ける側が悩んでいないことも多々あります。教育によって、敢えて困難を与えているという考え方をすれば、一定の役割を果たしています。しかし、過剰なストレスを与え、非行やひきこもりなどを生じさせているのも事実だと思います。だとしたら、何らかのストレスマネジメントを教える必要もあるかと思います。 苦しみ抜いたあげく、犯罪行為に走ったり、自殺したり、精神疾患を抱えたりする人もいます。この人たちに対して、未然に手だてを講じることはできないものかと思います。 手だてを講じて助けることは、困難を抱えた人から、考えるきっかけを奪うことになるのでしょうか?一方で、困難を抱えて乗り越えられず、苦しんでいる人はただの甘えなのでしょうか? 考えをまとめられず、申し訳ありません。宜しくお願いします。
就職、転職、結婚など人生の大きな場面において「焦らず待った方が良い時」とはどんな場合だと思いますか? いずれも良いタイミングがあると思うのですが、今まで生きてきて感じたことを教えてください。 何故このような質問をしたかという理由は自分は何でも即断即決が良いと思い込んで割とスパッと判断して物事を決めてきたのですが仕事関係で大きな失敗をして今日まで1年近く後悔を引きづっているからです。 時には待つことも大事で焦って早くどうにかしようとすると判断を間違うこともあるという単純なことに気付くことに鈍感になっていたかもしれません。