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「心構え・生きる智慧」を含む問答(Q&A)一覧

他人の言葉を真に受けないためには

いつもありがとうございます。 最近は比較的穏やかに過ごせているのですが、以前から気にかけている事について知恵をお貸しくだされば幸いです。 私は、周囲の人から言われた事を真に受けすぎるきらいがあります。 例えば自分の事に関して言えば、オタクっぽい・出来が悪い・性格がキツイ……などという事を言われると「私ってそうなのかも?」と思い悩んでしまいます。 他人の事では、「○○さんってこんな人なんだよ」「××さんのこういう所が好きじゃないんだよね」などと言われてしまうと、「この人と○○さんは仲が良くないのかも…?」「この人の前で(××さんのような)行動は慎むべきかな?」などと余計な気を使って疲れてしまうんです。 自分でも、ひとつ何か言われてしまうとその事についてずっと悩んでしまう自覚はあり、またこれまでに複数の人から「あなたは真に受けすぎ、考えすぎ」と言われた事があるので、余程なのだと思います。 (すごく昔に、ハスノハのお坊さんにもそのように回答を頂いた事があります…苦笑) 他人にとってはちょっとした愚痴のつもりで話したであろう内容も、真剣に考え込んでしまいます。 誰かに何かを言われたとしても「ふーん、そうなんだ」「あなたはそう思うのね」というような柔軟さ・自分の軸の強さを手に入れたいのです。 また、気にしないように気にしないように…と思うようにしていると、余計気にしてしまうのも難点です…。 何か良い方法はございませんでしょうか? よろしくお願いいたします。

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成功する意義を疑い始めてしまいました

私は元来失敗した時の事を考える人間でした 多くの事で失敗への不安を感じ、失敗するかもしれないから、失敗した場合のプランも用意しておく それは私の不安を和らげてくれるもので、悪い事ではなかったと今でも思っています ですが、最近になって成功した時の事を考えると、成功する意義がわからなくなってしまいました 9月28日からセンター試験の出願が開始されましたが、書類に必要事項を記入するのも気が重かった 大学に合格しても、大学の勉強に付いていけるのか、自分に一人暮らしできるのかという不安があります それを乗り越えて卒業・就職できたとしても、その大学の卒業生として期待される仕事をこなせるのかという不安があります 一つの不安を乗り越えると、新たな不安が現れます 私より少し下の世代は、小学校から実用的な英語や論理的思考力を養うためにプログラミングなどの授業を受けるようです もうじき多くの仕事をAIがこなせるようになるようです 今はそういった、様々な変化の時代だと思います コロナウイルスの影響でこれまで誤魔化せていた様々な問題点が浮き彫りになり、行政の方々も無視できなくなって更に変化は加速するかもしれません そんな先の読めない未来を思い浮かべて、果たして私の目指してきた成功が意味のあるものなのか、疑ってしまいました 失敗した時の対処をあらかじめ考える事で、私は失敗を乗り越えてきました 乗り越えられないような致命的な失敗は未だ経験したことがありませんが、変化の時代の中にいて、何がいつ致命的な失敗に繋がるのかもわかりません 私には、成功が致命的ではない失敗と同じ事のように感じてしまいます 失敗をポジティブに捉えるのではなく、成功をネガティブに捉えてしまうのです 目標の正しさを見失ってしまったような気がします

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一切皆苦の中で幸せになる道とは?

ご覧いただきありがとうございます。 これからの生き方を考えていく中で、一切皆苦という言葉に出会いました。 この世が一切皆苦、思い通りにならないことばかりであるなら、なにも持たない人が一番幸せということになりますか?例えば、天涯孤独で、夢や目標は特になく、その日を暮らせるだけのお金を持ち、日々目の前にあるものを受け取っていくだけの人が一番幸せなのでしょうか? もしそうだとするなら、大切な家族、友人に恵まれ、仕事も財産もあり、夢や目標に向かって日々努力して生きる人のことを素晴らしいと思うのはなぜでしょうか? 今まで、夢や目標をもち努力することは良いことだと思ってきました。でも、一切皆苦という言葉を知り、夢や目標を目指すことをやめ、自分に巡ってきたものだけを受け入れていく方が幸せでいられるのかなと思いました。 でも、それは今までとは真逆な生き方なので、本当にそれでいいのかわからないでいます。がんばれば何とかなる未来もあるのではという思いもあります。 一切皆苦を理解していれば、結果たとえひとりぼっちでも貧乏でも平気になるのでしょうか? 正しく理解していない部分があるかと思います。勉強不足で申し訳ございませんが、勘違いしている部分があれば教えていただけませんでしょうか? 何卒よろしくお願い申し上げます。

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吃音症。自殺したいです。

高校二年生の庄子と申します。 私は生まれつき吃音症と言う障がいを持っています。 障がいと言っても以前までは少し言いにくい言葉があるだけでほとんど健常者と同じように話せていました。 しかし、半年前やっていたアルバイトで「いらっしゃいませ」と言えなくなったことにより話すことが異常に怖くなりました。 時間がたてば良くなるかと思っていましたが日に日に不安は悪化していて、最近は見ているアニメの台詞まで「この言葉は言いにくい」とか思ったり、自己紹介の場面でドキッとするようになってしまいました。 コンビニに行くだけでもレジで言葉がちゃんと出るかと毎回考えてしまいます。 映画館や博物館などに行くときも受付で喋らなくてはならないため、私はもう一生それらの施設に行けない気がします。 ですが、これから生きていく中で「自己紹介」をする機会は多くあると思います。 もし自分の名前が言えなかったら周りの人が不審に思う。周囲の視線、怪訝な顔、すべてが怖いです。 何をしてても言葉が出なくなる不安が付きまといます。 顔を洗っているとき、シャワーを浴びているとき、その上この前はみんなの前で言葉が出なくなる夢を見ました。 このまま一生吃音の不安が付きまとうならいっそ死んだ方がマシなんじゃないかと思います。進学しても就職しても吃音で自己紹介さえできないのでは生きていても仕方ない気がします。 これから先の私の人生、うまくいく気もまったくしません。 将来になんの希望もありません。 死にたいのに「死ぬのが怖い」「まだ10代なのに」という気持ちがどこかにあります。 かといって生きたくもないため、ただ不安を紛らわすために毎日のように自傷行為をしています。 病院には親が許してくれないため絶対に行けません。相談できる相手も一人もおらず八方塞がりです。 長文・乱文失礼しました。 お坊様の考えを教えていただきたいです。 回答よろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 75
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相手を訴えてもいいでしょうか

はじめまして。 少し前に人生で一番辛い経験をし、心のありようとして藁にもすがる思いで仏教の教えに触れる機会を得ました。 まだまだ理解にはほど遠く未熟ですが、辛くなってきたとき仏さまの教えを思い出して救われることが多い日々です。 仏さまの教えに近い生き方をしたいと思いますが、果たして私がしようとしていることが間違っているのか教えて頂きたく、質問させてもらいました。 具体的には、世界で一番信じ愛してきた夫の長年の裏切りでした。 分かってからは夫が別人のように感じられ、酷い死を願うほど憎く感じました。しかし憎しみや怒りが己の心を苦しめていることに気がつき 「人生辛くて当たり前なんだ」 「辛いのは自分の心がそうさせているんだ」 「人の気持ちは変わるんだ」 そう思って今少しずつ現実を受け入れつつあります。 夫はそれでも、これまで私のためにたくさんの優しさと誠実さを注いでくれていたこともあり、感謝もしています。 今となっては離婚したいと考えていますが、そうなるにしてもできるだけのことをすると言ってくれていて、できるだけ話し合いで決めていきたいと思っています。 ただ、相手の女性だけはどうしてもこのままにしておけないという思いがあります。 気が強い人で、私に対する理不尽な罵詈雑言、やり口など、周り事情を知る人は皆、絶対許しては行けないと言います。自分にも子供や夫がいながら、うちの家庭を壊し子供から父を、私から夫をを奪えれば満足だという感じが伝わります。私にばれたと知ってもしらんふりをしています。このままこちらの家庭だけ壊されるのは理不尽であると感じます。 何年にもわたる不定関係の証拠はある程度押さえており、訴えることはできますが、訴えたら夫は結局私への怒りを持つでしょう。そうだとしても訴えたい思いはあります。 (夫と彼女は恐らく仕事では繋がっており、今時点でまだ男女の仲なのかはわかりませんが訴えたら夫にはバレます) ただ、仏さまならどう仰るのだろうか。愛別離苦、怨憎会苦を受け入れて憎しみを持たず訴えることはやめなさいと仰るのかな。仏教の精神世界では、そうすべきではないのかな、とそれが気になります。 相手方から見れば因果応報なのでしょうが、仏教の世界観でいえば私のしようとしていることはやはり間違っているのでしょうか。

有り難し有り難し 32
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希死念慮と闘ってきました

はじめてお話させていただきます。よろしくお願いいたします。 何年も希死念慮に抗ってきました。 死んではいけない。生きて責任を全うしようという意思はあります。苦しくて涙が出るのは、死にたいという気持ちを死んではいけないという考えで打ち消そうとするときです。 気持ちを押し殺さなくても、終わりの準備をしながら生きればいいと己に言い聞かせてここまで長らえました。生命保険、連絡先の整理、持ち物の処分、仕事のマニュアル作成……でももう頑張れそうにないのです。 愛犬に病気が見つかりました。 なぜ犬がこんな目に?私の病気だったらよかった。延命治療は苦痛では?最後まで一緒にいたい。その後は? 私の役目も希死念慮も関係ないところで、犬の存在だけは幸福そのものだったのに。 私はこのさき何十年も死ぬ準備を続けていく自信がありません。心が落ち着かず、最近は物を捨てる行為をとめられません。 その時がきたら、誰かにお疲れ様と言われたい……などと贅沢なことも望んでしまいます。お坊さんは、自死するような愚か者に労いの言葉はかけてくださいませんか? 最後まで犬に寄り添うことができたら、もう一度ここへきてお話してもいいですか?

有り難し有り難し 25
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実の親に殺して欲しいと懇願されます

 私には難病患者の母がいます。病名は、多発性硬化症という病気です。  症状として、激しい倦怠感やたまに刺されるような激痛に襲われるというものです。しかし命には別状はないらしく、寿命を全うするまで永遠と終わることない激痛を感じ続けるというものです。この現実に母親は精神を病み、うつ病になってしまいました。  ところで、私のは弟がいるのですが受験に大量の学費を必要としており、父の稼ぎを喰らう勢いで家計を圧迫しています。私も微力ながらアルバイトをしていますが、奨学金を借りて大学に通っています。  その弟にはここまで母の症状が酷いと話しておらず、私と父と数人の親戚だけが圧迫する経済事情や母の鬱病を知っています。弟は私の浪人を合わせた学費を現役の今で既に超えており、なにも知らずにヘラヘラしています。何か言おうとしても、母からやめて欲しいと止められ、何も言えていません。  深夜にそんな弟が寝と、泣き崩れた母から殺してくれと懇願されます。  そんなとき、殺してあげた方が母のためになるのではないかと考えてしまいます。自殺はだめなことであると知っています。しかし、苦しみ続ける母を楽にしてやりたいとも考えてしまいます。  また、最低なことですが、私がいっぱいいっぱいのとき、そんな母や弟を鬱陶しいと思ってしまいます。このように考える私は最低です。怖いですが、無限地獄に落ちる覚悟もできています。  ただ、母を終わりのない難病に苦しませ、なにも知らずに能天気なことを言い、家計を圧迫する弟を許すことが正しいのでしょうか。そうだとすれば、許せない私は人として間違っているのでしょうか。  ご教示いただければ幸いです。よろしくお願いします。

有り難し有り難し 31
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悟りとは..............?

こんにちは。お世話になっております。僕は真理を求めて仏法を学び、座禅の修行も行っている在家信者です。 僕は印可を受けたとされるお坊さん(名前は書きません)の本や法話を聞いたことがあります。 ※この方は禅宗の方です。 僕は、そのお坊さんの言っていることを「なるほど」、「たしかにそうだ」と深く納得することができます。僕が悟りを得ていると言うと、明らかにおこがましいお話です。 ですが、個人的には若干な手応えがあります。 これは曹洞宗でのお話ですが、「修証一致」という言葉、これは「修行させてもらっている」と言えると思います。なぜ修行できるのか、それは生かされているから。修行していることが仏法の中に生きている何よりの証拠、ということから修証一致思想が出来たのだと思います。 だとしたら、草木国土悉皆成仏も理解できます。草木や国土さえも、仏法の中にある命そのものなので、仏そのもの。成仏は仏に成るというよりも、仏に成っている、ということだと思います。これが「無功徳」や「無智亦無得」だと思います。自己そのものが仏法なのだから、得るべきものがない。 この身心さえも、自己を超越している。眼耳鼻舌身意、これら全て苦です。見えるというより、見えてしまう。聞こえるというより、聞こえてしまう。意識だって、考えたくなくても座禅をしていると勝手に雑念が出てくるものです。「自己」と定義できるものはどこにもない。このことから、自己(妄想)と法を分けることができないのは明らかです。自分の五感を通して物事を認識していると考えますが、事実はその身心も仏法の働きです。 ですが、ここからがよく分からない。僕のは結局、理屈に過ぎないんじゃないか?と思っています。もちろん、理屈では自分は仏だということは分かります。しかし、それを実感できていないのです。現段階では、「自分が無い」というより、「今まで自分自分って言ってたけど、自分って何?」 「自分」というものが分からなくなった感じです。ここからが本題ですが、悟りというのは本当に実感として自分が無くなる感覚になるのか?ということです。つまり、悟りというのは「境地(特別な心境)」なのか、ということです。 仏教に詳しい方、ぜひ教えて頂きたいです。

有り難し有り難し 35
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