秋のお彼岸なので、坂東三十三観音霊場である弘明寺さんで、去年の春に亡くなった恩師の為に御塔婆を建立した(菩提寺と戒名が分からなかった)のですが、大丈夫でしょうか?
私には、結婚を考えてお付き合いをしている彼がいました。 先日、彼から実は宗教2世であると告白されました。 新興宗教の問題が、メディアで多く取り上げられている中、かなりショックでしたが、私は全ての新興宗教が悪いとは思っていません。 彼のことが大好きで、人としても尊敬できるところがたくさんあり、そんな彼が産まれてからずっと大切にしてきたものなのだから、良いものだろう、受け入れられると思いましたし、熱心に信仰することを否定する気持ちは一切ありません。 しかし、結婚するなら私も入信しなければならない、また、子どもが産まれたら同じく入信させなければならないと言われました。 全く聞いたこともない宗教だったので、私も信仰できると思えるものなら入信し、彼と共に人生を歩んでいきたいと思い、彼の信仰しているものがどういうものなのか知ろうと思いました。 ですが、ネットで調べれば調べるほど、悪い情報がたくさん出てきます。 例えば、入信する際に宿泊を伴う合宿があり、多くのお金が必要、月々のお布施も必要だとか、教えを人に言うと地獄に落ちると教わるだとか他にもいろいろと…。 彼にはネットの情報と自分、どちらを信じるんだと言われましたが、火のないところに煙はたたぬと言いますし、どうしても怪しさを感じてしまいました。 (彼自身はネットで調べたことはないそうで、どんな内容が書かれているのかは知りませんし、私も彼を傷つけたくなくて伝えられていません。) お金については、組織を維持するために必要なものと思うので、仕方がないことかなぁと思うこともできますが、 ・入信しなければ結婚できないところ ・子どもが産まれた際、その子の意思がないまま入信させなければいけないこと ・教えの内容を人に言ってはいけないこと(良いことを教えているはずなのになぜ隠さなければならないのか?) 特に以上の3点がとても引っかかってしまい、受け入れられず、やはりお別れを選択するしかないと決断しました。 私の選択は正しかったのか…。 良い宗教とは、逆に信仰しない方がいい宗教とは、どういったところで判断すべきだと思いますか? ご意見いただけますと幸いです。
嫁からの質問です このたび義父の遺骨を合同墓に入れることにしました 遺骨を預ける際にお経をあげず、ただ引き渡すのみというコースを選びました 合同墓を買うのにお金がかかり、お経をあげると更にお金がかかるからです すると、お金を出していない義姉が、お経をあげて欲しいと言ってきました 何を言っているかわからないお経をあげる意味って何なのですかね? ちなみに私はクリスチャンです
真言宗の掛け軸 私以外の家族は信仰心が薄く、神棚と、棚の上に家族の宗派の仏壇がありますが、 私は真言宗が好きで、念珠も持ってお経も毎日読んでます。 ただ仏様を見て読みたいので 真言宗の掛け軸を自分の部屋に置きたいと思っていますが、ダメでしょうか 棚の上に仏壇なしになりますが…… 本尊様はどの仏様でも良いですか?(個人的にお不動さんが大好きです) また魂入れをやれないのですが、掛け軸に悪いものが入ってしまうのは嫌なので、できないなら、買わない方が良いでしょうか……? やはり開眼供養は必要ですよね……
2日に父が亡くなりました。家族と話し合い父の希望もあり家族葬にしたいと思ってます。お寺さんにそう伝え色々準備や気持ちの整理をしてたところお坊さんが勝手に村の人たち亡くなった事、家族葬にすることを伝えてしまい明日村の人が数十人家に来て家族葬にすることを説明して欲しいと言われました。勝手に言われたことも不満に感じてますがまだ気持ちが整理させてないうちに家に何人も押し寄せて説明やらこの役割は村の人がやるやら言われて母はつかれてしまってます。家族の気持ちを尊重してもいいものですか?あとお坊さんが勝手に村の人に先に亡くなった事を伝えるのはダメじゃないですか? ちなみに父がなくなった次の日にもう回りは知ってました
いつもお世話になっております。 お坊さま方にたくさんのありがたい助言をいただき、常に懺悔の気持ちを持ちながらも少しずつ前向きに生きております。 hasunohaに出会ったおかげで仏教に興味を持ち、お経を練習するようになりました。 先日とある合同法要がありました。 そこでちょうど、練習している仏説阿弥陀経をお坊さま方が唱えられました。 そこで私は愚かにも、つい一緒に唱えてしまいました。 修業もなにもしていない身で、しかもうろ覚えのくせにです。 いまになってとても後悔しています。 合同法要なので他にも沢山の方がいて、お坊さまも数人おられました。 ただの一般人の私が、しかもろくに覚えてもいないのに…。 これは仏様やお坊さま、他の方々に対して失礼なことだったでしょうか。 またそうであればどう償えば良いでしょうか。 お忙しいなか申し訳ありませんが、ご教示ください。
初めまして、未熟者ですが質問させていただきます。 当方10代の女で、家族は神道系の新興宗教(他宗教への信仰は許可していないはずのものです)を信仰しつつも、臨済宗と曹洞宗の仏壇が家にあるという状況です。しかもその仏壇には神道系宗教の教祖の写真が飾られていたり、人形がありましたりと謎が多いです。そんな中その神道系宗教への信仰に疑問が生じ、様々な宗教について調べ始めましたところ、仏教と出会いました。まだまだ知らぬことの方が多いですが、仏教の考えにとても惹かれました。 そこで、私も自分の生活に仏教の考えを取り入れ、お祈りしたいと思い始めました。そこで勉強不足で申し訳ないのですが、仏教徒になるにはどのように入信(?)したり、生活していけばよいのでしょうか?お経を唱えたりなどがあると思いますがどのように実践すれば良いのか分かりません。自分としては宗派にこだわりはなく、強いて言うのであればご縁がある禅宗を信仰したいと考えています。 また、家族は現在の仏壇に対して私が仏教の拝み方をするのを許さないと思うので自分で仏壇を用意して祈りたいと思っているのですが、それは問題ないのでしょうか?自分で用意するとなると先祖のお位牌もないですし、変になってしまいますか? 長文になってしまいましたが、これから仏教について学んでいきたいです。どうかよろしくお願いします。
輪廻転生すると魂はどうなるのでしょうか? 私は輪廻転生しても魂はその人の人格そのものとして永遠に残り続けると思っていました。 輪廻転生すると、魂は無くなってしまうのでしょうか?
父を亡くし、心身喪失しながら 葬儀には列席しましたが、 喪主の義兄が全て葬儀関連は決めてしまい 話し合いも否定され、 戒名すらわからず義兄が実家に居るため お参りも確認もできません。 せめてもとお寺に連絡して、 戒名だけでも教えて下さいとお願いしましたが 喪主の意向で伝えられません、 家族間のトラブルは対応出来ませんとの 回答がありました。 実の父の戒名すら教えて下さらないのは かなりショックで、 同じお仕事をされている皆様の ご意見を賜りたくご質問させて頂きました。 宜しくお願い致します。
私は、海外在住50代の女です。真言宗にて得度をうけたいと考えています。尼僧になるのが、目標ではなく これから仏道の道を歩み、学んで行きたいという決意です。自分でできる限り調べておりますが、女の得度については情報がなかなか見つからずにいます。師となって頂きたい方がおります。お遍路の大雨の中避難先ののご住職です。もし受け入れていただけるのであれば、年に一ヶ月くらい 住み込みで勉強させていいただきいと思っています。お手紙にて思いの丈をお伝えしたと思っているのですが、このように突然見ず知らずの一度お会いしただけの私のようなものが、このようなお願いを送って失礼はないのだろうかと一歩踏み出せずにおります。私の住む街の寺院名を仮にAとBとさせていただきます。 寺院Aには、ご住職にお願いしまして、お掃除をさせていただいております 週末外庭とお掃除、その後依頼されて納骨堂(期間限定)のお磨きをさせていただいており、2年が経過しています 特に感謝の言葉をお声がけいただくこともなく、自分自身の修行であり感謝の言葉を期待すべきでないと言い聞かせています。一度、ご住職に仏道に進みたいと相談したものの、写経に参加しなさいという回答のみでした。 寺院Bの先生は、私が得度を受けたいと思っている師の元で、修行をされています。それがわかったのは、その寺院にて避難させていただいていた同じ時に、いらっしゃいました。 この先生は、少しずつですがこの寺院にて学んで行ってはいかがでしょうと行ってくださいました。実際、専修学校にいくお金を今工面できないために、日本に行けない間は、こちらで学ばせていただこうと思っています ただ私は、どちらの檀家でもありません。同宗派とはいえ自分の寺院を一つにするべきとと思うのですが、いかがでしょうか?寺院AもBもご住職は、日本語でないため、日本本語の話す師のもとで得度し、前進していきたいと思います。 師を日本にもち、寺院Bの先生に学び 寺院Aにてお磨きさせていただいたいと思うのは、欲張りなのでしょうか?また、現実的な金銭的なお話ですが、得度をお願いする際に、どれくらい用意しておくべきかアドバイスいただけますでしょうか?、またその師には、毎月、または毎年お礼として上納するのでしょうか? まとまりのない文章で失礼いたします。 ご意見をお聞かせいたけましたら幸いです。ありがとうございます
お互いバツイチで再婚し、初めての子どもを授かり、お寺と子育てを中心に頑張ってきました。 前回の相談内容は、方丈が子育てに参加せず、パチンコに行き、寺嫁には子育てと寺庭の事を求め、そしてケンカになり、1度実家に帰りました。 その後、条件付きでお寺に戻りました。 それから月日は流れ・・・相変わらず、子育てに参加しない方丈(夫)に嫌気がさしている中、週2回パチンコに行き、子どもの行事はそっちのけで自分は1人で飲みに行き、終いには私と子どもがお風呂に入って出たあと、子どもの着替えを子ども自らお願いすると、自分はゲームとお酒に没頭してて、「自分で着替えろ!出来んのんならママにしてもらえ!」と凄い剣幕で怒鳴ってドアを外して投げつけたのです。私は怒りが頂点に達し、「それでも父親か!毎日酒酒酒飲んで飲んで!」と我を忘れて怒り狂いました。 怒りが収まらない私は保育園の園長先生へ手紙を書きました。 子どもの成長を考えると、悪影響だということ。こういう家庭環境で今子どもが育ってるということを理解してもらいたくて、手紙を書いたのです。 方丈(夫)は特殊な家庭環境で育ちました。養子縁組です。 それがコンプレックスで、幼少期はかなり上から押さえつけられて育ちました。 そのせいか、コミニュケーション能力が低く、喋りも上手く出来ないため、施食法要でも「えーっと、えーっと、」となかなか言葉が出てきません。 妻である私は寺嫁として、お檀家さんからも「大変だけど頑張ってね」と言われております。 「今度の嫁は良い嫁が来たから、みんなで帰さないように、頑張ろう」と言っていただいて、現在お寺にまだ居ます。 私自身、寺嫁になる前は、大手企業の設計開発をしており、全く違う分野でキャリアを積んでいましたが、私も家庭環境が複雑だったため(母子家庭・姉が統合失調症)、自分の家庭を持ちたいと思い、再婚しました。 お檀家さんから、「住職に言っても分からないから」とか、「兼務寺には顔も出さない」とか言われており、評判はよくありません。 それを指摘すると、夫は開き直るのです。 私だけが努力するは疲れたため、今後は子育て中心に動こうと思います。 夫は頑固で他の人の意見に聞く耳を持たないため、周りに負担がかかり、迷惑します。 方丈に対して今後どのように接した方が良いのか、もしアドバイスがあれば教えて下さい。よろしくお願いいたします
お坊さんは試験でカンニングしたことありますか?
初めまして、質問させて頂きます 私は熱心な仏教徒という訳ではないのですが、最近気になる事があり質問させていただきます。 仏教において、性行為は夫婦間であっても悪、良くない行いだとされているとを知りました。 確かに、性行為を行う動機には性欲というものがあるため欲である事は理解できます。 しかし、人間である以上その欲自体がない人間はいないと思います。例えば、食欲であれば食べ過ぎはいけないけれども食べないことは体にとって悪になるように性欲も相手との関係によっては許されるものではないのでしょうか? それとも、誰かと関係を持っていると天国にはいけない、仏の道から外れてしまうのでしょうか? 私には心から愛する人がいるのですが、それが悪い行いなのか、果たして性欲からくるものなのかと最近考えることが多くなりました。 例え悪い事だと言われても、お互いが望んで相手との幸せに繋がるのであれば構わないと私は考えています。 しかし、ふと考えては良くないことなのかと悩んでしまいます。 このまま悩んだままでは、彼女に対してもとても失礼だと思い質問させて頂きました。 お坊様はどのようにお考えなのか、教えて頂けると幸いです。 よろしくお願いします
3年前に父が亡くなり、うつ病となってから、自分の心を整理するために宗教・哲学・心理学など様々な本を読みました。 その中でも自分の腑に落ちたのは仏教の教えです。釈尊が説かれた「諸行無常」「諸法無我」の教えは、抑うつ症状に苦しむ中での支えとなっています。 しかし、一方で仏教を学ぶにつれて迷いが出てきたこともあります。それは、我が家の宗派である浄土宗の教えについてです。 我が家は祖父も父も信仰に厚い人だったこともあり、私も毎日遺影の前で念仏を唱えて回向することが日課になっています。しかし、自分なりに様々な宗派の教えを学んでいく中で、法然上人の説かれた「智者のふるまいをせずしてただ一向に念仏すべし」という教えにある種の苦しさを感じるようになってしまいました。 日によって体調が安定せず、中々快方に向かわない現状が続く中、「阿弥陀様におすがりする」という考え方が、自分の中で上手く飲み込めないように感じてしまっています。 最近ではむしろ「それ仏法遥かに非ず。心中にして即ち近し。」という弘法大師の言葉のように、「自分の心と向き合う」ことに考えが向いているところがあります。 自分の心の問題は時間をかけて解決していけば良いとしても、今悩んでいるのは毎日の回向についてです。上記のような迷いを抱えたまま、念仏を唱えることは問題ではないでしょうか。やはり心が伴っていなければ回向に意味はないのでしょうか。父の祥月命日がもうすぐという中で、悩みが深まっています。 家族にも医師にもカウンセラーにも相談できない中で、「ハスノハ」さんを見つけました。お答えをいただけますと幸いです。
私は仏教が好きで、家に仏壇を買って拝みたいと思って、親に相談してみたのですが、高いからダメと言われてしまいました。そこで、代わりになるものをと思い、フライングタイガーで小さい仏像を買いました。ですが、本当にこれが代わりになるのかと思い相談させていただきたいと思いました。 この小さい仏像を拝んでもいいのでしょうか
禅の独自の方法で集中的に在家修行をして、3年以上になります。6年前に大学院在籍中に、気づきの瞑想の型を習得し、研究で理論を創造し、理論を実践の内容とし、禅の独自の方法として理論を修行に応用化させました。 今の境地を顕すなら、宇宙の理を見ることができるようになりました。私がどういう仕組みで、どういう自然の流れで生かされているのか、理解できるようになったのです。この真理の構造を知る事によって、他者や物理的法則がどういう意識、又は秩序の構造か、知る事も可能になりました。 今、困っているのが、食欲が減退し、ご飯は無理矢理食べています(死にたくないからです。)、睡眠欲が完全に無くなり(今、書いている時間帯まで眠れません)、性欲も気持ち悪くなってから、追求しなくなりました。他者に配慮したり、他者のペースに迎合すると、忽ちに気力が無くなってしまいます。この時、呼吸も乱れて、身体に力が入らなくなり、動けなくなります。今は、生きるのに思うようには行きません。 出家したら、自分の主体が乱れるのも危惧していますが、このまま一人で暮らせば、誰も加護してくれない場合、私は生きていけるのか、漠然としたシコリがあります。出家の本来の意義は、生きるか死ぬかの狭間で、世に殺されない為、即ち、世との軋轢で自殺しない為にあると、ささきしずか先生の本で見たことがあります。私は、日本社会の隅っこで、唸り続けながら、死ぬしかないのでしょうか。出家するしかないのではないか、といつも思っていますが、何故か今は、念仏して拝みたい欲に駆られて、仏様の側に居たい気持ちでいっぱいです。誰か、助けてください。
悩みのループに入ったときに、今まで頂戴した回答を読み直しています。 ありがとうございます。 さて、今回大げさなタイトルになりましたが、仏様と向き合う心持ちがわからなくなりご指導を賜りたく投稿いたしました。 仏教の最終目的が成仏・涅槃に入ること、また望ましいありかたとして菩提心を起こして日々を送ることだとしたら、私はそれを望んでいない、なのに写経や読経をするのは方向が違うのか考えてしまいます。 普段、自宅のお仏壇にお経をあげたり、近隣のお寺の写経会に参加しております。 そのお寺での住職様でない方の法話で「仏教的な幸せは涅槃に入ること。表現が難しいけれどお星さまになることかな。寂しく思うかもしれないけれど、それが一番の幸せ」というようなお話でした。 私は仏様になったことがないので、そこまで高尚なことはピンときません。来世があるとしたら人間に生まれ変わって、今叶わなかったことが満たされていたいです。輪廻から出られないことがそれほど不幸なのか?と思います。 菩提心につきまして。こちらの僧侶の方々や写経に伺っているご住職様は菩提心があるなあと驚きます。相手の苦痛を減らそうというお心がひしひしと感じ取れます。ゆるがぬ信仰心と強固な信念に基づいているので、悩んでいる方に寄り添えるのだなあと思います。 翻って私は人並みの親切心はあると思いますが、共感しすぎて痛い目にあうことが多く、拠り所(僧侶の方にとっての信仰心)とするものがありません。最近はやりのバウンダリーをはっきりさせて、余計なことに首をつっこむのをやめよう、自分がしっかりしていないので、他人のことはもう放っておこうと決心したばかりです。 ただ、お寺通いやお経をあげることは止めたくありません。記憶のある時からなぜか神社仏閣が好きです。 仏教的に見て望ましい行い・最終目標から逸れた心を持ちながら、どのように仏様と向き合ったら良いか、是非ご指導くださいませ。
浄土真宗の寺院の住職の子どもは、やはり跡取りとして育てなければいけないのでしょうか。 私は浄土真宗の寺院の長男であり、現在は一般企業に勤めておりますが、ゆくゆくは継ぐつもりでおりました。 しかし、「寺で生まれたから」という理由で小さい頃から跡取りとして育てていくことに疑問があり、子どもの人生を方向づけてしまう育て方はしたくないと考えております。 その旨を父である現住職に伝えたところ、「そのような考えであるならば絶対に継がせられない」とのことでした。 真宗に限らず、現在まで多くの寺院が残っていることは、安定した世代交代が可能である世襲がその一要因であろうとは思いますが、現住職がそこまで反対する理由を図りかねています。 私の代で廃寺するつもりは毛頭なく、今までの経験を活かして、地域に開かれたお寺にしたいと考えていました。考えが甘いかもしれませんが、万一子どもが継ぎたいと言わない限りは外部の人に継いでいただくつもりです。 とりとめのない文章で恐縮ですが、皆様の御意見を頂戴したいです。
致知出版社『1日1話、読めば心が熱くなる365人の生き方の教科書』の 11月22日にある「成長する会社の共通点 野村順男」(人事アドバイザー・日本電産元取締役)の最後に書かれている 雅性を磨くには、仏教の教えにある【無財の土地】を徹底することでしょう。 という意味がわかりません。 【無財の土地】というのは何のことでしょうか?
今のところは実家は浄土真宗、自分は浄土宗の信者を自称していますが、なかなか僕の婚活がうまくいかない事を見かねた両親が近所の占い師に相談したら、高野山で祈祷してもらえと言われたためにこのお盆休みに高野山に参拝したところ、今まであんまり興味なかった浄土門以外の仏教も良いもんだなあという気になってしまいました。 そこで深く考えると、この現世を穢土とみなして、自分の考え・善行を自力と呼んで否定する法然上人以降の浄土教の教義に染まっているために、よく指摘される周りとの感覚のズレが生じてしまっているのではないかとも思えてきたのです。もっと今生きているこの世を肯定的に捉える教えでも良いんじゃないかと。 また、もし首尾よく結婚できたとしたら今回祈祷してもらった愛染明王さまも僕の中で特別な仏様になるでしょう。そうするとますます専修念仏とは遠ざかりますね……。 ただ、慣れ親しんできた顕教を捨てて密教100%の真言宗まで振り切る勇気はないので、新たに選ぶとしたら空也・源信流の浄土教を伝手として天台宗かなと思っています。僕が一番信仰しているのは善光寺如来で、善光寺は浄土宗と天台宗の共同管理でもあることなので。 ただ、天台宗は称名念仏ではなく観想念仏だと言われますがそれをやり切る自信はないし、朝題目と言われても某新興宗教団体へのアレルギーから南無妙法蓮華経と毎日唱えることには少し抵抗を感じます。こんな気持ちで天台宗に行くべきではないでしょうか? 天台真盛宗というのもあってそこは南無阿弥陀仏の念仏メインだそうですが、ここでも南無妙法蓮華経は唱えないといけないでしょうか?(明智光秀が好きなのでその点は西教寺も良いなと思います) なんだかとりとめもなくなってしまいましたが、早い話が来世の往生だけを期待する専修念仏の枠組内には居られず、現世でもいろんな菩薩・明王・天・神道の神々に頼んで幸せに生きたいけど主尊としては今まで通り阿弥陀さまに居てほしいし、さりとて職業を持つ在家の身なのであまり観想念仏のような難しい行を求められても困る……というわがままな悩みです。