毎年、お盆がくるのを怖く感じています。 繰り返し相談させていただいていますが、私は強迫性障害(おそらく涜神恐怖)があり、その影響もあってか神様や仏様に対し、とても酷いことを考えてしまっています。お寺に行くと特に考えてしまいます。 考えることで自分に不利益があることを恐れるということはありません。仏様に対して最低なことをしていて、しっかりと反省し謝らなければと思っても、十分に反省ができず、それどころかさらに酷いとを次々考えたり、反省もできていない自分がいます。 2つお尋ねがあります。 ①実家に仏壇がありますが、両親は迎え火などせず、お寺にお迎えや見送りなどもしないようです。それでも大丈夫なのでしょうか?(曹洞宗です) ②私もお寺に行かずに実家の仏壇で手を合わせようか迷っています。それでもいいのでしょうか?(理由は、酷いことを考えるのが怖いのと、これも最低なのですが、お寺に足を運ぶより実家に行く方が楽だという考え) ③お寺にも行かないのに、お盆休みを娯楽で過ごしてしまってもいいものでしょうか。 よろしくお願いいたします。
大黒天様と大自在様は何が違うのでしょうか? 両天部シヴァ神ですよね?
念持仏として、また戌年の守り本尊として小さな阿弥陀三尊を購入しました。 これから毎日般若心経を唱えようと考えています。 宗派は曹洞宗。普段は親戚の家の仏壇に手を合わせています。 質問ですが、 開眼供養はした方が良いでしょうか。 また仏具などは何を購入し、お供え物は何が良いでしょうか。 その他にした方が良いことなどがあったら教えてください。 よろしくお願いします。
こんにちは。表題の件について質問させて下さい。 忌中には、天部の神様を祀ってあるお寺に参ってはいけないという話を聞きました。 理由は「死は穢れで、特に聖天さんなんかは穢れを嫌うから」「天部の神様は人間に近いから、死を思い出させることで荒れ狂ってしまうから」「本当は神様はそんなこと気にしないんだけど、あなたが悲しいときに無理してお参りしなくていいよ、という意味だ」など、お坊さんによって様々なようです。 私も最近祖母を亡くしました。 祖母とは生前不仲でしたが、遺体を見ていると「生まれて生きて死ぬとは本当に大仕事で、この人はそれをやってのけたんだな。お疲れ様」と素直に見送る気持ちになれました。 死ぬのは怖いけど、それは死に際しての苦痛への恐怖が主であって、死自体はどんな生き物にも訪れるものですし、決して穢れではないと思うのです。 肉体が腐ることだって、微生物に分解され、本来なら動物や植物の糧になり、土に還るという尊い過程です。 何なら生きることより尊いと思うし、衛生管理のため仕方ないとはいえ、死んでまで化石燃料バンバン使って骨にして何の役にも立たない壺に収めて保管して、アホらし、とすら思いました。 そう考えると、「死は穢れだから」とか「天部の神様が死を恐れるから」という理由は、個人的にはあまりしっくり来ません。 人によって死への解釈や意見は違うものでしょうが、実際のところ、天部の神様にとって人間の死とはどういう扱いなのでしょうか? どうして忌中に参ってはいけないのでしょう? 現役のお坊さんの意見をお聞きしたいです。 よろしくお願いいたします。
自ら死を選ぶ人間を仏様は許してくれるでしょうか? それだけが心配なのです。 沢山悪いこともしてきました。ですが、死後は心地よい風に当たり何も考えず空を仰いでぼうっとしていたいのです。 わがままなのはわかります。 許して欲しいのです。家族を助けた後は私は一人になります。どうしてもその選択しか出来ないことを許してください。 死後も辛いのは嫌なのです。 ごめんなさい。どうか許してください。 仏様はこんな私を笑って包み込んでくれますか?
9月末に第二子を嫁が出産予定で長男の時は追々は一人娘の嫁の家系を継いで貰う為に嫁の家系の遠い先祖から一字を頂いて名付けしました。 第二子は私の家にちなんだ名付けをしたいと思い名付けを考えていたのですが 自分の家の家系図は祖父までしか追えず近くから名付けは代々受け継いでいるのと違い縁起が悪いと本やサイトで前に知っていたので嫌だという気持ちで 家系からの名前ではなくな私自身、色々な宗教の中から仏教を信じているので仏教の経典、教えや宗派を問わず宗祖、高僧の言葉から良い字を頂きたいと思い 自分の菩提寺が浄土宗なのでまずは浄土三部経の現代語訳を読み名付けを考え読み終えて良い言葉、字などありましたが素人が経典の真の意味や伝えたい事が飲み込めているかも不安ですし。 一応は菩提寺の浄土宗を信じていますが宗派問わず仏教全体を信じているので 名付けでも引き続き、法華経、大日経、金剛頂経などの現代語訳を読んで良い言葉や字、教え、本で宗祖のことばを調べ続けていきたいのですが 私自身、仏教系大学の知り合いがいなく菩提寺の住職が他県の住職になってしまいその息子さんが住職をしているので関係が薄く聞きに行きづらく それとここで宗派を問わず経典で一番大切にしている言葉や字、 大学や先代住職、師からの教えでその宗派で大切にしている仏の言葉、教典の言葉を色々とご教授頂けたらと思い質問をさせて頂きました。 お坊さんも十人十色などで同じ宗派でも違う言葉、教えを大切に思っていると思いますので色々と教えて頂きたいです。 宜しくお願い致します。
自在天と大自在天の違いって何なのでしょうか?? 大自在天様=ヒンドゥー教のシヴァ神ですよね?
兼業の寺院の長男です。 姉が一人いますが私が跡継ぎとして育てられました。 子供の頃に跡を継ぐかは将来考えると親に言ったら叱られたのが衝撃で、以来、自分が必ず寺を継ぐものと思って生きてきました。 祖父も父親も僧侶として素晴らしいと思った事もなく、僧侶資格を取る為の過程で出会った講師の方達の話もポジショントークばかりの様に感じて僧侶に良い印象はありませんでしたが、経典や宗祖の残した言葉は興味深い部分もありましたし、継ぐ事で世話になった親の肩の荷を下ろしてあげられて、檀家さんの役に立つなら継ぐのも悪くないと納得していました。 しかし私が結婚してから、私達夫婦は寺と仕事を両立する為に両親とは異なる生活の仕方を計画している事を話すと、両親は話し合うまでもなく「寺をやる気がないのか」「そんなに寺を軽視していたのか」等と不快感を示しました。私達は詳しく説明して、話も聞かず頭ごなしに否定するのはおかしいと両親に抗議すると「お前達の考えを知らなかっただけ。自分達の態度は悪くない」と、話し合いもせず不快感をぶつけた自分達の失礼な態度を認めません。 両親は私が成人しても寺について何の話し合いもしませんでしたが、両親は私達が両親の気持ちを察して両親の思い通りに暮らすものと勝手に信じていたようです。 挙句の果てに私が跡取りである事や両親の寺のやり方は「祖父が決めた事であって自分達に責任はない」とさえ言いだしました。 もちろん私の人生選択に責任を負うのは私自身ですが、間違いなく私に影響を及ぼしてきた親なのに、恥ずかしげもなくそんな事がよく言えるなと思います。 姉は姉で結婚して家を出る時も、寺の事など気にもかけなかったくせに、両親の肩を持ち、後継ぎなら両親のやり方を踏襲するのが当たり前だと私達を責めます。 私が「貴方が私の立場なら今の時代でも両親のやり方を黙って引き継ぐ事を受け入れるのか?」と聞くと姉は「自分が跡取り?意味が分からない」という様子で、姉にとって跡取りとは私以外であるはずがなく、姉が私の代わりになる事を想像するどころか、私が継ぐ事をありがたいと思った事さえなかったようです。 私は寺や家族の事を思って選択の幅を狭めてまで生きてきたのに、家族にその人生を軽く見られてなお継ぎたいとは思わなくなり跡取りは辞退したのですが、寺族の跡取りへの思いというのは一般的にこの程度なのでしょうか。
私はお坊さん(霊など見える方)に何度かお祓いをしてもらってるのですが 先日酷い体調不良で薬が効かずお祓いしてもらった際 いつも使ってる手錫杖がいつも以上に気になってしまいました。 Amazonなどでも売られていて一般人が手に入れやすくなってますが お祓いなどの効果があると書いていました。 私や家族が人より霊障が多く体験する家族なので、 手錫杖を持っておいたら便利かなぁと思っているのですが お坊さん視点で考えた際 錫杖を一般人が持ってもよろしいのでしょうか そのお祓いをしてくれているお坊さんが手錫杖を降っている際心地よく落ち着いたので気になります。 使い方等も良ければ教えて下さると嬉しいです(どこにも書いてなくて、、右手で持つくらいしか…)
初めての質問失礼します。 これまで神様も仏様も特に信じず生きてきましたが、この世で1番の味方であり大好きだった祖母が亡くなった事をキッカケに、日蓮宗に心惹かれるようになりました。 というのも、祖母が日蓮宗の信徒だったということを亡くなってから知ったのです。 子供の頃、祖母の家に遊びに行くと、祖母はよくお線香を上げてお仏壇に手を合わせていました。けれど、それがどのような意味をもっているのか、どこの宗派なのかを今まで知らなかったのです。 祖母が亡くなってからというもの、心にぽっかりあいた穴が日毎に大きく深くなっていくようで、毎日泣きながら祖母を想い、日蓮宗について調べるようになりました。 すると、どうしてなのか、行ったことのないお寺の写真に強く心を惹かれ、日蓮宗のYouTubeでお坊さんが日蓮大聖人の生涯をお話してくださる動画があるのですが、それを初めて聞いた時涙が溢れて止まらなくなったのです。 日蓮宗の教えは間違いなく私を救ってくださいました。 その感謝の気持ちをお伝えすべく、9月に身延山久遠寺へ2日間のお参りとお勤め体験に行く予定です。 さてここからが本題なのですが、今月末に背中にタトゥーを入れます。 祖母の誕生花と自分の誕生花、それと生まれ年である梵字を組み合わせたデザインです。 ただその梵字がキリークで、阿弥陀如来を表すものだと最近知りました。 まだ勉強中なのですが、日蓮宗は阿弥陀如来をご本尊として祀ってはいませんよね。別の宗派のご本尊だったはずです。 そうなると、これから先の人生で、日蓮宗の信徒として生きていく私の背中に 阿弥陀如来の梵字が掘られているのはおかしいでしょうか? 大々的に背中を見せて歩くわけではありませんが、日蓮宗の教えとして、阿弥陀如来はどのような立ち位置にあるのか分からないのです。 もしどこかの教えの中で、日蓮大聖人が阿弥陀如来を否定なさっているとしたら 私は背中に阿弥陀如来の梵字を背負う訳にはいきません。 どうしたらいいか教えていただけないでしょうか。 ちなみに、タトゥーを入れるのは決定しています。 祖母が亡くなった日に思いついた事で、痛みを伴う記録を肌に残すことで、祖母から貰った愛を忘れず、背負って生きていくと決めたので。 梵字のキリークを選んだのは、戌年の文字だからなのですが、日蓮宗の方からみてどうでしょうか?
先程、職場の近くの駅で歩いている2人組のお坊様をお見掛けし、合掌したのですが、問題ないでしょうか? そのお坊様方は、合掌を返してくれました。
お経とはお釈迦様の教えを広く弟子に残す為にあると聞きました。 だとしたら、この現代の日本で意味不明なままお経を聞く意味とはなんですか? そしてお坊様は経文を理解されてるものだと思うのですが、理解してるものを声に出して何度も読む意味とは? 又、お経は残された家族の心を沈める意味あいもあるとありましたが、知らない言語で何か言われても一向に癒される事はないのですが…
ここ最近仏教に関する書籍などを読み漁っていますが、仏教を知る上での重要な要素の一つであろう「空」についてわかりそうでわからない状態が続いています。 空は無ではない、空は増えも減りもしない、空は関係性によって成り立つ。 わかりそうでわかりません。。。 考える上でのヒント等ご教示いただけないでしょうか。
仏教では「目的」をどう捉えているのかを知りたいです。 ・目的を持つとはどういう状態なのか? ・目的を持つメリット ・目的意識を持つには? ・「目的」の解像度を高めるには? などを、仏教的な観点から知りたいです。 しかし「仏教 目的」といった検索をすると「仏教が目指す最終的な目的とは」などの解説が多く… 仏教では「目的」や「目的意識」を、違った言葉で表現するのでしょうか?
私はある地域の八十八ヶ所のお遍路をしていて、それをYouTubeで紹介しています。 あるお寺でYouTubeの事を話すと、金儲けのためにやっているなら撮らないでくれと言われました。 今までお寺を何十と回って来て、初めて言われた事なのでとてもショックを受けました。 もしかしたら私のしている事は、とても失礼な事だったのかと思い、この活動を今後続けて良いのか迷っています。 そのお寺の方は、話の中でNHKの番組の話をたくさんされていたのですが、例えばテレビ局がドキュメンタリー番組を作るのと、YouTubeで個人がドキュメンタリーを作るのと何か違いがあるのでしょうか? 仏教では、金儲けは悪なのでしょうか?
「三世諸仏、依般若波羅蜜多故、得阿耨多羅三藐三菩提。故知、般若波羅蜜多、是大神呪、是大明呪、是無上呪、是無等等呪、能除一切苦、真実不虚故説般若波羅蜜多呪 即説呪曰」、 「羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶 般若心経」 この辺は私には全く理解できていませんが、最も注目すべきは、当然、呪文の「羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 般若心経」でしょう。 花山先生の訳によれば、「往きて彼岸に往き、完全に彼岸に到達したものこそ、悟りそのものである」という意味だそうです。 これは多分、前回お話しした梵天勧請事件の経緯のように、喜びと共に生涯を終える実践をした時のことを表現したのだと思います。 「彼岸」が実在していることを示し、それは梵天勧請事件で生き返ることを三度も拒否したほど素晴らしい眺めのようです。 (完)
例えば目の前で罪のない大切な人がナイフや銃をつきつけられ殺されようとするときどうしたらいいのですか? 自分や大切な人の命を守るため対象を殺すことは正当化できるものなのですか? そのようなことが起きてしまうこと自体悲しいことですが、 仏教ではどのように落とし所をつけていますか。 自分がどうあるかを決めることが答えでしょうか。それを乗り越えるためのなにかが仏教にあるのでしょうか。 これという回答がなければ そのヒントになる本などあれば教えて欲しいです。
こんにちは 「問答」に同様な内容があり、相談していいか悩みました。 たまたま恋愛した方がお寺の長男で2年前に帰省し彼が住職となり私が坊守となりました。私は在家で両親は生前は全くお寺との付き合いをしていなかったので私もお寺の知識はありませんでした。 彼の両親は最初は私との結婚に否定的でしたが、息子が後継ぎとなることで止む無く許してくれたようです。(最初は彼は後継ぎを拒んでいました。) 結婚前に坊守の仕事を全く教えてもらわなかったので、仕事内容を覚えるのに必死な毎日でしたが、前住・前坊守の私への当りがきつく毎日辛いです。 一番辛いのは私の亡くなった両親のことを悪く言われることです。両親が亡くなったとき、嫁ぎ先の宗派(浄土真宗)とは違うお寺(浄土宗)でお葬式・法事をしましたがその事についてひどく非難されます。細かいことを申し上げればきりがないのですが 「だからお前の親はろくな死に方をしなかったんじゃ」と言われ とても悲しかったです。そのことを夫に伝えましたが、そんなこと 聞き流しておけばいいと相手にされませんでした。(もともと、夫と義父は仲が悪いです) 他にも私の態度や色々なことについて罵声を浴びせられ我慢しますが、その度に「ろくな死に方をしなかった」の言葉が思い出され涙が止まりません。 この先も罵声は無くならないと思いますが、その際、私の心をどのように整理していけばよろしいでしょうか。
最近仏教に興味を持ち始め、勉強しています。 仏教における大事な考えとして「執着を捨てる」事があると思います。 確かに、その理屈には納得できます。 しかし一方で、執着を捨ててしまえば、「何かに向けて努力できなくなってしまうのでは」と疑問に思いました。 私は今、資格取得に向けて勉強しています。それは、仕事をする上でもっとレベルアップしたい、という思いからです。 しかしこの「資格取得したい」思いもまた執着でしょうか。 目標という執着をも捨ててしまえば、人生において何かに向けて頑張る事ができなくなってしまいます。 執着と目標、どのように考えれば両立しうるのでしょうか。 もしくは、目標・努力という執着を捨てよ、というのが仏教の正しい教えなのでしょうか。 ご回答よろしくお願いいたします。
いつもお世話になっております。 私は、教会に通っております。他宗教の教えも勉強して みたくなった、また、正しい知識を身に着けて、カルト 宗教から自分や身近な人を守りたいと思ったからです。 教会に生きていらっしゃる皆様は、素敵な方ばかり です。私が見てきた、お寺に集う人たちとは大違い。 比べるのも失礼かと思うほどです。 牧師さんも大変博識で、聖書の内容を、いかに実生活に 活かせるか考えてお説教をされているご様子です。 私も、しっかり、自分の宗教の教えを勉強しようと思い ました。他宗教者の姿勢を見て襟を正したくなるなど、 皮肉なものですね。 ちょうど、自宅の本棚から、中村元先生の、 「真理のことば・感興のことば」という本が出てきました。 パラパラと読んでみると、素敵な事がたくさん書いて あります。仏教版聖書のようです。 そこで、私は、ダンマパダを勉強したい、身に着けたいと 思いました。 しかし、教会のように毎週お説教を開いているお寺は、 貴重です。開いていたとしても、他の宗派をけなしたり、 宗派の本尊以外の仏様を馬鹿にしたり、神秘主義に 走って、免罪符売りのようなことをしていたり… 信者も驕りに凝り固まっている人が多い印象です。 また、歴史上の偉人の名言などを、悪い言葉で言えば パクって話をしていて、教会のようにお経の解説をし、 お経の考えを実生活に生かすよう促しているようなお寺は、 皆無といった印象です。 ダンマパダは、とりあえず、「一組ずつ」、「汚れ」、 「怒り」、「はげみ」、「悪」、「心」から手を付ける つもりです。 しかし、一節一節の意味をこちらでお尋ねするのは、 こちらのシステム上、なんとなくはばかられます。 1週間も待てません。もどかしくて。 魔境状態に陥らずダンマパダを解釈するには、どうすれば よろしいでしょうか? ご高見を賜りたく存じます。