今晩は、質問させていただきます。 仏教には悪因悪果、善因善果とありますが 世の中には嘘で人を陥れ、貧しい者から富を搾取し、 人種、民族を差別し、暴力を行い、戦争を扇動し なんの生活に影響なく生きている人たちがいます。 彼、彼女らはむしろこの世では成功者、勝利者といわれているようです。 (無論、仏教でいう成功、勝利者はそんなものではないということは承知しています) しかしそのような人々が現世で行っている数々の悪行為が何の報いもないということは甚だ疑問です。 それはつまり自らが行ったかもしれぬ過去世の善業によって現世の悪からある意味その人は守られているのでしょうか? また、その逆も然りであり善行を励む人が無残な結末に遭うことも珍しくありません。 それも過去世の善業が切れてしまった証拠なのでしょうか? いかんともしがたい不公平が生まれるのも業によるものでしょうか? 私は悪因悪果、善因善果について誤解をしている可能性があります。 それについて詳しく教えてください。 とりとめない乱文申し訳ありません。 よろしくお願いいたします。
ネットで宗教の議論をしました。 議論の相手は、頭を丸めていて、仏教系の大学にいたと自称し、自分が僧侶であることをほのめかしていたのですが、本当は違うらしくよくわかりません。 最初は、その人は別の方と白熱した議論をしていて、その僧侶風の人が間違った情報を述べていたので、責めるつもりもなく単純に指摘しました。 その後僕とその人で議論になりましたが、最終的に罵倒合戦になってしまいました。その人には「馬鹿しか生まれてこないと分かっているのにお前を産んだ親は間違っている」とまで言われました。しかし僕も相手の挑発に乗り無礼な言葉を使ってしまったので反省しております。 僕以外にもその人に暴言を吐かれた人が複数いて、その中の一人にこの人間と話していてもいいことはないからやめよう、そしてあなたの考えを僕は支持する、ということを述べお互い意気投合しもう議論を放り出しました。 しかし、後日その僧侶風の人との議論を読み返すと、相手の発言が事実と違うものでした。個人の見解を述べるものではなく、情報、知識レベルの議論だったので相手が間違っていると確信しました。しかもその人間の発言自体が矛盾しており、故意にデタラメを言っているとすら思いました。相手は議論より勝ち負けにこだわっていると発言しており、自分としては嘘までつかれて悲しいです。 議論は全く納得に値せず、無力感や自己嫌悪を覚えました。 宗教的立場を自称する人間にかなり厳しい発言をされたことは僕にとって衝撃的な体験となりました。 それ以来この出来事を忘れようとしているのに度々フラッシュバックしてしまいます。その原因はきっと、自尊心を傷つけられたことにあると思います。 また宗教にたいして、怖いという印象をもつようになってしまいました。これはどうしてなのかわかりません。きっと自分はかなり混乱しているんだと思います。 とても苦しいです。どうしたら宗教に対する嫌悪感を払拭し、フラッシュバックしないようになるでしょうか。 トラウマのようなものに対して、これ以外にも困惑するようなことがあります。 どうしたら精神的な安定が得られるでしょうか。 よろしくお願いします。
この数十年、お坊さんが身近になりすぎて、低俗な存在になったように思います。 テレビ番組や新聞で、「お坊さんが好きな焼き肉のメニュー」、「お坊さんも出会い系サイトを利用したり、身分を隠してキャバクラで遊ぶ」、「強姦や暴行で僧侶の男が逮捕される」等をよく見るようになりました。 この現状について、どう思われますか?
前回の質問時に生じた質問です。 もう何年前のことだか正確に覚えていませんが・・・ある日のこと、前途ある若き僧侶が殺害されました。夜間、路上で危険行為をしていた青少年らを注意したところ、逆上した彼らに暴行され、その末に息を引き取ったそうです。 当時、この報道を偶然テレビで観ていた私はとてもショックを受けました。僧侶という特殊な立場の人が犠牲になったことや、私個人のそれまでの想いや経験とも重なったのでしょう。暫く、忘れられませんでした。けれども、年を経るごとに少しずつ忘れ、思い出すこともなくなりました。しかし、数年前にお坊さんが書いたあるエッセイを読んだ時、一気に思い出したのです。 そこには偶然にも、あの事件のことが書かれていました。もちろん、実名などの記載はありませんでしたが、私はフラッシュバックのように、当時、テレビに映し出されていた事件現場を思い出しました。どこにでもありそうな人気もまばらな夜間の風景、暗い夜道と街頭、街頭に照らされた白いガードレール、記事を読む女性アナウンサーの声。 筆者と被害者の男性は、修行道場で先輩・後輩の関係で、男性は修行を終えて実家のお寺に帰った後に急死。彼の父親であり、師匠でもある住職は、葬儀の挨拶の中で、こう述べたそうです。 「それでも、許さないといけないのでしょうかね・・・」 仏教の教えでも、何であっても、人は皆平等で、言動には大なり小なり理由があります。加害者となった青少年らにも、殺意があったかどうかはともかく、腹立ち紛れに暴力をふるった原因や理由がそれぞれあるでしょう。しかし、だからと言って許せるかどうかは、また別の話。けれど、許すか諦めるかしなければ、生きている限り、苦しみ続けなければならない。また、こういったことが二度と起こらないように、暴力事件の被害者の方々が活動しておられますが、その活動は別として、果たして、彼らに救いはあったのでしょうか。 「許す」って何なんでしょう。諦めたら救われるのか・・・ただ、どうしようもない「ままならぬのが人の世だ」と分かっただけではないのか・・・「救い」って一体、何なのでしょうか。
初めまして 元々、顔も頭も性格も悪いのであまり人に近づかないで学生時代を過ごしておりました。 就活やバイトで、まともに他人と話さざるを得なくなりましたが、他人が怖くて話せません。 今のバイトは接客ですが、笑顔が固い、雑談にも加わわらないから仲良くしたくても取りつく島が無いとバイト先で言われました。 正直、仕事以外で他人と話すのも親しくするのも大嫌いです。 しかしそれは治した方がいいと言われ、相談に上がりました。 何卒宜しくお願い致します。
以下、上品な話ではありません。 性行為を目的とした「セックスフレンド」や不倫(愛人関係)。私や私の友達の数人は、そういう関係を経験しています。 私は、愛人からは貰う物は少しは貰ったから、「玩具になってあげた」過去にも割り切れます。 けれど、世の中には「ケチな男」がいて、彼らは甘美な言葉で女性を騙すのです。(結婚相談所で独身と偽ったり免許証を偽装するなど、あらゆる手段をとって何とかセックスに持ち込もうとする)そして、何の対価も支払わずにSEXをしようとする。 私にはセフレがいましたが、たまに後悔するんです。「無料の風俗嬢みたいな事をやるより、もっと上手く搾取すれば良かった」と。不倫をしていた友達も「既婚者に無料で相手になるより、お金を貰えばよかった」と話しています。 男は高価な風俗店に行かず、何の責任も負わずに射精をすれば「ラッキー」で済みますが、女性は妊娠のリスクがあります。そして大多数の女は抱かれると男に情が湧くという面倒事も抱えているのです。 そこに愛などはない刹那的な関係において、貰える物は貰う事こそが、くだらない過去を「割り切る」事に必要なのではないかと思うのです。 かつて私に愛人がいた時、ある人に「そいつが金を払うだけマシだ」と言われた理由が最近やっと分かりました。愛人と同じく刹那的な関係にあるセックスフレンドは、女性からすれば「損」だと思うのです。 日本には「売春防止法」がありますが、善良な大人がどう騒いだって、現実には売春も不倫もあるのが世ですし、これからもそれは消えないと私は思います。 また、売春防止法は「売春が人としての尊厳を害し、性道徳に反し、社会の善良の風俗をみだすものである」ことが基本的視点らしいですが、私からすれば、「何言ってるの?売春だから人としての尊厳を害すんじゃなくて、お金も含めて得るものがなかった時に尊厳が失われるんじゃない」と思います。 刹那的な男女関係を割り切るために、対価(金銭など)を得ることが、なぜ駄目なのですか?
なぜ、罪のない人間がひどい虐待を受けたり、見ず知らずの通り魔に刺されたり、災害に巻き込まれて亡くなったりしなくてはならないのでしょうか? 自らの努力ではどうにもならない苦境時にこそ、救うべき立場にあると思うのですが。 ですから、神や仏を信ずることができません。
無理心中したら一緒に死んだ相手と一緒にいれますか? 一緒にいれない場合はその相手はどこに行って私はどこにいくのでしょうか。 死後の世界を教えてください。
戦国時代の大河ドラマをみていました。 織田信長が比叡山を焼き討ちにした後、信長の奥さんがお坊さんをたくさん殺すなんてとんでもないと信長を激しく非難します。 しかし、信長は「比叡山の僧は酒をくらい女を抱き、夜盗のような暮らしをしている。あんなものは僧ではない」といいます。 だからと言って殺していいわけではないと思うのですが、確かにお坊さんなのに武器を持って武士を殺し、仏を敬わず酒色におぼれる。 お寺に住んでいるけれど、戒律を守らずに略奪ばかりしている。 とてもお坊さんと呼べるような人たちではありません。 もちろん時代劇ですので、面白いように脚色しているのはわかります。 しかし、現代でもお坊さんなのに悪いことをする人もいるし、権力闘争で世間を賑わす人たちもいます。 一度仏門に入ってしまえば、悪いことをした後でもお坊さんとしていられるのでしょうか。 お坊さんも僕らと同じ人間なので、誘惑に負けたり間違った判断をすることがあると思います。お坊さんが悪いことをするとどうなるのですか?悪いことをして死後地獄におちた場合、お坊さんだと仏様に近い生活をした分だけ罪が軽くなるのでしょうか?
こんにちは。先日は私の拙い質問にご回答頂き、誠にありがとうございました。また、こちらで何度もご質問させて頂いておりますが、その度毎に丁寧なご回答を頂いておりまして、大変感謝しております。本日は、多少突っ込んだ質問になってしまいますが、自分の中でどうしても整理がつかない点があり、それを質問できるような場が他にありませんでしたので、この場を借りて質問させて頂きたいと思います。どうぞよろしくお願いします。 こちらのサイトを拝見しておりますと、「霊は存在しない」と回答しておられるお坊さまが何人かいらっしゃいます。お坊さまの中でも意見が分かれる問題なのだと思いますが、私は霊魂の存在を信じており、また輪廻転生もあるのではないかと考えております。霊魂の存在を否定されるお坊さまは、霊感商法やカルト教団への対応など、現実的な対策の観点から、またお坊さま個人の世界認識から、そのような発言をされているのだと思います。しかし、素人の私から見ると「悟り」や「阿弥陀仏の救い」を前提としてお話をされているお坊さまが、「霊魂」の存在を否定されることが、どうしても理解できないのです。 素人の私から見ると、「悟り」も「阿弥陀仏の救い」も、それが一体何であるのか分かりません。そのため、お坊さまが「悟り」や「阿弥陀仏の救い」をお話されることは、「霊魂」や「輪廻転生」のお話をされることと同じくらい荒唐無稽なもののように感じてしまうのです。唯物論者の方が霊魂の存在を否定されるのは理解できるのですが、お坊さまが否定されることは、私にはどうしても理解できません。霊魂の存在については、「分からない」とおっしゃることが最も妥当なのではないでしょうか。 実際に、現代には様々な宗教がありますが「霊魂」や「輪廻転生」の存在などを説いている宗教も数多くあります。もし、お坊さまが霊魂は存在しないと考えておられるのであれば、それらの宗教についてはどう理解されているのでしょうか。 このような突っ込んだ質問をして、誠に申し訳ありませんが、霊魂を否定されるお坊さまのお考えをどうしても伺いたいと思いました。ご回答頂ければ幸いです。どうぞよろしくお願いします。