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hasunoha 問答検索結果 : 「 不公平 」
検索結果: 248件

悟りが得られないです

執着も捨てましたし、友人も恋人も物も殆ど捨てました。 生きていて色んなことを学んでもこちらで質問しても納得する回答は得られず日々悶々としています。 まず命への執着を手放す以外に残るものは今ありません。 しかし苦しみは消えません。 嫌な毎日です、それすら執着を手放しても苦しいままです。 1秒を我慢し続ければ耐えられると此方のサイトで言われましたが耐え続ける人生に何の安寧があるのでしょうか。 嫌な事も受け入れて、執着を捨て、全てを捨てて、あとは自分で死ぬだけです。 その死なない間にも嫌な事が沢山あります。 こんなに受け入れて、何も動じず、ただあるがままの苦しみを受け入れてるのにまだ苦しいです。もはや悟りなんてないのでは??? 例えるなら親を目の前で殺されて、まっいっかというレベルで執着を捨てていても苦しいままです。 誰か助けてほしいです。 悟りなんてないんじゃない? 私は科学ガチ勢だけど、死んだら解脱とかも無理じゃない? ただただ生まれつき運が悪いか、良いかの違いなんじゃない。 知的な障がいが脳にあればそもそも解脱する事は不可能です、それと同じで生まれつきの知能が低ければ高度な思考すらできません。 世の中運が良ければこの世界に満足して死ぬわけです。 つまり解脱も悟りもなくて、この世界で運が悪かった人が負け惜しみでそういう概念を思いついただけじゃね? ああ人生って意味不明すぎる。 このまま色んな人に説教されるか、曖昧な表現で反論されてこのまま人生続いていくんだろうな。。そしてその曖昧な表現の人たちもそのまま何の答えも得られず死んでいくんだろうな。

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幸福は不平等なのにその後も生きる意味は?

人生における幸福の量、ある一定の幸福を得るための努力の量、「幸福である」と感じられる幸福の度合いは不平等で、しかも、生まれつき決まっているようなものですよね? だったら、生きていく意味ってなんなのでしょうか? 発展途上国でその日暮らしをしている人たちからすれば、どんなに貧相な食事であっても、一日三食食べられれば途方もない幸せなのに、多くの日本人からすれば、一日三食貧相な食事、というのは不幸な部類だったりしますよね。 金持ちの家系に生まれてくれば、極端な話、親のお金で働かなくても食っていけますが、その一方で、どんなに働いても成り上がれずに貧乏人のまま一生を終える人はたくさんいます。 超進学校では地方の国公立大学に行く人は負け組扱いされて、その一方で地方の国公立大学に行きたくても行けない人が山ほどいます。 容姿端麗でスポーツ万能で成績優秀な人もいれば不細工で運動音痴でアホな人もいます。 後者がとんでもない努力を積んでも、前者と同じくらいの幸せや願望を得られる可能性は途方もなく低いです。生まれつきその人の疾患等はゲノム解析で概ねわかりますし、能力や容姿も同じですよね。知能も筋力も大きく遺伝します。 他人は簡単に努力すればいい、死ぬほどの努力をしない奴がごちゃごちゃぬかすな、などといいますが、自分が相当な努力をしなければ得られない幸福をほとんど何の苦労もなく手に入れていく人間がいるという事実は確かですよね。 努力すればいい、というのは努力が報われる勝者の論理に近いと思います。 世の中には努力が報われない人間は山ほどいる。 それとも、報われなかった努力は努力ではない、とでもいうのでしょうか? 「身の丈に合った幸せ」、などと言いますが、人が皆、生まれながらにして押し付けられた「身の丈に合った幸せ」のレベルに合わせて生きていかなければならないのであれば、そのレベルが低かった人間が、そのことに気づいた後も生きていく意味ってなんなのですか? ある意味人生自体が一種の敗戦処理みたいなものになるわけですよね? 生まれながらに押し付けられた、華やかな人生を送る人たちに比べれば遥かにちんけな「身の丈に合った幸せ」を必死にありがたがって生きていく人生なんて、惨めなものでしかないと思うのですが意見を聞かせてください。 因みに幸福は考え方次第とかいう詭弁が非論理的でとても嫌いです。

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悪いやつらが幸せに生き残る時代

長文で失礼します。生きて行くなかでどうしても納得ができないことがあります。 ある大型衣料店でのこと。週末はこのお店は混雑します。 車で久しぶりに行く事になりました。駐車場は相変わらず混んでいました。 すると、大きな外車を改造したような、いかにもって感じの車が割り込み、しかもお店の目の前の障害者優先駐車場にどうどうと停めました。中からでてきたのは前頭葉が未発達の頭の悪そうな金髪ジャージ家族で子どもも金髪。タバコもその場でポイ捨て。 私たちはその後にやっと駐車でき、お店に入る事ができたのですが、障害者マークをつけた車が来て、停めれるはずの場所に大きな改造外車がどうどうと停まっているため駐車できずにいたのがなんとも心苦しく、私が駐車したばかりの場所を譲ろうとも考えましたが、お店の入り口からは遠い上に、他にも車が並んでいたので、それが困難であきらめました。私は罪悪で押しつぶされそうになりました。 なんだかんだでお店で買うものを選び、レジでならんでいたところ、例の先ほどの金髪家族がレジをしていました。すると、そのお店でキャンペーンをやっていたらしく、滅多に当たりもでないようなレジのくじに大当たりし、商品券が当たりとても喜んでいました。そうして、先ほどの障害者用にとめた車に乗って大音量の音楽で他を蹴散らし帰って行きました。 彼らには誰が罰を与えるのでしょうか。彼らは自分での罪悪も感じず、その行いすら気づきません。他人に優しくするような人は罪悪の判断ができるので、それだけ心苦しくなり、罪の意識も感じますが、彼らはそうではない。なぜならそれにすら気づかないのだから。 この一例に限らず、世の中はそういうところだと思っています。常に回りを考え道徳、譲ろうとするこころを持っている人には罰もくだり、その常識もなにもない人には罪悪もないので平気で悪い事をしても本人はしらない、もしくは他人よりもそれにより優越を感じているくらなので、幸せで仕方がない。で本人にはいいことばかり。 これが世の中でしょうか? 

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