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「仏教・お坊さん」を含む問答(Q&A)一覧

念仏行者として自信をなくしました。

最近、祈願寺で先達さんから 何度も雷を落とされています。 お花を持って行ったら、 「お墓に持って行くなら それでもいいが、うちの様に 墓を持たない寺は最上級の 荘厳具を備える場合が多い。 持ってくる人は皆、 『持ってくるんだからいい でしょう』って言ってポンと 持ってくるけど、管理に困る。 今回は受け取るが、次からは この様な無造作な仕方ではなく 瓶などに入れてくる様に」 とのこと…。 突然だったので情報処理が 追いつかず、「知らなかった」 と言って泣いてしまいました。 「失礼なのは承知だが、 (私の下の名前)さんと俺は 親子くらい歳が離れている。 実際俺には、貴女と同年代の 息子がいて、貴女のことは 娘の様に思っていて、【親心】 からの発言だ」と始まり、 マナー意識に対する訓戒が 続きました。 私自身、改善に努めていることも 伝えましたが… 最後は、私は泣きながら何度も 頭を下げて、「ごめんなさい」 と連呼していました。 私は特に 人からの「優しさ」や「親心」 が一番理解できません。 支援者たちには共有済みで、 指導を受けながら詫び状(先達 さんの御心に気がつけなかった ことに対する謝罪)も作り、 後日持って行きます。 実は、持って行ったのですが 先達さんはご不在、代理の方に 渡して貰おうとしたら、 「気まずくなる、自分で渡した 方がいい。それと、金券や お布施は同封しない様に」 と指示されました。 入れてません、と伝えると、 「そっか!俺の取り越し苦労! ゴメンネ(笑)」と言って くれました。 こんな体たらくが続く私如き が、一丁前に格好を付けて、 輪袈裟や数珠を持って、 お寺に行ってもいいのか… 葛藤しています。

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浄土真宗の教えについての質問

浄土真宗の教えについて質問があります。 悟りの反対が迷いだとして、迷った時に阿弥陀様のお力を心底信頼し、私は大丈夫なんだ!と思う事ができたら迷いがなくなる。それは最早悟りで極楽である。という理解でよろしいでしょうか? 仮にその様に考えると、悪人正機説で親鸞様が仰りたかった事は、「迷いの多い人の方が南無阿弥陀はよく効きます。」という事で、善良な市民や、悟っているお坊さんを批判したかった訳ではなく、犯罪者を特別庇った訳でもない。という風に考えられます。 ところが、浄土真宗のお坊さんのお話によりますと、「現在、この世は末法の世界のため親鸞様は生きている間に悟られる事はなかった。」とお聞きしました。 そう考えますと、私が今、いくら南無阿弥陀と唱えようとも悟る事はなく、この世では楽にはなれない。苦しいまま。という事にならないでしょうか? 私は阿弥陀様の本願、お力を心底信頼し、南無阿弥陀と唱えた時の心のあり様が悟りで、極楽浄土ではないかと思うのです。 それとも、極楽浄土という別世界が西のどこかにあって、生きている間は苦しいままですが、死後苦しみのない極楽浄土へ行くのでしょうか? だとしたらそこには何が行くのでしょうか?魂でしょうか?肉体でしょうか?心なのでしょうか? お手数ですが、回答頂けましたら幸いです。

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輪廻があるなら、私は天界も地獄も見て来たのでしょうか?

こんにちは。 前回質問で、輪廻思想がどうも腑に落ちない、と主張した者です。 ただ、輪廻に限らず、事物が「ある」とも「無い」とも断定するのは中道の教えに反すると感じるので、輪廻思想の側からも質問させてください。 輪廻転生があるなら、私は六道あらゆる世界を見て、生きて来た事になりますよね。何しろ仏教の宇宙観は無数劫の時間スケールで成り立ってるのですから。 また、私は、いわゆる地球外生命というものも、必ずどこかの惑星で誕生し生を営んでいると信じています。 そうなると、私の魂(?)は天上界のめくるめく壮麗な世界も体験して来たし、地獄の底の恐ろしい責め苦も受けて来た事になりますよね? また想像を絶するような異星の光景も目の当たりにしてきたのではないでしょうか? 輪廻転生が教えているものって、 「そういう一切合切の有情は、別個に生きているのでなく、過去、現在通して、物質から魂のレベルまで、密接に繋がって生きてるんや。天人も地獄の衆生も、あらゆる命も決して他人事じゃおまへんで。なにせアンタがそれ自身だったんだからな。」 と言っているようにも思えるんです。なぜか関西弁ですが。 そういう所から、いわゆる慈悲って生まれるのでは無いでしょうか? 生前や死後を無記とするのは「智慧」ですが、また輪廻をわが事として受け止めるのは「慈悲」の根源なのかな?とも思います。 この2つの考えは矛盾するものではないとも、私には思えます。 お坊様方は輪廻と言うものをどのように受け止めてるのか、気になったので再び質問させて頂きます。 お考えを聞かせて頂ければ嬉しいです。

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一念と執着・執念*強欲と過剰な欲求

どのカテゴリーにしたら良いのか迷いましたが、質問させてください。 「一念」は、岩をも通すとか言って、良い印象があります。 何かを強く強く深く深く一筋に、寝ても覚めてもご飯を食べていても 常に念頭に置くことが出来なければ「一念」とはならない気がします。 でもそればかりで、他はどうでも良いとか、他は全く顧みないとかでは良いことでは無いですよね・・・ 一方「執着」と言うと、良い印象は無く、 こだわりが過ぎて身動きが取れないとか、怖れや邪な感じが見え隠れするような気がします・・・ でもこだわりにも、良い意味でのこだわりってありますよね。 「一念」と「執着」は、それぞれどういうことですか? 違いは何ですか? 「一念を通す」とは、具体的にどうすることですか? そして「執念」とは? 目的や目標を深く思い、諦めるという選択肢は全く無いという状態のように思いますが。 目的を果たすまで何度でも挑み続ける、みたいな。 また、「欲」ですが、 「欲」は誰でも持っていると思いますし、わたしは煩悩の塊です。 「強欲」とは、とても良くないもの、 誰かから奪ったり搾取したり、人を傷付けてでも手に入れようとすることのように思います。 「過剰な欲求」は、どこからですか? どんなことですか? 独り占め的なことは当てはまる気がします。 それから、相手の気持ちを甚だ無視した要求や押し付けみたいなこと。 大変申し訳ございませんが、 解りやすく噛み砕いてご教示頂けましたら幸いです。 もし仏教としてのそれと、社会通念上のそれに違いがあるという場合は それぞれを知りたいです。 わたしの長年の疑問です。 ご回答頂けましたら有り難く存じます。

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三縁の慈悲

おはようございます。先日、慈悲について教えていただいた者です。あの時初めて聞いた仏教の慈悲の種類 - 衆生縁、法縁、無所縁の慈悲について、ずっと考えていました。これでちゃんと理解できたか(勘違いしていないか)、よかったらお暇な時に教えてください。あれこれ訊いてごめんなさい。 衆生縁の慈悲 - 自分の身の回りの人への慈悲、友達への思いやりとかでしょうか。 法縁の慈悲 - わからないです…ご説明お願いします。できれば今回3つの慈悲を一緒に理解したいんです。 無所縁(無縁?)の慈悲 - 対象がないと言われているところがわかりにくいのだけど、縁がないということは全然知らない人に対する慈悲、相手を選ばなくて無償で無限という意味でしょうか。これが仏様の慈悲かなと思います。 ハスノハで初めて仏教を知ったのは先月、仏教は神に奇跡を祈ったりするものではなくて苦しみを減らす考え方を学ぶものなのかな、と何となくわかってきました。少し前まで私は大きな大仏の神様がいて仏教徒の人達はその神様に祈っていると思っていましたが、この世に生きているうちに法則に気づいた人(お釈迦さま)が説いた教えが仏教だったのですね。それなら菩薩とか如来と呼ばれている神様達は何だろうとか、もっと知りたい欲求が出て来て煩悩が増えてしまった気もするけれど、仏教を知ることができてよかったと思います。

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本を読んでみて

法話集を求めて 近くの書店へ行ったときに、 読んでみたいなぁと思う本がありましたので 購入してさっそく読んだのですが、 書かれている内容は、 なるほどなぁ、ありがたいなぁ、 これからはこういう風に 生きていきたいなぁと前向きになれたり、 仏教についても理解が深まったり、 素敵な本だったのですが、 亡くなった人は仏様になったのだから 食べ物に好き嫌いはありません 故人の好物をそなえるのは 供養とは真逆の行為です、 仏様になったということを 信じていないことになります。 とか 仏様になった故人に、 手紙を書いても声は届かないし読めない 故人との思い出を綴ることは良いが 手紙を書くのはすすめない、 と言う内容のことが書いてありました。 他の内容はとても素敵なのに 自分がしている行動と違うからか、 どうしてもこの2つが気になります。 著者の方の考え方を否定しているわけではありません。 仏教の中で、このように考えるのか、 それとも著者の方が、このように考えておられるのかがわからず、混乱しています。 日本語がおかしいですかね、すみません。 わたしの理解力が足りないのかもしれません、 失礼なことを申し上げているかもしれません。 ですが、このモヤモヤをはっきりさせたいです。何かお言葉をいただけたら、と思います。 未熟ですみません。

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仏教における勉学

ご閲覧頂きありがとうございます。 仏教から見た「学問を勉強すること」についてお聞きさせて頂きたいと思います。 中村さんのブッタのことばを読んでいるのですが、賢者を説明するのに「貪りを離れ~」「妄執も存せず~」といったような文が並ぶのですが、その中に「学識あり」というものがありました。 誰だったか忘れてしまったのですが、「生きているうちに全てを学ぶことはできないし、今まで学んできたことだって(歴史など)事実かわからないんだから、そんな不確かなものに縛られるくらいなら勉強なんてやめて、今ある物事の姿から真理を見いだし自分のあり方を決める能力をつけろ」といったような内容の言葉を聞いたことがあり、またその人が確か有名な宗教家?だったので私は「宗教は学問に肯定的でない」、という偏見をもっておりました。 ブッタのことばで「学識あること」を良い意味で書かれているのを見て、「では、仏教での勉学はどのようにとらえられているのだろう?」と気になったために今回は質問させて頂きます。 仏教では勉強はするべきことなのかどうか、またするべきなら何故なのか、など仏教から見た勉強についてを教えて頂きたいです。宜しくお願い致します。

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