以前に質問させて頂いた者ですが、仏教を学ぶ中、従来の信仰宗派とは別宗派の教えに魅力を感じるようになりました。改宗ということも可能な世の中ではありますが、大事になることは重々承知であり、現段階では実行せずにと思うのです。そんな中、自分自身その別宗派が重んじている教えに心を打たれた訳なのですが、現在の宗派に属しながらも個人として別宗派の教えにあやかると言うのは善として捉えても良いのでしょうか?勿論ご先祖様の供養について無礼なく従来通りで供養に努めて参りますが。また改宗についてもし何かアドバイスが頂けるとしたならば有難いです。よろしくお願いします。
とある新興宗教に入った姉の誘いを断りきれず、その宗教に入会してしまいました。 姉は旦那さんの説得付き添いのもと今は退会しています。 わたしもやめたいのですが、優柔不断なのと何か不幸が起こるんじゃないかと思うと退会の申し出ができません。 実家の家族は近くのお寺に檀家としてお世話になっています。小さい頃は祖母と一緒にわたしもそのお寺によく通わせてもらっていて、本当に優しい方ばかりでご飯をいただいたり、たくさんお話ししてもらったり、大変お世話になったのを覚えています。 本当は祖母との思い出が詰まったこのお寺に戻りたいです。 ただ祖母が亡くなってからお寺に行くことはほとんどなくなり、また新興宗教に一度入ってしまったこともあり罪悪感から訪れることができません。 本当に自分の優柔不断さが情けないし、良くして頂いたのに申し訳ない気持ちでいっぱいです。 もし新興宗教をやめたとしても、元のお寺に戻るのはやはり難しいでしょうか。
僧侶の方々の略装用について質問です。正装用の法衣はそれぞれの宗派で違うのは分かっていますが、略装用の法衣も違うのか疑問に思います。特に真言宗智山派の僧侶の方の略装用の法衣を知りたいです。
御真言と印について、お尋ねさせていただきます。 先程、無知なのに、誤った印で御真言を唱えてしまいました。 以下にいきさつを書かせていただきます。 この場合の対処を教えて頂ければ幸いです。 —————— 先日、お隣の人から心無い事を言われてしまいました。詳細は割愛させていただきますが、それは、明らかに相手からの悪意(私へのコントロールできない嫉妬心のようなものだと思います)が滲み出てしまった言動でした。 私の方は、お陰様で冷静に対応させていただきましたが、相手の悪意(厄)を被ってしまったので、どうしても抑えきれない悲しみ、怒りが残ってしまいました。こういう時は忘れることに努めるのみですが、相手が隣人であったため、物音などで気配がわかってしまうのです。 そこで、藁にもすがる思いで“厄除け“を検索してしまい、不動明王の御真言と印についての記事に辿り着きました。無知な私は、左右逆に印を組んで無心に御真言を唱えてしまいました。 そのあと、素人が印を組むものではない事を知り、なので、“ごめんなさい“という気持ちと共に、再度合掌で同じ不動明王の慈救咒を唱えさせて頂くことにしました。 気持ちが落ち着いてから、色々と不動明王のことを調べていて、先程の自分の行為を反省しました。 実家は仏教と神道です。わたしは1人海外に住んでいるため、近くのお寺へお参りに行くことができません。御真言などを唱える習慣は皆無でしたので、今回の私の行為は浅はかなことだったかもしれません。 間違った印と御真言を唱えてしまった場合、どうすれば良いでしょうか。 何卒よろしくお願い致します。
いつもお世話になっております。 ある日、仲良くなった女子神主さんと話していて、 「科学じゃ説明できないこともたくさんあるのよ」 「お医者さんも信用しきっちゃだめよ」 と言われました。 私はこの神主さんを怪しみ、あえて科学界隈の精神科の先生に、 神主さんからこう言われた、と伝え 「先生、科学で説明できないことって何だと思う?」 と尋ねてみました。 「たくさんあるじゃない。精神の現象なんて最たる例だよ」 と言われました。 「個々人の物事に対する捉え方とか、病気を治したいっていう 気持ちを起こさせたりとかは、科学が干渉できないってこと?」 と聞いたら、その通り、科学はあくまで目に見えるものを探求する 学問だと言われました。同時に、 「みんな、科学に期待しすぎ」 と。 精神科の先生のことは信頼しています。でも、科学のプロが 「科学に期待しすぎ」という考えなのはどうなの?とも思います。 以前こちらで、宗教心、仏教心とは何か、と質問したら、 「当たり前のことを分かるようになり、惑いをなくすこと」 とお答えいただきました。目を開けたら見える、おならは臭い、 というようなことだとご説明いただきました。 しかし、世の中の人は、 「どうしてこうなるの?どうすればいいの?怖い!」 とあらゆる事に惑います。 科学は、 「これはこうだからこうなるんだよ(当たり前の提示)。こうすれば 怖くないよ」 と人々に教えてくれます。 そして、素直にその事象を受け入れ、科学で明らかになった対応策を、 (例えば病気の治療)ありがたく実行させていただく。この謙虚さと やる気を起こさせるのが、宗教心だと思うのです。 こちらのお坊様も、 「仏教では、物事には必ず科学的原因があると説く」 「科学の発展なしに、現代社会はあり得ない」 とおっしゃいます。 時折、「科学が人を貧しくした!」と言っている宗教家を 見かけます。私は、こういう人は危険だと思うのですが。 ちなみに精神科の先生は、「僕を100%信用しないで」と言い、 神主さんも、医者を信じきるなと言いつつ「治らない人は、治そう としない人よ」と言います。 実は、長年の疑問です。私は、仏教は科学を否定する危険な宗教 だと思いたくないです。
うちには 生みの母、父、育ての母の3人のご位牌が仏壇にあります。 このご位牌が移動して育ての母の御位牌が真ん中にきてしまいます。 それを近所の拝み屋のおばさんに話してみたら 御位牌の置く順番を 左から育ての母、産みの母、父親 のものにしなさい と言われました。 また、近所のご住職の方が、仏壇に本尊がないせいだ と言われ、大日如来の御本尊に気を入れてくださいました。 今、頂いた御本尊を仏壇の中央に置き、御札をリビングに貼っています。 ごのご住職は真言宗です。 私の家は曹洞宗なのですが、真言宗で頂いた御本尊や御札を飾って良いものでしょうか? 最後に、御札というのは 仏教と神道のものを同時に貼っていいものでしょうか? また、位牌を置く順番は 拝み屋のおばさんの言った通りでいいのでしょうか?
私は浄土宗であり 阿弥陀様を渇仰している者です。 御本尊様のお力添えを頂きたいのは 勿論のこと、真言宗の仏様と言われている 不道明王様のお力添えも頂きたく 思っているのです。浄土宗と真言宗。 宗派が違うのですが信仰しても 良いのでしょうか?また、仏教において 宗派は違えど仏様は全宗派に 通じておられると考えており 固定の宗派でありながらも 自身の成長に向けお力添え頂きたい 仏様に対し心から念仏や読経をする事が 正しい事であると考えているのですが 如何なものでしょうか。
前回の質問でありがたい事に 真言を唱えても良いと教えて頂きまして 実家の仏壇に十一面観音様がいらっしゃる事もあり 十一面観音様の真言から唱えて そのあとに好きな不動明王様の真言を唱えようと思っているのですが 十一面観音の真言は オン ロケイ ジンバラ キリク ソワカ オン マカ キャロニキャ ソワカ で 不動明王様の真言は ノーマク サンマンダー バザーラダン センダー マーカロ シャーダー ソワタヤ ウンタラター カンマン でよろしいのでしょうか? ヤ ソハタヤ ウンタラタ カンマン
妻の実家が絶え、遠方にあるため義父母の墓を終い近くの納骨堂に移そうかと御住職に相談したところ、離檀料なる話をされ、墓の撤去費用以外に300万円払えと仰られました。思い悩み、弁護士に相談したところ、法律的に離檀料など1円も必要ないと言われました。しかし、私の気持ちとして今までの感謝として、50万円を持ち、御住職にその旨を話したところ烈火の如くお怒りになられ(それは法律の話、私は宗教の話をしているのだ)と仰られました。もちろん、50万円も撥ね付けられました。お金のことより離檀料がわかりません。離檀料とは存在するのですか?教えてください。よろしくお願いします。
日蓮宗の方のYoutube動画で、水行修行についてのものを拝見し、「世の中は楽しみ、苦しみの量が決まっていて(同じ)。修行者が苦しみを皆の身代わりに受ける」 その覚悟で臨んでいるという内容でした。 大変感銘を受けました。 自分もそうですが、とかく人は「どうして自分だけがこんな目に」的な考えで不平・不満を抱きがちですが、自ら進んで苦行に臨む姿に尊敬します。 どうすれば、こうした心境や境地に至れるのでしょうか? 最近仏教思想に興味を持ち、「少欲知足」など、色々な言葉を知るようになりました。ただ、どうしてもまだ頭だけ(知識のみ)で、実践にまで至っていません。 僧侶の方々も人間ですから、時には煩悩に苛まれることもあるかと思いますが、どう考え、日々の実践に移されているのでしょうか? アドバイスいただけますと幸いです。
お坊様に質問があります。 精神的・身体的に辛い時に南無観音菩薩と心の中で唱えても良いでしょうか? 時々、内科に通院しています。
1.私は、不安に弱い人間なのですが 自分を勇気づける為に不動明王様の真言を 心の中か口で唱えてみたいと思いました 不安は自分自身の心の問題なので 別にご利益が無くてもいいのですが (正直、あったら嬉しいです) 僧籍ではない、お経すら覚えていない 私が唱えても失礼にはなりませんでしょうか? 罰が当たったら怖いなと思ってしまいます。 2.仮に問題がないといたしまして 暗記せずに、調べた真言を見ながら唱えるような形でも失礼にはあたりませんでしょうか? そして印は組んだほうが良いのでしょうか? 組まないほうが良いのでしょうか? 3.不動明王様の真言を唱えるとして (仮の話に仮を重ねてすいません) 自宅の仏壇には十一面観音様を祀っているのですが やはり身近の観音様の真言も唱えた方がよろしいのですよね? そもそも観音様の真言は唱えてもよろしいのでしょうか? 4.いずれ愛染明王様の真言も唱えたい 近所のお寺さんが愛染明王様を祀ってて 自分自身も幼い頃や今でもお参りをしたり 除夜の鐘を叩いていたりしたので 可能であれば唱えたいと思うのですが よろしいのでしょうか? ちなみに何故、不動明王様の真言を唱えたいかと申しますと 昔から、家族がお世話になってる、お参りしてるお寺さんが 不動明王様を祀られているのと酉年の守護なのとカッコイイからと思ったからです。 拙い文章に加え、仮の話に仮を重ねてで 申し訳ありませんが お答えいただけると幸いです。
修験道になることを考えているんですが修験道になった後どのような生活を送るのでしょうか? 24時間365日修行できるのか.お金は必要なのか.一日のスケジュールはどのような感じなのか、などを教えて頂きたいです。
今、同棲していた彼氏が日蓮宗大荒行堂に入っています。 修行が始まってから2週間が経ちました。 この2週間はとても長く感じました。 正直、会えない寂しさよりも生きてるかな?大丈夫かな?という不安の方が大きいです。 後3ヶ月間楽に考えられる方法はないでしょうか、、 毎日毎日涙を流す日々です。 彼には大丈夫、無事成満するから待っててねって言われてるのですが、不安で仕方ないです。 12/6から面会が始まるのですが、私が鳥取に住んでいるということもあり、1度は面会に行くのですが、中々面会に行くことができません。 日蓮宗大荒行堂を経験されてる方がいましたらアドバイス頂きたいです。
生前沢山可愛がっていただいた親戚のおじいちゃんが亡くなり、葬儀に参列して来ました。その時の住職さんが怖かったので、相談させてください。 先日、親戚のおじいちゃんが亡くなったと連絡が入り、ショックでした。 お葬式の時にきちんとお別れしよう。と思い、お寺に向かいました。 お寺に付き、葬儀が始まりました。住職さんは真っ赤な服を着てだるそうに部屋に入ってきました。服が真っ赤だった事も驚きですが、あまりにもだるそうでしたので、「お疲れなのかな…?」と思いました。 住職さんは部屋に入り、遺族や参列者にお辞儀もお話もなく、一直線でお焼香台へ行き、お焼香をし、そのまま葬儀が始まってしまいました。普段お世話になっているお寺では、葬儀が始まる前に住職さんから一言挨拶が必ずあったので驚きました。 その後、滞りなく葬儀は進み、住職さんから「お焼香。」と一言あり、遺族の方がお焼香台へ向かいました。コロナ禍でお焼香は遺族だけに絞るお寺もあると聞いていたので、私達は行っていいんだろうかと他の参列者の方とソワソワしていました。そしたら住職さんがお経を読むのをやめ、「何してるんですか?続いてください。」と怒ったように発言し、怖かったです。 その後、何とかみんなお焼香を済ませ、住職さんから「これで葬儀は終わりです」などの言葉はなく。黙って座った状態で恐らく葬儀が終わりました。喪主が え? という風にキョロキョロしてると、住職さんが「ご挨拶。あるならしたら。やるなら今やって。今しか時間ないよ。」ときつくいいました。喪主が「孫から祖父に向けた挨拶もあるのですが…」と伝えると「は?なに?」とすごく大きな声で聞き返し、喪主の人がもう一度伝えると「それ必要?」とバッサリ… 結局お孫さんからの挨拶はなく、喪主が手短にご挨拶をして終わりました。喪主がお話している時、住職さんはいそいそと片付けをしていました。 その後、四十九日法要も続けてやったのですが、その時の住職さんの服装もミントグリーンのすごく派手なものを身に付けていました。 お疲れだったのかもしれません。でも、最後のおじいちゃんとのお別れが台無しにされたようですごく悲しかったです。 このような方が住職でいいのでしょうか? また、法要の際に住職さんが派手なお色の服を着ていいのか。法要ごとに服を変える決まりがあるのか。気になったので教えて頂きたいです。
いつも美味しいご飯を作ってくれる優しいお母さんに私の誕生日などに行きたい場所に連れて行ってくるお父さんと、ちょっと素直じゃないけれど可愛い妹がいます。 私は情緒不安定で、妹に手を上げたりしたことがありますしすぐ怒ってしまいますし 虫を殺したり嘘をついたりしたりする、 怖がりで泣き虫な情けないダメな娘です 家族みんなで死後天国でまた暮らしたいけれど、恐らく私は地獄行きです。どうにか地獄行きにならない方法はありませんか? とても不安なんです
私は40代のサラリーマンです。この度、サラリーマン生活に終止符を打ち、僧侶になり仏様の教えを学び残された人生を生きたいと考えています。 天台宗である理由は、祖父、祖母が熱心な信徒であり、小さい頃から一緒にお経を読んだりしておりました。祖父、祖母を亡くした今、僧侶見習いなどをさせていただけるようなところをお寺さんにも相談させて頂きましたが、私の住む県内ではあまり無いようです。東京にある通信制の仏教塾も検討いたしましたが、出来れば経験を積みながら道を進めていければと考えております。 師に学び、見習いをさせて頂きながら、僧侶になりたいというのは浅はかな考えでしょうか。また、受け入れてくれるようなお寺さまはあったりしますでしょうか。不躾ではございますが、こちらでご相談させていただきます。よろしくお願いいたします。
いつもお世話になっております。 今回は、スマホからです。 こちらの問答を拝読したり、 オンライン法話などを聴いて いても、 「ありのまま、あるがままを 受け入れなさい」 というお言葉を散見します。 しかし、これは少々危険な 解釈もできてしまうのでは?と 思いました。 例えば、 ・ガンになった →放っておけ。治療を受けるな ・統合失調症等で、暴力行為が 激しい家族がいる →甘んじて受け入れろ ・発達障害等で、誤解を招く 行動が目立つ →障害なんだから仕方ない というものが思い付きます。 しかし、私は、仏教はそんな 怠惰で放逸な教えではないと 思いたいです。 明らかに自分や周囲が困って いる状況も放っておけ、という 解釈もできてしまうと思う一方、 「ああ、今はこう言う状態 なんだな」 と目の前の、あるいは自分の状況 を淡々と受け止め、それに合った 対応(応病与薬的な)していく のが、仏様の教えだと思いたい と思っています。 ありのまま、あるがままを 受け止める、とは、どういった 意味なのでしょうか? 上述したような、危険な意味 ではないと思いたいです。
維摩居士でも文殊菩薩さまの知恵には、敵わなかったのでしょうか?私が読んだ「維摩経」をマンガにしたものには、維摩居士が文殊菩薩さまに帰依したことは書いてなかったのですが、文殊菩薩さまのことを検索していたところ、どのサイトかは忘れてしまったのですが、その様なことが書かれていた記憶があります。
罪を憎んで人を憎まずと言う言葉がありますが、この言葉の意味は分かります。 自分も普段から心がけてる事の一つでもあります。 ですが、一つ疑問が残ります。 もし、人類を滅ぼす存在が現れた場合です。 だいぶオーバーだと思いますが、人類を滅ぼす存在が居たとして、その存在が人類を絶滅させようとしたとしても、その存在を憎まずに愛で包み込んで人類はそのまま絶滅しました。←これで良いんでしょうか?