こんにちは。私は曹洞宗の修行者ですが、宗派を問わず皆さまにお尋ねしたいと思います。 大乗仏教において、菩薩の心は慈悲に満ちている、という理解で合っていますか?僧侶の方々が、「植物と動物を区別するのは間違っている。どちらも命だからだ」と述べているのをよく目にします。その点は理解しています。しかし、食用となる動物の多くは、集約的な畜産施設で飼育されており、飼育下で生まれ、ごく狭い空間に閉じ込められ、幼い頃に殺されています。牛乳の場合も、牛は絶えず人工授精されています。卵の場合、雄のひよこは生きたまま殺されています。 「三種の浄肉」の説明も、私にはかなり説得力に欠けるように思えます。動物は明らかに、それを購入する人々のために殺されています。そうでなければ、養殖場の運営費を何で賄うというのでしょうか?さらに、これは、ある人が他の誰かの代わりに動物を殺さなければならないというシステムを支持することになりませんか?ちなみに、動物が容赦なく殺されるまでに飼育するために必要な水や植物などの資源の量は、人間を直接養うために必要な量よりもはるかに多いのです。 これらはすべて、慈悲の教えや、すべての生き物を救いたいという願いに反するものではありませんか?私たちは、苦しみを可能な限り減らすような選択をするべきではないでしょうか? お読みいただきありがとうございます。ご返信をお待ちしております。
こんばんわ。 地元の観音霊場を巡礼しているのですが、輪袈裟と金剛杖と御朱印帳だけでも問題ないでしょうか? お坊様のご意見を頂きたいです。
いつもご丁寧にアドバイスいただきありがとうございます。 本日は、仏壇へのお供えについてご質問させてください。まずは毎日お供えするお水についてです。 最近はYoutubeなどで情報が溢れており、実際の真偽について知り、日々の行動を改めたいと思っています。 1)朝一番にお供えするのは良いとして、本来はいつお下げすればよいでしょうか? 私は翌朝までそのままにしてしまっていましたが、Youtubeでは悪い気が増えれいくので長時間置きっぱなしにしないとありました。 例えば、午前中のうち、もしくは実際平日は仕事もあるので帰宅後できるだけ早くお下げするのが良いでしょうか? また、下げたあとも植物などにあげ循環させた方がよいとなっていました(流し台にポイでなく) 2)水道水を直にではなく、一旦沸騰させ、冷ましてからお供え? こちらも気の観点で、火を入れてカルキなどの不純物を飛ばし、人肌くらいに冷ましてからが良いとありました。実際どうなのでしょうか? 3)茶碗を洗う時、同じスポンジで洗って良いでしょうか? 先のようなことを見聞きすると、細かいことも気になってしまいます。仏飯の容器もそうですが、神仏様用に自分たちとは分けた綺麗なスポンジで洗った方が良いかと気になりました。 毎朝せわしなく半ばルーティンのようにお水をお供えしていましが、ご先祖様への作法などこれを機会に正式な作法や考え方をご教授頂きたく、よろしくお願い申し上げます。その他、水に関して補足がございましたら是非よろしくお願いします。
日本仏教の概観を学びたいのですが、お勧めの書籍があれば教えてください。 いわゆる教科書的な「何年に誰が何をした」という事実の羅列ではなく、「なぜその時代にその思想が必要とされたのか」という歴史的背景と、「前の時代の思想をどう継承・否定して発展したか」という連続性を重視した本を探しています。 具体的には、以下のような文脈で理解したいと考えています: ・社会情勢との関わり: 例えば、戦乱や飢饉という絶望的な状況下で、なぜ浄土真宗が衆生の救済として爆発的に受け入れられたのか、といった「需要と供給」の視点。 ・思想のアップデート: 師匠の教えをどう修正したのか、あるいはあえて古い時代の思想を掘り起こした際、そこにどのような時代的要請があったのか。 「点」としての知識ではなく、古代から中世、近世へと至る「線」としての日本仏教史が俯瞰できる、初学者向けの(できれば文体も読みやすい)本があれば、ぜひご教示いただけると嬉しいです。よろしくお願いします。 (AIに書いてもらいました汗) --- 日本の仏教史ではないですが、佐々木閑先生の「仏教の誕生」はとてもわかり易かったです。 あれくらいわかりやすいといいな、と思ってます。
昔、「地獄」という本を読んで自殺をしたら地獄で罰せられるという話を見ました。 自殺をして地獄に行かないようにするにはどれだけの徳を積めばよいでしょうか。 これまで家族に優しくしたり、努力はしたつもりです。 それでも今までの行いはすべて水泡に帰すのでしょうか。
こんにちは。 現在、国際学部に在籍している大学1年生です。高校時代には仏教系の学校で宗教を専攻し、その中で特に密教に強い関心を持つようになりました。実際に僧侶の方から直接お話を伺い、理解を深めたいと考えているのですが、そのような機会をいただくことは可能でしょうか。ご教授のほどよろしくお願い申し上げます。
高校2年生です。僕は「お東さん」の僧侶になりたいと考えています。 昨日、その思いを母に伝えたところ、「いきなり宗教者になるのはやめたほうがいいのではないか」と言われました。理由としては、先に社会経験を積んだほうがよいのではないか、ということでした。 僕としては、できる限り親の意見も尊重したいと考えています。一方で、自分の将来や夢を決める権利は自分にあるとも思っています。そのため、まずは教師資格だけでも取得しておくという道もあるのではないかと考えています(所属寺の意向にもよるとは思いますが)。 また、別院の事務員として働くことで、一般社会で働きながらお寺にも関わるという形もあるのではないかと考えています。ただ、別院の事務員は採用が難しいとも聞いています。 個人的には、大学進学の機会を逃してしまうと、所属寺を見つけるのにかなり時間がかかるのではないかとも感じています。 このような状況について、どのように考えるべきか、ご意見をいただければ幸いです。
お世話になっています。今現在、世界情勢、環境的、経済的その他、何をとっても明るい要素がありません。いつ戦争が起こっても不思議ではない状況です。ノストラダムスの予言の1999年の時より現在の方がよっぽど終末感があります。仏教には末法思想があると聞きました。ずばり今現在は、末法の世なのでしょうか?また仏教で語り継がれている末法の世とは具体的にどんな状態なのでしょうか?回答おねがいいたします。
いつもお世話になっております。 この度、法然上人の救いの仏教の一考察の草稿を書くこととなりました。 しかしながら、卒業論文を書いたことがないのでどのようにすればよいのかが分かりません。 アドバイスをお願いします。
宗教に入っていもす霊聴がある体質でして、あの指導霊の悪口はきつかったな。ハスノハのお坊様でそのような体験をされた方はいらっしゃいますか?ある場合のそのあとの対応はいかがなさいましたか?おしえて下さい。数年前の道場でのことですが脳裏に焼きついて残念です。しかしまだ辞めてはいません。がっかりしました。
仏教で最も重要なファクターである「輪廻転生」が世界で信じられて、日本で否定されているのは残念です。 太平洋戦争以前には日本も信じられていたことは、楠木正成の「七生報国」で明らかです。 戦後アメリカ文化が流入して、仏教界で輪廻転生が否定されたのです。 阿含経につぎのような話があります。 城邑(南伝 相応部経典 12.65. 城邑) 前略 その時、世尊はかように仰せられた。 比丘たちよ、わたしは、まだ正覚をえなかった修行者であったころ、このように考えた。(この世間はまったく苦の中に陥っている。生まれては老い衰え、死してはまた再生する。しかもわたしどもは、この老いと死の苦しみを出離するすべを知らない。 まったく、どうしたならばこの老いと死の苦しみを出離することを知ることができようか)と。 後略 ここで釈尊は何のために修行を始めたかが明確です。 即ち「生まれては老い衰え、死してはまた再生する。しかもわたしどもは、この老いと死の苦しみを出離するすべを知らない」 「死してはまた再生する」ので次の「生まれては老い衰え」を繰り返すことになります。 即ち「輪廻転生」です。 悟りを得て如来となり、その解決方法を「涅槃(無明を滅すること)」と言う形で解決したのです。 「輪廻転生」が否定されては仏教そのものが不要になるのです。
金光明最勝王経 堅牢地神品第十八 このお経唱えたいのですが、全くお経本が見つからず、読み方付き掲載されているお経本はありませんでしょうか? ネットにも読み方付きで投稿されているものが、見つからず、、、 青山社さんの金光明最勝王経全文のものは販売されているようなのですが、中々高額で手が届かず、、、
こんにちは。 先程、浄土宗のお寺に参拝しました。 その際、境内の石仏様(阿弥陀様?・六地蔵様)に皆の支えとなります様にと缶コーヒーとお線香をお供えして般若心経と念仏をお唱えしました。 問題は無いでしょうか?
仏教は宗派問わず、溢れ出る欲望を絶ち、苦しみから解放されるために修行していると思いますが、その修行自体が苦しみという点が矛盾している気がしています。ここに対しての考えはどのようになっているのでしょうか?また宗派によって考え方は違いますか?
いつもご回答ありがとうございます。 漠然とした質問なのですが、「理解する」とはどういうことでしょうか?仕事や日常の中で、自分が何かを理解しているかどうか、と考えることが多いのですが、そもそも、その「理解」って一体何だろう、と最近とても気になっており、質問させていただきました。 私は文学を研究しており、大学でも授業を担当しているのですが、自分が研究するうえでよく、「自分はこの作者の真意が理解できているだろうか」とか考えますし、学生が出してくれたレポート対して、偉そうに「あなたは、まだ○○に対する理解が浅いですね」とコメントしたりすることがあります。でも、そういうふうに言っている自分は本当は何を理解しているんだろうか・・・と考えると、自分は何もわかってなくて、本当のバカは自分ではないか?と思ったりします。 世の中には色々なエキスパートがいます。私も、学会に所属していて、この分野では著名な先生方の研究発表を聞いたりすることがあります。その人たちは、自分の専門分野の話題については、ペラペラと饒舌に喋るのですが、時々、「この人たちって、本当に自分が話していることを理解しているんだろうか?知識があるだけでは?」と思ってしまうことがあります。 今の自分に一つ言えることは、何かを本当に理解するというのは、ただ知識があったり、理屈がわかったり、理論を使いこなせたりすることではないだろう、ということだけです。 お坊さんは経典を読んだり、仏教に関する理論を勉強したり、こうしてハスノハで私たちの悩みに回答して下さっています。お坊さんが何かを「理解した!」と思うのは、どういう時ですか?どういう状態が、「理解している」と言えますか? 差し迫った質問ではないのですが、ぜひ色々なご意見をお聞かせいただけると幸いです。
因果応報は三世を貫くと仏教で教えられてますが例えば過去世で悪さをした報いが今生で帰ってきた時、具体例を出すなら例えば過去世(前世或いは前前世或いは前前前前世、、、、)でイジメをしてた人間が今生でその報いが同じイジメという形で返ってきた場合、また過去世で殺人事件を起こした人間がまた同じ人間界に人間として生を受けた時その報いが殺人事件に巻き込まれるという形で返ってきた場合など一般的に受け入れ難い問題が出てきます。 自分の理解不足の可能性もあるので教えて頂きたいのですが例に出した様な場合の因果応報もあるのでしょうか?
悟りとは、人間の三大欲求(食欲、睡眠欲、性欲から)離れることであるとかいている。ブッダは覚ったとされているのであるが、私はお釈迦様は多分こんなこと出来ないと悟ったということを覚ったことを悟りといっただけであると思う。つまり色んな仏教哲学はあるが、これさえ取り除けばいいのになと分かっただけではないかと思う。言葉でわかることが実践できるとは限らない。 私の考えはどう思われますか?
よろしくお願いします。 仕事の都合で引っ越しまして落ち着いたら近くの神社仏閣にお参りの予定です。 そこで質問なのですが、それぞれのお寺に祀られる仏様は同じ存在なのでしょうか? 神道では分霊という考え方が主流のようですが、仏教ではどういう扱いや考えなのでしょうか? もっというと「はじめまして」とあいさつするべきか「こちらでははじめてお参りします。日ごろ御加護下さりありがとうございます」とはじめてお参りした際にお祈りするべきか分からないです。 どうかよろしくお願いします。
私は最近仏教の教えを知りたいと思うようになりました。ですが、インターネットで調べてみても、出てくるのが(おそらく)カルト教団のものであったり、信頼性の低い民間のサイトのものであったりと、情報の正確性の高いものを探すのに苦労しています。 そこで、比較的信頼のおける書籍を探すことにしました。 お寺に直接うかがって法話を聞くことも考えましたが、私は学生の身分であるため、お布施をするだけの稼ぎもなく、時間もありません。 また、家族は、宗教そのものに対してアレルギー的抵抗を持ち合わせていて、宗教の話はすぐにカルトと結びつけて考えてしまうので、私がカルトにハマっていると誤解されるのは避けたいのです。このサイトのzoom相談も、金銭的な負担や家族が途中で入ってくるかもしれない可能性から、利用することができません。 書籍の好みとしては、私はなるべく学術的で中立的視点のものが好みですが、まずは入門書を買いたいと思っています。 なにか良い書籍や文献をご存知の方は、教えて頂けると幸いです。
お世話になります。また質問させてください! 今、神々や仏様方のことについて勉強しているのですが、神々の中には諸事情により歴史から隠された方がいらっしゃると聞いています。 そこで質問なのですが、仏様の中に歴史から隠された方はいらっしゃるのでしょうか? 是非とも教えてください!よろしくお願いします。