死後の世界については生まれ変わるとか、天国に行くとか地獄に落ちるとか、さまざまな考え方がありますが、私は死んだ後の世界は死ぬまで分からないので、その時に考えようと思っていました。 ですが、今年に入って長年共に過ごしてきた愛猫を亡くし、その子に天国から見守っていてほしい、自分が逝った時は天国で待っていて欲しい、迎えに来て欲しいと思うようになりました。とても自分勝手な理由ではありますが、天国(亡くなった生き物が行く世界)が存在していて欲しいと今は思っています。 数日前に縁あってこちらのサイトに辿り着き、死後についてのさまざまな質問・回答を興味深く読ませていただきました。 私なりの解釈ですが、仏教で言う天国とは極楽浄土のことだと認識しております。 極楽浄土へ行きたいと願い、念仏を唱える事で、阿弥陀様が極楽浄土へ往生させてくださる。そこで成仏するための修行を行う。 成仏するとは、「煩悩を手放して真理を悟り、仏になる事」という認識でよいでしょうか。 それでは、仏になった後は?という疑問が生まれました。 極楽浄土から、娑婆世界を生きる自分の家族や親しい者を見守るのでしょうか。それとも先に成仏した親しい者たちと、共に極楽浄土で穏やかに過ごすのでしょうか。自分より後に極楽浄土へ来た者たちが成仏するお手伝いをするのでしょうか。 極楽浄土で永遠に過ごすのではなく、娑婆世界を生きる者を救うため、気付きを与えるために、姿を変えてまた娑婆世界に生まれるのでしょうか。 私は極楽浄土で穏やかに愛猫と過ごしたいと願いますが、それも執着、煩悩になりますよね。この煩悩は生きている間は手放せそうにないのですが、極楽浄土で修業し成仏できたら、また愛猫との関係も変わってくるのかもしれません。 成仏したその後の事までは考えず、阿弥陀様におまかせすれば良いようにしてくださるのかもしれませんが、ふと疑問に思ったので質問させていただきました。 過去の質問から、「お釈迦様は死後の世界については、説かれなかった」という回答もありましたので、確かな答えはないと思いますが、どのような解釈をされているか、教えていただけると幸いです。
私は仕事を始め二年目です。 出来ることも増えてきましたが出来ないことも多く、ご指導を頂くことがあります。 その際言い方がきつい、時々それは指導ではなくて悪口では?と思うこともあります。(仲良くお話できる方もいますが、一部そのような方が居ます) そういったことに対し不安が強いです、今日はどんなことを言われて人にどんな風に悪く思われるのか、また人から人へ私のことを何て噂されるのかなど考えてしまいます。 また夜になると、明日は何が起こるのか…対処できるのかやっていけるのか不安になり自分を苦しめてしまいます。 自分でも先のことを考えても答えはでないし、今を楽しく生きられたらいいのにって思いますが、なかなかできません。 主に仕事関係で不安になり、自分を苦しめています。 何かアドバイス頂けないでしょうか。 よろしくお願い致します。
こんにちは、初めての利用です。よろしくお願いします。 お坊さんの皆様にお聞きしたいのは題名の通り、他人の愚痴を聞き続けることがつらいためどのように折り合いをつければ良いのか、またどのように振る舞えば良いのかということです。 もちろん私も多少の愚痴は言います。聞く方でも会話の中で多少出てくる程度であれば、慰めたり一緒に怒ったりすることができます。むしろ自分に心をさらけ出してくれたように感じ少し嬉しくもあります。 しかし、会話の内容があまりに愚痴や悪口、文句ばかりであると参ってしまいます。 愚痴を聞けば聞くほどに自分の心に澱みが溜まっていくような感覚です。あまりに聞かされ続けると自分が嫌な感情のゴミ箱にされているような気すらします。 そして、聞き始めた最初は同調できていても段々と受け止めきれなくなり、言っている本人を責めたくなってしまいます。実際に正論という名目で責めてしまっている気がします。 さらには責めるような事を言わせるくらいに愚痴を言いつづけた相手を恨めしくも思ってしまいます。 いま、この文章を書いていて自分の心の狭さが嫌になります。 過去に、愚痴を聞くのが嫌でとても仲の良かった友達と疎遠になってしまいました。 また仲良くしたいと思う一方で再び愚痴ばかりを聞かされるのかと思うと躊躇します。 また、最近は恋人も仕事の愚痴が増えてきました。本人もつらいだろうし聞いてあげることで少しでも気持ちが軽くなるのなら、と、聞いてあげたい気持ちはあるのですが聞いてるうちにうんざりして投げやりな返答をしてしまいます。 愚痴を聞かずに済むのであれば、正直なところ聞きたくありません。しかし生活をしていればどこかで不満を抱きそれを他人と共有したいという気持ちがわくのも良くわかります。 また、話している本人は心を預けてくれているからこそ、他人に言えない分を私に愚痴るのだとも思います。 それをぞんざいに扱うことでその心を砕いてしまう気がして申し訳ない反面、正面から受け止めるのはやはり辛いです。 他人の愚痴に対してどのように付き合えば良いのでしょうか。どう聞けば自分の心に澱みを溜めず相手の愚痴を聞けるのでしょうか。 お坊さんの皆様、どうかこの感情との付き合い方や相手への振る舞い方をどうか教えていただけませんでしょうか。
初めて質問致します。よろしくお願いします。 今年の四月、乳がんの手術を受けました。初期で、サイズも小さく転移もしていなかったのですが、がんの顔付きが悪く再発しやすいとの病理結果が出てしまいました。 今は抗ガン剤を受けています。副作用に苦しみながら、何故私はこんな人生を歩んでいるのかと毎日毎日泣いています。 私の家は、とても貧しいです。両親も年をとっていて健康体という訳でもありません。私は母が大好きです。母は幼い頃から貧しく、家族に恵まれていませんでした。私は、母を幸せにしたかったのです。旅行に連れて行ってあげたかった。新しい服を買ってあげたかった。ですが、今、私の莫大な治療費は母が借金をして、そのお金で支払われています。 私は何の為に生きているのか分からなくなります。治る可能性の低い治療をして、母を苦しめて。 死にたい、今すぐ死にたい、毎日毎日そう思っています。 私が生きる意味はあるんでしょうか。教えてください。
この度は相談内容を確認くださいましてありがとうございます。 32歳女性、既婚者で子どもはおらず主人と2人暮らしです。 いつからかがわからないのですが、ふと気づくと死にたいと思うようになりました。そう思うようになった明確なきっかけは特に無いように思います。 お腹が空いたな位の感覚で「死にたいな、いっそのこと誰か殺してくれないかな」と日々思っています。 そのせいかはわかりませんが、人として生まれ誰かと関わりながら生きていかねばならないことが苦しいです。 漫画やアニメの主人公のように「世界を救う」などの生きる使命や意味は無く、この社会の歯車の1つにすぎない。あったとしても親が死んだ時に葬式をあげ、役所へ手続きをする。くらいしかないだろうと考えています。 それも立派な生きる使命・意味だろうと言われてしまえばそうかもしれません。 ですが、そのためだけに生まれてきたのかと思うと、何十年という人生の中の苦しみの経験と割が合わないように思います。 また、「生きることに意味を考えてはならない」と言われたこともありました。日々を過ごす中、1つ1つの行いには誰しもが何かしらの意味があって行動していると思っていたため、私にはこの言葉がひどく酷な言葉のように感じました。 (なぜそんなことを言ったのかを聞かなかったため、私が言った人の意図を正しく汲み取れていないだけなのかもしれません。) 私の考えは生きたいと思っている人をとても不快にさせてしまう考えだろうとわかっています。ですが、私には生きる意味が分かりません。 生きる意味とは何でしょうか? もしくは、そもそも生きることに意味を見出そうとすること自体が間違っているのでしょうか?
欲や期待を振り回された生活を続けることが嫌になりました。 いっそ捨ててしまって、何も欲しない、何にも期待しない人間になりたいです。 しかし、欲は勝手に湧いてきますし、期待も意図的にしないということもできません。 どうすれば、欲と期待を捨てた人間になれるでしょうか。
煩悩とは欲の事を示すのですか?自利? それなら「ひとの役に立ちたい」「優しくなりたい」も欲のうちに入りますか? よく、無の境地と言いますがなにも思い描かない心が無欲という事ですか? 今まで誰かの役にたてればと強く思い生きてきましたが 最近では違和感を感じます。他人の為にと願う気持ちも実は自利ではないのかと.... 無欲とは心にいっさいの願望を思い浮かべない事なのかと。仏教の解釈、お坊さんの解釈で結構ですので参考にしたいです。
子孫繁栄に何故快楽を伴わせたのでしょう。そんなことをするから目的が子孫繁栄ではなくなる男性が増えたのではないか、何故、快楽等と言うものをお与えになったのでしょう。
初めての質問です。読んでくださっているお坊さん方、ありがとうございます。そして、よろしくお願いします。 私は人を助ける人になりたいと思っています。人であるのなら当然のことかもしれませんが、そういう風に考え生活しています。 上記の内容だけでは、良いことのように思えますが、どうしても悩んでしまうのです。 例えば重い荷物を持って運ぶのが大変そうなお年寄りを助けるとき、「自分は良い事をしたいと思ってした」と純粋な優しさなどではなく、ある意味欲求から為しているような気がしてならないのです。 少しニュアンスは変わりますが、「優等生アピールをしている」、もしくは自分の心の中で「自分は優しい人だ」と思い込ませているための手段になっている気がするのです。 純粋な気持ちで「良い事」は出来るのでしょうか?出来ないのであれば、どうしたらこの罪悪感を感じずに「良い事」ができるのでしょう?
仏様を拝む意味を教えてください。 例えば、仏様を一生懸命拝んで合格祈願をしても、 全く勉強しなければ合格することはないように、 お願いごとをするために、つまり私利私欲の成就のために仏様を拝んでも、 意味がないように感じます。 (なお、本人が勉強すなわち努力しないと仏様は助けてくれない、 と言う人もいましたが、仏様がそんな選り好みをするとは思えないですし、 思いたくもありません。) むしろ、私利私欲の成就ために拝むならば、 たくさん拝むことはそのまま欲望の大きさにつながり、 これまた心の安寧という意味では意味がないどころか、 欲望を強める結果にもなってしまいそうです。 これらのことは、例えばお坊さんが、信者など誰かのために拝むことも、 そういう私利私欲のために拝むことになり、同様のように思われます。 (お坊さんには私利私欲なく、すなわち信者の願いが叶ってほしいとは 思っておらず、 信者の願いを仏様に伝えているだけ、 ということも考えられますが、この場合、お坊さんがそうする意味が よくわかりません。 お坊さんから伝わった方が、仏様は願いを叶えてくれるということは ないように思いますし、仏様がそうであるとは思いたくないです。) ところが、お坊さんを含め、多くの方が、仏様を拝んでいます。 その際、呪文のような言葉(真言?)や、お経を唱えていたりもします。 その内心はわかりませんが、お寺の絵馬には様々なお願い事が書かれており、 また、お寺ではご祈祷・ご祈願がなされていることからすると、 何らかの欲の成就のためのように思われます。 拝んでも願いは叶わないなかで、 ①仏様を拝む意味(祈願以外の意味)は何でしょうか。 ②なぜ、ご祈祷・ご祈願がなされているのでしょうか。 ③また、お寺では、お勤めとして、朝晩、お坊さんは仏様を拝み、 お経を読んでらっしゃるようですが、これは、何のためでしょうか。 (書かれているお経の意味を理解・確認等するためであれば、 仏様の前で木魚を叩いて音読するよりも、 自室で黙読すれば足りると思われます。) なお、②につきましては、宗派により考え方に大きく差があるようでしたら、 御回答いただかなくても結構です。 どうぞよろしくお願い申し上げます。