近年、量子力学等の学問での研究に目覚しい進歩が見られます。 量子力学や精神系分野で輪廻転生の研究の話題が盛り上がっています。 量子力学では遂に死後の世界について【量子もつれ】と呼ばれる現象で論文を発表したり輪廻転生の研究をしていらっしゃる学者さんもいますし少し前ですが精神系分野では著名なアメリカのジム・タッカー博士は輪廻転生をしたと思われる2500人の子供達に関して発表しました。 この子供達の実例を見る限り明らかに例えばAという死んだ人物とは関係ないBの少年又は少女がAの生前の記憶を持って生まれてきている事があるようです。 それでも脳の錯覚だとして懐疑的な学者さんが多い中、現在進行形でこの分野の研究は着実に前へと前進しています。 ちなみに、私は死後の世界も輪廻転生も存在すると考えています。 そこで、今回は輪廻転生についてお聞きしたいです。 お坊さんは輪廻転生とはどのようなものだとお考えなのでしょうか? 輪廻転生の仏教的解釈やお坊さん個人のお考えをお聞かせください。
以前、彼の家から結婚を反対されている事でご相談させて頂きました。 いろいろアドバイスを頂き、ありがとうございました。 彼が頑張ってくれましたが、ご両親の理解を得ることが出来ませんでした。 彼のお父様は落ち着いて相談を聞いてくれたそうですが、お母様の家柄で人間性を判断する価値観と感情を高ぶらせやすいメンタルを刺激しない様、諦める様頼まれたそうです。お父様自身も私との結婚には年齢差で反対であるにも関わらず、彼の話を真面目に聞いて下さったとのこと、それには感謝の気持ちでいます。 私は、「二人には何の問題も無いが、彼の実家の問題になっているなぁ」と感じており、彼もそう思っていた様です。私としては、彼一人にお膳立てしてもらうつもりはなく、お会い出来るまで門前払いでもご実家にお伺いを続ける気持ちでおりました。しかし、お母様が疎外感を感じて大騒ぎした挙句、鬱にでもなられたら大変だとお父様が考えているとのこと。 現代の価値観では、考えられない話だと彼は思う様ですが、兄弟がいないので、お母様を放置するわけにもいかないという思いがあり、親が幸せそうにしているなら自分はまぁまぁ幸せかもしれないとの考えでした。親が死んだ時に残るものが、自分の本意でないものであっても、それはそれで仕方が無い、こういう家で育ったからと。 私も、彼の実家を混乱に陥れることはしたくないので、心臓をもぎ取られる思いですが、受け入れる様努力が必要と思いました。 彼とは、長年の交際の中で恋愛感情以上に、お互い尊敬しあう気持ちがあります。今後は、独占欲を超えて相手の幸せを祈り、それを喜べる様、彼に対する気持ちを成長させて良い友人でいようと思います。折角の大切なご縁だったので、切ってしまうには勿体無いとお互いに思っています。 それで、お父様に対しご心配をおかけしたお詫びと、彼からの相談を聞いて頂いていた感謝を伝えたく、お手紙を書きたいと思っています。お会いする機会に恵まれなかったので、せめてお手紙で最初で最後のご挨拶をと思うのですが、いかが思われますでしょうか?この私自身の言葉を伝えたいというのは、少しでも自分を知って欲しいという、醜い欲なのでしょうか。
こんにちは。 前回質問から、般若心経の「無無明・亦無無明尽・無老死・亦無老死尽」 の部分が、やはり気になってしまってるので質問させて頂きます。 この部分は十二縁起についての言及との事ですが、 十二縁起を乱暴ながら私なりに要約すると 根源的な無知(無明)→生存本能と外界知覚(行・識・名色・六処)→本能と分かち難く生じる煩悩(触・受・愛・取)→本能と煩悩で成り立つ生存(有)→生存する主体として「私」という想念が生じる(生)→「私」はいずれ死ぬ(老死) と、言う事でしょうか。 私の考えでは、この部分について般若心経は 「どんなに達観しても十二縁起の因果関係は断ち切り難い」 (「無」無明尽・「無」老死尽→否定としての「無」) けれども 「物事をありのままに見れば(空相にて照見すれば) 全てが、かけがえのない真実と分かる」 (「無」無明・「無」老死→空相、全体性としての「無」) と「無」と言う言葉が違った使われ方をしているように 思うのですが如何でしょうか? 字面通りに読めば「Aは無いけど、Aは尽き無い」と言う二律背反になり、 これでは意味の全く通らないナンセンス文章です。 この部分、般若心経を読む誰もが最初に「あれ?」と思う所ですが、 腑に落ちる説明をしている本がありません。(偉そうに言える程、 本は読んでないですが) 中には「十二縁起なんて形式にこだわるのは小乗仏教だ。 般若心経は大乗仏教だからそんなものに拘らない」 とバッサリ斬っている書籍もあります。 そんな単純なものでもないと思うのですが・・・ 解釈は色々あるかもしれませんが、お考えをお教え頂ければ幸いです。 何だかマニアックな質問になってしまいすいません。
まとまりがないかも知れませんが、ひらすら正直に書かせていただきますので、なにとぞ助言お願いします。 数年前から流産を繰り返し、不妊治療もがんばりましたが結局流産の回数を増やしただけに終わり、子供を授かることはできませんでした。 最初は妊娠した赤ちゃんを失ったことが悲しくて悲しくて、思い出しては泣いていました。 子供を授からないというのは将来 (像) の喪失でもあります。不妊治療に専念するため仕事もやめてしまったため、キャリアも手放してしまいました。高額な不妊治療のため貯金も減ってしまいました。母親にもなれず、仕事も中途半端で、将来の希望もなく、結局私は何にもなれなかったんだなあと思うと涙が出てきます。 その一方で奇跡が起きないかとほんの少しの希望にすがっています。でもこのほんの少しの希望のせいで、すっぱりあきらめて先に進むこともできません。 特につらいのは、家族イベントです。義兄弟が子供を連れて主人の実家に集まるときは、本当に身の置き所がありません。幸せな家族たち、祖父母に可愛がられる甥姪たち、幼稚園のお遊戯を披露、どれも平静な気持ちで見ることができません。特に私が妊娠したのと同じころに生まれてきた姪の成長を見るのは拷問です。なぜ私たちの赤ちゃんだけ生まれて来なかったのでしょう? 主人は私がいればいいと言ってはくれますが、やはりとても子供が欲しかったのを分かっているのでそれもつらいのです。 「幸せはこちらの心のもちよう」「夫婦二人の人生も幸せ」「子供がいたって不幸な人もいる」ぜーんぶ分かります。 でもそんなふうに思えません!だってつらいんです。可愛い甥や姪を見ると心が勝手に苦しがるんです。 私の人生を取り戻したい。心の平安を取り戻したい。前のように他の人の幸せも願えるようになりたい(今はみんな不幸になって欲しいとすら思います)。私はどうすればいいのでしょうか、どうか教えてください。
母の初盆を迎えます。 葬儀屋さんの紹介のお寺のお坊様に四十九日もお経をあげていただき、そしてお盆のお参りのお知らせというハガキが来ました。日と時間が指定されてきました。実は十数年前に父が他界した時と同じ ご住職で、葬式以来、7日ごとに来ていただいていましたが、ある日、二日酔いで来られ、お経をはしょって読んだり 明らかに二日酔い状態でした。 母がもうこんなんなら、お断りしようということで、それ以来、家族で般若心経をお盆や命日にあげるくらいでした。やはり素人が唱えるのと、お坊様にあげて頂くのは違うとは思いますが、そのお坊様に来て頂く方が良いのでしょうか? 実は私の仕事の関係の方と同級生らしく、仏教や仏様の話は一切なさらず、その方の話をされ帰られます。お墓は香川県にあり、こちらは兵庫県なので、香川県から来て頂くこともできず、父の場合は初盆もお坊様には来て頂きませんでした。それでもやはり初盆で、そのお坊様にお経をあげていただいたほうがよろしいですか?
はじめまして。とうこといいます。 お寺で参拝するととても落ち着くので、よく行っています。 知識も得ようと本を読んだりしたのですが、そこには「様々な仏は架空の存在である」と書かれていました。 お釈迦様はおられましたが、阿弥陀さまとか薬師如来さまはフィクションだと初めて知りました。 私は深く考えたことがなく、てっきり実在されているのだと思っていたのでその時はショックを受けました。 お坊さんはこのことを知っておられるのだと思いますが、どう受け止められましたか? 仏はいないと思いながら学問としてされているのか、存在されて人々を助けて下さると信じているのか、お坊さんのとらえ方を教えて下さい。
仏教における幸せとはなんでしょうか? 修行を積んで悟りを得ること? 煩悩を滅し苦しみから解放されること? 私にはよく分かりません。
各宗派の違いはあれど 仏教は釈迦の教えから発していると思いますが 端的にいってその教えの心髄、核心、エッセンスとは何でしょうか? 多くの宗派のお坊さんからご回答を頂けるとありがたく存じます。 なお恐れ入りますが、 仏教学的な、学べば分かるようなものは期待しません。
以前、何度か質問させていただきました。 私は信仰心が強く、仏様を信じています。 でも、祈って病気が治るならみんな死なない と言うようなご回答をいただきました。 ごもっともだと思い、見返りを求めていた 自分を反省しました!そして私は心配性です。 別の質問をしたとき、仏様を信じているから このままではいけないと、仏様がハスノハへ 導いてくださったのです。とご回答を いただきました。携帯を変えたので質問が 残っているかは確認してません。 このハスノハでたくさんのことを勉強 させていただきましたが、結局物事は なるようにしてなり、起こるべくして起こり、 現実をどう受け止めるか。なのかなと。 仏様を信仰しているのはただ人が仏様を 信仰することでいいことをした気分になり 救われるような気がするからで、 その後いいことや悪いことが怒っても 仏様の力でもなんでもなく、ただ起こるべく して起こっただけなのかなと思うようになりました。私は祖母に小さい時から仏様に 手を合わせなさい、朝起きたら朝日に向かって 手を合わせ世の中の人の平和を祈りなさい、 そうすると心が穏やかになるんよと 言われて、できるときはそうしてきました。 小学生でひいおばあちゃんが亡くなり、 ショックで落ち込んでいると般若心経を 覚えなさいと言われ、毎日写経しました。 何年か経ち、私が祖母の部屋でなんとなく 写経していると、もう1人のひいおばあちゃんが 亡くなったと連絡がきました。 私が写経している間に眠るように亡くなった そうで、祖母が、ひ孫のお経で逝ったんやね と言っていました。他にも亡くなった人や 仏様との結びつきを強く感じることが 小さいころからたくさんありました。 その度に私は感謝し、手を合わせました。 つらいことが怒っても仏様なんかいない! とは思ったことはなく、どう乗り越えるか 私が強くなるための試練を与えて下さってる と信じて超えてきました。 でもハスノハで仏教のことを いろいろ教えていただきましたが、 現実を見せられた気持ちになりました。 仏様なんか!とかではありません。 私が信じてきた仏様はいないのですか? 人が勝手に仏様と結びつけているだけで。 そう思うと、手を合わせる意味がわからなくなってしまいました。仏様なんか!とかそうではなく、純粋に混乱しています笑 複数ご回答いただけると嬉しいです!
すいません。後から気づいたのですが2回同じ質問してしまってました。 こっちが本当です。 私の学校は仏教の学校です。 学校でのお坊さんの教えでは生きてるうちに良い行いをすれば極楽浄土へ行けるといったものでした。 私はそれを信じて今までちょっとした発言や行いで人を傷つけてしまったことを悔いてそのことを今一度悔いて謝ろうとも思っていましたし、少しでも人のためになるような良い行いをしていこうと心がけどのようにすれば良い人間になれるのだろうや一度罪を犯してしまうとその人は救われないのかなどいろいろ調べていると、たまたま見た記事に日本人はみな地獄行きというのがあり怖くなりついつい見てしまったのです。 するとそこには虫などを殺すと地獄行き、お酒を飲めばもっと怖い地獄行きなど他にも地獄レベルが書いてあるのがありました。 それはお坊さんが知ってることなどが書かれていたのです 私は、最近では虫を殺すのは悪いことだと思い今では蚊すら殺してなかったのですが今までは殺してしまったりしてました。 私達は、今までは罪を悔いて良い行いをしていれば人に好かれる人間にもなれるし極楽浄土へ行けると信じてきましたし地獄は殺人や人を傷つけても平然と後悔することなく生きている人間が反省するための場所と思っていました。 なのにそんな事実をつきつけられ私は、どうすればよいのでしょう。 1日1日を良いことをしても、どうあがいても逃れられない地獄へ行く恐怖をもちながら生きていかねばならないのでしょうか? 今まで学校で教わった教えはなんだったのでしょうか? すぐ泣いてしまう私なのにショックと信じられないという思いですぎて涙もでません