救われる道を探して仏教を学んでみたもののやはり合点がいきません。 具体例 これまでお釈迦様しか成し遂げられていないらしい解脱を一般人が目指しても無理だろうに解脱を掲げるのは合点がいきません。方便でしょうか? 中道が大事と言っているのにこの世に楽はない一切皆苦と極端に偏ったことを言われます。 仏教に救いの道はあると思えず何を頼りにしたらよいか途方に暮れています。
いつも有難うございます。最近 家族の病気で心が疲弊しており ここでご相談させて戴いた事を実践しつつ なんとか精神的に立ち直ろうとしています。物理的にには出来ることを全て行い あとはご神仏にお頼りするしかない状況です。 ある本で感謝は幸運を呼び 嘆きは不幸を呼び込む…とありました。もちろん趣旨は 要は心の持ちようという事だと思います。 又ご神仏には 素直な自分でお参りを…と言われたら 今は嘆きばかりになります。 ご神仏にお祈りする際 悲しみや嘆きをお話してお祈り してもいいのでしょうか?
いつもお世話になっております。 15年間信仰していて、未だにわからないことがあります。 非常に初歩的な事です。 なぜ不動明王は怒っているのか? 仏教は怒りを悪い感情と捉える→わかる 優しいだけじゃ通じない相手に、不動明王はあえて 怒りをもって接する→? 怒りは罪深い感情であるはずなのに、なぜ明王は 怒っているのでしょうか? よく、 「我々が迷いの中にいるとき、我々が間違えた方向に 向かいそうなとき、怒りの形相の不動明王が、左手に 持った羂索で我々をからめ取り、引き戻してくれる。 引き戻してくれた後は、右手の剣で迷いを断ち切り、 背中の炎で焼き清めてくれる」 と説明されます。 迷いはなんとなくわかる。でも、悪い事って? (人を害する気持ちで何かすること?) (十善戒をやぶること?) 私たちの怒りと不動明王の怒りって、 何が違うの?積年の疑問です。
最近仏教、というより職業としてのお坊さん(職業と言ったらなんだか失礼な気がします。ごめんなさい。)に興味を持ちました。 実家には月参りにお坊さんが来てくれてはいたのですが、熱心な檀家というわけではないのでお寺に行くことは一切ない家庭でした。 私自身もお寺と特に接点はなくお坊さんとお話する機会もありません。 ふと疑問に思ったのですが戒名をつける際はどうやってつけているのですか? 故人と面識がない場合、遺族に趣味や職業をきいてつけてくださることもあるようですが、無趣味で一般的なサラリーマン…など特徴がない場合どうしているのでしょうか? また、「山田太郎」のようによくある戒名で他とかぶるというのはあることですか?
小学3年生の頃に道に落ちていたお守りをわざと側溝に落としてしまいました。 まだ小さく物事の良し悪しがわかっていなかったとはいえ許されないことをしてしまったと後悔し、深く反省しています。 やはり死後私は地獄に落ちてしまうのでしょうか...? また、「善行は罪を浄化する」と言いますが前述したような罪も善行により浄化できるのでしょうか? 回答よろしくお願いします。
亡くなった夫は次男で、夫の実家は浄土真宗です。 夫の実家は飛行機で行く程の遠距離です。 夫の生前中、一緒に高野山へ行き 感動して、私達は真言宗になりましょうと2人で決めておりました。 なので、夫が亡くなった際の戒名もお経も真言宗です。 その事を友人に話したら、次男であろうと夫の実家の宗派と同じにするんだよと言われました。 最近、仏壇を購入しました。 仏壇内には真言宗の掛け軸も揃えたので、後は魂入れをしてもらうだけです。 当然、真言宗のお坊さんに魂入れをお願いしようと思っています。 夫の実家の宗派とは違う宗派って駄目なんでしょうか? ちなみに、私の実家の宗派は真言宗です。
病気平癒、健康長寿、無病息災などを願って薬師経を薬師如来様の仏像の前で読誦しています。ただ、長いので重要な部分のみを読誦したいのですがどの部分を読誦すればよいでしょうか? それとも分割して読誦していったほうが良いのでしょうか?
お坊さんの回答をみてたら相談者が連続して、「今の苦しみは仏様が与える修行だ」という認識に、お坊さんの皆さんは全く否定されておられません。 「苦難は神が与えた試練だ」はキリスト教の考えではありませんか? 四聖諦を初めとする仏教の思想では現世の苦しみは修行とかいうのは否定されてませんか? 私は、相談者に修行だから我慢しろと言ってるように見えます。救いになってないのではないでしょうか? 苦しみはあるが、それを解決する方法があるとブッダは説いたのではないでしょうか? 生かじりの知識なので解釈を間違っているかもしれません。分かりやすく解説していただけないでしょうか?
こんにちは、お世話になります。38歳の女です。 子どもを産んでから万事ありがたく思うようになり、手を合わせて祈る対象を設けたくなりました。 ①何を拝む対象にしたらよいでしょうか。 夫は次男でお仏壇がありません。 仏像をお迎えするのは恐れ多い気がしますが、こんな気安い気持ちでもよいのでしょうか。 (お坊様や行者さん、熱心な信者さんが拝むためにするものだと思っています) また、拝む仏様もどの仏様をお祀りするか決めかねています。 どのように決めたらよいでしょうか。 ②どの宗派をよりどころにしたらいいのか悩んでいます。 実家は日蓮宗、馴染みがあるのは真言宗(数年預けられた母方で毎晩祖父母とお教をあげたので)、夫の実家は浄土宗です。 2年前に夫の実家の近くに引っ越したので馴染みのお寺はありません。 神社でお札をいただきお祀りしようかとも思いましたが、 夫が独身の頃お葬式に参加する際お数珠がなかったので100円ショップで買ったと聞いてひっくり返りそうになり、私は仏教徒なんだなと思ったのでこちらで相談させていただきました。 アドバイスをよろしくお願いいたします。
いつもお世話になっております。仏教には多くの経典がありますが、一番、優れている経典はどれでしょうか?私は何かで法華経が最高経典だと聞いたのですが。またある新興宗教は涅槃経が最高経典だと言ってましたがいまいち信用出来ません。明確なご回答お願いいたします。
私は以前から仏様神様に対して失礼なこと無礼なことを考えたり想像してしまいます。 今日は、南無阿弥陀仏を言うときに、私が小声でぼそぼそと言っていたので、なむあみだぶつ→のぶつの部分(つをはっきり言わなかった)がぶすになり、これだと仏様に対してそう言ってしまったことになるのか、バチが当たるのか、仏様から救ってもらえなくなるのでは、など考えてしまいました。 大切な言葉なのにバチ当たりなことを考えてしまいごめんなさい。 治そうと思ってすぐ治せるものでなく、ごめんなさいと謝ることしかできないのですがそれでも大丈夫でしょうか?
法然上人の直弟子の流れの宗派として現在、浄土宗(浄土宗も鎮西、証空の流れと捉える事ができると思います。)と真宗系があります。 しかし、浄土宗では、善導大師の著作も法然上人のお言葉もよく拝読し、両大師を仏壇でお祀りしておりますが、真宗系(全派までは分からないですが)では、親鸞聖人の著作を拝読し、親鸞聖人、蓮如聖人をお祀りしております。 そこで疑問なのですが、真宗系は善導大師、法然上人をお祀りしたり、お言葉を勤行でお読みすることはないのでしょうか? 同じ法然上人の流れなのに、真宗系は親鸞聖人の教えというイメージが強い様に思います。 派ごとに少しずつ違うかもしれませんが、ご教示いただけますと幸いです。
今、金曜ロードショーでゲド戦記を見てるんですが、その中で出てくる『テルーの唄』は心がテーマなのかなと思いました。 そこでふと思ったのですが、心といえば仏教、主に禅宗系が特に扱っている概念だなぁと思いました。そこで、この歌を仏教的に解釈するとどうなるのかなと思いまして、皆様の智慧をお借りしたいと思い、質問しました。 禅宗の方に限らず、様々な宗派の方々からの沢山のご見解をお願いしたい次第です。よろしくお願いいたします。
天台宗の方々にご質問があります。 よく、巷では「朝題目、夕念仏」と言いますが、天台宗でも実際に「南無妙法蓮華経」と唱えているのでしょうか? 念仏を唱えているのは見たことあるのですが、お題目を唱えているところを見たことがなかったので、疑問に思いました。 恐れ入りますが、天台宗の方々でお答えいただければ幸いです。
浄土宗です。 1,釈迦と阿弥陀如来はどのような関係なのでしょうか? 2、寺の本堂や家庭の仏壇に釈迦(釈迦如来)の像が無いのはなぜでしょう? 浄土宗出版の「毎日のおつとめ(日常勤行式?)」の四奉請には「・・・奉請 釈迦如来入場 散華楽 奉請 弥陀如来入場 散華楽・・・」とあります。 よろしくお願いいたします。
やはり悩んでしまいます。 僕は昔に多くの過ちを犯しています。 前の質問やプロフィールなどにも書いてありますが、不正行為、盗み、淫乱なイタズラ等犯してしまっています。 今は、反省しなるべく誠実に生きようと良い行いや、自分なりに償おうとしています。でも、過去にやったことは消えません。毎日地獄に行くのか不安です。 過去に罪を犯したらやはり地獄に落ちてしまうのでしょうか?
こんにちは。いつもありがたいお話をしていただきありがとうございます。 お聞きしたいのですが、時々自分の心を見つめても何が原因なのかよくわからない時があります。そういう時はどうすればいいのでしょうか。 今執着しているな、これは慢心だな、などとラベリングすることで心が軽くなることもあれば、心を見つめてもよく見えずずっと何かに囚われている感覚がすることもあります。 うまく言葉にできず分かりにくくなってしまい申し訳ありません。 しかしそういう時はそういうものだと受け入れるしかないのでしょうか。
三界から想受滅を経て解脱する際に、五蘊の中の色薀は無色界で消え、想薀・受薀は想受滅で消えますが、残りの行薀と識薀はどうなるのでしょうか? また今後新たに解脱する人が現れることはあるのでしょうか?
いつもお世話になっております。 先日、認知症の人に絡まれました。 無視して距離を取ったら、今度は 私のそばにいた少年に絡んでいま した。 その人は私の事を指さして何やら 捲し立てていて、少年は困り果てて いたので 「お兄ちゃん、その人無視しな!」 と伝えて逃がしました。 そこでふと考えたことが あります。 「知的障害の人が性犯罪 (邪婬)をした」 「認知症の老人が、同じ病室 の人を殺害した」 などの痛ましいニュースが 流れてきます。 先述したほか、 知的障害の方から怖い事を されたことがありますし、 私自身も、「悪い障害者と 同一視されたくない!」と 思うあまり、精神病院の最寄り 駅で患者とみられる人を捕まえ 暴言(悪口=あっく)を吐いて しまったことがあります。 彼らは、現世の司法の下では 「心神喪失者」と呼ばれ、 刑務所ではなく、刑務所とは 別の、専門の矯正施設へ送られ ます。 しかし、死後はどうなるの でしょうか? 仏様はどう見ている のでしょうか? 心神喪失とは、いわば 「やっていい事悪い事が 生まれつき(同然に)わから ない」 状態です。 彼ら彼女らは画一的に「殺生を したから」と地獄に堕ちて しまうのでしょうか。 それとも、阿弥陀様などの 仏様が迎えに来て、懺悔と 修行、つまり、やり直しの 機会を与えてくれるの でしょうか?
不空大可畏明王観世音菩薩様までは知っているのですが、調べても一部のみで詳しい内容が出てきません。仏教から名を消された方なのでしょうか? 陰陽道と関わりあると聞いていますが本当のことはよくわかりません。