hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

「自分の心・体」を含む問答(Q&A)一覧

自分には生きている価値がないと思ってしまう

こんにちは。 私は今、とある理由で生活保護を受給しています。今年の1月から受給し始めました。去年までは働いていたのですが、持病である精神病が悪化し、職場に通えなくなり、援助を求められる身寄りもいないことから生活保護を受給することになりました。おそらく半年は病気を快復させることに専念する生活を送ることになるかと思います。そして病気が快復したら、また働き出したいと思っています。 前置きが長くなってしまいましたが、その生活保護について、悩んでいることがあるのです。よくテレビなどで、生活保護の不正受給者の特集が取り上げられたからかわかりませんが、ネットなどで「生活保護の受給者はクズ」という意見を目にします。おそらく受給者への侮蔑を込めての呼称なのでしょうが、「ナマポ受給者」という言葉もよく見ます。どうやら彼らにとっては、不正受給者が、ではなく、生活保護を受給しているという時点で「生きている価値がない」となっているようです。 私は、こういった意見を働いている頃から知ってはいました。なので、自分が受給者になった今では、周りに知られることが恐ろしいのです。絶対に知られたくありません。まるで生活保護の受給者は生きる権利がないとでもいうような、あの否定した意見がもはやトラウマとなっています。考えてはいけないと思っているのに、毎日「自分はクズなんだろうか」と考えてしまいます。それに私の場合ですが、持病とはいえ、身体ではなく精神の方なので、パッと見は健康な人となんら変わりはありません。そのせいで、なおさら悩んでしまうのです。

有り難し有り難し 39
回答数回答 1

男性にまつわる良くない思い出

はじめてご相談します。 昔あった喜ばしくない出来事を、普通の思い出にしたいです。 私は最近いわゆる婚活を始めました。 そこでふいに、この数年すっかり忘れていた出来事を思い出しました。 大学生当時に男性の先輩に付き纏われたことです。 はじめは考えすぎかと思いました。 が、かなり露骨に避けるようにしても変わりなく、 むしろどう考えても普通はしないと思われる行動に出たため 半年位経った頃、最終的に相手へ直接、やめて欲しいと言いました。 幸いそれで、追いかけられることはなくなりました。 危害を加えられたり嫌がらせをされることもありませんでした。 それから忙しくしている内に、日常生活で恐怖心を覚えることは段々なくなっていきました。 いまでは自信を持って信頼できる男性の友人がいます。 婚活してみたことで初対面だろうと楽しく過ごせるようになっている自分を発見し、ほっとしました。 そもそも考えないでいられていたことに安心しました。 けれどこの一件を思い出してから、 お話しして楽しかったからといって、この人を信用していって大丈夫なのか と考えてしまいます。 あの先輩とも、はじめから話すのが嫌だった訳ではないからです。 せっかく関心を持って頂いた方にあらぬ疑いをかけているのでは申し訳ないです。 自分がそんな心持ちではどなたとも信頼関係なんて築けない気がします。 気にしすぎないようになりたいです。 また、10年も経ってまだ引きずっていることが情けなく、なんだか悲しくなります。 怖かったけれど、怖かっただけと思えば余計です。 こちらに相談してみようかどうしようか、またどのように書いたものか 頭の隅で考えていた間は、やっぱり気分は沈むし、 何の関係もない仕事中に脈絡もなく泣き出しそうになったりして、少し困りました。 あまり考えないほうが良いのでしょうか。 一方で、どこかで洗いざらい喋ったらすっきりするのだろうかとも考えます。 当時相談はしましたが、具体的に起きたことをまとめて話したことはありません。 思い出しても振り回されないようになりたいなと思っています。 うまくまとめられず長くなりました。申し訳ありません。 何かご意見を頂けたら嬉しいです。

有り難し有り難し 5
回答数回答 1

他人の財力が羨ましい

早速ですが相談させていただきます。私は今年から高校三年生で進路について悩んでいました。やりたいことがあり専門学校に行こうと思っていたのですが、経済的理由と家庭事情により進学を諦め、就職にしました。 後悔はないのですが、いつも裕福な家庭に産まれたらこんなことで悩まなくて済んだし、自分の好きなこと出来ただろうな、ということです。 家族全員が持病持ちで片親。収入も少なく私も何とか家の助けをしようと思っても体が弱くバイトなども出来ません。学校生活で精一杯です。そんな中で、「何々の服を買った」「何々のどこどこで遊んだ」やライブに行った、ゲームに課金したなど、クラスメイトの話を聞いて羨ましいと思ったりする、自分がいます。 特に親しい友達にも嫉妬する自分が憎たらしいし嫌いです。今は進路のことで相談されたりしますが、その悩みすら羨ましいと思ってしまいます。せっかく頼ってくれているのに、嫉妬のせいで申し訳なくて仕方ありません。 お金がないのは仕方のないことだと頭で分かっていても心では妬み嫉み捻みと酷い有様です。こんな心を軽くする方法はないでしょうか?まとまりもなく長い文ですみません。どうかご回答お願いします。

有り難し有り難し 82
回答数回答 2

好きであるとは、心に懸けるとは

失礼致します。先日はご教示ありがとうございました。 このたびはご質問をさせていただきたく存じます。 生活していると、ある物や趣味、またある人間に対して「好きである(好きになる)」という表現が用いられることが多々あります。 この「好き」という言葉につきまして、自身の中で不安定な部分があり、お伺いする次第です。 自身にも少ないながら趣味があります。ただ最近、その「好き」が趣味そのものではなく「趣味を嗜んでいる自身」に向かっていることに嫌悪感・罪悪感や不安を抱かずにいられません。 自らの存在価値がないと感じられた折、「趣味を嗜んでいる自身」にすがって心を保った経験があり(自死などを選ぶよりは遥かにマシである、といった風に)、そのような場合にはある程度有益な見方では、とも考えられました。 ですが、精神的に最悪の状況から少しなりとも抜け出してなお、その見方がなされてしまうのは、いかがなものでしょうか。趣味に対する冒涜のように感じられる部分が拭いきれません。職業でこそないにしても、自身にその道を歩む資格があるのかと疑われ、真に心を入れて取り組んでいる方々を思うにも不甲斐なさが付いて回ります。 人を好きになることについても似たように考える節の無いこともありません。 正常な形とは言えない執心を断ち切らんと、なぜ自身がその人に執着しているのかを自問したところ、その理由は一つではなく、過ちを謝罪したいと思っていたことなどいくつか考えられました。その中にはやはり「彼女を好きである自身」に拘っていた部分も見出され、これは単なる自惚れではないかと気づいた次第です。 純粋にその物事や人を「好きである」と言い、心に懸けるとは、少なくとも現在の自身にはたいそう難しいことのように感じられます。 ただ、趣味・人のいずれにしても、関わっている自身を心のうちで称揚することは、一方では対象への敬意・感謝であるとも解釈できるのではないでしょうか。それがあってこそ、その人がいてこそ自らの心身が救われたという具合です。 「好きである」ということはどうあるべきか、そもそも「どうあるべきか」という基準を意識する必要はあるのか。 ご意見をお伺いしたく存じます。よろしくお願い致します。 長文失礼致しました。 ご高閲ありがとうございました。

有り難し有り難し 13
回答数回答 2

昔のトラウマに対して自分なりの解答を見出せません

初めての質問になります。 私は仏門神格を信じてはおりませんが、お坊さんの徳の高さには敬意を表しています。 私は小学校4年生の時に不登校でした。 さらに泣き虫というおまけつき。 ある時、弟と一緒に居留守を使いました。その時、どうだったかは忘れてしまったのですが、「居留守を使えと指導したのは私だ」との弟からの告発で教育指導の教諭からひどく責められました。 当時の私は教育者に対して不信感を持っていました。約束を破られたりなどしたためです。 その為、素直に謝罪する事はなく目には涙を浮かべて居ました。 その時に教育指導の教諭から「泣いたら全部許されると思うな」と言われ、その場であった些細な面白い事に反応すれば「誰が笑っていいと言った」と責められました。 それから私は(悲しくて・感動して・嬉しくて)泣く事を一切しなくなりました。 どうしてもという時は、一人になれる場所で声も上げずただ涙だけを流しました。 それから10年間、ある時を境とするまで泣く事を悪と断じ、それによって壊れた交友関係もありました。 今だからこそお話しする事が出来るまでになりましたが、私は誰に相談する事もなくこの問題に立ち向かいそれなりのメンタルを得た事は確かです。 しかし、私はその教諭を許す事が出来ません。 もしかしたら、教諭は怒りのままに何気なくその言葉を口にしただけかもしれません。 または、私の将来を案じて敢えてキツイ言葉を仰ったのかもしれません。 しかし、今でもその事が原因で泣く事はかなり難しいです。人前で泣く事をどうしてもはばかってしまいます。 また当時の事を思い出すとどうしてもやりきれない気持ちになりイライラしてしまいます。 誰が正しいのか。そんな事は既に時間切れでありますが、果たして私一人が責められなければならなかったのでしょうか? 小学生の私の理解力が足りなかった為に自ら引き起こした呵責なのでしょうか? それとも、小学4年生という10歳になるかならないかの子供に対してその様な言葉を浴びせた教諭を悪と断じればいいのでしょうか? その場合、どう考え方を変えれば自分なりにスッキリとした気持ちになれるのでしょうか? 面倒くさい質問ですが、僧正様方、お坊さま方の徳をお分けいただければと思います。

有り難し有り難し 10
回答数回答 1

母に対する気持ち

母に対してのことです。 いつまでも母に対するうらみのような気持ちが消えません。 なんであんなに理不尽に怒られなければいけなかったのか、私に対してだけこうしてくれなかったとか。つまらないことです。もう何十年も前の子供のころから今のことまで。急に思い出しては腹が立ってしまい、文句を言いたくなります。 今の母のことも嫌になるときがあります。 長生きしても仕方ないから早めに死ぬねとか、あのときはごめんねとか、そんなことを言って泣いたりします。正直うっとうしいです。いちいちそんなことを私に言ってくるのが疲れます。 泣きながら電話してくるときもあり、そういうときは相手をしたくありません。 母が自分で言っているように、早く死んでくれたらいいのにと思ったりします。そうすれば、この呪縛から解き放たれるかもしれないと。 自分の好き勝手にやって、子供を振り回してきた母。私は結婚してやっと家を出ることができ、はじめて自分の家族ができたと思いました。 そんな母をどうしたら許せるのでしょうか。許さなければいけないのでしょうか、距離を置いてもいいのでしょうか。 母を許せないということは、自分を許せないのと一緒ではといつも考えているのに。 人を許せる気持ちを持ちたいのに、どうしたらいいか分かりません。 教えてください。

有り難し有り難し 10
回答数回答 1