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hasunoha 問答検索結果 : 「 宗派 」
検索結果: 2822件

出家の是非について

長文で失礼します。 下記のような問いを持っており、その考究(あるいは超克)に残る人生を費やしたいと考えております。 現在そのための生活様式を模索中で、出家もひとつの選択肢として考えております。   早速質問ですが、 ①下記のような問いは、仏教の中で取り組むに値するのでしょうか。 ②考究にあたり、仏教はもちろんなのですが、その他の学問の助けも借りたいと思っています。出家した場合それは可能でしょうか。   ご回答いただければ幸いです。   ーーーーー   私は相互作用の世界の中に生きている。それはすなわち、常に他者に対して影響を及ぼしている、ということ。しかし、そのような在り方は自然・当然なこととして無視されてよいものではない、と私には思われる。   私の眼前には生きるか死ぬかの選択肢が平等に与えられており、自覚的にしろ無自覚的にしろ、前者を選んで生きている。裏を返せば、私には自死という、他者への影響を自発的に止められる能力が備わっている。   一般的に生きることは尊いとされ、自身の幸福の追求が当然の権利としてみなされている。しかし私が生きるということには、他者の生や意志を損ねる、負の影響が必ず伴う。   そうであれば、生とは害悪ではなかろうか? その害悪性を無視してまで、この生は礼賛されるべきものなのか? 私はただ、生きたいという自分本意な欲求に盲目的に従っているだけではないのか? 生と死を選択肢として与えられている私が、なお自分を生かし続けるのはなぜなのか? 私が生きようとすることを、私はいかにして是認できるのだろうか?

有り難し有り難し 24
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頼りにしていた母を看取る事になりました

初めまして 90歳の母のことをご相談させていただきます。  これまで多くの困難があり支えあって励ましてくれた母が病気で治療が不可能になってしまいました。  精神的な問題を抱えた夫と息子(言葉の暴力で傷ついた息子は顔を合わせることも出来ていません)のことで悩んで来ました。母が心の支えだったのにもうすぐ、いなくなってしまうなんて信じられず、とても辛いです。最後は母の賃貸マンションに連れてきて精一杯お世話しようと思っています。  毎日、入院先まで面会に行っています。だんだん、力を失い、「苦しい、早く治って楽になりたい・・」とやっと話す母を見て泣きたいのを堪えて「もうすぐよくなるからね」と言う事しか出来ません。自分の無力さに心が潰れる毎日です。  父もなくし母までなくして夜になるともっとこうしておけばなど、後悔が止まりません。精神的に不安定な息子を心配させてはならないと配慮していますが辛いです。     母自身も「自分はもっと生きたい、今はまだ死んではいられない」と私たちの事を心配してくれているのです。私自身は両親のために一生懸命頑張ってきたつもりです。でも、不甲斐ない娘で申し訳ないと思ってしまいます。  来週には訪問診療が始まるので頑張りたいのですが、私自身(心)が耐えられるか不安です。これから、どう向き合っていけば良いでしょうか。   そして、その日が来た時に自分がどうなってしまうのかとても不安です。 この先、どう生きていけば良いのでしょうか どうぞよろしくお願い致します。

有り難し有り難し 4
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亡き母に再会し、謝る事は出来ますか?

初めまして。二点質問よろしいでしょうか。 ・昨年末に母の一周忌を済ませました。 母ロスと言ってしまえばそれまでですが、最近は悲しみの質が変わり、自分がいつかあちらに行った時に母と再会して胸の内を伝えられるのか不安になってきました。 生前は些細な事でなじってしまい優しくなれなかった事、過去の親不孝についてしっかり謝罪出来なかった事、目を見てこれまでの感謝の気持ちをきちんと伝えられなかった事(しかも、母が亡くなったのは私が選んだ施設での窒息事故が原因でした…) 今更ながらあれこれ後悔してばかりです。 未だこんな罪悪感に苛まれるということは、淋しがり屋の母が成仏できていないからなのではないか?私の今までの行いが、母の魂の浄化を妨げてしまっているのではないか?などと考えてしまいます。 良かったと思えるのは孫の顔を見せてあげられた事と、子どもである私が親より早く亡くなることなく 母を看取れた事しかありません。(亡くなる直前、母の耳元で「ずっと側に居るから安心して」「私はしっかりやって行くから大丈夫だからね」とは言えました) お位牌と写真に手を合わせれば、心の中で対話出来る事も頭では理解しているつもりです。が、やはり母とまた会って今度こそ感謝と謝罪の気持ちを直接伝えたいのです。追孝を心掛けていれば、この願いは叶うでしょうか? ・母は戦争孤児で、養父に育てられました。私にとってこの養祖父は、生前自分が亡くなったら今のお墓が絶えてしまう事を案じていたそうです。母が未だ元気だった頃、養父と夫(私の父)どちらのお墓に入りたいか希望を尋ねた時があったのですが、双方に気を遣ってか当時は曖昧な答しか返って来ませんでした。 亡き父のお墓については他に管理者がおり安心な事と養祖父菩提寺の奥様と母との関係が良好だった事から、私の一存にて、母は養祖父の方のお墓で眠ってもらっております。私の目の黒いうちは、父のお墓についてもしっかり守って行くつもりですが、おしどり夫婦だった両親の遺骨を、別々のしかも宗派も異なるお寺に託してしまった事は果たして良かったのか否か?両親の位牌は私の自宅で仲良く隣同士に並べてありますが、亡き父が淋しがっていないか?母はこれで満足だったのか? 今後私の取るべき方法につきご教示いただければ幸いでございます。 お忙しいところ、長文乱文大変失礼いたしましたよろしくお願い申し上げます。

有り難し有り難し 39
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浄土宗・浄土真宗の方へ質問

2か月前に20代の娘を自死で亡くしたシングルマザーです。 (高校・短大の時に未遂を起こしており、鬱を患っておりたしたが社会人になってから遂にやり遂げてしまいました) 有り難くも、周囲の温かい見守りとフォローのお陰で、今では仕事中に泣くことも減り、ほぼ以前のように生活出来ております。 葬儀は、無宗教だった為身支度や湯灌などは仏教に倣いましたが、読経は無く娘の好きなアーティストさんのアルバムを流して、私と故人の弟にあたる息子、そして10年来の私のパートナーの3人で見送りました。 とても優しい葬儀屋さんにも恵まれ、自宅に用意して頂いた仮祭壇は来て頂いた方が焼香しやすいようにお線香やお鈴など体裁を整えて下さいました。 コロナ禍ではございますが、思っていたより多くの方に家まで来て頂き、遠方に居る友人からもお供物を送って頂いたりと、沢山悼んで頂き幸せな子だと感じます。 私の実家は母がカトリック、父は無宗教でした。 私を可愛がってくれていた、近場に住んでいた母方の祖父母が真言宗の檀家で、何となく沁みているのか毎日ご飯とお線香をあげて話しかけ、7日毎にお花や果物など供えて今回は泰広王、次は初江王…と中途半端に仏教的な供養をしております。 他の方も心配しておりましたように、私も基本亡くなると272の地獄の何処かへ堕ちると刷り込まれて?おりましたし、自死をすると永遠にその日を繰り返すなど、怖い情報を目にしてしまい、残った私に出来ることを探して辿り着いたのが、このサイトで阿弥陀様の本願により極楽浄土へいけるという回答でした。 現在、法然上人の事から勉強中です。 親鸞聖人についてもこれから勉強します。 本題は、1.人生折返し地点を過ぎ、今から入信してその宗派のお仏壇を持つのが難しい(息子も無宗教、パートナーの家は臨済宗で入籍の可能性あり)私ですが、お念仏を唱え続ければ回向は可能でしょうか? 2.入信は難しくとも、勉強し理解に努め、hasunohaに参加されているどなたかを通して阿弥陀様へお布施する形でも、娘を極楽浄土へ連れて行って頂くことは出来るでしょうか。 無宗教だった娘を私が特定の宗教で縛ることにならないか心配ですが、来世は娘が望む形で幸せにと、少しでも何か出来ないか模索しているのです。

有り難し有り難し 37
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墓じまいについて

母が方のお墓なんですが、母の兄弟が弟と妹で家督は弟が継いでいます。 弟(叔父)は十数年前に他界し叔母(叔父配偶者)と娘(2人)が継ぐことになるでしょうが、 叔母の信仰宗教上、当初から全く墓参りもせず墓守を放棄した状態でした。 ただ、母と叔母(母の妹)が時折、墓参りをして墓の清掃もしていましたが、 このままでは私の世代で墓守がいなくなり無縁仏になってしまいますので ゆくゆくは墓じまいして永代供養にしようと思っておりました。 母方の菩提寺は曹洞宗です。 父方の菩提寺は臨済宗です。 当家は父が次男の分家で特にお寺とお付き合いはなく無宗派状態です。 今年、母が他界し葬儀の時に葬儀屋からの紹介で 菩提寺とは別の臨済宗のご住職をご紹介いただきお付き合いが始まりました。 そのご住職は永代供養にもご熱心で 母方の墓じまい、永代供養と両親と私(妻子無し)の永代供養の相談に乗って頂いております。 これを機に私が先導して母方の墓じまいと永代供養したい旨を親戚一同に説明し了承を頂き 先日、お墓の閉眼供養を終えております。 お墓は土葬で墓石でなく墓標が建てられているだけで6基分ありますが 残っている墓標は1基だけです。 おそらく火葬で骨壺が埋葬されているのは祖父母だけで 遺骨を移せるのも祖父母だけで他は埋葬のままになるかと思われます。 墓地は市が所有する共同墓地でお墓所有者の地区長が管理しています。 先日、とある霊能者の相談で墓じまいの事を聞くと 『長年、供養されてきたお墓を引き払い永代供養するのは「あなた(私)」の勝手な都合で ご先祖はよく思わない、ましてや母方分家のあなたがするのはおかしい。 先ずはあなたがちゃんと墓参りして供養の気持ちを伝えていきなさい。 それから自分自身が体力的や諸事情で墓参りが難しくなったら考えればいい』と叱られました。 確かに自分の勝手な都合で今すぐすることでもないことも理解できます。 親戚にはある程度進めて閉眼供養までしており できればこのまま墓じまいして永代供養したいと思っていますが 自分勝手な事だと思うとと迷ってしまいます。 このまま墓じまいしても先祖供養に差し障りないでしょうか? それとももう少し先延ばしにした方がいいのでしょうか? もし先延ばしするのであれば閉眼供養してしまった事は また開眼供養すればいいのでしょうか?

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お不動様を念じれば・・・(お寺の掲示板の標語から)

こんにちは。 個人的な話ですが、近所で月毎に掲示板の標語を書いてらっしゃるお寺があり、毎月の更新をひそかに楽しみにしていたのですが、数ヵ月前の標語がじんわりと心に響いてきています。 いわく 「お不動様を念じれば 元気を頂き 護ってくださる」 私の家は真言宗であり、密教と言う事で少し難しく考えてすぎてモヤモヤとしてました。(実際に密教は滅茶苦茶に難解ですが) 密教は学びたい、けど密教は師から法を授かって初めて意味をなすものであり、導師に師事する事は(特に日本の密教では)僧侶になる事前提であり、生半可な心構えではできない事です。 仕事と子守に追われ、寺院や神社にお参りに行く事すらなかなかできない状態で、自分は何を学べるのか悩んでました。 2人の子供が成人し人間的、経済的にも自立すれば・・・との思いも無いでは無いですが、下の子は現在0歳であり、私の年齢も考えれば確実に60は超えます。そんな歳で修行(真言宗で言えば100日間の四度加行)に耐えられるか、そもそもその歳になったらなったで退職後の生活資金や親の介護などの問題も出てくるし・・・あまり現実的な人生設計じゃないような気もします。(将来的にどんなご縁があるかわかりませんが) そもそも自分自身が「専修密教の宗門」での「在家信徒」って、何か矛盾をはらんだ存在ではないかと悩んでいた所でした。 でも、上の標語が心の中で反芻されるにつれ、気持ちが楽になりました。 宗派でなはく、信仰の本質は常にシンプルで力強いものなんだな、と。 実家のお仏壇の大日如来様、それに左右の不動明王尊と弘法大師様を念じ、日々の暮らしを大切にしようと言う前向きな気持ちになりました。 その寺院にはお礼を言いたい気持ちでいっぱいです。 個人的な話が長くなりましたが、お坊様方は掲示板の標語、どのような思いで書いてらっしゃいますか? また自寺、他寺問わず印象的な標語があれば教えて頂ければ嬉しいです。 最後に、標語を考えて書く事は結構大変で、目に見えるレスポンスも得づらいので、あまり気持ちが進まないとは思います。実際、何ヵ月も月毎標語を更新してないお寺さんもあります。 でも、その標語で救われたり、何らかの「気付き」を得てる人もいますので、書いてらっしゃる方々には、是非とも自信を持って続けて頂きたいと伝えたいです。 -合掌ー

有り難し有り難し 4
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