欲や期待を振り回された生活を続けることが嫌になりました。 いっそ捨ててしまって、何も欲しない、何にも期待しない人間になりたいです。 しかし、欲は勝手に湧いてきますし、期待も意図的にしないということもできません。 どうすれば、欲と期待を捨てた人間になれるでしょうか。
煩悩とは欲の事を示すのですか?自利? それなら「ひとの役に立ちたい」「優しくなりたい」も欲のうちに入りますか? よく、無の境地と言いますがなにも思い描かない心が無欲という事ですか? 今まで誰かの役にたてればと強く思い生きてきましたが 最近では違和感を感じます。他人の為にと願う気持ちも実は自利ではないのかと.... 無欲とは心にいっさいの願望を思い浮かべない事なのかと。仏教の解釈、お坊さんの解釈で結構ですので参考にしたいです。
初めての質問です。読んでくださっているお坊さん方、ありがとうございます。そして、よろしくお願いします。 私は人を助ける人になりたいと思っています。人であるのなら当然のことかもしれませんが、そういう風に考え生活しています。 上記の内容だけでは、良いことのように思えますが、どうしても悩んでしまうのです。 例えば重い荷物を持って運ぶのが大変そうなお年寄りを助けるとき、「自分は良い事をしたいと思ってした」と純粋な優しさなどではなく、ある意味欲求から為しているような気がしてならないのです。 少しニュアンスは変わりますが、「優等生アピールをしている」、もしくは自分の心の中で「自分は優しい人だ」と思い込ませているための手段になっている気がするのです。 純粋な気持ちで「良い事」は出来るのでしょうか?出来ないのであれば、どうしたらこの罪悪感を感じずに「良い事」ができるのでしょう?
仏様を拝む意味を教えてください。 例えば、仏様を一生懸命拝んで合格祈願をしても、 全く勉強しなければ合格することはないように、 お願いごとをするために、つまり私利私欲の成就のために仏様を拝んでも、 意味がないように感じます。 (なお、本人が勉強すなわち努力しないと仏様は助けてくれない、 と言う人もいましたが、仏様がそんな選り好みをするとは思えないですし、 思いたくもありません。) むしろ、私利私欲の成就ために拝むならば、 たくさん拝むことはそのまま欲望の大きさにつながり、 これまた心の安寧という意味では意味がないどころか、 欲望を強める結果にもなってしまいそうです。 これらのことは、例えばお坊さんが、信者など誰かのために拝むことも、 そういう私利私欲のために拝むことになり、同様のように思われます。 (お坊さんには私利私欲なく、すなわち信者の願いが叶ってほしいとは 思っておらず、 信者の願いを仏様に伝えているだけ、 ということも考えられますが、この場合、お坊さんがそうする意味が よくわかりません。 お坊さんから伝わった方が、仏様は願いを叶えてくれるということは ないように思いますし、仏様がそうであるとは思いたくないです。) ところが、お坊さんを含め、多くの方が、仏様を拝んでいます。 その際、呪文のような言葉(真言?)や、お経を唱えていたりもします。 その内心はわかりませんが、お寺の絵馬には様々なお願い事が書かれており、 また、お寺ではご祈祷・ご祈願がなされていることからすると、 何らかの欲の成就のためのように思われます。 拝んでも願いは叶わないなかで、 ①仏様を拝む意味(祈願以外の意味)は何でしょうか。 ②なぜ、ご祈祷・ご祈願がなされているのでしょうか。 ③また、お寺では、お勤めとして、朝晩、お坊さんは仏様を拝み、 お経を読んでらっしゃるようですが、これは、何のためでしょうか。 (書かれているお経の意味を理解・確認等するためであれば、 仏様の前で木魚を叩いて音読するよりも、 自室で黙読すれば足りると思われます。) なお、②につきましては、宗派により考え方に大きく差があるようでしたら、 御回答いただかなくても結構です。 どうぞよろしくお願い申し上げます。