ホッタラケの功徳に関する質問 その2
アップいただいた動画を、拝見致しました。ありがとうございます。
前回のご回答と動画で、坐禅ということを説明や言葉で理解すると、ダメなのはわかりました。自分で勝手にねつ造した”悟りの境地”や“坐禅の方法論”や“坐禅の手段”は、ことごとく通用しないということも分かりました。
しかし、そうなると、とても不安になります。どうしても、何らかの方法論や手段に頼ろうとしてしまうし、その結果、自分を観察して、分析して、改善しようとしてしまいます。「私は、○○だ」「うまくいった」「ダメだ」とかコメントを入れてしまいます。自分が見たもの、聞いたもの、したことを観察して、その観察した自分をさらに観察して、二重にも三重にも生活してしまいます。
そういうコメントを入れてしまうのは、それを止めるとかえって物足りない気がするからだと思います。観察しないと、「こんなのでいいのかな?」と非常に不安になってしまいます…。
それでも、理想を求めて自分を観察してはならないのでしょうか?
有り難し 10
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