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問答一覧
2024/07/18

職場での先輩との向き合い方

いつもありがとうございます。 今回は、会社の先輩について思うところがあり、相談いたします。 よろしくお願いします。 部署異動先での話なのですが、 直属の先輩(年下です)がおり、その方の仕事を一部引き継いでいます。 わからないことは先輩に聞くのですが、 前の担当(先輩の前任)がしていたから。 理由はわからないがとりあえずこうしておいて。 と言われることが多く、業務全体を知っていきたい私は、理由を教えて欲しいし流れも知りたいので理由を聞くのですが、あまり聞くと不機嫌になりますし、上司に聞くとすぐやってきて言い訳しています。 多分、先輩もあまり知らない(知ろうとしない)んだと思います。 そして、ちゃんと仕事を教えてあげてほしいと思っている上司と先輩で言い合いになります。 なので安易に上司に聞くこともできません(上司は聞いてきてと言ってくれていますが)。 それに先輩の、上司に対する態度も見ていられません。 普段助けてもらっているのに‥と。 ですが、私自身自分の子どもに発達特性があり、その先輩も種類は少し違いますが多分そうだろうなと思っていたので、上司に対する態度はダメですが、私はなんとなく分かるので、声かけや接し方等試行錯誤してきました。 しかしながら、ミスをなすりつけられることや、私がミスゼロでしてくれたら何も問題は怒らないのに。 私が来てからおかしくなった。仕事を取られた。 など言われて嫌だなあと思うことは多数あります。 逆に懐かれてしまっている部分もあり、少し怖いです。 私が部署異動をお願いされた理由として、先輩に任せておけないという部分もあったようです。 二人三脚でやってほしいとのことでした。 仕事は楽しいし熱量もありますが、少し疲れてきてしまいました。 二人三脚なんて無理だし、どうしていけばよいか、全くわからなくなりました。 ヒントがありましたら、ご教示願いたいと思っています。 よろしくお願いいたします。

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皆さんの考える最期の迎え方とは

昨年の秋頃に、NHKのドキュメンタリー『ありのままの最期 末期がんの“看取り医師”死までの450日』が放送されました。医師で僧侶の田中雅博さんが、末期がんとなり亡くなるまでを記録した番組です。 田中さんは「死ぬのは怖くない。看取った患者から死に方を学んだ。」と語っておられました。 とはいえ、現実には思い通りにはいかないこともあり、言葉を失うくらい壮絶な内容でした。 私にも一応、理想の最期のイメージはありました。誰でもいつかは死ぬのだからじたばたしても仕方ない、自分らしく生き、寿命が来たらそれはそれで受け入れるだけだなと。 でも、実際にそれを間近に感じた時には不安だらけ。じたばたしまくり。私はこんなに弱かったのかと愕然としました。 この時は単なる体調不良でしたが、現実は自分が死ぬなんてそんなに簡単に割りきれるものではないことを経験し、分からなくなりました。 「死に行く者の死に方から学べ」と田中さんはおっしゃったそうです。 “人の生き死には思い通りにはいかない。それでも、なるべく冷静に過ごすにはどうすればいいだろう” 今度は慌ててしまわないようにと、以来ずっと考えていますがまだ答えが出ていません。 お坊さんはたくさんの方の最期に向かい合っておられるので、ご自身に関しても既にイメージがあるのではないかと思います。 例えば病気で余命宣告されたとしたら、暫くの間は痛みや不安など心身の変化に耐えることになりますよね。 今回お尋ねしたいのは「最期の、耐えて待つ生き方」です。どのような心境で、どのように過ごしながらその時を迎えようと思いますか? お坊さんとして、でもいいですし、一個人としての思いがあれば教えていただきたいです。参考にします。 よろしくお願いします。

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生きているのがこわい

死が怖いです。大切な人や自分がこの世からいなくなる、どうなるか分からないことへの不安と恐怖で毎日ぐるぐる考えては1日を無為に過ごしてしまいます。 こんなに怖いなら生まれなきゃよかったと思うし、自我が芽生える前にしんでればよかったと考えてしまいます。 二十数年間生きてきて、大切なものも増えてしまいました。それらを失うことも怖いです。 朝目が覚めるだろうか、この車は私の元に突っ込んでこないだろうか、大きな事件や災害が数秒後に起きるかもしれない、目を離したとき愛犬が倒れたらなど不安が多くて、家から出られません。 事件事故のニュースを見ることも出来ませんが、何も知らずに生きることも怖いのでネットニュースを読むことはできるように頑張っています。 街中で妊婦さんやお子さんをお見かけすると、この人たちはとても幸せそうに見えるけど次の瞬間には…と恐ろしい事態を想像してしまい、素直に祝福できなくて自己嫌悪します。 50を過ぎた母が、「私はもう死んでもいい」「あと5年で逝くからあんたそろそろ自立しなさい」などと口にすることも私の不安を駆り立てます。(母は現時点で健康体です) 不安や恐怖を解消するまでにいかなくても、上手に向き合う?付き合っていく?方法はないのでしょうか

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同居…家族を嫌いになりそうで怖い

子どもが産まれてから、専業主婦をしています。 お義父さん、お義母さんは朝から夜まで仕事で、旦那さんの仕事は不規則です。そのため、旦那さんの実家に嫁いでから、掃除、洗濯、ご飯作りを一生懸命やってきました。 子どもが産まれてからも家事分担は変わりません。子どもをあやしながら、時には泣かせたままの時もあったり、必死に家事をこなしています。 特に料理は苦手でしたが、忙しい家族のために毎日頑張っています。 そんな気持ちで頑張っていた私ですが、ここ最近気持ちが途切れてしまい、悲しくなって、イライラして、この家族が嫌いになってしまいそうで怖いです。 お義父さんは夕飯前にカップラーメンを食べ、当たり前のように私の作ったご飯を残します。 お義母さんは、帰ってきて当たり前のようにご飯が出てくるのを待ち、食べ終わったら食器もそのままで、寝てしまいます。マヨネーズも出しっぱなし、納豆のからさえも捨てずにそのまま。 まだ小さい子どもの機嫌を見計らい、私が片付けをします。 必死な思いで作ったご飯、ごちそうさまの一言もなく、残された食事の後片付けは本当に辛くて涙が出ます。 前まで何とも思わずやってきましたが、ここにきて積もりに積もってイライラや悲しさとなり毎日モヤモヤしています。ご飯だけじゃなく、洗濯物の脱ぎっぱなしやお風呂の排水溝の髪の毛など、小さなことも気になり始めました。 旦那さんに八つ当たりしてしまい、夫婦関係も悪くなっています。旦那さんの優しさに甘えてしまい、毎回「実家に帰る!」と泣いてしまいます。 旦那さんのお父さんお母さんですから、悪く言いたくはありません。なので、「実家に帰りたい」という言葉になってしまうのです。 私にとても良くしてくれる義両親で、本当は大好きです。そんな気持ちと矛盾して、イライラと悲しさで我慢できません。じぶんが卑屈になっているのは分かります。どうか、この現状を抜け出すためにアドバイスよろしくお願いします。

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中絶への考え方について

私は3年前に初期流産しました。その後二人の子宝に恵まれて幸せに過ごしているものの、未だに流産したこの事を引きずっています。子育て中なのに、時折「亡くなった子が一人で可哀想なのではないか、子供のところへ行きたい」と思ってしまうことがあります。 最近はそのような考えも少しずつ減って、やっと前向きになってきました。そこに親友から中絶の相談をされたのです。 望んでできた子だけど、少し奇形がある。先生からは比較的多い病気で、治療をすると治るから産んだほうがいいのでは、と言われたそうです。旦那さんも産んでほしいと。でも友達は奇形がある子を育てられるか、奇形があると聞いた時点でおろすしかないと思ったそうです。 結局おろしてしまったのですが、私の中で「どうして胎動もあるまで大きくなった子をおろせるのか?」「私だったらそんなことはしない」「産みたくても産めない人もいるのに」と、嫌な気持ちがどんどん湧いてきます。後悔はない、と言い切る友達が信じられません。色んな事情、考えがあるとわかっていますが、どうしても産めなかった私からすると理解できません。 友達の事を嫌いたくありませんが、子供を諦めたことで嫌いになりそうです。どうしたらこの嫌な気持ちをなくせるでしょうか。分かりにくい文章ですみません。

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自分の信じる『神』や『仏』が何者かわかりません

はじめまして。 うまくお話しできるか、わからないのですが… ここ最近、自分の思想がどこにあるのかわからず、お話を聞いていただきたいと思い、投稿させていただきました。 まず、私は特に、何教徒である、ですとか、特定の宗教には属しておりません。 ただ、色々と自身の考えと当てはまるものを探すなかで、最も共感できるのが仏教でしたので、こちらにおります。 私は漠然と、神様が存在していると思っています。 神が人間を作ったと思っています。 しかし、それは聖書にあるような、直接的に人間を作り出すようなものというよりは、 人が一冊の本を作り上げるようなものだと思っています。 『神』が、この世界を作り上げ、そのなかで『キリスト教』『イスラム教』『仏教』といった… 語弊を恐れずに申し上げるならば、『地球というなかの物語の設定としての宗教』を作り上げているのではないか、と思ってしまうのです。 そうした、なんでもできてしまう神のような、宇宙の外にある大きな力が、私は怖くてたまりません。 あまりに苦しいとき、そうした『神』が、私に何かバチを与えているのではないか、とさえ感じます。 しかし一方で、仏教の『因果応報』という教えを知ったとき、どこか救われるような感覚がありました。 私が苦しんだり、喜んだりするのは、宇宙の外にある神のせいではなく、自分自身の行いの結果なのだ、と。 それから、少しずつ仏教について調べ始めていますが、やはり何か神様のようなものの存在は、否定できずにいます。 そもそも、誰か一人でも信じ、信仰し、救われている人がいるならば、キリスト教の神も、イスラム教の神も、はたまた新興宗教の神であっても、存在していると思うし、それを否定したくないのです。 自分の信じるもののために、誰かが信じるものを否定したくありませんし、ないものにしたくありません。 一方で、どこか神様のようなものに怯えている自分がいますし、こんな自分が仏教の教えに惹かれることは、それこそバチが当たるのではないかと思います。 うまくお話しできたかわかりませんが、心のもちようがわからず、難しく感じております。 なにかアドバイスなどありましたら、ぜひ教えてください。

有り難し有り難し 71
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