人生嫌なことがありすぎて、少しの幸福も不幸で塗り潰されてしまいます。 嫌なことがありすぎて、少しでも嫌な気分にならないように、最近はめっきり感情が薄くなってしまいました。 ほとんどのことに何も感じず、あるのは悲しみとか怒りくらいです。 人生、何で嫌なことばかり起こるのでしょうか? 神様からの試練?こんなに心が死にかけながら乗り越えるものってなんですか? なんだか、ベランダから飛び降りたくなってきました。
お忙しいところ閲覧してくださり、ありがとうございます。 常日頃から不思議に思うことがあります。 現代でも崇められている、お釈迦さま、空海さま、キリストさま… のような存在は、現代では新規に現れることはないのでしょうか? 例えば空海さまは、1000年以上も21日に「お大師さまの日」として 民間でも催しが行われたりしますよね。 平成生まれの方だと馴染みが薄れてきているのかも知れませんが、 30代後半の私の祖父母や親の年代の方を見ていると、 まだまだ大衆的に馴染みがあるのかな、と思います。 そのように、一般的にも認知度が高く偉大な存在が、 明治、大正、昭和、平成の世に現れていない?ような気がします。 (無知なだけでしたら申し訳ありません。) ・現代では一般人の信仰心や目に見えないものを 信じる心?が失われてしまったため、現れなくなったのか? ・決め打ち(摂理や何某かの力により)なのでもう現れることはない? ・たまたまここ数百年現れていないだけ? などと考えを巡らせています。 長文失礼いたしました。 また、もし失礼にあたる質問でしたら申し訳ありません。。
30歳を過ぎだ頃から体調不良が続いています。一つの病気がようやく治ったと思ったら、また別の病気が発覚します。 どれも日常生活に支障がある病気ですが見た目には健康なので周りの人達との関わりに悩む事もあるし、どうしても、そんなに悪い事をしてきた覚えはないのに何で次々に病気になってしまうのかなぁと落ち込みます。悪気のない励ましのつもりでしょうが、病は気から等の言葉をかけていただく事にも疲れました。 心が疲れた時に気持ちを切り替えられる良い方法はないかと相談しました。
4回目の質問になります。 原因不明の病で入退院を繰り返していましたが、確定診断がつきました。症例の少ない難病で治る事はないそうです。 頼れる身内はいません。市役所では生活保護を強く勧められました。 働く事も出来ず、生活保護を受け、社会参加も困難。 薬を飲んで、ただ息をしているだけ。 まだ40代です。 先は長いでしょう。 治らないけれど死ぬ事もない。 この生活を続ける事に何の意味があるのでしょう。 食事して寝て過ごす生活。 外出も困難。 生きる意味は何ですか? 「頑張って生きて下さい」と言われますが、生きていて何の意味があるのか分かりません。
お久しぶりに投稿させて頂きます。 今回も深刻な悩みはありませんので、悩みごとのご相談の皆様を 優先させて下さい。 仏教を修習している過程での、素朴な疑問です。 仏教の教えは、無常・無我・苦を説いて、死後の世界のことは 扱わず、今現在の事実のみを扱うものと思っていました。 とすれば、告別式に唱えられるお経は、故人に向かって説いても 意味がないように感じられます。 告別式に唱えられるお経は誰に向かって説いているのでしょうか。 会葬者へ向かってのお経? でしょうか? とすれば納得なのですが。 もう一つの疑問です。 般若心経の「色即是空」「空即是色」ですが、これを 文字通りに見ますと、「色即是空」は、 「色(物質)、即ち、これ、空なり」は理解できますが、 「空即是色」の「空(無常)、即ち、これ、色(物質)なり」 となってしまいます。 しかし、空は物質だけではなく、全てが空ではないでしょうか。
近年、量子力学等の学問での研究に目覚しい進歩が見られます。 量子力学や精神系分野で輪廻転生の研究の話題が盛り上がっています。 量子力学では遂に死後の世界について【量子もつれ】と呼ばれる現象で論文を発表したり輪廻転生の研究をしていらっしゃる学者さんもいますし少し前ですが精神系分野では著名なアメリカのジム・タッカー博士は輪廻転生をしたと思われる2500人の子供達に関して発表しました。 この子供達の実例を見る限り明らかに例えばAという死んだ人物とは関係ないBの少年又は少女がAの生前の記憶を持って生まれてきている事があるようです。 それでも脳の錯覚だとして懐疑的な学者さんが多い中、現在進行形でこの分野の研究は着実に前へと前進しています。 ちなみに、私は死後の世界も輪廻転生も存在すると考えています。 そこで、今回は輪廻転生についてお聞きしたいです。 お坊さんは輪廻転生とはどのようなものだとお考えなのでしょうか? 輪廻転生の仏教的解釈やお坊さん個人のお考えをお聞かせください。
こんにちは。 前回質問から、般若心経の「無無明・亦無無明尽・無老死・亦無老死尽」 の部分が、やはり気になってしまってるので質問させて頂きます。 この部分は十二縁起についての言及との事ですが、 十二縁起を乱暴ながら私なりに要約すると 根源的な無知(無明)→生存本能と外界知覚(行・識・名色・六処)→本能と分かち難く生じる煩悩(触・受・愛・取)→本能と煩悩で成り立つ生存(有)→生存する主体として「私」という想念が生じる(生)→「私」はいずれ死ぬ(老死) と、言う事でしょうか。 私の考えでは、この部分について般若心経は 「どんなに達観しても十二縁起の因果関係は断ち切り難い」 (「無」無明尽・「無」老死尽→否定としての「無」) けれども 「物事をありのままに見れば(空相にて照見すれば) 全てが、かけがえのない真実と分かる」 (「無」無明・「無」老死→空相、全体性としての「無」) と「無」と言う言葉が違った使われ方をしているように 思うのですが如何でしょうか? 字面通りに読めば「Aは無いけど、Aは尽き無い」と言う二律背反になり、 これでは意味の全く通らないナンセンス文章です。 この部分、般若心経を読む誰もが最初に「あれ?」と思う所ですが、 腑に落ちる説明をしている本がありません。(偉そうに言える程、 本は読んでないですが) 中には「十二縁起なんて形式にこだわるのは小乗仏教だ。 般若心経は大乗仏教だからそんなものに拘らない」 とバッサリ斬っている書籍もあります。 そんな単純なものでもないと思うのですが・・・ 解釈は色々あるかもしれませんが、お考えをお教え頂ければ幸いです。 何だかマニアックな質問になってしまいすいません。
母の初盆を迎えます。 葬儀屋さんの紹介のお寺のお坊様に四十九日もお経をあげていただき、そしてお盆のお参りのお知らせというハガキが来ました。日と時間が指定されてきました。実は十数年前に父が他界した時と同じ ご住職で、葬式以来、7日ごとに来ていただいていましたが、ある日、二日酔いで来られ、お経をはしょって読んだり 明らかに二日酔い状態でした。 母がもうこんなんなら、お断りしようということで、それ以来、家族で般若心経をお盆や命日にあげるくらいでした。やはり素人が唱えるのと、お坊様にあげて頂くのは違うとは思いますが、そのお坊様に来て頂く方が良いのでしょうか? 実は私の仕事の関係の方と同級生らしく、仏教や仏様の話は一切なさらず、その方の話をされ帰られます。お墓は香川県にあり、こちらは兵庫県なので、香川県から来て頂くこともできず、父の場合は初盆もお坊様には来て頂きませんでした。それでもやはり初盆で、そのお坊様にお経をあげていただいたほうがよろしいですか?
以前愛猫が立て続けに亡くなって思いの丈をhasunohaにぶつけさせていただきました。 心救われるような回答もいただきましたが、心を抉るような回答もいただきました。 私が悼むという意味を知らないから、あの子達は化け猫の類になってしまうとか、 猫は畜生で知能が低いから事故に会いやすいのだとか。 私のせいで、あの子達は化け猫にまで堕ちてしまうのでしょうか。 あの子達の命は畜生だと軽んじられてしまうのでしょうか。 私のせいで、私のせいで、私のせいで。 私のせいであの子達は化け猫になってしまう。 猫に産まれたばかりに畜生だと軽んじられてしまう。 とても悲しいです。悔しいです。虚しいです。 釈尊は全ての生き物は幸せであれと説かれたのに。 仏様、優しかったあの子達を化け猫などにしないでください。どうかお救いください。私の全ての幸福と引き換えでも構いません。 全ては私が悪いのです。私が愚かなばかりに、あの子達を物の怪の類になどしないでください。 どうかお救いください。どうか。どうか。 仏様、どうかあの子達が畜生だからとお見捨てにならないでください。どうかあの子達を極楽にお導きください。それだけが私の願いです。どうかお導きください。お見捨てにならないでください。 しかしどれだけ祈っても私の耳には仏様のお声は聞こえません。 こんな事を考える時は涙が止まりません。
娘を亡くしました カルマと言う言葉がありますが 娘も私も前世で罪を犯して こんな思いを現世でしているのでしょうか もし来世があるのなら、同じ事を繰り返しになるのでしょうか ならもう生まれ変わりたくないと願います 私はともかく娘は本当に悪いことをした事がない人間でした なぜこんな目にあったのでしょうか
こんにちは。いつもお世話になっております。 ゆうりです。 教員採用試験の面接対策も始まり、日々あれこれと追われて、てんてこ舞いな毎日を送っております。 その面接対策で、「いじめ」について考える機会がありました。 私は、そういうのを引きつけやすい体質なのか分かりませんが、以前スケープゴートTの話を相談させて頂いた通り、それに関することについてよく遭遇してしまいます。 いじめの原因はそれぞれです。 ・むかついたから。ストレス発散のために、弱者をしばいた。 →喧嘩っ早いのは、困りものです。 ・自分を高めるより、人を蹴落とす方が楽だと気付いたとき、「お前勉強しても(努力)無駄だよ(笑)」 →成績の良くない私の、実体験です。進学校に多く見られる気がします。また、これを皮切りにスケープゴートが発生することも少なくないような気がします。学習障害がある生徒については、これに一番気を付けるべきでしょう。 いじめを無くすのは不可能。 これは、学校は社会の縮図であるからでしょうか? 誰が、作った言葉でありましょうか? 難しいこととは、確かに思いますが、それに白旗を揚げる大人(先生)が世の中に多過ぎるのではないかと思います。 先生としていじめの場に遭遇した時、その場に応じた(正攻法みたいな)対応は確かにございます。ですが、いじめは増える一方です。 いじめを無くす為の正攻法でいじめがなくならないのは、これには、なにかが足りないからだと思います。 いじめを無くすのは難しいのは言うまでもありません。それは、私たちが人間だからです。 いじめを撲滅する。 その為に心はどうあるべきか。単に教育上の単純作業の正攻法ではなく、人の上に立つ、人をつくる職に就く者としてその心はどうあるべきか?身の振り方はどうあるべきか? 質問させてください。 お手数をおかけしますが、宜しくお願いします。
まとまりがないかも知れませんが、ひらすら正直に書かせていただきますので、なにとぞ助言お願いします。 数年前から流産を繰り返し、不妊治療もがんばりましたが結局流産の回数を増やしただけに終わり、子供を授かることはできませんでした。 最初は妊娠した赤ちゃんを失ったことが悲しくて悲しくて、思い出しては泣いていました。 子供を授からないというのは将来 (像) の喪失でもあります。不妊治療に専念するため仕事もやめてしまったため、キャリアも手放してしまいました。高額な不妊治療のため貯金も減ってしまいました。母親にもなれず、仕事も中途半端で、将来の希望もなく、結局私は何にもなれなかったんだなあと思うと涙が出てきます。 その一方で奇跡が起きないかとほんの少しの希望にすがっています。でもこのほんの少しの希望のせいで、すっぱりあきらめて先に進むこともできません。 特につらいのは、家族イベントです。義兄弟が子供を連れて主人の実家に集まるときは、本当に身の置き所がありません。幸せな家族たち、祖父母に可愛がられる甥姪たち、幼稚園のお遊戯を披露、どれも平静な気持ちで見ることができません。特に私が妊娠したのと同じころに生まれてきた姪の成長を見るのは拷問です。なぜ私たちの赤ちゃんだけ生まれて来なかったのでしょう? 主人は私がいればいいと言ってはくれますが、やはりとても子供が欲しかったのを分かっているのでそれもつらいのです。 「幸せはこちらの心のもちよう」「夫婦二人の人生も幸せ」「子供がいたって不幸な人もいる」ぜーんぶ分かります。 でもそんなふうに思えません!だってつらいんです。可愛い甥や姪を見ると心が勝手に苦しがるんです。 私の人生を取り戻したい。心の平安を取り戻したい。前のように他の人の幸せも願えるようになりたい(今はみんな不幸になって欲しいとすら思います)。私はどうすればいいのでしょうか、どうか教えてください。
人間関係に悩んで、疲れました。 私は自分がされて嫌なことは人にしたくないので していないつもりです。 でも大事な人を傷つけてしまいます。 意識的にも無意識でも。 中学高校とずっといじめられっこでした。 仲のいい友達はいるけれど 必ず誰かに無視とか悪口とかがありました。 いまのままじゃだめだって何度もやり直して がんばってもいきつく先は、いつも孤独です。 私はなにか悪いことをしたのでしょうか ただ毎日を幸せに過ごしたいだけなのに。
まず、煩悩を極力減らしていくこと、苦を滅することが仏教のお教えですか? だとすると、「人」である限り煩悩や苦しみを完全に滅することは不可能であります。 何故なら、自分と他人、自分と世界は分かれたものであるという分離感こそが個人の正体だからです。 個人=分離した存在、なので苦しみは必ず存在します。 (本当は分離していないので、見かけ上の苦しみですが) では仏教のお教えのゴールとしては「人でなくなること」なんでしょうか。。
アイドル育成ソーシャルゲームにはまって数年が経ちました。 そして某ゲームでつい最近、自分の推しアイドルがいわゆるガチャに登場したのですが、いくら金を積めどもガチャからそのアイドルをスカウト出来ませんでした。 正直そのゲームを引退したいくらい辛いのですがまだ煩悩とわずかな希望を持ってガチャを回し続けてます。ムキになってるというのは分かるのです。もう回したくないのですがどうやって辞めるべきですか?ありがたい一言を聞きたいです。 あと煩悩を捨てきった時に彼はガチャから出てきてくれますか?
各宗派の違いはあれど 仏教は釈迦の教えから発していると思いますが 端的にいってその教えの心髄、核心、エッセンスとは何でしょうか? 多くの宗派のお坊さんからご回答を頂けるとありがたく存じます。 なお恐れ入りますが、 仏教学的な、学べば分かるようなものは期待しません。
仏教における幸せとはなんでしょうか? 修行を積んで悟りを得ること? 煩悩を滅し苦しみから解放されること? 私にはよく分かりません。
すいません。後から気づいたのですが2回同じ質問してしまってました。 こっちが本当です。 私の学校は仏教の学校です。 学校でのお坊さんの教えでは生きてるうちに良い行いをすれば極楽浄土へ行けるといったものでした。 私はそれを信じて今までちょっとした発言や行いで人を傷つけてしまったことを悔いてそのことを今一度悔いて謝ろうとも思っていましたし、少しでも人のためになるような良い行いをしていこうと心がけどのようにすれば良い人間になれるのだろうや一度罪を犯してしまうとその人は救われないのかなどいろいろ調べていると、たまたま見た記事に日本人はみな地獄行きというのがあり怖くなりついつい見てしまったのです。 するとそこには虫などを殺すと地獄行き、お酒を飲めばもっと怖い地獄行きなど他にも地獄レベルが書いてあるのがありました。 それはお坊さんが知ってることなどが書かれていたのです 私は、最近では虫を殺すのは悪いことだと思い今では蚊すら殺してなかったのですが今までは殺してしまったりしてました。 私達は、今までは罪を悔いて良い行いをしていれば人に好かれる人間にもなれるし極楽浄土へ行けると信じてきましたし地獄は殺人や人を傷つけても平然と後悔することなく生きている人間が反省するための場所と思っていました。 なのにそんな事実をつきつけられ私は、どうすればよいのでしょう。 1日1日を良いことをしても、どうあがいても逃れられない地獄へ行く恐怖をもちながら生きていかねばならないのでしょうか? 今まで学校で教わった教えはなんだったのでしょうか? すぐ泣いてしまう私なのにショックと信じられないという思いですぎて涙もでません
以前、何度か質問させていただきました。 私は信仰心が強く、仏様を信じています。 でも、祈って病気が治るならみんな死なない と言うようなご回答をいただきました。 ごもっともだと思い、見返りを求めていた 自分を反省しました!そして私は心配性です。 別の質問をしたとき、仏様を信じているから このままではいけないと、仏様がハスノハへ 導いてくださったのです。とご回答を いただきました。携帯を変えたので質問が 残っているかは確認してません。 このハスノハでたくさんのことを勉強 させていただきましたが、結局物事は なるようにしてなり、起こるべくして起こり、 現実をどう受け止めるか。なのかなと。 仏様を信仰しているのはただ人が仏様を 信仰することでいいことをした気分になり 救われるような気がするからで、 その後いいことや悪いことが怒っても 仏様の力でもなんでもなく、ただ起こるべく して起こっただけなのかなと思うようになりました。私は祖母に小さい時から仏様に 手を合わせなさい、朝起きたら朝日に向かって 手を合わせ世の中の人の平和を祈りなさい、 そうすると心が穏やかになるんよと 言われて、できるときはそうしてきました。 小学生でひいおばあちゃんが亡くなり、 ショックで落ち込んでいると般若心経を 覚えなさいと言われ、毎日写経しました。 何年か経ち、私が祖母の部屋でなんとなく 写経していると、もう1人のひいおばあちゃんが 亡くなったと連絡がきました。 私が写経している間に眠るように亡くなった そうで、祖母が、ひ孫のお経で逝ったんやね と言っていました。他にも亡くなった人や 仏様との結びつきを強く感じることが 小さいころからたくさんありました。 その度に私は感謝し、手を合わせました。 つらいことが怒っても仏様なんかいない! とは思ったことはなく、どう乗り越えるか 私が強くなるための試練を与えて下さってる と信じて超えてきました。 でもハスノハで仏教のことを いろいろ教えていただきましたが、 現実を見せられた気持ちになりました。 仏様なんか!とかではありません。 私が信じてきた仏様はいないのですか? 人が勝手に仏様と結びつけているだけで。 そう思うと、手を合わせる意味がわからなくなってしまいました。仏様なんか!とかそうではなく、純粋に混乱しています笑 複数ご回答いただけると嬉しいです!
はじめまして。とうこといいます。 お寺で参拝するととても落ち着くので、よく行っています。 知識も得ようと本を読んだりしたのですが、そこには「様々な仏は架空の存在である」と書かれていました。 お釈迦様はおられましたが、阿弥陀さまとか薬師如来さまはフィクションだと初めて知りました。 私は深く考えたことがなく、てっきり実在されているのだと思っていたのでその時はショックを受けました。 お坊さんはこのことを知っておられるのだと思いますが、どう受け止められましたか? 仏はいないと思いながら学問としてされているのか、存在されて人々を助けて下さると信じているのか、お坊さんのとらえ方を教えて下さい。