釈尊と非我 龍樹と無我
凡夫の浅はかな疑問で有りますが、皆さんのお知恵を拝借させて頂いても宜しいでしょうか?
釈尊は「人間が認識出来る範囲の世界に於いては、一切が諸行無常であり、恒常不変なるアートマンは見当たら無い」
と仰られただけで、
人間には認識出来無い、凡そ形而上学的な範疇(死後の世界)に於けるアートマンを否定された訳ではない、
というのは本当なのでしょうか?
確かに釈尊は霊的な事物に関して肯定も否定もされておらず、さながらヴィトゲンシュタインのように
「語りえぬ物には沈黙を守る」という態度を一貫されていらっしゃいます。
その事も踏まえると、釈尊が「ātmanを肯定も否定もされていない。」と云う説には一理あるように思えるのです。
ここで一つの疑問が小生の頭に沸いて出てきたのであります。
後世の仏教(中観派)に於いては明確に「全てが無相であり、何処の世界にもātmanは存在しない。」と定義されております。
龍樹は「無我は釈尊の教えである」という前提に従って、
形而上学的な存在の実在を説いてきた仏教の各宗派をことごとく論破されていきました。
畏れ多い事でありますが、小生には龍樹が「語り得ぬものには沈黙を守る」という釈尊の態度に反しているように見えます。
もちろん形而上学的な不変の存在を仮定した当時の仏教は、なおさら釈尊の態度から逸脱しておりますが、
はたして龍樹の「中観思想」が釈尊の考えから逸脱しているのかどうかは、小生のような凡夫にとって図り難い問題であります。
そこで皆様に質問させて頂きます。
形而上学的な範囲におけるātmanに対して釈尊が不可知説の態度を取られていた場合、
形而上学的な範囲におけるātmanを否定された龍樹の思想は、果たして釈尊の教えから逸脱しているのでしょうか?
それとも補完しているのでしょうか?
宜しくお願い致します。
有り難し 27
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