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「仏教・お坊さん」を含む問答(Q&A)一覧

ANESTHESIOLOGIST

麻酔科医の主な仕事は、「体の痛み」を取り除くこと。 お坊さまの主な仕事は、「心の痛み」を取り除くこと。 患者様に寄り添う仕事。 救いを求める人たちに寄り添う仕事。 ほぼ同じようなもの。 もし互いに協力し合えれば、もっとたくさんの人たちを救うことが出来るのではないでしょうか? でも、何だか今、非常に高い「壁」を感じています。 「どちらかだけの世界」として存在しているように感じています。 私は、そんな「偏った世界」や「無意味な壁」を取り除きたい。 「誰でもいらっしゃい!」と人を招いておきながら、互いの中に「分け隔てる壁」を持ってしまっているのではないでしょうか? 窮屈です。 息苦しいです。 全然、開放的ではない。 閉鎖的です。 この「壁」は、これからもずっとずーっと無くならないものなのでしょうか? それだと、せっかくの「ビハーラ活動」もなかなか広まらないのではないでしょうか? こっちはこっち、あっちはあっち。 そんな状態、良いとは思えません。 これは「喜怒哀楽」で言うならば、私にとって「怒」ではなく「哀」です。 このままだと、ここに私のいる意味など無くなってしまいそうです。 助け合いの精神とは…? 「助けたい」 これも「欲」の「煩悩」なのでしょうか? ここhasunohaに来て1か月が経ちました。 去るべきかどうか迷っています。 hasunohaは、とても心地よく素晴らしい場所です。 しかし、何だか… うまく言葉に出来ませんが… 迷っています… 消えた方がラクなのでしょうか…

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僧衣は何故、あんなに暑そうなのか

お坊様方、お盆のお勤めお疲れ様です。 それにしてもお坊さんの僧衣、ただでさえ暑い中、何枚も重ね着してらっしゃるのは、見ているこちらが辛くなります。色だって(宗派にもよりますが)黒とか紫とか濃い色ばかりだし。どんなに暑くても袖まくりすらできずに法務を行うお坊様には心から尊敬いたします。 余計なお世話ですかね?修行を積んだお坊さんなら大丈夫? クールビズの僧衣バージョンみたいな、略式の冷感服って無いんでしょうかね。もちろん僧衣の色や形式にはそれぞれ大切な意味がある事は知っているのですが、さすがに近年の暑さは酷すぎます。 色々意見はあるでしょうが、個人的には、服装は形式よりも快適なものを着て欲しいと思います。率直な話、ジンベイや作務衣に近い服装でも良いんじゃないかと思ってます。何も僕等は服に拝んでもらってる訳じゃないんだし。 総本山にメールででも申し入れしようかなと思うのですが、余計なお世話でしょうかね。あるいは無駄な事でしょうか。伝統もあるものだし、急には変えられないとは解るのですが・・・ それとも、近年の僧衣には涼しくなるような工夫が色々されてるんでしょうか? ともあれ、お坊様方大変お疲れさまでした。 しばらくは涼しい所でお過ごしください。 (伝統を軽視するような言い方で、かえって不快にさせてしまったらすみません。またこのサイトに相応しくない質問であれば、放置して下さい。2、3日回答が無ければ削除します。)

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愛する方を亡くしました

先週愛する方を亡くしました。 通院時に病院で倒れてから入院生活を送り、眠るように息を引き取ったそうです。 朝焼けの綺麗な、とても涼しい日でした。 私と彼はいわゆる不倫の関係で、ご家族は私の存在は知りません。 倒れてからのことは、ふたりの事を知っている上司が教えてくれ、告別式にも同僚として参列出来たのですが…。 告別式が終わっても、気持ちの整理がつきません。気がおかしくなりそうな、心をもぎ取られてしまったような。 彼とは仕事を通じて親しくなり、10年間公私共に私を支えてくれました。 あまのじゃくで子供っぽい私は、しょっちゅう彼を困らせてばかりでした。嫉妬して拗ねて『別れる!』と何度言ったか。 その度に『そんなこと言ってー』とか『何かあったの?』なとど、私を落ち着かせてくれるような人でした。 たまには『いい加減にしろ』と怒ってくれたりもしました。 彼も他の人には言わないようなグチも話してくれていたようですし、食事を作ったりプレゼントを渡すと嬉しそうでした。 でも今年になってからは会う時間もとれず、彼を気遣うこともなかなか出来ずにいました。 それどころか、いつものように感情をぶつけてしまって。『他の人と付き合う』なとどバカなことを言ってしまったり。 最後に話をしたときは、ふざけあって楽しかったのですが。仕事の合間ということもあり、『ハグしたい』という彼の願いも叶えられませんでした。 その数日後に、倒れたという連絡。体調が思わしくないと検査を受けた冬から、半年もたっていないのに。 本格的な治療も、これからというところだったのに。 彼が必死に頑張っていた様子は、上司の話からも伝わってきました。 頑張ったねとありがとうと楽しかった想いを、告別式には伝えたのですが。 これまでの自分の愚かな言動も悔しくてなりません。もっとしてあげられたこともあったのに。 あんなこと言わなきゃ良かったということも多くて。1人になると、泣いてしまうばかりで、これからどうしていくことが良いのかわかりません。 関係ゆえにお墓参りや(場所もまだ知らないのですが)、初盆に伺うことも出来そうにないのも不安です。 愚かながら私ですが、どうかお助け下さい。 長文失礼しました。

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感興のことば第26章13の内容について

仏典についての質問です。 正式に仏教の知識を学んだこともありません。 己の体験と仏典を照らし合わせて仏道に勤しんでいます。 浅学でお恥ずかしいのですがお答えいただければ幸いです。 感興のことば第26章 安らぎ(ニルヴァーナ)の13です。 僧侶であればだれでもが親しんでおられる仏典だと思われます。 「13 ①前にはあったが、そのときには無かった。②前には無かったが、そのときにはあった。③前にも無かったし、のちにも無いであろう。また今も存在しない。」の内容をお知らせください。 個人的な一考察ですが、 ①「前にはあったが、そのときには無かった」とは、 A:前には「認識している私」という意識があったが、そのとき(=安らぎ)ではすでに「私」というものは無い。 B:前には「渇愛」があったが、そのとき(=安らぎ)では「渇愛」はない。 ②「前には無かったが、そのときにはあった。」とは、 前には「智慧」は無く「無明」であったが、そのとき(=安らぎ)には「智慧」があった。 ③「前にも無かったし、のちにも無いであろう。また今も存在しない。」とは、 前にも「魂」は無かったし、のちにも「魂」はないであろう。また今も「魂」など存在しない。  という勝手な考察ですが、お坊さんの体験された内容をご伝授いただければ幸いです。よろしくお願いいたします。

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因果応報? 虐待される子供の責任か。

偶然にお話しした子供さんから大変ショッキングな事を聞きました。小さな頃から虐待され続けてきたそうで、その悲惨な状況の事をあるお寺の方に話した所、前世で悪行積んだからだ。因果応報だ。本人の責任だ。と言うようなお話しをされたようです。分かりやすくする為、端的に記載してます。実際はもっと柔らかな言い回しのようでしたが内容はそのままです。虐待に関しては沢山のご相談わたし受けておりますが、ある程度、乗り越えよう、乗り越えてきた、大人の方であっても、何の仏教の予備知識もない方に対して、そんなこと言ったら相当ななショックを受けると思います。それをまだ小さな子供さんに対して言うなんて! 透視させて頂いたら子供さんが言うその通り、こちらまで吐き気が止まらなくなるような、まだ赤ちゃんのような頃からの酷い虐待の姿が沢山とれました。それもまだ現在も続いていました。本当にガムシャラに頑張って頑張って、その子なりに今できる事を精一杯やって、ご両親に嫌われないよう怒られないよう必死に生き抜いています。そんな子供さんに対して仏教を学ばれた方がその様な事を言ってしまう。そんな事言われ子供さんは未来に希望持って生きていけると思うでしょうか?子供さんは、あまりのショックで、心臓が打ち抜かれたような精神状態になっており、未来、自殺へ向かうところまで視えてしまいました。相談所への誘導と出来る限りの修正いれましたが。精神的虐待、暴力的虐待、性的虐待、アルコール依存性や、精神疾患をもったご両親で家庭崩壊、荒れた家庭に生まれてきた子供さんは、仏教の観点からみるとそのような家庭に生まれてくる事自体が、本人の過去の因果関係が影響して本人の責任となるのでしょうか? 虐待受けてきた子供さんに対し、前世だの、ご先祖さまがどうだの本人の意識にもないような話をして、悪人かのように話すことに関して憤りを感じます。一度この件に関して質問したいと思っておりました。この様なご質問あった場合、仏教学ばれた方はどのようなお話しをされているのか様々な児童虐待死亡ニュースありますがそれをどう感じるのか、上記の話でなくても、虐待に関して色んな宗派の方からのご意見を伺えたらと思います。自身、霊能に関して批判非常に多く口閉ざして生きています。こちらの問題に関してどうしてもご意見伺いたく記載しております。ご批判はご遠慮頂けますと助かります。

有り難し有り難し 22
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「言葉」なしで見る

 個人的に仏道に勤しんでいます。凡夫の一考です。  お釈迦様は、思考して達成されたのでしょうか。それとも、言葉で表現できない「体験」で真実を感得されたのでしょうか。  特定の人しか「体験」できない事を伝えたのでしょうか。誰もが「体験」できること伝えたのでしょうか。  過去から現在まで数えきれない人が存在しました。もし、「言葉」を使い、思考するだけで達成できるのなら、ほとんどの人が達成できないわけがありません。日々だれもが思考におぼれるほど思考にお世話になっています。思考によって達成することが正しければ、お釈迦様の達成された過程を「知識」として教われば、だれもが達成できるはずです。  「教外別伝」「不立文字」と言われるように教えはすべて「体験」してもらうための方便だと思います。「知識」と「体験」はまったく異なります。思考して導き出された答には千差万別があり、どれが正解なのかは個人にゆだねられています。一つしかない「真実」にいくつもの答えがあるはずがありません。思考して達成できないことは我々が身を持って実証しています。  静寂とは思考する必要のない状態であり、あるがままを感受して分別を持ち出す必要のない状態、問題がつくられない状態であると推察できます。  そもそもあらゆる対象は「言葉」による「名前」などついていません。「名前」をつけることによって自分と切り離され差別・区別・区分する対象となります。一切は「それ」や「これ」でしかありません。  「名前」をつければ個としての存在を認め個として識別可能なものになります。認識対象となれば、所有の対象としたり、得失や好き嫌いの対象となり、苦しみの種となるだけです。  「真理」という言葉は「真理」ではありません。「真理」という言葉を見たり聞いたり読んだりしても真理を理解することは無理だと思います。  我々の素は、「言葉」など持っていません。だれもが素になることができます。「言葉」を離れた真実と共にあります。

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全体と一体となる具体的な修行を教えていただければ幸いです。

 お坊さんにおかれましては、一年で一番お忙しい時に恐縮です。いつも具体的で親身な回答ありがとうございます。アドバイスよろしくお願いいたします。  宇宙は「無」から生じたという物理理論があります。宇宙の一切も遡れば所詮は「無」でしかない。  宇宙の一部である我々も「無」ではないでしょうか。 地球においても、創成期から多様な生物が存在していない。単純な単細胞生物から、多様な生物が進化したようです。地球の生命の源を辿れば、一つに繋がっている。気の遠くなるような年月を経て、生存競争を生き抜いた最強の遺伝子を携えた生命が今ここに生きています。  今の我々が、より恵まれたいとかより充実して生きていたいと個々に願うことは、遺伝的な本能から湧き上がる自然の衝動のように思われます。あらゆる生命の刹那の反応は、あらかじめ生命にインプットされた生存欲による自動的なものであると思われます。  我々人間は、生命として生きるために我に固執する「小さき心」が休むことなく働いていることに気づかされます。  「無」から生じた宇宙の一切は無限に広がり、「本来の心」も無限であり穢れのないものと思われます。我欲に縛られた「小さな心」は自由で無限である「本来の心」の一つの現れであると思われます。  「小さき心」が幻であると気づくか、「本来の心」と一体になれば、今まで対峙していた「対象」と「我」という二元の境は無くなると思います。個ということをあまりに重視した生命の本能から脱し、分離など無いとの気づきが訪れるのではないかと思います。  各宗派によって異なると思いますが、全体と一体になるような具体的な修行を教えてください。

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般若心経とキーマカレー

いつもお世話になっております。 ここのところ、仕事の関係で4時半起きが続いています。 窓を開け放ち、心地よい朝の風を感じ、薄暗い朝が明けてゆく風景。 お日様が上ったら手を合わすととても気持ちがいいです。 毎朝、雀にパンや米粒をあげていたら、網戸を開ける音で分かるのか、どこからか数羽やってきて、チュンチュンと催促をするのが何とも可愛らしくて。 仕事に行く前に最低限のニュースだけ観てゴシップ系が始まったらTVを消す。 あーだのこーだの余計な情報は要らないのです・・・。 毎日拝読しているhasuhohaお坊さま方のご回答と、 繰り返し読んでいる一冊の禅宗老師の本が私の仏道の全てです。 こんな私も苦労はしています。いろいろあって給料は右から左。 でももう物欲もありません。すっきりとした感覚です。 一日一日、丁寧に過ごせて、ご飯食べれて、 みんなが安寧で過ごしていてくれたらそれで幸せです。 hasunohaの常連様方にも一喜一憂したり。 あー、帰ってきれくれた!(涙)とか。 でも、それはそれ。 このサイトに出逢わなかったら「人のしたことしなかったことを見ないで、自分がしたことしなかったことを見なさい」というお言葉を知らなかったかもしれません。 私にとっては、人生において非常に大きなお教え(教訓?)なのです。 さて本題ですが、この間キーマカレーを作っていたらトントントンという音に合わせて般若心経が何度も頭の中で流れてきました。 しんむーけーげーむーけーげーこー・・・この部分からばかりなのですが。 (何年か前までは普通にJ-POPが流れてましたが(笑)) 時々キッサコさんを聴いていた影響もあるのでしょうかね。 こんな時は流れに乗せて料理を作りながら唱えていたら良いのでしょうか?たぶん延々ですが・・・。 お盆前のお忙しい時節に、お気楽極まりない質問で大変恐縮です。 お手隙の時にお教えいただけると幸いです。 あ・・・仕事・体調不全・恋などに悩んでいる我が娘に、 「こだわりが過ぎると苦しみが大きくなるよ~」とメールしたら、「悪に対しては復讐しかない」と返事がきました。 囚われずに生きていければ少しは楽になるのになと思いながら娘の中にはまだまだマーラが住んでいるようです。 困ったものですが、流れにそってボチボチやっていきます。 (余談になっちゃいました。すみません。)

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お裁き

先日、最愛の母を真言宗で見送らせていただきました。 葬儀会館の方は『これからお母様は四十九日まで、家族で共に過ごされたお家や、ご自分の生まれ育った所、訪れた場所、数々の所縁のある場所を巡られます…』と、お話してくださいました。 四十九日までの、七日ごとの法要も辛さの中、こちらで皆様に教えて いただいたように個人の成仏の為にと出来る限り祈りお願いをしてまいりました。 そんな中、先日改めて四十九日までの『お裁』きにつて詳しく調べてみました。 その余りにも生々しく苦難の連続に思える道のりに、また故人への思いが溢れ出し、自責の念と共に今すぐ傍に行って助けてあげたいと思うようになりました。 そのように子供が後を追ってきたような親の魂は、更に惨い裁きを 受けてしまうのでしょうか? 稚拙かも知れませんが、このような裁きを受け苦難の四十九日の間に所縁の場所を巡るなど出来るのでしょうか? 『死』の時もあれだけ苦痛であったのに、『死後』もまたこのような 苦痛の連続だとは…あまりにも惨過ぎる気がいたします。 もうすぐ四十九日を迎えます…。 どのような気持ちで、どのような事を心掛ければ、少しでも故人の苦痛は和らぐのでしょうか?成仏させていただけるのでしょうか? 何度も同じような疑問をぶつけてしまっているかも知れませんが、どうかどなたかご教授お願いいたします。

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自灯明・法灯明の真意とは

 大乗経典はあたかもお釈迦様が直接に説いたかのように書かれた物語的なものが多くあるといわれています。お釈迦様以降に悟られた方が、仏教のすばらしさを広く一般の人まで広げることを目的にしたのでしょうか。  大乗経典には、きらびやかな極楽浄土や荘厳な仏国土、功徳のすばらしさなどなど珠玉の言葉で埋め尽くされているように感じます。  先輩が口をすっぱくしていうことには、「経典に書いてあるからといって、そのまま信じてはいけない。そもそも信じるとは「知らない」ということだ。20メートルの崖から「信じて」飛び降りる人はいない。飛び降りて死ぬということは判り切っているから「信じる」必要がない。「信じる」というのは「知らない・体験がない」ということに他ならない。仏道は「体験」してなんぼのものだ。言葉はすべて方便であり、言葉では表現できない実体験で確認するものだ。坐禅和讃の最後にある「当所即ち蓮華国 此身即ち仏なり」を体験しなさいということでした。死んでから極楽浄土へ行くのではなく「今ここ」で体験する。因縁によって生まれてきた意味は、体験することだ。」ということでした。 「自灯明・法灯明」の真意は、修行を先行させ法によって確認せよということでしょうか? 体験できるかどうかもあやふやな修行よりも、お念仏によって西方浄土で修行したほうが効率的ではないでしょうか?

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