妻が7月15日に急性骨髄性白血病で亡くなりました。入院は4日間しかありませんでした。 亡くなる1ヶ月前ぐらいから昔からあるいぼ痔が痛くなったらしく6月末に肛門科を受診しました。血栓を取って落ち着いたら手術しようという話でした。血栓を取ったらなかなか血が止まらず、痛みもとれないので鎮痛剤など薬を飲んで様子をみていたのですが一向に良くならず、頭痛と吐き気、からだにアザまでできてきたので調べたら鎮痛剤の副作用かもしれないから肛門科の先生に伝えたら薬を一旦やめようと言われて。そこからは痛みとの戦いでした。毎晩痛くて眠れず、隣で寝ている娘に気付かれないように泣いていました。 別の病気もうたがって内科に行き、血液検査を7月10日にして、結果が良くないのですぐにきてくださいと連絡が入り専門の病院を紹介されました。その日のうちに紹介された病院に行って再度血液検査をしてたぶん白血病だろうといわれたのですが、週末ということもあり専門医も不在ということもあったので、週明けから検査入院をして治療計画をたてようということになりました。 しかし、自宅に戻った翌日に痔の痛みが激しくなり救急車で病院に行きました。病室に着いたら妻も少し落ち着いてきたので二人でゆっくり話をしながら早く治してお家に帰ろうねと話して私は自宅に戻りました。 次の日に髄液をとって検査をするので2日後に正確なな結果はでないけどある程度の治療計画がたてられるから病院に行く予定でした。病院に私が行く日の朝方電話がなって、すぐに来てくれと言われてタクシーで向かうと、すでに意識のない妻が。脳内出血を起こして脳が反応しない状態でした。すでにICUに入っていて何がなんだか全く理解できませんでした。前日の夜に電話で話して睡眠薬飲んで寝るね。と言っていた妻が、もう2、3時間かもとか言われてどうしたらいいのか、とにかく理解ができませんでした。それから約24時間後に亡くなりました。最初に白血病と言われた時に私にこんな体でごめんね。と泣きながら言ってきた顔が頭から離れません。それから葬儀を終え、私は仕事も退職するしかなくなり、就職活動と妻の手続き、家事と地獄のような毎日です。妻のご家族には助けてもらってはいますが、この先どう暮らしたらいいのか全く分かりません。子供もいるのに毎日死にたいと思ってしまいます。ただ妻に会いたい。会って謝りたいです。
6ヶ月の頃から赤ちゃんが大きくならず医師に育たない原因が何かあるのかもとの事で精密検査を受ける為に大学病院に紹介状を書いてもらい 大学病院で胎児ドッグを受けました。 胎児ドッグだけでは全ては分からず羊水検査に胎児MRIもした結果18トリソミーと診断されました。心臓に大きな穴や他にも色々病気があり治すのは難しいと言われましたが、すでに8ヶ月になってた為妊娠をやめる事は出来ず積極的に治療をするかしないかの判断を迫られ産まれるまで持たないかも、産まれてくる途中に亡くなるかも、産まれても1週間も持たないかも、染色体異常を除いて心臓の穴が大きすぎなど我が子のような病気を治せた事がないと言われた為に積極的に治療をする事を断念し生きる力に任せました。 予定日1ヶ月をきった頃に陣痛が来て破水をし出産の途中で亡くなってしまいました。産まれる直前までゆっくりではありましたがモニターの心拍数は鳴っていました。一生懸命産まれようとしてたのに生きたかったかもなのに私がこの子の寿命を決めてしまって良かったのでしょうか?本当はどんな事をしても治すというのが親なのでしょう 人の前で弱音もはけず強がってしまう性格のため我が子が亡くなって辛く悲しくどうしようもないのに平気な顔をしてしまうのが苦しく一人になった時に息をするのもつらい時があります。 積極的に治療をしてそれでも亡くなってしまったのなら後悔はしなかったのでしょうか?毎日が苦しいです。
今月4日に最愛の母を亡くしました。昨年9月に胃癌、不整脈の為ペースメーカー植え込み手術、10月に入り乳癌と3つの手術をし、元気になってきたところ圧迫骨折になり術後の消毒の為、入退院を繰り返していました。 最後に家に帰ってきたのは2月。本人は通院して圧迫骨折の治療、リハビリを頑張るつもりでしたが結局は動けず1週間で再入院となり亡くなるまで病院で過ごしていました。 3月中旬に主治医から呼び出され、母の腎臓の機能がかなり悪くなっている。急変してもおかしくない。もしかしたら目に見えない癌がわるさをしているのかもしれないが何が原因かわからないと言われました。 術後は手術は成功しました。転移もしていませんと言っておきながら何故今更と主治医に対し不信感でいっぱいになりながらも、自分でも色々調べ透析治療のできる病院へ転院させようと思い母にも 今、腎臓が少し悪くなってるから設備のある病院に転院して治そうと伝えると、母も ここぢゃ、寝かされっぱなしで身体もどんどん動かなくなってしまうから転院して治したいと言い、病院の医療相談室に転院希望を伝え転院できる日を楽しみにしていました。 しかし待てどくらせど連絡がなく再度、相談室に問い合わせてみると 只今、調整中ですと言われるだけ。 1日1日、母は浮腫んでいき意識障害などでるようになっていきました。私は1分1秒でも早く透析治療をと思っていたのですが治療を受けることが出来ずに母は逝ってしまいました。 最後まで泣き言を言わなかった強い母。 本当にに辛かっただろうに...。 こんな考え方してはいけないとわかってはいるのですが病院が憎くてたまりません。 母とは楽しい思い出ばかりではなく絶縁状態になっていた時期もありました。 だからこそ これから沢山のことを母にしてあげたかった。やるだけのことはやってきたつもりですが今どうにかなりそうなほど悲しくて辛くて泣いてると同時に母の容態がおかしくなっても連絡もくれなかった病院が憎くて頭がいっぱいいっぱいでおかしくなりそうです。母が亡くなってから毎日のように過呼吸にみまわれます。こんな苦しさ、悲しさ、寂しさ、憎むという汚い気持ちから解放される時が私にやってくるでしょうか?
こんにちは。ご覧いただきありがとうございます。 ここのサイトで仏教を知り、諸行無常、諸法無我や、執着しないことなどを知り、これは素晴らしいものだと感動しました。 実際にこの思想で生活すると、毎日が濃い1日となっているように感じられ、とても嬉しいです。 ですが、本当に苦しい時に、これらの教えが思い出せなかったり、気づかないうちに執着してしまったりするのがとても不安です。 仏教の心を忘れないために、何か私にもできることがあれば教えてください。
お世話になります。 娘を亡くしてからいろんなことを聞き、自分でもどうすれば前をむいて生きられるのかと考えました。 →私が悲しむと娘も悲しい→いくら悲しんでも娘は帰ってこない→娘や残された今そばにいる家族のために前を向いて生きよう→乗り越えよう→強くなろう→生きがいを見つけよう→でもなんのために?→私が強くなっても誰も救えない、意味がない→私の生き方を見せる娘はもういない→「泣いて過ごすのも笑って過ごすのも同じ一生、それなら笑って過ごそう」こんな言葉、笑ったからってなんかあるの?意味がない→「神様は乗り越えられる試練しか与えない」ってなにこれ? 私が乗り越えられるかの挑戦ですか? そんなことに大事な娘をつかわないでください。乗り越える? 娘を踏み台にして私が成長してなにになりますか?→ああ、だめだ、こんなにひねくれた私を見たら娘がつらくなる→ごめんなさい。→私がつらいと娘もつらい→ このぐるぐる回る思いからぬけだせません。 どうぞ、少しはなれた場所から、ここから抜け出せる矢印と方向を教えてください。 よろしくお願いいたします。
20代の医師ですが、医師としての責任に少し戸惑いを感じてしまいます。 上手く治療が行けばとても嬉しいですし感謝されるしやりがいもあります。しかし少し治療が上手くいかないだけで責任感を感じてしまい、「自分だからこうなってしまった」とか、「他の人がやればこうはならなかったのでは」と思ってしまいます。 先日も手の手術をした患者さんに術後強い疼痛が出現して、手が麻痺したようになってしまうことがありました。 CRPSといって、手術など侵襲が加わった際にまれに起こる原因不明の疼痛症候群で、防ぐ手立ても、有効な治療法もないものです。同意書にも記載してあり、十分に説明しています。患者さんもとても良い人で、「しょうがないね、大丈夫ですよ」と言ってくれます。過失ではないしある程度しょうがないとは分かっていますが、「手術しなければこうはならなかった」とか、「他の人がやれば起こらなかったかもしれない」など自責の念にかられてしまいます。今は休日でも、病棟で苦しんでる患者さんのことを考えてしまって落ち込んでしまいます。 医療といえど完璧ではない、失敗も含めて目の前のことを一つ一つ学んで次に活かさなければならない、と分かってはいますが… 医者の仕事は非常にやりがいがあるし、これからも頑張って患者さんを助けてあげたいと思っています。 今後医者を続けていく上で、心構えや、何かお言葉などあれば賜りたいです。よろしくお願いいたします。
昨日の夕方、バイトからの帰りに車を走らせていると側道にダンボールが置いてあるのが目に留まりました。 一度は通り過ぎたもののそれが妙に気がかりで、近くに車を止めて現場まで向かった所、中にビニール袋に包まれた状態で血を流し亡くなっている猫を発見してしまいました。いつも車通りが多い国道なので轢かれているのを見かねた他の誰かがこのようにして端に避けたのではないかと思います。 市役所に連絡することも考えましたが日曜日で空いておらず、しかし明日まで待つと身体が腐敗してしまうので親と電話で相談し祖母が持つ畑に埋めに行くことに決めました。(そこは近年ほとんど管理が出来ていない状態で、実際に行ってみると想像以上に雑草だらけで立ち入ることが困難だったため結局自宅の庭に埋葬しました) 一連の出来事が済んで、土に埋めてあげられて良かったと安堵する気持ちが一番なのですが、一方でじわじわと辛い気持ちが押し寄せる感覚があります。 猫の状態を見たとき母はまだ轢かれて2〜3時間しか経っていないのではないかと話していました。ダンボールを開けた際、正直かなりショックで下半身しか見れておらず、硬直した感じがあったことから亡くなっていると判断したのですが、まだ息があったという可能性も考えてしまい(母は即死だったように思うとも付け加えていましたが)、ダメ元でも病院に行くべきだったのかと思ってしまいます。また、現場から自宅までは10km程あるのですが離れた場所に連れてきて良かったのか、畳一畳分程度の窮屈な庭に埋めてよかったのか、さらに自宅で飼っている猫たちのことも気がかりで自分の行動に迷いが生じています。 しかし、同時にこのようなことを考えても仕方ないとも感じており、であれば今供養を精一杯してあげたいという気持ちも強くあります。昨日はご飯やお水、お花を一緒に埋葬し、手を合わせるくらいしか出来なかったのですが、今後この子が安らかに眠れるように自分が出来る行いやかける言葉、お供えすると良いものなどがあれば教えて頂けると幸いです。考えがまとまらず拙い文章で申し訳ありません。よろしくお願いいたします。
母が癌です。 今はまだ元気にとまではいかないものの普通に生活できています。 この元気な間にしておけることはないか?と思いながらも日々が過ぎていきます。 その残された普通に生活できているこの時間を無駄にしているようで何も出来ない上に奇跡を信じきる事も出来ていない自分が情けなく、どうしたらいいのか悩んでいます。 だんだん体の自由が利かなくなる前に何ができるでしょう?何をしておけば母が喜んでくれたり、安心してくれたりできるでしょう? よく普通が一番、しっかり話をしたらいいとは聞きますが、それだけでは後悔しそうで。。。 それに普通に歩けている今、してあげられることはないのか?あれば教えていただきたい。 母に何をして欲しいかを聞きたくても、まだ諦めていない母にそんな話しは出来ないし、私も奇跡を信じていると言いながらも信じきれずにこうして不安からなのか何かしておかなくては!と思ってしまっています。 何かしてあげられる事やしておいたらいい事はないでしょうか? 後、だんだん最近は歩いていても途中で休むことも多くなってきており、そろそろなのかと不安だらけです。受け止める覚悟というかしっかり母を支えてあげたいので強くなりたいのですが、恥ずかしながら母に頼ってきた人生だったのでなかなか難しいです。 強くなれるアドバイスや言葉もいただけると有り難いです。 よろしくお願いします。
社会や宗教はよく、「人は人を殺してはならない」と説きます。しかし、僕はこの問いに対して自らの内に納得できる答えを出すことが未だできていません。 決して僕自身は人を殺したいとは思いませんが、僕は別に人を殺したいなら殺してもいいと思うし、殺してしまったらならそれは仕方がないと思っております。 よく、自分が殺されたくないなら人を殺すな、だから人を殺してはならない、という回答を散見します。しかし僕はこれに納得していません。その相手が憎くて「殺されてもいいから、殺してやる」と思う場合、人を殺してもいい、ということになってしまうからです。 僕は度々報道される殺人事件のニュースを見ると悲しくなってしまうのです。「なぜ人は人を殺してはならないのか。」この問いに対する真実の答えがこの世のすべての人に知れ渡れば、殺人事件や戦争などという悲しい出来事がなくなると思うし、自殺もなくなると思うのです。 僕は決して殺人を犯した人がいなくなればいいなどとは思いません。殺人を犯してしまった人も、この地球に生まれ落ちた我らが同胞であり、兄弟であり、愛すべき存在だと僕は信じているからです。 そして、僕は生きる苦しみから逃れたい、自殺したいと思っていた時期がありました。自殺も、つまるところ「人(自分)が人(自分)を殺す」という事象に当たると思っています。自殺もいけないことだと真っ向から否定してほしいのです。 僕は生きる悦びを手にし、その生きる悦びを愛しているので自殺することはないと思います。しかし、この地球上に生まれ落ちた愛すべき存在を、殺人や自殺などといった形で失うことを、僕はただただ悲しいと思うことしかできないのです。 また、自殺の方法として餓死を選んだ場合、人は生きる苦しみから解放されるのでしょうか?一般的に自殺は生きる苦しみからの逃げ、だと僕は思っています。自殺の方法として餓死を選んだ場合、それは生きる苦しみと真っ向から向き合うことだと考えています。 近い将来、自分が餓死による自殺をしてしまうのではないか、と不安になる時があります。
自殺したら地獄に行くのですか? たとえば、癌になったとして、治療を拒否したらそれは自殺ですか? 私は生きているのが申し訳ないです。
お願いします。 災害についてはどのように捉えたらよろしいのでしょうか。意外に同様の質問が見つからなかったので、お願いします。 記憶に刻まれた大震災の数々、この世でいうところの善人も悪人も区別なしに命を落としました。 もし、これが何かの意思によるものならば、無差別テロのようにも思えてしまいます。 明日を信じていた者もいるでしょう。受験、スポーツ、出産。未来を信じて生きていく思い、願いはこんなにも簡単に途切れてしまうのです。家族の未来を願っていた者もいるでしょう。残された者には更なる悲しみが続きます。亡くなった方がた以上に残酷にも思えます。 私たちは乗り越えられる試練しか与えられない。という考えも聞きますが、残された者にとって、これは命が続く限り決して乗り越えられない悲しみに思えてしまいます。 何か意味があるならばお考えを教えて下さい。 それとも、起こる事象には何ら意味がないのでしょうか。加えて、この世の未来を願うことは仏教においては何の意味も持たないのでしょうか。
仏教における幸せとはなんでしょうか? 修行を積んで悟りを得ること? 煩悩を滅し苦しみから解放されること? 私にはよく分かりません。