仏道を真に体現している方にお会いしてみたいのですが、どうすればお会い出来るでしょうか? 座禅会などには行っているのですが、これはと思うほどの方には出会えていません。 僕の観る目がないのかもしれません。そもそも、何をもって正師かどうか判断すれば良いのかもわからないです。 アドバイスいただけたら、ありがたいです。 よろしくお願いいたします。
最近になり、死について深く考え始め、このままだと自分は無間地獄に落ちる身だと気づきました。それからというもの、生きるのが辛くなってしまい、座るのが辛くなってしまったり、ご飯を戻してしまったり、過去のトラウマの幻聴がずっと聞こえてきて泣くのをやめれなかったり、体調が悪くて学校に遅れて行く事が増えてしまいました。このままじゃ行けないとは本当に分かっています。死後が怖いからって今生きるのを諦めていけないのもわかっています。でも、浄土真宗に出会い、阿弥陀如来様の事を知れました。でもやはり疑蓋が外れません。どうしても疑ってしまうのです。阿弥陀如来様の救いはすぐ側にあるはずなのに、完全に信じることが出来ません。余計にがんじがらめになってしまいました。今ここで死んだら無間地獄に行くんだと思うと余計に焦ってしまう自分がいます。もう自分には無理なのかもしれないと思ってしまいます。もし皆様から疑蓋についてや浄土真宗の心構えなどあれば教えていただけると幸いです。
地蔵菩薩さまのお姿を紙に判子で押し水に流す印仏作法(地蔵流し)の記事を見つけたのですが、他の仏様(例え聖観音様等)で行っても良いのでしょうか? また、印仏作法を学べる書籍やお寺があればご教授下さい。 宜しくお願い致します。
お世話になります。物騒な タイトルで申し訳ありません。 今、お寺に行くため電車で 移動中です。 席に座っていたら、向かいに 座っていた精神もしくは知的 の障害の男が、私の隣の席が 空いた途端、座ってきました。 怖かったので移動しました。 移動した先の席で、隣の席の 旦那様が 「ははは、大丈夫かい?」 と声をかけてくれました。 私は 「驚いてしまって。申し訳 ありません」 と答えました。 そこでふと疑問に思ったのが、 (仏様や天女様は、あらゆる 暴力を受けた際、どのように 対処するか?) という事です。 ここでは特に、性の暴力に 対して思います。 私は実際、お寺で出会った人 から性暴力を振るわれたことが あります。そのときは、警察 さんの力を借りて解決しました。 たとえば仏様や天女様が、 電車の中で痴漢被害に遭ったら? 路上で付きまとわれたら? 突然暴漢に襲われて、レイプ されたら? どうするのでしょうか? 毅然とした態度で相手を悔い改め させるか、甘んじて受け入れるか。 私は、戒を授かった身として、 どのように振る舞えばいいの でしょうか? 実質、仏になることが約束 されているようなものですから。 それに私には不動明王という 想い人がいます。やすやすと 彼らを受け入れるわけには いきません。
現世利益を求めることは卑しい事でしょうか 特に浄土真宗では
おはようございます。お坊様に質問があります。 観音様とお地蔵様の写仏を行う時に、食材の感謝として、願意に鳥獣魚介類昆虫類万霊供養と書いているのですが、問題はないでしょうか? 又、農家さん・漁師さん・猟師さんの安全も祈るために願意に彼らの守護祈願も書きたいのですが、失礼はないでしょうか? お時間がある時に、お答え頂けると幸いです。
いつもお世話になっています、以前永代供養について質問させていただきましたが、いまだに永代供養を行なっていません。親の遺骨です。実は家は真言宗らしいのですが、死んだ親は無神論者で全ての宗教の神を信じていませんでした。それは死ぬ時まで変わりませんでした。それで永代供養をお願いしようと考えているのですが、本人は死後の事は何も言っていないのでどうすれば良いのか、悩んでいます。宗派が違うお寺さんに頼んでも故人には影響ないのでしょうか?それともやはり真言宗にした方が良いのでしょうか?また他の宗派に頼むとなると、その宗派の檀家に入るということになるのでしょうか?やり直しがきかない事なので詳しい回答をお願いいたします。
最近、仏教に興味が湧き、手始めに仏教関連で気になった言葉などを調べています。宗派などの考え方の差異にはまだ触れられてません。 仏教関連の言葉を調べている中で度々目にする「涅槃」と「浄土」、どちらも煩悩から解き放たれた悟りの先のように捉えているのですが、その2つにもそれぞれ種類があって意味が違うという話を耳にしてなんだかわからなくなってきました。涅槃と浄土が意味合い的に少し違うことは何となく理解しているのですが...。 涅槃と浄土にはどういった違いがあるのでしょうか?また、浄土に行くことと解脱するのことはイコールで結ばれないのでしょうか?
変わったご相談で申し訳ございません。 昔の禅僧がお書きになった言葉を一緒に読み解いていただけませんか。 古岳宗亘(1565-1548)という禅僧の語録集『生苕稾』を読んでいたところ、ふと心をひかれて気になった文章がありました。 それは、幼くして亡くなった子供の供養を依頼されて肖像に賛を書いた文章だと思うのですが、いかんせん漢文に疎くてどんな言葉が残されているのか、なかなかわかりません。 亡くなった子供を雪山童子になぞらえているのだろうとは思いますが、特に後半の意が掴めません。 大聖国師はどのようなことを説いておられるのか、なぜかこの肖像文がとても気になっております。 何卒お力をお借りできませんでしょうか。 よろしくお願いいたします。 以下原文と書き下し、解釈案です。 小児肖像 熊岡息男 你於二月十三而脱胎、 先雪山童子涅槃者日云二、 你於四月十六而帰寂、 後雪山童子降誕者日云八、 日異月同互換出没、 産此寧馨、老妪何物、 手中雀児、是死是活、 無限丹青肯難描出、 你(なんじ)は二月十三において脱胎し、 先雪山童子涅槃は日二なると云ふ。 你は四月十六において帰寂し、 後雪山童子降誕は日八なると云ふ。 日異なれども月同じくして互換に出没す。 産は此(かく)の寧馨なり。老妪は何物なるか(?)。 手中の雀児、是死せるか是活くるか。 限り無き丹青、肯へて描き出し難し。 あなたは二月十三日にこの世に生まれ、 雪山童子の涅槃は四月二日であるという。 あなたは四月十六日にこの世を去り、 雪山童子の降誕は二月八日であるという。 日付は異なるが月は同じく、生まれた月と亡くなった月が互いに取りかわるようにして、あなたも雪山童子も生まれて亡くなった。 産まれるということはこのようなものである。 老いた女性は何物であるか(?)。 手の中の雀の子は、これは死んでいるのか生きているのか。 限りない絵の具を以ってしても、あなたを描きだすのは難しい。
イスラム教はキリスト教の派生と思われますので、キリスト教に集約して考えます。 キリスト教の原理は「神との契約を破り、禁断の木の実を食べたアダムとイブ」で、原罪としてエデンの園から地球に追放され、以降我々も同じ罪を犯していると懺悔します。 即ち「生」が罪としています。 釈尊の仏教について金剛般若経の初めの箇所に次のような記述があります。 「右のような逆説に満ちた教えを信ずるものがありえようか」という題で 「スプーティよ、そのように『そもそも将来、のちの世、のちの時代--正しい教えが滅びるようなのちの五百年代ーになったとき、これらの経典のことばがこのように説かれたばあい、それを真実だと理解しうるものがだれかいるでしょうか』などと語ってはならない。(後略)」 この中の「正しい教えが滅びるようなのちの五百年代」と語っている部分から想像すると,釈尊の没後500年後には「正しい教え」が滅びているという未来が「天眼明」によって確認されていることになります。 この滅びた「正しい教え」が何であるか確定しなければなりませんが、滅びる原因が多分「自己否定」だと思われますので、「阿含経」ではないかと思います。 即ち「生」が否定されていますので、キリスト教と同じ原理となります。 三大宗教が共に「生」を罪とするならば、社会的には、現在生きている人間はすべて欲深い「悪人」の集まりです。生きる為には大部分の人が動物の殺生を余儀なくされています。食用は勿論、蚊や蠅迄。 また常識とは逆に人口の減少(少子化)が好ましく、同性婚が奨励されるという珍妙な判断となります。
日々、色んな方々と接してきて、阿修羅の様な方とか仏様みたいな優しい方とか、物欲等に執着してる餓鬼のような方とか、いらっしゃるので六道輪廻とは今生きる人達に向けたことなんじゃないかなと思うのですがお坊さん達はどう思いますか❓ (言い方悪かったらすみません。)
旦那が神道、私が仏教徒でお供え物をする際旦那に「日本では神、仏と神が先に来るからお供え物は先に神棚」と言われました。 それって常識なんですか?またお供え物は神棚から降ろした物を仏壇の観音様にお供えしては罰当たりではありませんか?
こんにちは 仏様の中でもよくわからない仏様なのですが、「弥勒菩薩」はなぜ信仰されているのでしょうか。 本などの説明では釈迦が入滅して56億7000万年後如来となって地上に降り、人類を救う、と信じられていると書かれていますが、それならなぜ今の時代に信じられているのでしょうか。 信じている人は何らかのご利益があると信じているのでしょうか。
いつもお世話になっております。 年末の主治医との面談で、 「看護師さんから報告が来て いるけど、他の患者さんの 悪口を、非常に乱暴な言葉を 使ってナースステーション前で 大きな声でよく言っているそう だね。やめてほしいな」 「人の気持ちを考えられる ようになってほしい」 「非言語コミュニケーションを 理解できるようになってほしい」 と言われました。 私は 「何の気無しの自分の行動が、 周りの人に迷惑をかけていないか 怖い」 と先生に問いかけると、 「たしか仏教には『不悪口』 という言葉があったはず。 十善戒や三密など、医療と 並行して、そういった お釈迦さまが残した素晴らしい 教えをよく学べば、他人の考えに 寄り添った行動が、少しでも できるようになると思う」 「不悪口を心がけるだけでも、 ずいぶん良くなるんじゃない かな?」 「身口意の口と意は、リンク していると思う」 と言われました。 私は何年か前、猫カフェで 猫と遊ぶのに夢中になりすぎて 猫を呼ぶとき、猫に話しかける ときの声が大きくなりすぎ、 「苦情が来ています」 と店長さんから注意を受け、 出入り禁止の一歩手前まで 行ったことがあります。 いつまた、同じような事、 それより大きな事をして しまうかわかりません。 何か、仏様の教えの中で、 「周りの人に不快感を与えない ようにするにはこうする」 という教えはありませんでしょ うか? 同時に主治医は、 「非言語コミュニケーション と言っても、『仮説立て』の ようなもので、ヒトは『この人は こう思ってるかな』と考え ながらコミュニケーションを 取っている」 と言っていました。 「仮説立て」が上手くなる 方法も知りたいです。 このような話をすると 「その医者、薮じゃないの?」 言われることもありますが、 精神科の自立支援医療現場は、 存外にも皆さんがお考えになって いるより、厳しいです。 まともな病院や施設は、 アニーサリバンの意思を しっかり受け継ぎ、この ような事は、どこの病院や 施設でも指導されます。 よろしくお願いいたします。
浄土三部経が偽経や非仏説と言われている事についてどう向き合えばいいでしょうか。 自分はこれで阿弥陀様の信心を失ってしまいました。 事実としてお釈迦様が直接説いたわけではないことは、「歴史的」には分かっているそうですし、それでもお釈迦様以外の仏様が説いたので仏説と言われていたりと、結局どれが真実なのか分からなくなってきました。 浄土宗や浄土真宗のお坊様はこの事についてどう思っているのですか? そしてどうやって信じているのでしょうか。 自分はこの事で信心をもらえそうにないです。 回答お願いいたします。 この前までは単純に阿弥陀様を信じられていませんでしたが今度は大乗非仏説で信じられなくなっしまいました。
ご覧いただきありがとうございます。 数日前から浄土の教えについて学び始めた者です。 先に質問を記載させていただきます。 1. 阿弥陀様や往生を疑う気持ちがわずかでも残っている場合、念仏しても往生できないのでしょうか? 2. 阿弥陀様や往生を疑う気持ちをなくしていくにはどういった心構えや方法があるのでしょうか? 3. もし、この疑う心について掘り下げた聖人の書物やお言葉等がありましたら、ご教示いただけないでしょうか? 以下、経緯等です。 今、法然上人の『選択本願念仏集』を読んでいる途中なのですが、往生するためには三心を具えなければならないと書かれていました。 この点について『一枚起請文』では次のように書かれているようで、疑念を持たずに信じることで自然に具わるとのことでした。 > ただし三心・四修と申もうすことの候は、皆決定して南無阿弥陀仏にて往生するぞと思ううちにこもり候なり。 ただ、正直に申し上げますと、本当に心の底から阿弥陀様と往生を一切の疑いなく信じることは、現時点ではできそうにないと思っています。 徹底できるのであれば、それはもはや凡夫ではなく聖人だと思ってしまいます。 初めて真剣に「南無阿弥陀仏」と口にした時は、ふと心が軽くなり涙が出てきたので、阿弥陀様は「いらっしゃるかもしれない」と思えました。 ただ、それも最初だけの出来事ですし、「かもしれない」という程度で留まっていますし、これを確信であると自分を騙すのも無意味だと思われます。 また、念仏も熱心に唱えられるわけでなく、気が向いた時に小声で口にするような怠け者です。 これまで色々な思想を試してみましたが、「本当に素晴らしい考えだけど自分には徹底して行うのは到底無理だ」と挫折し続け、紆余曲折で浄土の教えにたどり着き、希望を持って学び始めました。 ただ、そこでも自分には難しいという現実に直面してしまいました。 『徒然草』には「疑ひながらも、念仏すれば、往生すとも言はれけり」との文があるようですが、これも本当にそう法然上人がおっしゃられたのかは不明で、これまた自分には信じ切ることができません。 自分では何もできないにもかかわらず、かといって何も信じ切ることや頼り切ることができず、どんなことも徹底できない自分が浮き彫りになり、絶望しています。 どうか、ご助力いただけますと幸いです。
はじめまして。 仏教の地獄についての記事を見ていたら怖くなってしまい、質問をさせていただきました。 五逆罪を犯すと死後無間地獄・阿鼻叫喚地獄に堕ちるとの話を伺いました。 五逆罪は 父母殺しの他に「仏様を傷付ける」 という条件がありました。 記事によっては「仏様・父母をバカにすること」を思っただけでも地獄に堕ちると書いてあったのもありました。 私は深い仏教徒ではないですが、 初詣を含め年に数回神社仏閣にお参りに行きます。 お参りの際に、侵入思考で全く思っていないことを勝手に思ってしまいます。 その内容とは、仏様を誹謗中傷する、バカにする内容等です。私は基本的に神様仏様を信仰しており、誹謗中傷やバカにするなどといったことは全くもって本心ではございません。 なので、私はその侵入思考が入った際には「今思ったことは全く本心ではございません。申し訳ありません…」と 30回50回も謝ります。 仏様は私の本心をわかってくださるのでしょうか。謝りも受け取ってくださるのでしょうか。 私は死後、地獄に堕ちるのでしょうか。 寿命まで地獄に堕ちることを怯えながら生活しなければならないのでしょうか。 どうしたら、私は救われるのでしょうか。 助けてください。
極楽浄土は単に死後の世界なのか、生きていても到達できる心の境地のようなものなのか、どちらでしょうか? 概論的に言うと浄土宗鎮西派では死後の世界であると説き、西山派、浄土真宗、時宗、天台真盛宗では死というプロセスを経なくても到達できる心の境地であるように説いているように思えます。 鎮西派はおおらかさが売りで細部の解釈は個々人に任すようなところがあると言われますが、極楽浄土は心の境地であるという受け取り方をする人が鎮西派にもいるのか。 また、浄土宗と時宗の狭間にいる一向派などはこの辺りをどう説いているのか知りたいところです。
理趣経についてネットで調べてると理趣経には一切有情 殺害三界 不堕悪趣とあるらしいですがこれってどんな意味ですか。なんか殺害肯定するやばいお経ってあったんですけど本当ですか。至急回答お願いします