hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

「生き方・心構え」を含む問答(Q&A)一覧

無性に死にたくなります

はじめてこちらで質問をさせていただきます。 わたしは12歳の頃から死というものをよく意識するようになり、定期的に虚無感や死に対して憧れるようになり、今年29歳の年になりました。 両親健在で今の今まで不自由なく育てていただきました。社会人になり、一般的な生活は自身の給与で送れています。友人はとても少ないですし、恋人といえる人もいませんが、不自由はなく生きています。 ただ、無性に死にたくなります。 何故だか涙が出てくることが多々あります。 何故、人に嫌われ、迷惑をかけてまで働いて、生きていかなくてはならないのでしょうか。 何故、老後の生活を心配してまで、今お金を稼がなくてはならないのでしょうか。 何のために生きてるのでしょうか。 人並みなしあわせは感じられています。 でも、死んではいけない理由ではないと思います。 わたしが死ぬと悲しむ両親の顔は想像できます。が、わたしが死ぬことはいけないことなのでしょうか。両親には悲しんで欲しくないですが、わたしは消えてしまいたいです。 何故こんなに死に憧れるのかわかりません。 ただ、生きる意味というのがそもそもない気がしてなりません。 両親が亡くなったらすぐに死ねるのに、とさえ思うこともあります。 何故、生きているのか。 何故、死ぬことは悲しまれるのか。 何故、死んではいけないのか。 何故、死は魅力的なのか。 お考えを教えていただきたいです。

有り難し有り難し 9
回答数回答 1

嫌う気持ち、嫌悪感

介護施設で働いています。昨日はレクレーションを担当しました。 前回もここで相談させていただきましたが 自分に対する敵意をもつ利用者から暴言的なヤジが飛び心が折れます。 私がレクで話し始める前から、あ、嫌いな奴だ、という言葉を投げかけられ。。レク中には人前でこき下ろしてやろう、、という目つき、実際も大声で暴言を吐かれます。 よく仏教ではその人の言葉だけを受け取りましょう、表情とか嫌な態度、怒鳴り声はスル―して、などと言われます。 1対1であればなんとか対応できますが20人くらいの人前で攻撃されるので、やはりシンドイです。 人様の排泄介助、入浴介助、などなど忙しく走り回ってきて最後夕方のレクでこのようなことがあると空しい気持ちになります。 帰宅後も翌日も気持ちがふさぎ込みます。そしてまた次のレク担当の日まで憂鬱になる、、という日々。介護の仕事自体は自分に向いていますが、人前で中傷されることで仕事そのものにすっかり意欲を失っています。 その利用者は80代のお婆さんですが、私は彼女のことが本当に嫌いです。周りスタッフはその方に対し腫れ物に触るような態度、もしくはゴマをするような接っしかたをしています。 私はその方に対する嫌悪感が大きいため媚びるような態度ができません。それも一つの煩悩でしょうか。 何を言われても我慢し相手を許すという気持ちが持てません。

有り難し有り難し 55
回答数回答 3

来世不幸にならない為に今できること

私は、輪廻転生を信じています。 今生は色々な面で恵まれていたので、次の人生どうなるだろう?と少し心配です。 次の人生のために、準備をしたいと考えています。来世も今と同じかそれ以上のレベルの容姿、能力、家庭環境で生まれるためのアイディアがあれば教えて欲しいです。 私の我欲で申し訳ありませんが、次の人生下がるのは嫌だ、怖いという気持ちは、自然な心情だと思ってます。そのための努力は受け入れます。次は生まれてこなければベスト、という思想もあるのでしょうが、 生まれないですむ保証はないので、生まれたとしても下がらないで済む仏教的な方法を知りたいです。 また、容姿の優れぬ人を見下したり意地悪したら、報いを受ける、来世では自分も普通以下の容姿になってしまう、という説をどこかで聞きました。なんとも恐ろしい説です。意地悪はしませんが、自然発生的に、やはり優劣を意識することがありますから。これは自然に心にわくのでコントロール不能です。だからといって、口に出したり行動で差別したりは、していません。心のなかで、やっぱり容姿の優れない女性は大変そうだなぁとか自然に沸いてくるのも罪なのでしょうか?それが悪因悪果になってしまうのでしょうか。 以前は自他の容姿が優れていようがいまいが、そんなこと気にせずいましたが、友人Aが卑屈な性格で自虐発言をする人で、それを聞いていると、私の中でも容姿や能力の優劣の意識が芽生えてしました。 表面上はフォローしていますが、心の中では、否定しきれません。実際に彼女と私とで人生で経験してきたこと、起こる出来事があまりにも違うからです。容姿が優れない女性の人生はハードモードで、素敵な楽しい出来事が少ないんだなと話を聞いたり実際を見ていたら感じました。 仮に来世で容姿のレベルが普通以下になってしまったら、すごく嫌だし、そんなことになったらどうしよう!と怖いです。 この恐怖と心配から、お坊様たちに、仏教的なちえで 助けて頂けたら・・!という質問です。 そんな来世にならないためのアイディアや方策がありましたら、教えてください。   ちなみに 来世のためだけではないですが、 見えない世界を信じているので、 先祖供養やおつとめなどは、人より熱心で、 寄付や親切は人並みか少し多目にしてるタイプです。 他にもできることがあればやっておきたいので、どうぞ教えてください。

有り難し有り難し 49
回答数回答 2

生きることは正しいですか?

先だって、「風俗経営者の息子として」というタイトルで質問させて頂きました。真摯な回答をありがとうございました。 あまり間をおかずに恥ずかしい限りですが、もう一つだけ質問がございます。 生きることは、そもそも正しいことでしょうか? 私は小学生の頃、宮沢賢治が好きでよく読んでおりました。その中でも好きな童話に「よだかの星」があります。よだかという醜い鳥が、迫害と、なによりも生きるために他の命を犠牲にすることを悲しみ、自らを燃やして美しい星になる話です。そんなこともあって、幼い頃からぼんやりと「他人のために迷わず自分を犠牲にできる人間になりたいな」と思っていました。 それから十数年が経ち、私はすっかり凡俗な人間になってしまいました。他人より優れたいと願い、魅力的な異性と交わりたいと欲し、美味しいものを腹いっぱい食べたいといつも思っています。 幸せになりたくて、たまらない。惨めなまま死にたくない。一般の人よりは何倍も死にやすい難病であることも手伝って、そう思うことをやめられません。 しかし、こうも思います。私が幸せになることは、他の人が掴めるかもしれなかった幸せを奪うことではないか?と。 私が何かを食べなければ、それを他の誰かが食べられたかもしれない。私があるところに就職しなければ、他の誰かががそこで働けたかもしれない。私がある女性と結ばれなければ、彼女に恋していた他の男が結ばれたかもしれない。私が公的な扶助を受けなければ、税金は他の人を助けたかもしれない。 私が生きていなければ、私がこの世界から奪い取る全ての幸せは、他の誰かのものだったかもしれない。 そう考えると、私が生きていることはあまりに非道徳的なことのように思えるのです。 私が死ぬことは、立派で、道徳的なことじゃないのか?むしろ周りの人たちに甘えて、生にしがみつくことこそが煩悩であり、振り払うべきものなのではないか?私は度々そう考えるようになりました。 自分でも、過激な考え方である自覚はあるつもりです。しかし、「自分はあまりにもみっともなく生に執着している」という感覚がどうしても拭えません。 自分が今すぐ死ねば大勢の人が助かるとしても、自分の幸せを求めて生きることは正しく、道徳的なことでしょうか? 取り止めもなく幼稚な悩みではございますが、何卒よろしくお願い申し上げます。

有り難し有り難し 55
回答数回答 3

祖母の面倒を見たくない

26歳アルバイト、実家暮らしの女です 不快感のある話になるかと思いますが、どうかご相談させてください 私は今実家暮らしです。70代の父と50代で膝が悪く昔から気持ちの不安定な所のある母、一つ下のアルバイトの妹と一緒に父の年金と姉妹が出す少しのお金を頼りに暮らしています 近くに亡くなった父方の祖母が住んでいた母屋があります(もう人が住んでおらず、ネズミが出たり屋根の一部が壊れているそうです) 相談したいのは母方の祖母についてです。現在70代後半で、とある宗教の信者です。独り暮らしをしています(少し離れた所に祖母の兄(もう亡くなっています)の家族が住んでおり、面倒を見てもらっているようです) その祖母から今日電話がありました。「あなたの所の母屋空いてる?実は自分の家の屋根が壊れてしまい、そっちに行きたいと思ってる」 これを聞いて、私はものすごく怖くなりました。祖母の面倒を見なければならなくなるのではと不安になりました。それで、強い口調で「屋根を直せるか確認してみたら」と何度も繰り返し言いました。 祖母は悪い人ではありません。でも、耳が悪いせいか相手の話をよく聞かず嘘か本当か分からないことを大声で話し続けます。それが怖いし、そんな祖母を見てると自分がみじめな気持ちになってきます。 最初に少し書きましたが、私は26歳にもなってアルバイトです。最近シフトが少なくなり、他の所のかけもちを始めようとしている有り様です。 これまで私は不登校、定時制、大学編入したが中退と、きちんとしたことがありません。 その上祖母を助ける財力もないし、後々祖母の面倒を見る優しさもないのです。それに今さらに気づきました 父は真面目ですが器用でなく、耕作放棄地をうまく管理できず周りから言われ、ストレスをためてしまうような人です。 母はヒステリーになりやすく頼れません。(それでも昔よりはマシになってきましたが)妹は介護をするタイプではありません。 とにかく将来が不安で、怖くてたまりません。胃がもやもやします。そして、今まで自分の性格を優しいと思っていたのに、そうではなくとにかく自分が大事で、他の人の幸せを望むことすら自分のためだったと気付き、あさましさに気持ちが悪くて、でもとにかく嫌な事に関わりたくない自分が消えません みっともない話で申し訳ありません。どうしたら怖くなくなりますか

有り難し有り難し 11
回答数回答 1

2度目の留年をしてしまいました

はじめまして。質問を失礼します。 美大の2年生なのですが、2度目の留年がほぼ確定してしまいました。   しかも親の過去の暴力(完全に私に非があった上に、親も病気だったので仕方のない事でした)を内心で言い訳のように使い、完全に人のせいにして何も改善しようとしなかった結果です。 挙句、今にも自殺して逃げてしまいそうです。   1度目の留年を打ち明けた時は、親は勿論怒りましたがすぐに許してくれて、その後は本当にいつも通りに接してくれました。 学費は全て親が払ってくれていますし(留年分の費用すらろくに返済できていない状況です)ましてや美大なので、親には本当に頭が上がりません。     親に2度目の留年の事はまだ伝えられていません。 ここで死んでしまえば両親の期待を裏切った上にここまで育ててくれたお金と時間を全て持ち逃げする事になり、一番最低な行為となる事は分かっています。   しかし、死ぬ以外にもうどうしたら良いのか分かりません。 心を入れ替えてやり直そうと心に決めたはずなのに、結局自堕落により同じ事を繰り返しています。   大学を中退した方が良いと思っているのですが、それも結局逃げに他なりませんし、親が今までに払ってくれた学費を全て無駄にする事になります。 ですがこのまま通い続けたところできっとまた留年します。   親に留年を打ち明ける勇気すらありません。本当に、いよいよ留年が確定した途端、衝動的に最低な逃げ方をしてしまいそうで怖いです。   住み込みの仕事に就いて働きながら親にお金を返して暮らそうかとも考えていますが、やはりこれも逃げでしょうか?     本当にどうしようもない人間で、親や親戚、兄弟、私をこの道へ進ませてくれた先生方、全ての方々に申し訳ない気持ちでいっぱいです。   こんな状況になっても未だに過去の出来事や親や精神的な病気(これも本来大した事ではないのです)のせいにして、挙げ句自殺なんかに逃げようとしている私に、どうか叱責をください。   わがままなお願いですが、今後どうしていくのが周囲にとって最も望ましい事であるのかもどうかご教授ください。 どうかよろしくお願いします。

有り難し有り難し 9
回答数回答 1

生きるのが辛いです

数ヶ月ほど前から 死にたい、消えたいと思ってしまいます。 人と会いたくない、喋りたくない気持ちです。 自殺の方法を考えたり実行しようとしたりしました。それでも、失敗したときのことを思うと怖くて出来ませんでした。 生きるうえでの喜びや楽しみ、生きがいは自分で見つけなくてはいけないのはわかっているのですがそのこと自体も辛いです。 きっかけは就活です。自己嫌悪に陥り、大学を卒業後なろうと思っていた管理栄養士という仕事も自分がやりたいことではなかったことに気が付き、今まで奨学金をかりて親に大金を払ってもらって通わせてもらったことが無駄になってしまったことへの罪悪感と4回生になるまで自分の気持ちに嘘をついていたことに気がつくのが遅かったことに対して後悔の念が渦巻いています。 友達やその時付き合っていた彼氏は、みんな自分の夢や勉強や就活に対してがんばっており、そんな中でこんな恥ずかしい自分の話をすることができないという気持ちになり、親にも申し訳なく思い、周りと連絡をたってしまいました。 現在は、親がこのような状況を知り、私を心療内科の元へ連れていってくれたり、カウンセリングに通わせてくれたりして、2週間ほど経ち、自殺をしようという行為はやめましたが、消えたいと思う気持ちがなくなりません。一人暮らしをしていて、お風呂に入ったりご飯をたべたり日常生活を送ることで精一杯です。 親や病院の先生とも話し合って、就職は卒業してから考えることにして、今は卒業を目指してがんばろうということになりましたが、 わたしの大学の学科を卒業するには来年の2月に行われる国家試験のための対策として行われる模試で6割をとることになっています。その勉強も手につかず、10月に発表の卒業研究もチームで行っていますが、頭の回転が悪いせいで先生から教えていただいても理解することが難しく、わたしのせいでうまく進めることができません。このままだと間に合わないのではないかと思います。 自分の力のなさと根性がないせいで親や友達や大学の先生に対して心配や迷惑をかけてばかりです。大学をやめて逃げても親に迷惑、大学に居続けても友達や先生に迷惑をかける、辛いばっかりだと思ってしまいます。 質問になっておらず、また分かりにくく長い文章になってしまったこと申し訳ございません。 こんな私ですが、なにかお言葉をいただけないでしょうか。

有り難し有り難し 18
回答数回答 1

老化ですか?

社会人もうすぐ10年目になりますが、最近物事に興味がわきません。 私は小さい頃からアニメやゲームが好きで、学生時代は寝食を忘れるほど熱中していました。 また、なんでもない景色や人の発言から空想したり、イラストを描くことも好きでした。 自分が空想の世界に惹かれ、世間知らずなところがあると思っていたので、就職が決まったときは「これからは地に足をつけた社会人になりたい」という気持ちがありました。 今の仕事は感情労働特有のしんどさこそありますが、ブラックな労働環境でもなく人間関係も悪くありません。 楽しいこともあるし、勉強になることもあります。 ただ、社会に出る前に感じていたような好奇心とかワクワク感とか想像力とか、そういう生きてる感覚が最近あまり感じられません。 好きだったゲームやアニメにも惰性的に触れている状態になってしまっています。 仕事や生活といった現実的なことで頭がいっぱいで、空想する元気がありません。 かといって新しい趣味も見付からず、最近は何を食べたいのかもよく分からなくなってきました。 時折無性に寂しさや焦りのようなものを感じます。 これらの気持ちとの付き合い方のようなものがあれば、ご教示いただけますと幸いです。よろしくお願いします。

有り難し有り難し 35
回答数回答 3

仕事も生きる事も疲れました

乱文長文失礼します。 昔から自己肯定感が低く、必要以上に気を使ってしまう性格のため、 組織で人との関係性構築が必要な今の仕事が苦痛で仕方ありません。 一時期は自営業をしておりましたが、 その際は全て自分の責任・判断で進められたので仕事は楽しかったです。 接客業をしていた時も、今程の責任感は必要ないので楽しく働けました。 今は商社に勤めていますが、 得意先や上司、関わる人の意見や立場、機嫌を考えて働く毎日です。 「私のこの判断で上司が責任を取らされたらどうしよう」 「この進め方で合っているか?使えないと思われているのでは」 といった、本来の仕事の目的から外れた事ばかりで悩んでしまいます。 問題が解決しない間はずっと気分が落ち込み、不眠になったり過食に走ります。 休日もその問題のことが離れず、全力でリフレッシュできません。 過去には適応障害やうつ病になり、休職したこともあります。 根本的に私は甘ったれなんだと思います。 人(得意先や上司)がやりたい事や意向に対して、 責任を取りたくないし時間を使いたくないのです。 とはいえ、怒られたり揉めるのが異常に嫌いで、 出来ない奴と思われたくないという見栄っ張りでもあり、 結局必要以上に頑張ってしまい、自分の首を締めます。 仕事をせず生きていけるなら本当に働きたくありません。 出来るのなら私の家族や友人たち以外と関わりたくありません。 「ずっと仕事をしていかなければならないのか」と思うと、全てが面倒です。 これからの人生も漠然と不安しかなく、消えてしまいたくなります。 何が伝えたいのか、、 分かりにくく申し訳ありません。 僧侶様、このような状況でご多用とは存じますが、 何かお言葉を賜れますと幸いです。 何卒宜しく御願い致します。

有り難し有り難し 12
回答数回答 1

世界一優しい戦士

以前から希死観念について相談させて頂いている者です。何回もお世話になり申し訳ありません。 これまでの相談で、私は生きる理由が無いにも関わらず原始的欲求や死の苦痛に対する恐怖、なけなしの人情などに屈して死ねない自分に苛立ってきました。そんな中で「人の煩悩、ひいては人という概念に打ち勝つ」という人生で初めての目標を持ち、それを自殺によって達成しようと思いました。 しかし、数々のご相談で皆様になだめられ、煩わしさを感じながらも踏み止まる間、ある偉人の格言に出会いました。 「戦いは万物の父である」 古代ギリシャの哲学者ヘラクライトスの言葉です。 彼は「存在する」という万物の本質を「空間や構成要素の奪い合い」つまり戦いと解釈し、万象を陰陽や男女といった対立概念で説明した人です。 しかし、彼は決して酷薄な考え方をしたわけではありませんでした。何故なら、彼の言う戦いは、相対する存在を断滅する事だけではないからです。 彼は、対立概念が共倒れしない理由として「調和」というあり方を提唱しました。対立概念が居場所を取り合って争ううちに譲歩の仕方を学び、釣り合いを取るというあり方です。それは、片方が死滅するまで終わらぬ死闘ではなく、鎬を削りながらも相手を尊重する世界一優しい戦いです。 私は、生命の本質に抗う自分を戦士として鼓舞し、死という選択肢がありながらその恐怖に屈する人々や頑なに生を説い続ける皆さんに辟易していました。そうしていれば、生に抗う自身が特別に見えたからです。 しかし、存在することは戦うことだと説くこの格言を言い換えるとこう表せます。 人間は生きるだけで戦士である、と。 生に屈したと思われた人たち、生を説く皆様は死に抗っていました。戦う相手、戦い方が違うだけの戦士だったのです。 仏道を進む皆様はことさらに凄い。不完全な自身を抹殺対象ではなく研鑽の相手として受け入れた上、他人に寄り添って共に戦っています。自分を殺そうとした私と違い誰も殺そうとしない。 世界一優しい戦士だったのです。 私は戦い方を間違えていました。今やるべきことは死を恐れて理想から遠ざかる自身を受け入れ、研鑽し続けることです。 前置きが長くなり申し訳ありません。 私は皆さんのように、万象と調和する戦い方をしたいです。 世界一優しい戦い方の心得を教えて下さい。

有り難し有り難し 13
回答数回答 1