いつもお世話になっています。故人がなくなった四十九日について質問させてください。一般的に四十九日間は故人がまだ現世にいるとなっていますが、ずっと昔、霊能力者の人が書いた本には、四十九日間は確かに故人の魂は現世にいますがちょうど四十九日後にあの世からその故人の魂を、あの世の使いが迎えに来る、もし、それについて行かなければずっとこの世を漂う事になる。 と書いてましたがこれは本当の事なんでしょうか?お答えお願いいたします。
引き寄せを信じている人から以下の話をしていました。 『畑は自分を信じる心、種は願い事、肥料は現状に満足出来る気持ち いい状態の土(心)は、良い土(心)を作る事 良い土(心)の状態は自然体な状態で心が喜んでいる状態で、 その時々の気持ちに忠実になり自分が自分に寄り添ってあげる事 自分を好きで信じてるからこそ、他者を好きになれて信頼できて、人を許せるようになり、世界を愛せるようになる 世界を愛せるようになる頃には、自然に日常の幸せに気付いて感謝出来る心が自然に育っている これが畑でいう肥料になる』 そして、 ブログを書いてるお坊さんも… 『仏道を歩む上で大事なのが、 最近よく耳にする【引き寄せの法則】 「思考が現実化する」「自分の心が現実を作る」 仏道を歩む上で大事なことは、「いい気分でいる」ということこそ大事で、 自分の「今その時の感情がとても大事」 この感情がまわりと共鳴して、 また、「嬉しい、楽しい、良かった」と思えることが起こってくる。 「投げかけたものが返ってくる」という引き寄せの法則そのもの。 たとえ念仏していても、気分や感情が不平、不満、愚痴等なら、それらを味わう現象が起こってくる。 だから、仏様を味方につけたのだから、 この娑婆世界、どうにも汚い世界かもしれないけど、この至らない私もそこで精一杯生きているし、生きていく。 その人生をやはり「幸せなもの」にしたいと願う。 だから、そのためにお念仏して、自分に起こり得る 全ての事を仏様にお任せして、 現世での起こる結果は、お任せした結果の「ギフト」と受け取り、最後は、死後、極楽へ往生させていただく。 その過程の中で、 自分の機嫌は自分でとって、いい気分でいる時間を増やす。 ネガティヴな思いが出てきたら、仏様にすべてを聞いてもらい、お任せをし「念仏瞑想」を実践していく。 そして、常に自分に与えられた現実の中から 「しあわせ、ありがたい、よかった、うれしい」と思える事を探して、今の現状を満足して感謝していれば 仏様ご先祖さまから更なるお導きが得られ、引き寄せられるようになってくる。』 仏教でも心は畑のようなお話はあるのでしょうか? 「心は畑」「マザーテレサ」の言葉も引き寄せに繋がっていると言っていまして、お坊さんまで引き寄せを話していましたが… 仏教と引き寄せは何か繋がっている部分があるのでしょうか?
先日祖父が亡くなり、生前からの祖父の意向もあり、家族のみ参列し、所謂直葬を執り行いました。 無宗教ということと、以前身内の葬儀の際にお坊さんの振る舞いについてとても嫌な思いをしたことがあったようで、それ以来自分が死んだら戒名もお経もいらないから家族だけで見送って欲しいとのことでした。 祖父の希望通りに直葬を執り行ったのですが、せめて火葬場ではお経を1回くらい読んで貰った方がいいのではないか、と親族の一人から声が上がり、じゃあそうしようということで、その際お世話になっていた葬儀屋さんに相談し、お坊さんを手配して下さるとのことで火葬の前に読経していただけることになりました。 お経が始まり、喪主である祖母がまず焼香し、それに続いて参列者が順番に焼香を行っていたのですが、一人ずつではなく三人ずつ焼香を行って欲しかったようで、お坊さんが読経中ですが参列者のいる後ろを振り返り、すごい目付きで睨んできました。 確かに焼香台は三つありましたが、特に何も言われなかったため、喪主に続き一人ずつ焼香を行っていました。 お坊さんの様子に気付いた火葬場の職員の方が、三人ずつどうぞと声をかけてくださったのですが、その間も時折こちらを睨みつけるように見ており、更には肩を竦めため息を吐いていました。 あまりの出来事に唖然としたと同時に頭にカッと血が登り、動悸が激しくなりました。 そのくらいの衝撃を受けました。 そのお坊さんにとっては数ある内の一つかもしれませんが、私たち遺族にとってはそうではありません。 大切な祖父を侮辱されたようでとても腹が立つと同時に悲しくて仕方ありません。 祖母も気付いており悲しがっていました。 こんなことなら祖父の言葉通り、読経してもらうべきでは無かったと後悔しております。 そのお坊さんへのお布施は一万円お渡ししましたが、お金さえ貰えれば後はどうでもいいのでしょうか? 腹の中で何を思ってようが自由ですが、それを表に出さないようたった数分も我慢できないのでしょうか、それが不思議でなりません。 上記したように、以前にもお坊さんのことで嫌な思いをしたことがあり、それに今回のこともあり、もちろんそんな事はないと分かってはいるのですが、こんな人ばかりなのですか? また、この悔しい気持ちの落ち着け方が分かりません。 アドバイスいただきたいです。 よろしくお願いいたします。
初めて質問させていただきます。 日蓮宗の本尊形式についての質問です。 日蓮宗の本尊では一塔両尊(多宝塔の隣に釈迦如来と多宝如来がいる)と言われる形式に四菩薩や四天が加わり、その前に日蓮さんが配されていることが多く、また地域によって曼荼羅の位置が異なったり、曼荼羅の前に地域で信仰されている諸天が配されている場合が見受けられます。 ところが先日京都で拝観させていただいたお寺では、一塔両尊の前に釈迦如来が配されている(つまり釈迦如来の前に釈迦如来がいる)本尊を見かけました。 これは本仏に対する応身を強調するためなのか、それとも日蓮さんに法華経を伝える迹門の釈迦如来を重視する意図なのでしょうか。 そのお寺では聞きそびれてしまったので、もしご存じの方がいましたら考えられることでも構いませんのでご教示頂けると助かります。 以上、よろしくお願いいたします。
いつもお世話になっております。無我と縁について疑問です。 「無我」は、徹底的に自分を殺すこと。自分に気持ちに蓋を して、とにかく相手を優先すること。 「縁」は、他の事物や人物が自分に、自分も他の事物や人物に 影響を及ぼしていること。 そう考えて生活していたら、精神に異常をきたしました。 「無我」…「他人様を不快にさせてはいけない。皆さん私を どう思うだろう。我慢をしなければいけない」と常に考えていたら、 自分と同じく障害を持つ者が、店員さんに怒鳴ったり健常な異性に 絡んでいるのを見て、自分まで健常者さんに申し訳なくなりました。 デイケアでも我慢をしました。 「縁」…「自分も他の人に影響を及ぼしている」と常に考えて いたら、燃え尽き症候群になってしまった支援者さんを見て、 私のせいだと思いました。 結果、体調が悪化しました。終いには、 「私たち障害者は、人様に迷惑をかけてばかりで、生きていても 誰も幸せにならない。死んでしまいたい」 という結論になりました。 泣きながら訪問看護師さんに伝えたら、入院を強く勧められ ました。 主治医の先生、カウンセラーさん、保健師さんなどのお力を 借りてだんだん体調がよくなりましたが、「無我」と「縁」に 関しては、10年以上仏教を信仰していて、長年の疑問です。 自分を殺せ、どんなときにも我慢しろ。仏教では、そんな にもカルトチックな事を説いているのでしょうか? 今回体調を崩し、主治医の先生からは、 「ストレスコーピングを身に着けるように」 と指導されました。 それを受け色々調べていたら、「自分は自分であると自信を 持て」と私の尊敬する科学の先生が教えを説いていました。 「あまり周りのことを考えすぎても、周りが見えなくなる。 自分自身も見失い、最終的に悩みが大きくなり精神病になる」 「礼節を守ったうえで、自分は自分だという自信を持てば、 無用な事を怖がったり、ストレスが少なくなる」 なるほどと思いました。 もし、「とにかく相手に尽くせ。どんなときも自分を殺せ。 とにかく我慢しろ」と仏教が説くなら、私は「仏教はカルトと変わらない じゃないか」とショックです。実際に、私はこれで病んだのですから。 ご教授いただきたく存じます。よろしくお願いいたします。
私は地方の檀家寺に生まれました。 幼い頃から父にお坊さんになること以外の道を許されず、反論すると暴力や大切なものを壊されたりしてきました。 逆らうことができ学生時代は本山に寄宿しながらの修行生活をしました。 しかし、修行を終え娑婆に帰ってから、自分でやりたいことを選べなかった後悔と青春時代を失った後悔に襲われました。 それと同時に本山から帰ってからは周り(寺族、檀家様、周りの寺院)からの期待が大きくなっていました。 住職が私のいない間に周りのお寺や檀家様に「息子は望んで家を継ぐために本山に修行に行ってる」と意気揚々と話していたそうです。 それだけではなく住職は結婚したら将来同居がすぐできるように二世帯住宅を完成させていました。 結婚しても、食卓でも仕事の話やすぐに機嫌を損ねると癇癪を起こし暴力を振るってきた父と一緒に生活することは相手のことを考えると私はできませんが、、、。 そんな日々が数年続く中で住職から荒行に行くようにいわれました。 私は生まれつき身体も弱いですし、正直行きたくありません。 本山での修行中は家を継ぐ決心や僧侶になる発心がない状態でした。 しかし、逃げずにいたのは本山よりも癇癪を起こす住職の方が怖かったからです。 今は祈祷寺でもないのにこれ以上、修行をしたくないという思いがあります。 そのことを父に話すと癇癪を起こし泣きはじめます。 もちろん、修行道場は自分自身の信仰あって成立することです。望んでもいけない人が大勢います。 縁あって寺に生まれたからといって私のような中途半端な人間が僧侶を志してはいけないと思っています。 本山から帰ってきてからは上記で書いたことや、父の癇癪や、親の言う通りに生きない罪悪感(荒行に行かない)で押し潰されそうになり鬱病になりました。 今は療養施設に入っています。 最後にですが私は決して僧侶という仕事は嫌ではありません。大切な生き方だと思っています。 ①僧侶の皆様は自分の将来をどのように決めてきたか。 ②本山で修行し、周りや親の期待されているが荒行に入らずに今後もその期待に応えれない罪悪感をどうしたらいいのか。 ③私のような人間が僧侶を続けて良いのか。 応えられる範囲でご教示ください。 よろしくお願いします。
皆様いつもお世話になっております。 この度は僧侶の方々に対する素朴な疑問をお書きします。 「仏様の前では皆平等」という言葉がありますが、お坊さんも衆生に平等に接しておられるのでしょうか?答えにくいかもしれませんが正直嫌だな、とかこの人はすごく大事、という方はいらっしゃいませんか? 修行を重ねたら皆に平等に接することができるのですか? ご回答をお待ちしております。
よろしくお願いします。 仏教で「正しい教え」という言葉をよく目にしますが、正しい教えと正しくない教えはどう違うのでしょうか? ある僧侶の方が新興宗教や自己啓発に批判的なコメントをされているのを見て、自分にもそれが当てはまるのかなと不安になりまして。 というのも、私は新興宗教ではないのですが、50歳を過ぎてから仏教の教えにふれて以来やたらポジティブになりまして(ポジティブなのは夫の存在があるからという事も理解しています)、仏教の教えを調べたり、実践して気付きを得られるのがとても楽しいのです。 この楽しさや気付きを私は勝手に「仏様からのご褒美」だと受け止めていたのですが、こういうのって仏教本来の教えから見て大丈夫なんでしょうか。 念持仏を開眼して頂いたお寺の護摩行にたまに参加して皆さんと一緒に読経したりご真言をお唱えするのがとても楽しいです。声を出すのでスッキリします。 良いことばかり過ぎて、ひょっとしたら私は仏教の教えを誤解しつつあるのではと不安になってきました。 ※正しい教えをもっと学びたいので将来は灌頂も考えています。
いつもお世話になっています。地獄は本当にあり、悪人は必ずそこで裁かれますか?前回質問させていただいた事と絡んでいますが、仮に義父としますが、かなり鬼畜な男で死ぬまで反省、謝罪、改心しませんでした。病気で死にましたがあまり苦しまずに死にました。また、健在な時も現世の裁きもすり抜け、バチもあたる事もありませんでした。事故に3回ほどあいましたが、なんとケガ無しでした。悪魔の強運というか、悪魔が味方についているのか?母も不思議がってました。しかし、あれだけ迷惑、悪行をして、反省しなかったのだから地獄に落ちて裁かれなくてはいけません。悪人は地獄で必ず裁かれますよね?お答えお願いいたします。なお、冥福を祈ってあげなさい というお答えは絶対しないでください。文章上、義父としましたが義父ではありません。血もつながっていないし、戸籍でも全く関係ありません。赤の他人です。この辺の経緯は話すとかなり長くなるので仮に義父としました。だから遺骨も墓もどうなっているのかわかりません。ちなみにこの男、親類、縁者他全て絶縁されてます。悪行をするからです。くどいようですが冥福、供養は絶対する気がないので言わないでください。お答えお願いいたします。追伸、どんな男か詳しく知りたい方は前回の私の質問を見てください。
僕は寺息子で、よく「苦しいこの世から抜け出すために仏に祈ろう。そうすれば来世で救われる」と父親が説いていました。しかし、子供の頃、「じゃあ家族と旅行したりしてる時も苦しいの?」と聞くと、親はなんとも言えない表情を浮かべていました。どうにもならない苦しみが多かった昔とは異なり、今の世の中ではある程度の幸せは保証されています。ならば、来世に期待したり人のせいにしたりするのではなく、自分に原因を見出し、現世をいかに楽しめるかを考える方が良いのではないでしょうか。また、恐らくそういった「今を大事に」といったような仏教概念は存在していると思われますが、そもそもの仏教の存在意義と矛盾してはいないでしょうか。重ねての質問申し訳ございません。よろしくお願いいたします。
在家出身の僧侶の方にお伺いしたい事がございます。 出家する時の宗派はどの様にお決めになられたか気になり質問させて頂きます。 家や親戚がお寺であればその宗派というのは分かるのですが、在家出身だと色んな選択肢があると思われます。 どの様なご縁や思いなどお聞かせいただければ幸いです。 質問に深い意味はありませんので、教えたいただける範囲で大丈夫です よろしくお願い致します。
義父が今まで神棚のお掃除などをしていましたが、昨年11月に急逝しました。 神棚のお掃除はどのくらいの頻度で行った方が良いでしょうか? 水は毎日 榊、酒、塩、米は1日と15日に新しいものに入れ替えてます。 水拭きは良くないと聞いた事あるんですが良くないのでしょうか? ろうそくがあり義父は火を灯してましたが神様に火がうつってしまったら危険なので灯してません。大丈夫でしょうか? 色々、質問して申し訳ありません。 回答宜しくお願い致します。
自分の先祖の菩提寺が知りたいです。 過去帳で原戸籍以前のご先祖にどんな人がいたのか知ったり、当時何があったかわかる範囲で調べたいと思っております。 今まで、私の祖父は父の顔を見る前に亡くなったと聞かされており父方のご先祖に関する情報はほとんどありませんでした。 父本人も、祖母方の親戚筋ももうおりません。 戸籍の取り寄せで天保年間生まれの曽祖父まで辿れたのですが、それより昔の人のことや歴史上何があったか知るには菩提寺の過去帳を調べて頂いたり口伝で伝わっていることを教えて頂くことだと聞きました。 宗派もわからないのですが、ご先祖の本籍地の周辺のお寺にしらみつぶしにお手紙を書くしかないでしょうか。 現在あるお寺が新しいと意味がないし、逆にお寺がなくなっていることも考えられますよね? アタリをつけるにはどうするのがいちばんよいのでしょうか? ちなみに、途中で分家の際に苗字が変わっているものの、いちばん古い戸籍の戸主の父母の苗字もあり、「ご先祖さまはどこかの村長さんだった」とも聞いた覚えがあるので、過去帳や郷土資料に名前が残っている可能性は大きいと思います。 アドバイスが頂ければ幸いです。
私は今中学生3年生で、ある曹洞宗の高校に入るために得度をするのですが、戒名は得度をするときに頂くのですか? もし違うのであれば頂くのはどのタイミングなのかも教えていただきたいです🙏🏼🙏🏼
歴史に登場する人物のwikiなどを読んでますと「仏教に帰依した」みたいな記述をたまに見かけますが、そこで質問です。 「帰依する」とはどの段階からを言うのでしょうか。 出家とか特別な修行を経る事で「帰依する」になるのでしょうか。 それとも、普通の人でも仏教の教えに従い生きていれば「帰依する」になるのでしょうか。 このへんを教えていただけたらと思います。 よろしくお願いします。
一旦厳しい環境に身を置くために、修行を受けてみたいなと思っています。 僧侶にはならずに修行を受けることは可能なのでしょうか。 詳しく教えてほしいです。 修行を受けるならどうすれば受けることができますか。
今年24歳になります。色々とあり発達障害、鬱病の診断を前々からされています。 もともと10代の頃から、おばあさんになって自分のやりたいことが出来なくなったら仏門を学んでみるのもいいかもしれないと思っていました。 通信制の学校を卒業し、やっとやりたいことをみつけ、SNSや動画を作ったり個人で活動をしていましたがメンタルも体調もよくならずやっと3年続けて折れてしまいそうです。 こんな自分を変えたいと思い、筋トレを始め、たまに仏教や神様のことについて調べて、自分を愛す、諦める、という方法を試したつもりでしたが 自分はだめだ、という固定概念が覆せずやりたい事、今まで楽しかったこともダメになってしまい これでは人を笑顔にするのはおろか、自分のことも幸せには出来ないと嘆いてばかりです。 バイトを始めれば人間関係が上手くいかず、働かなければ罪悪感に苛まれ、休むこともままならない中、 修行僧を募集しているお寺さんがあることを知りました。 ここで2つ疑問があります。 自分は、仏教について趣味程度の知識しかなく、学校にて学んだことはありません。 精神病について悩んでいる方も迎える、と言ったお寺さんがあることも知っていますが 自分を変えるため、自分のため、と言った理由でも、履歴書をちゃんと書いて、ゆくゆくは人の為に祈りたいと仏門に入ることは許されるのでしょうか。 また、大学に入って学ばなければ修行僧としての受け入れは、やはり難しいでしょうか。 まずは家でやれる写経や座禅、やってみました。 近くのお寺では説法会?など予定が何年も前からずっと更新されず体験出来ていないのが現状です。 頭の硬い私にはなかなか効果がでず、悪い言い方になりますがいっそ 厳しい世界でシバいて だめならシバかれた経験を生かし自分に強く生きていきたいと思っています。 女の体として生まれたので壁もある世界かもしれませんが、頑張りたいと想ってもいいのでしょうか。 お坊さん本職の方から意見をお聞きしたいです。 よろしくお願いします。
私は浄土真宗の教えに触れて前よりも煩悶せず心静かに過ごせているように思います。 そんな中で気になったのですが、浄土門の各宗派において、浄土で阿弥陀様のお導きで悟りを得させていただくのはこの先の何度も何度も続く輪廻転生の先のいつか、という理解になるのでしょうか? 今生だけでも長く苦しむこともある遠い道のりとはいえそれでもいつかは悟りを得させていただく身と考えて子供の頃の悩みや恐怖、不安が大人になってからはそんなこと気にしなくてよかったと思えるようになったみたいに今のこの身に起こる煩悶も少し離れて見られるような気がします。 何度も生まれ変わるとして、その時にも仏縁に導かれたいものです。
曹洞宗の修行期間を教えて欲しいです.男性は永平寺or總持寺、女性は愛知県専門尼僧堂で修行するそうですが何年修行するんですか?
私は今年30歳になります。一般家庭で育ち、家族は仏教信仰が深く、私も自然と仏縁が深くなりました。3年前に、YouTubeを見てお会いしたかった住職様とお話をする機会を頂きました。その方は、真言宗の寺務長さんで、生き仏のような精神世界、慈悲深さ、社会貢献欲の高さに感銘を受け、私の人生観が180度変わりました。その後、高野山に参拝し、お大師様に真言宗の住職様に出会えた事に、感謝の気持ちを伝えに参拝した事で、真言宗の信仰が深くなりました。 その住職様には、家族のギャンブル依存や借金の死活問題で苦しんでいた時に、親身に相談に乗ってアドバイスして頂きました。今は家族の問題が落ち着き、平穏な日々を過ごせているので、とても救われ、感謝の気持ちでいっぱいです。 ずっと介護士として、菩薩行をする事に命を捧げてきましたが、住職様にお会いする度に、お寺に貢献したいという気持ちが芽生えるようになってきました。 先月、高野山で修行をした住職様がいると、母の友人が紹介して下さり、新しい道が見えたような気がしました。もし、ご縁があるなら、住職様のお役に立てる生き方をしたいと考える反面、住職様に嫁ぐと何を求められるのか、自分の能力に自信がありません。特に、口下手で伝えたい事をうまく伝えられないところが心配です。介護士として、傾聴姿勢、ホスピタリティ精神、伝わるコミュニケーション能力を磨いてきましたが不安です。住職様はどんな妻を必要としているのでしょうか?