痛ましい事件が起こってしまいました。 近所の人の話を聞くと、「優しい子だった」ということでした。最近よく聞く、容疑者の人物像です。 容疑者の人物像から、もしかしたら親や学校、同級生から精神的な抑圧がかかっていたのかなと推察しました。仮にそうだとしたら、早い段階で誰かが気づいて、専門的手だてを講じることはできなかったのだろうかと思います。 私は、「人間はもともと善い性質を持っている」と考えています。家庭や学校での学びや経験などを通して、間違った学習をすることによって社会規範から反れていくのだと考えています。色眼鏡をかけていくことにより、間違った見方をしてしまう可能性があります。 人間を含む哺乳類を観察すると、幼児期の母子関係が大事だと感じます。何らかの理由で離れてしまい、その後、周りの人たちからの裏切られる経験が重なると、より良い成長にならないと感じています。 事件が起こったときに、犯罪者本人に反省を促すことが大切だと思います。と同時に、犯罪者に対する治療が必要だと感じます。刑務所の中でも、矯正プログラムはあると思いますが、社会復帰して犯罪者自身が困ったときに相談できる窓口が必要かもしれません。 一方で、社会の方も、これまでの問題点を洗い出す契機になるかと思います。生活習慣の乱れが人間の体の弱いところに現れるように、社会の乱れも弱いところに現れるのだと思います。 環境ストレスや社会ストレス、内的ストレスへの対処法を教え、これらストレスによっておかしくなってしまった人を救うシステムを構築することが、日本国憲法が目指す社会の実現に必要なことだと考えています。 社会で生活していくだけでも精神的な歪みが生じるのに、社会に出る前の教育ですでに歪みを生じさせるが、その歪みを自己矯正する様々な手段を教えない。多くの知見の蓄積があるのに、生かせていないように感じます。 最近のニュースを見ていると、たまにこのような残虐な事件は起きますが、芸能人に関するスキャンダルや一地方の事故が全国ニュースで流れているのを見ると、憲法が求める理想社会に近づいているのかなと思います。 私自身も、「~すべき」という色眼鏡やネガティブに捉える色眼鏡をかけているので、気をつけたいと思います。
どうして、痛ましい事件というものは無くならないのでしょう? 「人殺し」のような大罪人は、永遠に地獄から出れないようになれば、 この世に大悪人などいなくなって平和な世の中が実現するのに・・・。 殺人事件などが起きるのは、 現代社会がそれだけ闇を帯びているからで、 「そんな社会の1構成人である自分にも無関係ではない」 そんな風に思って、生き方を省み、 自分にできることを日々実践していく・・・ そうすれば、真に平和な世の中というものを 実現できるでしょうか?
長時間労働、過労死、過労自殺、いじめ自殺、パワハラ・・・ 昔もあったのかもしれませんが、増えていると感じるのは気のせいでしょうか? いじめやパワハラの加害者の根底にあるのは、ストレスと自分の価値観への執着。 一方、その被害者も、根底に加害者と同じものがある。 そのように考えました。 価値観の押し付け合いと労働ややりがいの搾取。押し付けるから苦しくなり、搾取するから余裕がなくなる。私もそうなっていないか振り返る必要があります。 制度を作ることも大切だと思いますし、その対策として予算を投入することも必要だと思います。しかし、やってもらうだけでなく、一人一人ができることがあるのではないかと思います。 私自身は、紙に書いて見える化し、改善に取り組んでいるところです。染み付いた無意識は、改善するのが大変ですね。
芸能人や有名人が不倫したり女子高生にキスしたりのニュースが毎日のように流れてきています。 確かによくないことだし、その人たちに味方する気もないのですが、テレビから週刊誌から何から何まで袋叩きにしすぎで見ていて気分が悪くなってくるのです。 結局、売上になるからやってるだけで社会やその人を正したいなんて気持ちはない気がするから。 金儲けだけで生きていないお坊さんはこういう風潮をどのように感じるか聞いてみたいです。
就職活動中だった19歳の春。 ご縁を頂きました企業、当時は社会のことを全く知らなく熱心にお誘いして下さったが丁重にご辞退をさせていただきました。 あれから25年の長い歳月が過ぎ行き、再びご縁をいただく機会に恵まれました。 ご縁を導いて下さった方は故人となられたましたが、25年の四半世紀経ったいま再びチャレンジをしてみないか?と声をかけて下さったのかも知れません。 ご縁というものは繰り返さすことが出来るものなのでしょうか。
「石圧して笋斜めに出で 岸に懸かって花倒に出ず」(虚堂智愚の語録『虚堂録』) 「人は、恵まれた環境にある時、必死に考えることはありません。ですが、逆境にある時、人はどうやって切り抜けるかを必死に考えるものです。」 今、ある本を読んでいて、ほとんど私の中では納得できるものでしたが、この一文は引っ掛かってしまいました。 例えば、 ・生活保護受給者で、貰った分を全てギャンブルに使ってしまう人がいます。(見方によっては、この人たちが富を蓄えている人が払った税金を使うことで、景気を循環させる働きをしていると捉えることができ、全体的には役に立っていると考えられます。) ・教育。義務教育は、最低限、教えることが決まっています。でも、子どもが考えるきっかけを奪ってしまっているのではないでしょうか? 福祉・医療・教育は、人が改善する力や治癒する力を引き出すことが必要だと思いますが、現代の日本の教育は、受ける側が悩んでいないことも多々あります。教育によって、敢えて困難を与えているという考え方をすれば、一定の役割を果たしています。しかし、過剰なストレスを与え、非行やひきこもりなどを生じさせているのも事実だと思います。だとしたら、何らかのストレスマネジメントを教える必要もあるかと思います。 苦しみ抜いたあげく、犯罪行為に走ったり、自殺したり、精神疾患を抱えたりする人もいます。この人たちに対して、未然に手だてを講じることはできないものかと思います。 手だてを講じて助けることは、困難を抱えた人から、考えるきっかけを奪うことになるのでしょうか?一方で、困難を抱えて乗り越えられず、苦しんでいる人はただの甘えなのでしょうか? 考えをまとめられず、申し訳ありません。宜しくお願いします。
就職、転職、結婚など人生の大きな場面において「焦らず待った方が良い時」とはどんな場合だと思いますか? いずれも良いタイミングがあると思うのですが、今まで生きてきて感じたことを教えてください。 何故このような質問をしたかという理由は自分は何でも即断即決が良いと思い込んで割とスパッと判断して物事を決めてきたのですが仕事関係で大きな失敗をして今日まで1年近く後悔を引きづっているからです。 時には待つことも大事で焦って早くどうにかしようとすると判断を間違うこともあるという単純なことに気付くことに鈍感になっていたかもしれません。
仕事して、給料もらって、返済とか支払わなければいけないものを支払わないで、自分の好き勝手してお金無くなって、無いので支払えませんという人はどう思いますか?
ご覧いただきありがとうございます。 発達障害をもつ高校生です。 知恵袋やこのハスノハを読んでいると発達障害で苦しんでいる方をよく見かけます。私自身もバイトをしていましたが、仕事の出来なさに苦しみわずか半年で辞めました。その半年間はまともに趣味も楽しめず不安ばかりの毎日でした。あと一年後には社会に出ていますが、こんなんでちゃんと働いて生きて行けるのか不安でしょうがないです。他にも色んな問題で苦しんでる方を見てきました。せっかく生まれてきたのですから楽しく生きたいのにこれから先楽しく生きるどころか多くの苦しみや不安の中生きていくんじゃないかと思うと悔しさでいっぱいです。政府がちゃんと政策をしてほしいと思いますが、やはり自分で何とかやっていくしかないのでしょうか。発達障害者が楽しく生きることはできないのでしょうか。
多分お坊様の様な高度な事はわかりません。 どのように生きていけば良いのかさえも 迷いが出て来てしまいました。 新たに学びをしようと思っても 決めなくては未熟で続かない。 恋愛もしていなければ 結婚もした事はない。 仕事もしていない。 仕事していないは無職で約1ヶ月です。 また探すしかないです。
昨日、母とドライブしている時に道路で横たわっている猫の死骸を見つけました。母は慌てて避けましたが夜遅く車も多かったので可哀想と思いつつも死骸はそのままに見て見ぬふりをしました。 わたし自身は余所見をしていた為、直接は見ていなかったのですが、ぐったりと横たわっており死んでいるも分かったようです。 人間の遺体なら見て見ぬふりなんか出来る訳ないのに、まだ生きていたかもしれないのに..と今になって後悔が付いて回りせめて綺麗な状態のまま端に寄せてあげればよかったと思います。 自分が轢かれるかもしれない、急停車したら後ろの車とぶつかるかもしれない、Uターンして戻っても散々轢かれた後だろうから直ぐには死骸を動かせない..なんて言い訳が思い付く時点で人の心が無いですし猫が可哀想で堪りません。 野良猫が増えすぎたのも問題ですが改めて目の前で動物が死んでいる姿を見ると胸が痛みます(今回は見てなかったですが)小さい頃は病気など気にせず鳩や雀の死骸を土に埋めたりしていましたが埋める所も無いし死骸を持ってうろちょろはできない..と移動させてあげる事に躊躇するようになりました。 最低な私を叱ってください。 あと小動物の死骸などはお寺で供養して貰えたりするのでしょうか? 轢かれた猫を供養してもらったと聞いた事があるのでお答え頂けると次に見付けた時、すぐに行動が出来るので助かります。 遺体自体は保健所行きになりますが実際の遺体が無くても魂を供養してあげられたら良いのですが..。
いつもご回答ありがとうございます。 また、祈願寺で不審者に絡まれてしまいました… 祈願寺付近の公園でゴミ拾いしていた人がいたので一言ご挨拶 したら、この時期はね…と仕事の話をしてくれました。 彼いわく、市の事業だそうです。 ここまでは普通かと思い、私も時間が来たので境内に入りました。 すると彼も境内にいて、「親父の3年忌なんですよ」から 始まり、次々と自分のことを話し始めました。 公営住宅に入っているのだが内緒でペットを飼っている人が、 とか、親父は鳥がすきだったの。ヤマガラっていうのは…とか。 流石に怪しい臭いがしたので「失礼します」と言って堂内に 入ろうとしたらまだ話を続けて来ました。 私は受付の寺務員さんに鋭い目で何度も合図を送りました。 寺務員さんは驚いた顔でこちらを見ていました。 そしてその後、私も保健師さんに相談したら、 「時間をずらすか、しばらくお休みしなさい」とのこと。 そんなことを言ったら私はどこにも行けなくなってしまいます。 祈願寺に報告するべきでしょうか。その彼いわく自分たちは グループで働いておりお寺の周辺に休憩所があるそうです。 また、不審者を110番するにしても、どこからが危険水域 なんでしょうか。 ご意見お待ちしております。
僕は、世の中の人間が信じられないです 犯罪を起こし、いじめをしたり、虐待したり、地球を汚し、同じ戦争を繰り返す 僕もかつては学校で嫌がらせを受けたりした経験があり、それで世の中にいる人間はみんな最低な人ばかりなんじゃないかとずっと思っています 世界の99パーセントが悪い心を持つ人間で、残りの1パーセントが良い心を持つ人間なんだと思います、悪い心を持つ人間をこの世から消し去れば、住み良い世界になるんじゃないでしょうか? どうして神様や仏様は悪い心を持つ人間を生み出してしまったのですか? 僕は就職せねばならない身なので、世の中の人間たちとうまくやっていけるかもわからないです・・・。
悩み、葛藤の末、感覚だけになった瞬間の、全てを包み込む、心地良い優しさは、何と呼べばいいのでしょうか。
いつもお世話になっております。 タイトル通り、私が優しく教えて差し上げたり、静かにお伝え しても相手が無明状態で自分たちの偏った考えを振りかざし、 本気で殺しにかかってくる場合(物理的にじゃありません)、 一体どうすればいいんでしょうか? たとえば、「こういうことされたので助けてください」 「こういうことは今はいけないことなんですよ」と優しく言っても 私の物真似までして、「これだから」とか「だったら消えろ」 などと大衆の面前で怒鳴りつけてきて、それきりすね腐る人、 ろくに考えもせず、人のアラばかり探す人… 私ですら、いろんな方に教えを頂きながら、じ様ば様だとか 今時の若いヤツだとか、男とか女とか、そんなことは意識せず、 目の前にいるのは「人」「生き物」そう言う考えのもと 行動してきました。 いま正直、やべぇ死にてえ。いっそ浄土行っちゃおうかしら。 という気分です。 人間性って何?上の学校に行きまくらないと身につかないもの? だったらお金も余裕もない人はどうするの? お教えお待ちしております。
まだ起きてもいないことをアレコレ悩むのもどうかと思いますがこのような記事をネットで見かけたもので。 資産のある年金受給者にきっちりと課税したり、年金額を縮小したりするには、資産の把握が必要不可欠です。資産を多く持っている高齢者には年金は我慢してもらうしかありません。年金はあくまでも保険であって預貯金ではありません。老後の生活が大変な人にだけ年金を給付すべきです。 ”俺様キャラ”のある元政治家の発言です。 この方のことは支持していたわけでも嫌いだったわけでもありません。財務省のホンネなのかなとも思いますがその言いなりになっての発言とも思いません。 話としてはよくわかるのですがその上で反対です。 これから益々人口比率で大きくなる高齢者が益々銭を使わなくなります。 これだと景気に重大な影響が出るではありませんか。 ・・・いや、そういう理屈はよしましょう。 私のホンネは「貰える(はずの)ものが貰えなくなる」のが嫌なのです。 資産はそれなりに持っており、年金として貰える金額も決して多くないのですがそれでも「欲しい」のです。 私って強欲でしょうか。
友人から他人の愚痴を言われた際、「死ね」「受験に落ちろ」などという言葉を聞いたり、SNSを開くと、些細な事で「地獄に落ちろ」などと呟いてる人、他人に便乗して複数人で誹謗中傷する人などを見ることが多いです。 何故、世の中には人の気持ちを考えず、平気で心無い言葉を投げかける人がいることが珍しくないのでしょうか? お釈迦様が生きていらっしゃった時代にも、そんな人はいたのでしょうか? いたとすれば、お釈迦様がそのような人に出会った時にはどう対処していらっしゃったのでしょうか? そういった負のものに気を吸い取られてしまいがちです。 気にしなければいい話かも知れませんが、少し生きづらいなと思ってしまいます。
死にたいのに呼吸をしてしまいます。 心臓が動いてしまいます。 死にたい気持ちが足りないからですか。 はやく楽になりたいです。
更正と言う言葉がありますよね。 悪いのとを「止めた」だけの人がよく使ってますね。ヤンキー先生とか。 私の私見ですが更正の最低条件は迷惑をかけたすべての人に謝罪し心から許してもらった事を客観的に証明する必要があると思います。 悪いこともピンきりなので人はすべからく悪人なのかもしれませんが。 迷惑をかけた人がすでに死んでいてもその人のもとに行くくらいはしてもいいのではないかと思います。(簡単に言えば死ねばいい) 世の中は、「更正」した人に優しいですね。普通に生きている人にたいして人生経験が足りないとすら言うこともあります。 果たしてヤンキー先生とか元暴走族の俳優は更正してるんでしょうか? 大手を振って上から目線で人に話しているのをみて、お前程度のくずが何言ってるの?と感じます。 仏教的に悪いことを止めただけの状態は良いことなのですか、悪いことなのですか?
SNSにて、友人のつぶやきを読んでいて思い出したことがあります。 昔の話ですが、電車に乗っていたら、杖をついた、明らかに足腰の弱ってそうな年輩の男性が乗ってきたので、席を譲ろうとしたら『俺はそんな耄碌してない!』と怒鳴られたことがあります。 友人は友人で、『俺は年寄りだから席を譲れ!』と手を掴んで引きずり降ろされた経験があると言います。 席を譲らなければ友人のようなことをされ、譲ったら譲ったで私のように怒鳴られる。 私たち若者は、一体どうしたらいいのでしょうか?(笑) ご回答よろしくお願い致します。