こんばんは。都内に住む、ごく平均的な男子高校生です。 自分は中学から男子校に通っていて今高1です。これが初投稿になるのですが今回ズバリ聞きたいのは性の話です。男子校ということもあってか自分ではそうは思わないのですがよく周りからお前は性欲が強すぎると言われます。思い返せば何度か思い当たる節があるのですが(男色ではありません)何をやっても平均的な自分だから性欲に関してもきっと平均的だと思っていただけに少し驚きました。 これを友達に言うと笑い話と捉えられまともに聞いてくれないのですが何故、東京都は条例(東京都青少年の健全な育成に関する条例)で性的感情を刺激することが青少年の健全な成長を阻害するもの(第三章の第七条等、複数)としているのでしょうか。(確認していませんが恐らくどの都道府県にも同じようなことが書かれているのだと思います。) 生まれた時からインターネット環境があるような時代に生まれた僕は探そうと思えばいくらでも探せました。当時はこれが無断でアップロードされた物でここに転載される事で困る人達がいる、ということすら考えられていませんでした。が、しかし流石にこの歳になるとそもそも何かの法律に引っかかってそうですが正規の手段で買わねば本当に買えるようになった時にはそもそも業界が潰れてしまうのではないか?と、法律の観点からも経済的な観点からも正規の方法で買うべきだと考えるようになります。そこでぶち当たるのが先程の壁です。(昔の自分はその壁を違法に超えていた訳ですが)ちゃんと条例を読むとまるで性欲を覚えることそのものが健全ではない。お前の周りの人間がお前の教育の仕方を間違えたのだと言われているようです。果たして高校1年生(自覚していなかったのだろうけど小学生から性欲はあったのだと思われます)が性欲を覚えることは不健全でしょうか。また男子校の高校1年生がその鬱陶しい性欲を発散する手段として自慰行為をする際にオカズ(要はAVだとかエロ本だとか本来は正規の手段で入手出来ない筈である物)は本来なら不必要でしょうか。本当ならこんな話都庁に直接言えば良いしお坊さんも条例等が絡んでくると少しやりづらいかもしれませんが回答して頂けると助かります。 長文失礼いたしました。
最近,生きる理由 (モチベーション) を挫折により失い, 人生最大の壁にあたっております. そこで,一度自分を見つめ直そうと,「禅」 というものをやってみようと思ったのですが イマイチやり方が分かりません 「禅」 の目的とは,悟りを開くため,と見聞きしたのですが 仏教での 「悟り」 とは何を意味するのでしょうか. 「悟りたい」 と思っている事自体が 「悟る」 ことと矛盾しているような気がして 良く分かりません. また, 「禅」 というものはどのように行えばよいのでしょうか.
みなさまには基本的かと思われる質問ですが、お許しください。 仏教で言われる三昧とはなんでしょうか?詳しく教えてください。 その定義はあるのでしょうか?条件とか? また、それに至るための修行がありますか? 修行があるならばそれはどういったことをするのですか?
お経を読むことがなぜ先祖や自分に関わりのある仏様の供養につながるのか? 大変罰当たりながら、そのような疑問を抱いてしまいました。 仮に例をあげますと、日蓮宗では法華経を読んで先祖供養などをされると思います。 法華経は釈迦が悟りを開いて亡くなられる前に最後の教えを説いたもので、 数ある経典の中でも最上の教えとされていると聞いたことがあります。 その素晴らしい教えを守り、帰依しますと宣言する=「南無妙法蓮華経」と題目を唱える。という事になるのでしょうが、なぜそれが供養につながるのか疑問です。 自分は先祖や仏様との何らかのつながりがあるから、その自分が題目を唱えることで先祖や仏様の過去の罪が軽くなり救われる。=先祖や仏様も成仏できるという考え方も確かに一理あると思います。 しかし、お経というのはただ聞いたり意味を知らずに読んだりすれば、まるで呪文のようでいかにも効果がありそうに思いますが・・・。 現代語に訳して意味を分かるようにしてみると、一つの物語をただ読んでいるにすぎないように思えてしまいます。 とてもありがたい教えが書かれていることは理解していますが、客観的に考えれば子供に絵本を読み聞かせているようなものではないかと思ってしまうのです。 子供ではなく対象が先祖や仏様へ、絵本がお経という物語へ変わっただけではないでしょうか・・・。 物語を読み聞かせる行為がなぜ供養につながるのか? 先祖供養のためによくお経を読む者として、大変疑問に思っています。 どうか教えてください。
現在29歳、難聴が発覚してから15年。健聴と、難聴、人生半分ずつ生きてきました。 年々難聴が進行し、昔に比べれば周りに隠すことなく打ち明ける事は抵抗なく出来るようになってきたものの、コミュニケーションはどんどん取りづらくなってきており、目に見えない障害が故に、なかなか理解して貰いにくい状態が辛いと感じる事が多々あります。とくに、飲み会など楽しい場で会話の輪の中に入りづらいと感じた時。本当はみんなと楽しみたいし、こういう場こそ人間関係を深める絶好の場だと思うのに、話の腰を折るのが嫌で、何度も聞き返しにくい、皆も楽しみに来てるのに通訳も頼みづらい。なので、無理して参加しても、雰囲気を乱さないように話の内容が分からなくてもニコニコ笑って相槌うって。終わった後は楽しかった事より疲労の方が大きくて。飲み会に誘われた時も正直躊躇してしまいます。どうすれば、楽しめるようになるのでしょう。
知識のない一般人としての質問で大変申し訳無いのですが・・・ ブッダがいた時代は、大乗仏教や宗派ができる前ですが、ブッダが一番言いたかった、伝えたかったこと(メッセージ)というのは、大乗仏教の中にどう生きていると思われますか(大乗仏教の様々な宗派の中でどの部分に一番それが象徴されていますか)? 大乗仏教において、ブッダの教えとその宗教としての儀式などがどこか矛盾していると感じてしまうことがありますがそれはどう捉えればよいでしょうか。(ブッダのいう悟りから得たもの(教え)と大乗仏教の在り方が矛盾してみえることがある) 菩薩という存在は、大乗仏教のなかでどう捉えたら良いのでしょうか。
悟るにはどうしたらいいですか? 坐禅をする? 仏教の本をたくさん読む? 悟るにはどうしたら良いのか教えてください。
以前読んだ仏教の本に、 お釈迦様は死への恐怖は、生への執着によるものだと悟った と書いてありました。 では、なぜ生きるのが嫌になったとき、自ら命を絶つのが悪いことなのでしょうか? 失恋したり、仕事がうまくいかなかったり、自分のことが嫌いになって、いっそのこと死んでしまいたいと思うことはなぜいけないことなのでしょうか? 生への執着が悪いことであるなら、自ら命を絶つことは許容されるべきなのではないでしょうか? こんなことをずっと考えてしまう自分が大嫌いです。助けていただけないでしょうか。
外国育ちでよく理解できていないのですが(変な質問ですみません)、祖父母はすでにおらず宗派などもわからず(お墓も不明)、両親も檀家などではないのでお世話になっているお寺もないのですが(あえていえば考え方としてこころにとめている宗派はあるのですが直接信者などというわけではない)、こういう場合、お葬式などでは宗派など聞かれた場合どうしたらよいのでしょうか。キリスト教のように洗礼を受けたりというのもないようですし、たとえば、天台宗の思想がとても自分の考えにちかいからそこでお願いしたい、などそういうことをしてもよいものなのでしょうか。またある宗派の信者になるということは仏教ではどういうことなのでしょうか?(海外の宗教とは違うのでよくわからず、くだらない質問で本当にすみません)
如来のモデルは釈迦である。と、授業で習ったのですが釈迦はこの世界でたった1人の存在であるのに如来には複数種あるのでしょうか。中には釈迦如来もあり頭が混乱してます。教えていただけますか?