いつもお世話になっております。 今回は、スマホからです。 こちらの問答を拝読したり、 オンライン法話などを聴いて いても、 「ありのまま、あるがままを 受け入れなさい」 というお言葉を散見します。 しかし、これは少々危険な 解釈もできてしまうのでは?と 思いました。 例えば、 ・ガンになった →放っておけ。治療を受けるな ・統合失調症等で、暴力行為が 激しい家族がいる →甘んじて受け入れろ ・発達障害等で、誤解を招く 行動が目立つ →障害なんだから仕方ない というものが思い付きます。 しかし、私は、仏教はそんな 怠惰で放逸な教えではないと 思いたいです。 明らかに自分や周囲が困って いる状況も放っておけ、という 解釈もできてしまうと思う一方、 「ああ、今はこう言う状態 なんだな」 と目の前の、あるいは自分の状況 を淡々と受け止め、それに合った 対応(応病与薬的な)していく のが、仏様の教えだと思いたい と思っています。 ありのまま、あるがままを 受け止める、とは、どういった 意味なのでしょうか? 上述したような、危険な意味 ではないと思いたいです。
兼業の寺院の長男です。 姉が一人いますが私が跡継ぎとして育てられました。 子供の頃に跡を継ぐかは将来考えると親に言ったら叱られたのが衝撃で、以来、自分が必ず寺を継ぐものと思って生きてきました。 祖父も父親も僧侶として素晴らしいと思った事もなく、僧侶資格を取る為の過程で出会った講師の方達の話もポジショントークばかりの様に感じて僧侶に良い印象はありませんでしたが、経典や宗祖の残した言葉は興味深い部分もありましたし、継ぐ事で世話になった親の肩の荷を下ろしてあげられて、檀家さんの役に立つなら継ぐのも悪くないと納得していました。 しかし私が結婚してから、私達夫婦は寺と仕事を両立する為に両親とは異なる生活の仕方を計画している事を話すと、両親は話し合うまでもなく「寺をやる気がないのか」「そんなに寺を軽視していたのか」等と不快感を示しました。私達は詳しく説明して、話も聞かず頭ごなしに否定するのはおかしいと両親に抗議すると「お前達の考えを知らなかっただけ。自分達の態度は悪くない」と、話し合いもせず不快感をぶつけた自分達の失礼な態度を認めません。 両親は私が成人しても寺について何の話し合いもしませんでしたが、両親は私達が両親の気持ちを察して両親の思い通りに暮らすものと勝手に信じていたようです。 挙句の果てに私が跡取りである事や両親の寺のやり方は「祖父が決めた事であって自分達に責任はない」とさえ言いだしました。 もちろん私の人生選択に責任を負うのは私自身ですが、間違いなく私に影響を及ぼしてきた親なのに、恥ずかしげもなくそんな事がよく言えるなと思います。 姉は姉で結婚して家を出る時も、寺の事など気にもかけなかったくせに、両親の肩を持ち、後継ぎなら両親のやり方を踏襲するのが当たり前だと私達を責めます。 私が「貴方が私の立場なら今の時代でも両親のやり方を黙って引き継ぐ事を受け入れるのか?」と聞くと姉は「自分が跡取り?意味が分からない」という様子で、姉にとって跡取りとは私以外であるはずがなく、姉が私の代わりになる事を想像するどころか、私が継ぐ事をありがたいと思った事さえなかったようです。 私は寺や家族の事を思って選択の幅を狭めてまで生きてきたのに、家族にその人生を軽く見られてなお継ぎたいとは思わなくなり跡取りは辞退したのですが、寺族の跡取りへの思いというのは一般的にこの程度なのでしょうか。
最近仏教に興味を持ち始め、勉強しています。 仏教における大事な考えとして「執着を捨てる」事があると思います。 確かに、その理屈には納得できます。 しかし一方で、執着を捨ててしまえば、「何かに向けて努力できなくなってしまうのでは」と疑問に思いました。 私は今、資格取得に向けて勉強しています。それは、仕事をする上でもっとレベルアップしたい、という思いからです。 しかしこの「資格取得したい」思いもまた執着でしょうか。 目標という執着をも捨ててしまえば、人生において何かに向けて頑張る事ができなくなってしまいます。 執着と目標、どのように考えれば両立しうるのでしょうか。 もしくは、目標・努力という執着を捨てよ、というのが仏教の正しい教えなのでしょうか。 ご回答よろしくお願いいたします。
「死んだら仏になる」とは言いますが、 では、仏には「死」があるのでしょうか? 極楽浄土や六道輪廻の仕組みはなんとなく知っているのですが、仏が死ぬというのは聞いたことがないので質問させていただきました。
私は約2年程とある心療内科に通院させていただいています。 現状診断結果は出ておらず病名もないのですが、不安の波があるため弱めの抗不安薬を処方していただいています。 しかし、不安を感じるのは今の私に必要な事だからではないかと感じ、それを薬を飲むことで抑制しようとするのはよくないことなのではないか、また、人に頼ることができ、過去に比べ不安感も弱まっている今の私が薬を飲むことは、今よりもずっと辛かった頃の私に対しての冒涜なのではないかと感じてしまいます。 薬を飲まなくとも時間が経てば不安感はおさまります。 弱い薬とはいえ頼ってしまったときは罪悪感に駆られます。飲まなかったときは飲まなくとも耐えられている自分が病院にかかりお医者様の時間をとってしまっていることを申し訳なく感じてしまいます。しかし、過去にあった自傷行為をやめることができたのは薬を飲むようになってからのような気がしているのです。 薬を飲み感情を抑える行為は仏教ではどのように捉えられるのでしょうか。 拙く非常に読みにくい文章になってしまい申し訳ありません。
毎回相談させていただくたびにありがたいご回答を賜り、本当に本当に感謝しております。 毎日夫とともに朝晩仏壇に向き般若心経を唱えています。 私はお経を唱えるとき、精神というか意識が100%完全にお経に集中できていません。 夫が般若心経を読む脇で手を会わせるのがいつものかたちですが、私は亡き娘を思いながらなので生前の娘のあれこれが頭に浮かんで、 娘との面白おかしかったことを思い出したり、仏前に備えてある供花に目がいけば、花がいたんでるから取り替えなきゃいけない→どこの花屋にいこうかな→そういえばいつもいくあの花屋は…などといろいろなことが頭に浮かんできてしまい、 そうしている瞬間は、仏様に気持ちを向ける大事な時であるのはわかっているに、集中できていないということで、 これでは仏様に失礼で供養になっていないのでしょうか。正しく向き合う姿勢はどのようにあるのでしょうか。ご教示いただき改めたいと思います。
こんにちは。今回、正信偈についてお伺いしたいことがあり、質問させていただきます。 先月亡くなった祖父のことが何かにつけて思い出されるのですが、自分なりの方法で供養をしてあげたいと思っていたところ、祖父自身が「両親(私から見て曾祖父母)の供養のため」として正信偈を書写していたことを思い出しました。15年ほど前のことになります。生前に書き残したものによると、長年交友のあった知人の方から書写を勧められたとのことです。 こうした祖父のおこないに自分自身を重複させることで、祖父の旅立ちが安らかなものになるようにしたいと思っています。同じ浄土真宗でも唱え方は宗派によって少し異なるようですが、書写に際して気をつけるべきことがありましたら教えていただきたいです。本当は法要でお経を上げてくださったお坊さんにお尋ねするべきなのですが、孫の私が聞くのも差し出がましい気がして、この場で質問してみようと思いました。 正信偈のなかで説かれている教えについてもこれから勉強していかなければならないような段階ですが、何卒よろしくお願いいたします。
昨日大好きな大切なこと父の四十九日法要が終わりました。 ちなみに浄土真宗です。 偶然父の誕生日と重なり、昨晩は父のお誕生日会を行いました。 四十九日は忌明けとは言え、やはりなかなか悲しみ・寂しさ・辛さは癒えないです。 またその前日の朝は私が寝ぼけていたのだと思いますが、リビングで父の元気な声が聞こえた気がしました。 幻だとしても、父がいつも一緒にこれまでと同じようにいてくれていると思うと嬉しいです。 四十九日法要が終わってからも父はこれまで通り近くにいてくれるのか…そこが心配です… お盆の時はよくこちらに御霊が戻って来てくれて一緒に過ごせると聞きますが、それ以外の時は、四十九日を過ぎると今までと比べて遠くに行ってしまうのでしょうか?? 私も母ももちろん、ずっと近くにいて欲しいです…
浄土宗を信仰しているので自室で小さな阿弥陀様を祀っていますが、現実が苦しくて、死後の極楽往生より今は現世利益を祈りたいです。 そこで観音様の像をお迎えしようかと考えたのですが、仏像が二体もあっても置き場に困るので考え物です。 阿弥陀三尊というぐらいだし、本によっては観音菩薩は阿弥陀如来の化身と書いているものもあるので、阿弥陀如来に現世のことも祈れば願いは観音様に届くでしょうか? しかし、三祖良忠上人は阿弥陀如来には後生のことしか祈ってはいけないとおっしゃっていましたよね。 僕の今の悩みは婚活がうまくいかないことなので、密教では阿弥陀如来も敬愛和合のご利益があるそうですから、じゃあ阿弥陀様に祈ってもいいのか? でも良忠上人が阿弥陀様に現世利益を祈るなと言ってるし……、でも増上寺の黒本尊は思いっきり現世利益の祈祷されてるよな……と思考が堂々巡りに陥ってます。 結局のところ、どなたをどのように拝んで祈れば僕の婚活を助けてもらえるのでしょうか?
私は小学6年生の元日、初めてアームカットをしました。 頭の中に砂嵐が流れ視界が黒ずんでいるような感覚で、まともに考えられず傷つけてしまいました。 傷つける寸前、初めに「死にたい」と思い、次に「死にたいわけじゃない」「傷付ければ今までの償いになる」と言い訳をしました。1度目は滑らせただけでしたが、その時点で「こんなことをしても償いになるはずがない、むしろ罪を重ねているのではないか」と思い始めました。しかし、「中途半端は嫌、どうせなら血が出るまで」「切れば報われる」「今までの辛さはこんなものだったのか」と自分に言い聞かせ何度も切りつけました。途中「傷が残れば皆に私が今まで耐えていたことを認めてもらえる」と考えが浮かび少し嬉しくなり、そんな自分が怖くなりました。血を見て焦りました。もう後戻りはできないと感じました。 耐えきれず、すぐに母に私の行いを告白しました。懺悔のつもりでした。母は母自身を責めていました。そして私を叱ってくれました。その日私はもう二度としないと母と約束しました。 しかし、中学1年生になり、また傷つけてしまいました。1度目の傷が薄くなっていくことに不安を覚え「自分は今まで耐え、頑張ったのに認められない。それに姉にばかり注目がいく、切ればまた私を見てもらえる」と思ったからです。姉は何も悪くありません。私が勝手に姉を僻んでしまったのです。皆口を開けば一言目は姉で、私のことは話にすら出ないこともあり寂しかったのです。 その日から恐らく百何十回と切り、ほとんどが消えない傷として残りました。 ある日、ネット検索をしている時に"仏様の体に傷をつける"ことが大罪になると記載されているのを見ました。 私は「人は死後仏様になると聞いたことがある。なら生きている今、自分の体を傷つけることも大罪なのではないか」と考え、焦り、不安、恐怖、後悔が押し寄せました。 そして、自傷に対する仏教的なお話を伺いたくここへ書き込むことにしました。 初めて切った日が元日なことにも罪悪感を覚えています。元日を選んだ理由はなく、偶然その日に我慢が切れてしまったのです。 今年の元日からアムカはしていません。しかし、心療内科の薬を過剰摂取してしまいました。 心配されずとも、私の辛さを家族や先生に理解して欲しかった。 こんな私は死後、地獄に落ちるのでしょうか。許されないことをしてしまったのでしょうか。
いつもお世話になっております。 毎週、近所のお寺の法座に上がってお勤めをしているのですが、 数年前に通うようになった2人の奥様が気に掛かるのと、それに付随 した10年来の疑問があります。 法座が終わるとお堂の外に出て皆さんで世間話をするのですが、 お寺の境内でするにはあまりにも不適切な内容の話で奥様が 盛り上がります。 「皇族の@@殿下は頭が悪い」 「@@(大企業)の社長、旅行に行ったきり帰ってこなければいいのに」 「政治家の@@は裏でこういう事をしているそうよ。嫌ね」 というような、大企業、皇室、政治家などといったいわゆる「力ある 人」の醜聞や誹謗中傷です。 私も一時期、聞かなければ失礼かと思ってそれにお付き合いして しまっており、別の参詣者様が後ろで 「信じらんない…」 と呟いていたのを聞き、同類視されたと思い、あまりのショックで 帰宅して嘔吐しました。 お寺に全く行かない私の知人も、 「お寺に行かない私でも、そんな話はお寺でする話じゃないってわかる」 と言っていました。 1人の奥様は栄養士の資格を持っているので、役に立つ事を教えて くれます。それはありがたいので聞きます。しかしそういった悪い ゴシップが始まると、私は一緒くたにされたくないので 「お先に失礼いたします。お疲れ様でした」 と言って早々に離脱するようにしました。 先述のように、普通はお寺で人の悪口や醜聞など語るべきではないと 思っています。 権力に歯向かうのが功徳になるとでも思っているのでしょうか。 昔通っていて今決別した寺院も、住職が 「@@主義は仏法に通じる」 と公言し、寺報で政策を優しさの中に激しさを包含する言葉で批判する などしていました。まるで過激派の機関誌です。 私は当時体調がよくなく、でも家に籠っているのは嫌なので日参を していたら寺の職員全員から執拗な嫌がらせを受けました。 別のお寺でも、境内で防犯キャンペーンをしていた警察の人に 大声で暴言を吐き、言い終わった後にお坊さんを捕まえ、警察の人が 聞こえるように警察の人を指さして喚き散らしていた人を見たことが あります。 せっかく気持ち良くなりたくてお寺に来ているのに…これも修行 でしょうか。私の対応は適切ですか?また、仏法は反権力主義 なのですか? ご教授よろしくお願いいたします。
いつも大変お世話になっておりお坊様には心から感謝申し上げます。 よく剣道の手ぬぐいに「不動心」と書いてある物があります。 具体的にどういう心を表すのか分からなくてネットを検索していたら「真言宗」と関係があるという記事を見つけました。 差し支えなければ噛み砕いて教えて頂けますと有り難いです。
子供の頃愛知県名古屋市北区のダイエーの付近で托鉢をしていたお坊さんにあえてゴミを渡してしまったことを後悔しています。 その人に謝りたいのですが方法はありますか?
先日、祖父が亡くなりました。 その際にお世話になったお寺のお坊さんは 祖父が亡くなった日に枕お経を頼んだところ17時頃なのに、営業時間外と断られてしまいました。 その他にも葬儀中でお経を唱えてくれている時に数珠の紐が切れて、床に玉が転がりました。 縁起が悪いと思ってしまいました。 葬儀が終わった後、なにか数珠の紐が切れたことに対して言ってくるかなと思いきやそのままスルーでした。 調べた所によると縁起が悪いのではなく悪縁が切れた、数珠に守ってもらったなど良い意味もあるそうですね。 普通、誰もが不振に思うことならお坊さんがフォローの言葉など言うべきだと思います。 あと、腕時計を外しながらお経を唱えていました。 他にも葬儀が終わった後、喪主である私の父に「お礼を言ってください。」と言い、 父が「ありがとうございました」と言うと 「立って言ってください」と言われました。 葬儀にきてくれた親戚や祖父の知り合いなどがいる前で…… 恥をかかせたいのかな?と思ってしまいました。 確かにお礼を言わない父も父ですが、 違う言い方があったのではないかと思ってしまいます。 今回お世話になったお坊さんに対して とても不快な思いになってしまいました。 いくらお坊さんでも失礼ではないでしょうか? どこのお坊さんもそんな感じなんでしょうか? 今後関わりたくないのですが、どうすればいいですか?
今、大学で、全然宗教とは方向性が違う学部を選考してやっていますが、この時点からどうすれば、お坊さんになれるのでしょうか? 大学は中退した方が良いですか? 正直、真面目に就職して社会と自分を無理矢理結びつけるよりもお坊さんになって大自然の中で悟りを開く修行に打ち込んだ方が自分にとって有意義だと感じた為です。
お世話になっておリます。 在家の人間が出家してお坊さんになることについて相談させてください。 私は現在、32歳の会社員として働いています。 昔から人よりいろいろな面で劣っていると思うことが多く、孤独感を感じたり、生きる意味がわからないなどがあり、出家するという事に強い興味がありました。(もちろん、出家したからといってすべての辛さから開放されるとは思っていません。お寺も組織ですし、人間関係の辛さ、修行の辛さもあるだろうとは認識しています。) 日々生きていく中で、どうしても何か大きな目的を求め続けてしまうのです。これは何の意味があるんだろう?いずれ死んでしまうのに、確実で変わらないことなんて無いのに、と考えてしまい、心に大きな穴が空いていてそこから生気みたいなものが抜けている感じです。 仏教や禅を本などでは学んでいますが、やはり体験にまさるものは無いのでは、と考えています。出家して修行したい、そうすべきなのでは?と考えることが最近増えています。 皆様の出家に至った経緯や、その時の心境、出家するということについて、ご意見をいただけますと幸いです。 何卒よろしくお願いいたします。 以上
庫裏の修繕費用を檀家で全額負担して、修繕する事が決まったのですが、その金額が本来かかる修繕費用よりも約倍額の200万円程誤魔化し多く請求させている事が発覚いたしました。 どうして発覚したかと言うと、お寺のお手伝いをさせて頂いている時に、庫裏の修繕見積書が乱雑に置かれていて、正規の金額がたまたま目に入ってしまいました。 またお寺の修繕を依頼された知り合いの業者さんが住職さんに、大幅に誤魔化した金額の見積書の作成をしてくれとお願いされ、断ったと相談されました。 業者さんの話と見積書の内容が合致し、尚且つ一般的な建築業者さんなら明らかにおかしいと気付く金額でもあります。 また、不審に思った檀家さんが住職に見積書の提示を求めると言う話も聞きました。 とても小さな町なので、この問題がすぐに広まり大問題になる事が予想されますが、とても良くしただいている住職さんなのでショックでどうしたら良いのか分かりません。 檀家の少ないお寺なので、何か深い事情があったのかなとも思いますし、嘘であって欲しいとも思います。 また住職さんの言葉に何度も助けていただきましたが、それが嘘だったのかとも思ってしまいます。 誰にも相談する事が出来ず、苦しいです。 どうかアドバイスをお願い致します。
初めまして。 現在お付き合いしているお坊さんがいます。 もうすぐ誕生日なので前から欲しがっていた法衣着衣時でも身に付けられる、シンプルな腕時計をサプライズで渡そうと思っているのですが、何か素材やデザインでタブーなものはあるのでしょうか? 今は文字盤とベルトが黒で、ベルトの素材は皮のものを検討しております。 予算がなく高価なものは贈れませんが、彼に喜んでもらえるよう選びたいです。お忙しい中このような質問で恐縮ですが、教えていただけると嬉しいです。よろしくお願い致します。
私の相談をお読み頂きありがとうございます。 前回、仏壇の参り方もご教授頂き本当にありがとうございます。 その後も変わらず、お世話?お参り?させて頂いていると思っております。 今は色々簡素化されて来ており、私の周りにも、「自分が亡き後は我が子の負担になりたくないから法事等も不要だ」と申す者もおりますが、私自身は代々引き継いでもらえればと思う部分もあります。きっとご先祖様はそんな姿を見て下さっていると信じております。 またまた無知な私の質問ではありますが、仏様とご先祖様の関係性が分からなくなってきました。ご先祖様は仏様とは違うのでしょうか? 先ほども仏壇のお世話は私自身は代々引き継いで欲しいとお申しましたが、純粋なお供養の気持ちだけかと言われれば、正直なところ、お恥ずかしい限りですが見返りを求めている部分があるのかもしれません。私は適齢期を過ぎてもまだ独身であります。私がこのまま独り身で亡き後、甥なり姪なりが、どこかで私を思い出してくれれば…だから今は私のやっていることを見て、「あー、叔母さんあんなことしていたなぁ」と頭の隅にでも置いてもらいたいと思っていたします。 そして… 仏様は私たちの願いを叶えて下さるわけではなく(冷酷とかそのような意味ではないです。)温かいお心で私たちを見守って下さっているのだと今現在私は考えております。では、ご先祖様は? ご先祖様も私たちの傍で見守って下さる存在なのだとは思いますが… 悲劇のヒロインを演じたいわけではありませんし、もっともっと大変な方々がいらっしゃる事も承知ですし、こんなこと序の口だとは思いますが、家庭内で上手く行っていないことが長きに渡ったり、ずっと頑張っている婚活が全戦惨敗中で、自分の力不足を棚に上げて気持ちのはけ口をご先祖様に向けているだけなのかもしれません。 ご先祖様はご先祖様のお役目だったり修業があるのだとは思いますが、私たち子孫が温厚な日々を送れる手助けなり道しるべなりを頂戴したいと思うことは私のエゴであり愚かな事なのでしょうか? もちろん、日々私たちがこうしていられるのはご先祖様あってのことですし、軽んじているわけではなく、感謝はしており、だからこそ毎日仏壇のお世話も続けられています。