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hasunoha 問答検索結果 : 「自分 苦しみ 」
検索結果: 8653件

彼氏との今後について

現在1年半以上付き合っている彼氏との今後について相談したいです。 私は今年で24歳になり、結婚するなら25までにはしたいと考えております。若いうちの方が子育てが楽だろうと考えいるためです。 また、結婚するならいま住んでいる場所ではなく私の地元で生活をしたいと考えております。私自身が地元で育ち、環境が良いと感じたのと、子育てをするうえで親の支援が受けれる範囲がいいと思っているため、そして何より地元が好きだからです。 彼は私より8つ年上で、同じ会社に勤めています。 一時期結婚しようと誘いを受けましたが、その時私は結婚に不安しかなく返事が出来ずに結局流れてしまいました。 今彼に聞くと「あの時は気の迷いだった。そもそも結婚なんて気の迷いだ。」と言い、もう結婚なんて考えていないようです。 私が当時彼との結婚に不安を感じたのは、 ・彼と結婚するなら地元で暮らすことができない (彼が私の地元に行く気はない) ・彼と相性が悪いと感じることが多々ある (休日の過ごし方や、食の好み、衛生面など) ・私の幼稚な性格に彼が呆れることが多い (幼稚な性格を治そうとするが、治せず同じことで何度も注意される) ・結婚するなら式も指輪も彼は用意する気がない (私は思い出として式を挙げたい) のような点からです。 正直、私自身彼を信用してますし、尊敬できるところもあります。 一緒にいて全くストレスのたまらない相性100%の人なんていないとも考えています。 将来地元で生活したいと考えていますが、そんな考えがそもそも幼稚で諦めなくちゃいけないことなのかと思ってしまうこともあります。私自身いまいる場所から地元に帰っても仕事はどうする?ってなるのはわかっています。ですが一生いまの場所で生活するのも嫌だなって思うばかりです。 このような状態ですが、このまま付き合い続け彼と結婚できるよう努力すべきなのか、彼と別れて地元で一緒に生活できる相手を探すべきなのかと、迷っています。 ご回答いただけると助かります。 宜しくお願い致します。

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味覚障害で家族に当たり散らす夫

夫は1月から味覚障害で、ある特定の食べ物の味がしないそうです。点鼻薬や鼻スプレーの治療を受けてます。じわじわ良くなっていると、私は思います。 肉とか魚、パン、特定の野菜、パスタなどが味がしないそうです。 夫の味がわかる食材を作って、夫だけ別のメニューにしてます。 「お前らは、味が分かっていいな」とかイヤミを言ってきます。 食事時間をそらして、肉を食べていたら、ひょっこりやってきて、人の皿から横取りして食べたり。 肉食べたい気持ちはわかるのですが。味がしないと文句いい放題です。 病気のことなんで、病院に相談するべきなのでしょうが、食事作ったり、食材買いに行くのが嫌になってしまいました。 けっこう労力がかかることですし。 味がするというので「チョコレート」と「果物」をおやつ用に買ってきたら、一気に全部完食して、(夫は)食べ過ぎで舌が荒れたと文句。 (夫は)牛乳5リットルを1週間で消費したり、頭がおかしくなってきてます。ミロがぶ飲みとか、コーンフレークとかに使ったらしいです。 フードバンクなどに頼ってなんとか生活して、今日一日の食事も困っている人も沢山いるのに、夫はわがまま放題で、なんなんだと思ってしまいました。私は小さい時、すごく貧乏で、近所のおばさんにふかし芋貰った悲しい思い出があります。 ほとほと疲れました。もう、スーパーに食品の買い出しも、料理も作りたくありません。 私の食事は社員食堂で間に合わせます。 毎回つまらない相談で、すみません。 食材の買い出しも、料理も、我儘も、当たり散らされるのも疲れました。 荷物まとめて、どこか遠いところに行こうかとふと思いました。 会社勤めしているで、現実的には逃走は無理なんですが。 今日、会社の昼休みに急いで買い求めた葡萄のことで文句言われて、心が折れてしまいました。 もう、夫のために食べ物買うのも、メニュー作りもやめます。 なんのためにやってるんだか。アホらしくなりました。

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過去のぞんざいな扱いがトラウマです。

他人からぞんざいに扱われたことが忘れられず苦しいです。 私は子どもの時からおとなしい気質で、嫌味や悪口を言われても言い返したりはしませんでした。また要領が悪く、その割に成績だけはよかったので悪目立ちしました。 そんな性格だからかよく嫌がらせをされました。 みんなの前で露骨に仲間外れにされたりしました。 単に嫌われて距離を置かれた、とかではなく明らかに悪意を感じるやり口でした。面白がっていそうな子もいました。 暴力を振るわれたこともあります。思い返せばいじめとして訴えればよかったのにそれもできませんでした。 私に対してなら何を言ってもいいと思っていそうな人もいました。見た目の事をいじられたり、過去の失態を告げ口されたりしました。全く関りのない男子から、聞こえるように悪口を言われたことも何度もあります。 高校に入ってからは、わかりやすい嫌がらせはなくなり、仕草や発言を「かわいい」といじられましたが、ほめているのではなく小ばかにされている感じで、そういう人たちを敬遠してしまって仲のいい友達ができませんでした。 簡潔に言うと、要領が悪いためいじめられ、それがトラウマになって挙動不審・コミュ障を引き起こしさらにいじられるといった悪循環です。 本当につらいです。恥ずかしくて親にも相談できませんでした。 どうすればいいでしょうか。 過去に私に嫌がらせ、仲間外れにした人たちの顔と名前は全部覚えています。 一生忘れません。今でも少し気分が落ち込むと思い出します。 どうせその人たちは無神経なのでのうのうと生きていると思います。悔しいし見返してやりたいけれども、もう接点を持つことはないし向こうも都合の悪いことは全部忘れているでしょう。 私を侮辱して自尊心を満たしていたんだと思います。そんな人たちの踏み台にされたことをどうしても忘れられないし許せません。

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長女が家を出るのは親不孝ですか?

私は現在、地元で働いています。両親ともに健在です。 幼い頃より、「長女のお前が婿をとって家を守るべき」、「長女が家をでるのは今後一切縁を切るということだ」と言われて育ってきました。 しかし、この窮屈な生活が嫌で、地元から離れたい一心で県外の大学へ進学しました。 家を離れてもなお続くメールや電話での両親の過干渉ぶりに「親の言いなりになりたくない」「好きで長女になったわけではない」と反発心ばかりが大きくなりました。 そこからわけあって地元で社会人をスタートさせることになってしまいましたが、やりたい仕事をあきらめきれず、現職のまま転職活動をはじめました。運よくいいお返事ももらえそうです。 しかし、いざ転職が現実的になってくると、「長女なのに」という言葉が胸に引っ掛かり、「私はただの親不孝なのではないか?」と感じるようになってきました。 私は実家の近くに職場があり、転勤もない安定した公務員です。親を見るには最高の環境なのに、長女のくせに「東京で暮らしたい」、「好きな仕事がしたい」という憧れだけの理由でそれを手放そうとしているのが、親不孝に思えて仕方ありません。 また、次女が大学卒業で地元に帰ってくることになり、転職・上京に賛成してくれているのですが、面倒等のすべてを押し付けて逃げているようで申し訳ないのです。 もちろん親の面倒や、金銭面での援助はするつもりですし、遠くに住んでいても、親孝行はできる!と思う時もありますが、年老いてゆく両親を想像すると、胸が苦しくなります。特に母親は体も弱く、精神的にも病んでしまいやすい部分があります。父親も頑固で俺様気質なので、母親がすごく苦労してきたのも見ていました。 ここまで育ててもらったくせに、親不孝。 自分だけ楽しく生きようとしてるのは親不孝。 長女のくせに、親不孝。 毎日、自己実現と親孝行との間で悩んでいます。 両親にはまだ転職は怖くて言い出せていません。 なぜ自分の人生なのに、こんなにびくびくしなきゃいけないんだろう、と思いつつ、この悩みは私が親離れできていないだけなのでは?親を理由に甘えているだけなのでは?とも思います。 私は、どうやって自分の人生を考えていけばよいのでしょうか。

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父の死から立ちなおる事ができません

1月末、コロナウイルス感染症により父が亡くなりました。75歳でした。私の家族は子連れ同士の再婚家庭で、私は長年継母からの虐待に耐え、父からの辛い言葉にも耐えながら「きっといつかは分かり合える、家族なんだから」といつか父とまた家族として関われる事を心の拠り所に生きてきました。 大人になり結婚し、漸く人並みの幸せを得て、父と親子として再出発する為始めは実家にこまめに足を運んでいましたが、継母や義妹との関係は変わらず顔を見せても冷たい言葉をかけられるので精神的に参ってしまい、実家に姿を見せるのは年に一度程度になっていました。 年老いた父が私に会えずに寂しそうにしているのは分かっていましたが、長年の虐待や孤立により「私は必要のない人間」という感覚が無意識下で刻み込まれていた為、猜疑心に苛まれていた為に父の寂しそうな顔も無意識に疑う状態になっていましたが、長年の溝を埋める為にもまず父と2人でゆっくり話せる時間を作ろうと模索している最中でのコロナ感染でした。 父の最後はLINE電話で義妹が看取り、喪主も継母の意向で義妹が務め、最後の最後まで私は蚊帳の外のまま、父に会えないまま私は一般席でひっそりと父を見送りましたが、父の死後に自分の中に刻まれていた「私は必要ない」という考えの癖が邪魔をして、父の想いが届かなくなっていた事に気づき、父にとてつもない寂しい思いをさせたまま、父の為に何ひとつできなかった事に苦しんでいます。 どんなに孤独で辛くても、父と分かり合える未来に希望を持ち強く生きてきましたが、寂しそうにしていた父の顔や「お前と話したい」と最後の電話で言っていた父の言葉が頭をよぎり、ここにきて心が折れかけています。笑う事も、幸せを感じる事も、拒む自分がいます。 寂しがり屋な癖に頑固で、どこか弱くて、支えてあげたいと思える、私にとってかけがえのない大事な父でした。 元はお母さん子だった私が父について行く事を選んだのは、家族と離れ1人ぼっちになる父を守ってあげたいと子供ながらに思ったからでした。 でも、私は父の為に結局何もしてあげられませんでした。寂しそうにしていた父の顔があまりに辛く毎日泣き暮らして、後を追いたいと考えてしまいます。 父に会いたい、会って話がしたいです、こんな気持ちを抱えて生きていく自信がありません。

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