先日、母が病期の為に亡くなりました。 入院したときから覚悟はしており、面会に行く度に手を握ったりこれまでの感謝や母に対する思いを伝えたりはできる限りしていたのですが、やはり辛く悲しいことには変わりありませんでした。 よく親や身近な人の死を受け入れられないという話を聞くことがあります。 自分が、母の死を受け入れられているのかそれともまだ受け入れられていないのか自分ではよくわからず、他の方から見てどう思うかを聞きたくなりました。 先程も書いた通り、覚悟はしており亡くなった瞬間も「この日が来たんだな。お母さんお疲れ様」と最初に考えましたし。その後、通夜や告別式等があり度々悲しみの波が押し寄せてきて涙が溢れることもありました。 しかし、「もう一度会いたいと全く思わない」と言えば嘘になりますが、そこまで強く会いたいとは思わず、私が生きている限りもう会えないことは理解し、母にはあの世でゆっくりしながら、残った家族のことを見守っていてね。私はこの先もちゃんと生きていくからね、と素直に思っています。 これは母の死を受け入れられているのでしょうか? 難しい質問になったかもしれませんが、回答いただけると幸いです。
一昨日母が亡くなりました。 闘病して1年、入院して3ヶ月最後まで頑張って生きました。 愛していました。 もう母と会えない話せないと思うと寂しくて寂しくて、なみたが止まりません。 もう私を一番に気にかけてくれる人は誰もいない。この喪失感をどうしたらいいですか?
こんにちは。以前も質問させていただいた者です。 摂食障害の後遺症で身体をおかしくしてしまいました。以前の質問で温かいご回答をただいたのにこのような結果になってしまい申し訳ございません。 口の中が出血しやすくなり、食べたいのになかなか食べられません。骨密度が低下して趣味だったランニングは続けられなくなりました。治療は生涯続ける必要があるそうですが今より良くなるかは分かりません。 死にたいわけではないのですが、泣いたり病院で診察を受けている時間にやりたかったことがたくさんあるとか、ボロボロの身体で頑張るのは誰のためにもならないとか思ってしまいます。 どうやって毎日をやり過ごしたらよいですか、よろしければ教えていただきたいです。
お坊様方には毎回相談と言いますか話を聞いて頂き感謝しております あれから親友が亡くなって3カ月以上経ちました 心の傷は癒えませんが時の流れは早いなと感じております 親友の家を通る度に未だに親友が生前乗っていた車が残されており 携帯に電話すると親友が2階から何時ものように私の名前を呼んでくれて 手を振ってくれたりすれば良いのになと思って家の前を通り過ぎます また家の前を通る度にずっと辛い治療をしてきたからゆっくり休めよと言ったり 俺は○○と出会えて幸せだったから本当に有難うと言ってます 緩和ケアでは3日間面会出来てもまともに話せたのは1日だけでした 親友には生前緩和ケアでの面会で姿が見えなくなっても 俺の心の中では生き続けてるから永遠に死ぬことは無いよと言っておりますが やっぱり声が聴けなかったり顔が見れないと寂しいものです 就寝時には音楽の曲で夢で逢えたらを思い出して 貴方に会えるまで眠り続けたいと思いながらも夢に1回も出て来てくれません きっと親友が夢の中に出てきたら俺も一緒に連れて行ってくれと言うからかなと 就寝時や家の前を通る度に親友には感謝の言葉を 心の中で沢山言っておりますがお坊様方は親友に対して 私の気持ちが届いていると思いますか? 親友のお墓の場所は知りませんし親友の親には 私自身良く思われていなくて交流が一切ないので
お世話になります どうぞ宜しくお願い申し上げます 先月最愛の母が亡くなりました 施設内コロナ感染に伴う誤嚥性肺炎による急死でした 感染前は全く元気でした 施設内感染者が出ても「お母様は大丈夫です お元気ですから」言われた矢先の事でした そんな元気な母でしたのでまだまだ何年も長生きしてくれると信じておりました 突然の別れに日がたつにつれて寂しさと同時に施設に対して強い不信感と怒りを感じるようになりました 施設内感染対策の不充分さと同時に重篤になった高齢の母を施設内で時間を経過させてしまっていたこと等 今まで一生懸命生きてきた母がこの様に最期苦しんで亡くなってしまったことを思うと残念でなりません この様な最期だけは避けたかったと 何故もっと早く病院に連れて行ってくれなかったか、そもそも感染がさえしなければこんな事にならなかったのに、まだまだ長生してもらえたのに等・・ 考えても戻らない母の事を考えてしまいます 退所時の施設の説明は淡々と経過を語るのみで誠意が少しも感じられなかった事が一層悔しさを増している要因になっています (施設には責任の一旦はあると思います) 今はその様な施設を選んだ自分自身も悔やまれています 人を恨んでも仕方ないとは思うのですが、自分の心の整理がつかずに悲しみより恨みの様な感情が強く我ながら情けなく思います 自分自身を治める術が見つからず混乱しています どうぞご意見ご教授頂ければ幸いでございます 長文お付き合い頂きありがとうございました 宜しくお願い申し上げます
人生の折り返し点を迎えました。 昨年、全身麻酔で外科手術を受けました。定型的で難しくない術式なので、医師に任せておけばいいとは思ったのですが、医療に完璧はありません。迎えた手術日当日、急に穏やかではない気持ちになりました。朝の空が昨日まで綺麗な朝だったのに黒い雲で暗く、カラスが鳴き、談話室に行けばちょうど亡くなられた方がいたのか、葬儀の打ち合わせ、生前整理のパンフレット…。 そういったネガティブ要素が重なるに重なりました。 もっとも手術自体は無事終わり、今は元気に日々を暮らしておりますが、思えば人生の折り返し点です。ここにきて何か「死」に対してこと考えるようになりました。全身麻酔も言ってみれば安全に手術を行うために人間を限りなく「死」に近づける医療、目が覚めた時、手を動かした時、生きてるとも感じました。 まだまだ、これからやることはたくさんあります。 生きたいと思います。 日々、生きるためにどうやって今回あったようなネガティブな要素を消していけばいいのか、悩んでいます。結構クヨクヨする性格ではあります。 と、そういう話を繰り返すうちに「納棺体験」というところに当たりました。何かこの先、自身が生きるための一つのアプローチにはなるかなとは思ったのですが…これってどうなのかなとも思いました。
父が亡くなりました。 今日の午前中でした。容態を持ち直したのですが、急に亡くなったそうです。 父は、西洋哲学を学び、ヨーロッパが好きな人でした。 支離滅裂ですみません。 父のために祈ってください。
母が亡くなってもうすぐ4年経ちます。母は癌と診断され余命3ヶ月宣告。場所が悪く治療もできず、緩和病棟に入院し、最後は自宅に帰り1ヶ月後に亡くなりました。全てのことが突然すぎて、まさか母がこんなに早くに亡くなるなんて全く思っていなかったので心の整理がつかずあっという間の3ヶ月でした。もうすぐ4年経ちますが、母を思い出すのが辛くて実家にはほとんど帰っていません。母が癌と診断される数日前には、きつい言い方をし後悔だけが残っています。正直母は弟を良く可愛がっていたので、私は母との思い出がほとんど記憶にありません。子どもながらに無意識に何か感じていたのかもしれません。なので母のことが大好きと言うわけではありませんが、時々ふっと母の事思い出し、会いたいと言う気持ちが溢れて涙が出ることがあります。なるべく思い出したくないので実家にも帰らないようにしています。写真や母のドレッサーや服など母がまだ生きている時と同じ空間だからです。とにかく辛いです。この辛さは、この気持ちをどう対処したらいいでしょうか。
双極性障害、不安障害、睡眠障害、トラウマや解離など、複数の精神疾患・症状を抱えています。 毎日のように希死念慮を感じます。 何度も自死を図りましたが失敗に終わりました。 それは、自分の中でセーブかかかっている為だと思われます。 それは、多くの人に言われた「死なないで」という言葉、そして本能的な死への恐怖だと思います。 そしてたまに、死にたくない!と強く不安になるのです。 私の身体は、酷い自傷行為を繰り返したせいで外も中もボロボロで、恐らく短命でしょう。 しかし夢があります。 漫画家になって、作品を通して誰かの生き甲斐になることです。 私も創作物に沢山生きがいを貰っているからです。 担当編集も、私に連載作家になることを期待してくれています。 今は死ぬのが怖いです。 でも朝は死にたかった。 そして数時間後にはまた「しにたい」に戻ってしまっているかもしれません…悲しいことに、「しにたい」方がここ数年の私の日常です。 本当は生きたいです。希死念慮なんか持って生きたくないです。 でも、病気が良くなったらなったで、こんな自分でボロボロにした身体を受け入れられるとは思えません。きっと傷跡が目に入る度に苦しむでしょう。 私は今からでも取り返しがつくんでしょうか……立ち直れるんでしょうか。 何年も治らないどころか悪化していく病気にどう立ち向かえばいいのか、寛解できたとて、病気の頃の自分の行いをどう受け入れればいいのか。 わからなくて不安です。 ご教示ください。
長文失礼します。 母が他人に私のことを話す度に、悪口を言っているようにしか見えません。 もともと同居していたときから、私のやる家事にも愚痴ばかり言われていたので、敢えて放棄していたことも多々ありました。(基本的な家事はしていた) 『あんたといたら鬱になる!病気になりそう!』など何度も言われ続けてましたが、これに関しては返答せず無視していました。 機嫌が良ければウザいぐらいに話かけて来るような日もありました。 最近大病を患い、入院生活を送っています。 しかしその病院のスタッフさんから、『あなた今までお母さんに甘え過ぎだったのよ。 夜勤明けも寝てばっかりだったんでしょ? お母さん退院したら、甘えたらだめよ。』など言われました。 ものすごく恥ずかしく、悲しくなりました。 人員不足で夜勤は多かったし、子供たちの世話も夫と実母に頼み、夜勤明けは寝てることもありましたが、出来る限りの家事はやっていました。 家事もしないで部屋にこもって寝てると勘違いされた気分で、イヤになりました。 弟(独身:遠方にいる)には、母のお金をアテに生活していると思われていたようです。 母の通帳なんて今まで見たことないし、入院してから初めて通帳管理してることを説明したら誤解が解けたようです。 母の入院中の世話はほぼ私一人で担っています。一応夫も手伝ってくれています。 病院が遠く、仕事休んで面会や先生の説明を聞きに行かないと夕方に間に合わないため、どうしても疲れるし給料も減ります。 最近、弟が母の面会に来ました。 何を話したかは分かりませんが、話ははずんだろうし母も喜んでました。 しかし弟が帰ったあとの私へのLINEで、『ちゃんとお母さんに寄り添ってやって、退院したら家事も任せたらダメだよ。叱ったりしないように。姉さん看護師だからわかるよね』というような内容でした。 遠くに住んでて何も出来ない弟に、なんでこんな上から目線のようなことを言われないといけないのだろう…と本当に悲しくなりました。弟なりに心配してるんだと思いますが。 母と一体私の何を話してたんだろう?とまで疑ってしまいました。 もう母の面倒はみたくないし、退院しないでほしいと考えてしまいました。 これからどういう気持ちで母の面倒をみたらいいかわからなくなりました…
SNSで5年以上付き合いのある同性の友人がいます。 何度か会って楽しく遊んだこともありますし、お互いの家に行ったこともあります。彼女が遠い県に引っ越してからも、リプライなどはたまに送り合う仲です。 そんな彼女ですが、ずっと精神的に不安定で、数年前からたまに命を絶とうとしてしまいます。 最期の挨拶めいたものを投稿することは何度かありましたし、実際に行動に移して緊急搬送されたりもしているので、狂言ではないようです。 友人としてやりきれない気持ちにはなるものの、彼女が今どこに住んでいるのかも分かりませんし、分かったとして家に押しかけてまで何かできることもないだろうなと思います。理由も分からないので……。 わたし自身もメンタルが強いとは言いがたく、職場での人間関係が原因でメンタルのバランスを崩し、休職したりもするような人間です。正直に言うと、自分の精神状態を守りたいという思いが強いです。 そして最近、彼女の未遂の頻度が増えてきました。 SNSなのでタイムラインには彼女の投稿が自動的に流れてきますし、非表示設定にするのも少し気が引けます。 彼女の投稿を見るたびに「よかった、まだ生きてた」「今度こそこれで最期かもしれない」と肝をすり減らすのが辛いです。 先日も仄めかす投稿をしており、それ以来まだなにも投稿されていません。 見殺しにしたとまではさすがに思いませんが、不安な気持ちになっています。 自分でも冷たい人間だなと思いますが、別に何ができるわけでもないし、してあげようともあまり思えていないので、完全に自分の気の持ちようの問題かなと思っています。 できれば彼女の言動に左右されず、気持ちを上手く切りかえて淡々と過ごしていきたいです。そのためのコツや考え方があれば、教えていただきたいです。
父が、死んでしまいました。 あんなに元気だったのに、検査もしていたのに、病気が判明してからは、わずか2か月ちょっと。驚くほどあっという間でした。 こうなることが怖かったから、話をしようと言ってきました。でも、その言葉を正面から受け止めてくれることはありませんでした。 父は本当にすごい人ではありました。地域のボランティアもたくさんしてきました。父が始めたプロジェクトは今もたくさん残り、地域の絆も生まれました。こんなに地域の人がたくさん集まったご葬儀は初めてですと、葬儀場の方に驚かれました。お父さんには本当にお世話になったと、見知らぬ人から何度も声をかけられました。 父にあてた相談の電話を、子供の頃から何度も取り次ぎました。呆れるくらい、ずっと話を聞いてあげていました。 辛いとか苦しいとか、そういう愚痴めいた言葉はとうとう最後まで一度も聞いたことがありませんでした。もうかなり痛みがあると思いますと、お医者様にも何度も言われました。亡くなる直前まで、毎朝ぴしっと背筋を伸ばして起きてきて、自分で身支度をして、おはようと言って起きてきました。 体力を振り絞って、最後に庭にでた日にしたことは、花を植えることでした。この花が、春になるときれいに咲くよと笑っていたそうです。父が亡くなってから、きれいに咲き揃いました。 皆がもっとのびのびと仕事ができるようにと、父が改革をしたときは、現場からは大歓迎の声が上がりましたが、前任者の方には激しく罵倒されたそうです。周囲もかなりはらはらしたそうですが、父は最後まで見事なほど穏やかに対応したそうです。大丈夫だったの?と母が声を掛けたら、「俺はこんなことではくじけんよ」と、そう言って笑ったそうです。 昔、私が学校に行けなくなったことがありました。毎日の生活を何一つ変えない父でしたが、家に閉じこもる私を、黙って職場に連れて行ってくれました。仕事を黙々と手伝い、父の行きつけのお店でお昼を食べ、午後もまた仕事をして帰る、そんな毎日でした。特に何かを話したわけではないですが、あの時間だけは、ずっと感謝しています。 おれはじっとしていられる性格じゃないから、向こうでも、また何か新しいことを始めるよと、最後はそう言って旅立ちました。 もっともっと話がしたかったの。 そう……わたしはただ、あなたともっと話がしたかった。 なぜ、もういないのですか?
癌疑いで精密検査待ちなのですが、数ヶ月前から、身体が弱っていく自覚症状を感じています。 老化かな、とおもっていましたが、昨日、気楽に検査結果を聞きに言ったら腫瘍マーカーや画像診断で異常がみつかりました。 週明けに大きい病院に紹介してもらう予定です。 仏教徒になり、色々学ばせていただき、死生観は自分なりに持っているつもりでしたが、いざ病気かもしれない、今、身体が辛い原因が病気のせい?と考えると、不安になりますね。 治療も辛いだろうなあとまだ診断も出ていないのにゲンナリしています。 最近、目眩で電車で倒れたり、体重が目に見えて減ってしまい、痩せたのに身体が重く、これからもっとそういうことが増えるのか、出来ない事が増えるのだなと、戸惑います。 これも長い生活の中の一部なので、特別な事と思わないようにしようと思いますが、不安だけは拭えません。 その不安も生活の一部と思いたいですが、今は、不安に自分が乗っ取られています。
いつもお世話になっております。 私の母について、相談があります。 去年の9月のお彼岸の頃に父が倒れて意識不明になりました。 私は遠方に住んでいるため、数ヶ月に一度、会社に許可を取って休みをもらい、実家に帰っていました。 「父の状態が悪化した」と連絡があるたび、私の生活は左右されていました。精神的にも辛かったです。それでも、「仕方のない事」と我慢していました。 今週の月曜に「父が危篤」と連絡があり、私は会社の各方面に謝って休みをもらい、今実家にいます。 しかし、直接医師から話を聞いたところ、「いつ死ぬと言える状態ではない。ただ、尿量が減少していて、膀胱に外科的処置をするかどうか、確認の電話を母にした」との事でした。 父の命を餌に話を盛っていた母に、内心怒りを覚えます。 私の生活を振り回されている感じが、腹立たしいです。 ただ、彼女も高齢なので、我慢はしますが、いつかキレてしまいそうです。
前回や前々回の相談からの心情の変化は、梅雨時期なので夜の辛さが辛いです。コロナの流行る前年の年末に風邪を引いたとかで正月を挟むので多めに薬出して貰って年明け1月か2月に定期的な血液検査と言われてた様でコロナが流り近所の開業医の内科に行きたがらなく成りました。昨年の2月の初め夜に風邪が悪化して様で翌朝救急車を呼んで救急病院に。検査の結果風邪をこじらせ肺炎で入院。夏の入院時も夜に悪化翌朝救急車で同じ救急病院に入院。体力も落ち寝返りも難しく成り急ぎで介護認定と訪問看護て自宅治療で退院予定と車椅子椅子でわ過ごせる様に退院楽しみにして母。退院後一月程で亡くなりました。無理やりでも内科に連れていき早めに対処してたらと。あの時こうしてたらと思い出してらと辛いです。
話せる場という事で、最近から変化が起き始めている現状をお話してみようと思います。 僕と母は精神疾患を抱えながら支え合う生活を長く過ごして来ました。お互いを支え合う事だけで精一杯で、疾患から来る身体的な不自由もあり、仕事に就ける体力はありません。 母とふたりで暮らし、家事ぐらいしかやる事がない。コロナがやって来ました。ただでさえ空虚な生活です。外出の自由も許されない。気持ちのやり場がなく、何となく安い画材を購入し始めました。 いざ始めてみると、そこには自由がありました。優劣もなく、競争もなく、せいぜい見る方の好みぐらいしかありません。綺麗な色が好きでした。 コロナも明け行動は自由になりました。描く事にも飽き始め、次第に描かなくなりました。 最近になって、たまたまタイムセールで安いキャンバスを購入しました。購買意欲だけです。5枚セット分だけと決め、絵は最後にしようと思いました。 どうせ最後なら、最後にやり残した事をしよう。根拠のある作品を描く事にしました。自身が統合失調症である事を前提にした創作です。 僕は初めて世間に統合失調症である事をカミングアウトしました。どうせどこの誰とも知れないのです。現実的には何の支障もありません。ただそれでも反応はありませんでした。むしろ見る方は更に減りました。僕は憤りを覚えました。精神疾患であるという差別や偏見から、近しい親戚にも非難を浴び続けている今が重なりました。 思いの丈を書き殴った投稿だけを残し、活動を終えました。それきりです。しかしその投稿に人が殺到しました。非難する声ではありません。共感と応援でした。 同じ病を抱えている。違う精神疾患を抱えながらどこにも居場所がない。私はあなたを差別しない。 その投稿を数万人が目にしました。人生の果てにいる様な場所から、世界は広がりました。 この投稿をきっかけに作品自体を目にする方も増え、作品を購入したいというお話も数件出ました。当時は爆発的な反応でしたが、今では人気だけではない安定的な方々に恵まれています。 僕はこの現状は、精神疾患に対する理解の向上に繋がると考えています。陰で同じ様な苦悩を抱える方々の夢や希望になれる。医師は疾患以外興味がありません。また見捨てられる彼らの絶望を知っています。僕の作品は次第に僕だけの作品ではなくなる。今後金銭的な苦悩もあるでしょう。画業は険しい道です。
いつもお世話になっております。 入ってくれているステーションの 看護師が一人、社会運動標榜ゴロ でした。 なんの脈絡もなく突然「差別、 差別」と私の心を煽ってきます。 いちばんひどかったのが、 「病院スタッフの皆さんが、 患者から暴言を吐かれている のを見るのが辛い」 と私が言ったところ 「障害者差別のせいです」 と無理やりこじつけてきました。 また、 「医療スタッフと患者さんの間には 上下関係ができてしまっているので 僕らは平等でいましょうね」 などと言ってきます。 これを半泣きで主治医に「怖い」 と伝えたら、主治医は自分の スマホを取り出し、ステーションに 連絡して 「当該看護師の訪問は、リケブツ さんには不可能」 と指示してくれました。 診察中にです。主治医の機動力、 脱帽です。 しかし、主治医がそう言うまで、 ステーションの人たちは 「一度対話をして」 となんとか私を説き伏せてこようと しました。 「当該看護師は、仕事仲間の前で そのような発言はしたことがない、 しかしリケブツさんを嘘つきだ とは思わない」 と言われました。 それ以来、訪問看護師さんの 一言一句…たとえば言葉の綾や 記憶違いに過敏になり、 ボイスレコーダーが手放せ なくなりました。 以前通所していた、暴力的な 方法で障害者の存在をアピール する訓練施設のトラウマ的記憶や、 私を子供扱いして、それに対して 抗議したら逆上してきた看護師の 記憶が呼び起こされしんどいのです。 気にしすぎなのはわかっています。 気にしなくていいなら、そうしたい です。 どうすればいいでしょうか?
私の実家は歴史ある大寺でした。父親はカリスマ的な僧侶で尊崇を集め、寺門興隆に努め、諸堂を立派にし、大きな位牌堂を新築し、宗内でも二つある部門のトップをしてるほどの実力者でした。母親もまた名刹の出身で、親は両親とも何でもできる人でした。 その親も父が80歳、母が78歳になりました。いわゆる8050問題に直面しています。 私は長男なので後を継がなくてはならないと無理に宗門大学に行って、心を病み、 父が浄土宗のある部門のトップになった時点で、31歳で完全におかしくなって入院して、33歳の時寺を離れました。 以来年金・手帳を受けて、一人暮らしをしながら病院に通ってリハビリに努め、 寺を出たのが33歳の時でしたから、今年53歳なのでもう20年になります。 40過ぎから働くことを考えて、障害者職業訓練に通ったり、B型就労継続支援事業所に通ったりして、働く準備をして、単発派遣から始めて、職を転々としましたが、短時間のパートが精いっぱいです。 昔は親に死なれたら困るんだとケースワーカーにこぼしていたような気がしますが、最近は、年金とパートで生計を立てるしかないと思っています。 叔父も二人いて、二人ともお坊さんですが、何かと助けてくれるようではありますが、いとことは縁が薄いので、助けてはくれないでしょう。 本当に困窮したら生活保護しかないでしょうが、今のところ働けるし、親族も助けてくれるので無理だと思います。 死にたいとは思いません。が、以前は80まで生きるんだと思ってましたけれども、何か生きがいがないです。 仕事は短時間のパートながら、非常にいいところにつけて、やりがいがありますが、精神状態で休みがちです。なので収入は不安定です。 趣味はありましたが、以前ほど熱は入りません。 最近、物欲も性欲もないです。 50過ぎてから、初老というか、衰えを感じています。 糸の切れた凧のようにふらふらと生きている自分が嫌になります。
前回の問答の続きになりますが 親友が亡くなってから3週間程経ちますが 唯一の友であり35年間の付き合いの長さと言いますか 心に穴が開いた感じがして生きづらい日々が続いてます 親友とホスピスで面会した3日間は本当に幸せでした 別れが来るのが確実の為寝ている顔さえ愛おしく見れましたし 沢山感謝の想いを伝えることが出来ましたので 不思議な事に親友の49日が私の誕生日の翌日で 私の母が親友はきっと自分の誕生日を祝ってから 旅立ちたかったのよと言われて母の前で泣いてしまいました 親友の母親は私の事を良く思ってないらしくて 私と親友の仲を腐れ縁と言われたり 何時までいるんですかと帰宅を促されるような扱いを受けたので 親友の葬儀には呼ばれず親友のお墓の場所も知りません 買い物に行く度に親友の自宅前を通おり 親友の車がまだ残っていて亡くなったのは分かっているのですが 今日は仕事が休みで家に居るんじゃないかと思ってしまう時もあります 恋人も昔はいましたが自分の努力不足で相手が他の男性を好きになり 別れたので自信を無くして作ろうと言う気力も起きません 相手から別れを告げられたのですが逆に辛い言葉を 言わせて申し訳なかったと未だに思ってる位です こんな駄目な自分でも母は居なくなったら寂しいから 元気でいて欲しいと言われて嬉しいですが 私自身性格が歪んでるのが常に自分は駄目な人間だと思ってしまいます 親友からはこんなに思いやりがある人が駄目なわけないでしょと ✉で記載されていましたが私自身は親友の方が真面目で 何でこんなに良い奴が俺より早く亡くなるんだと思いながら生きてます 相談と言いますか母に余り心配かけたくないのと 私自身心が弱くて吐き出すところがないので書かせて頂きました お忙しい中本当に申し訳なく思っております
何事もなく生きて来ましたが、20代半ばで統合失調症を発症し、20年近く療養生活をしています。僕の発症と同時期に母もパニック障害になり、親子2人きりで支え合いながら暮らして来ました。 時間をかけて僕は快方に向かいましたが、母は高齢に差し掛かり、闘病と共に老いから来る体の不調にも今苛まれています。 母を支えながら僕も努力して来ましたが、病気の影響は根深く、働ける体にまでは回復しませんでした。 制度を利用して何とか暮らせていますが貯蓄はなく、闘病から様々な縁も切れ、自身が40代に入る頃から先が暗い人生を意識する様になりました。 いつ何があっても不思議ではない年齢の母を支え続けながら、母を看取るまでが自分の人生の役割であり、その先の人生は絶ってしまおうと決意しています。 その考えは僕の中であまり不自然な事ではありませんでした。幼い頃から環境に恵まれず、10代から40歳から先の人生を想定していませんでした。 今40歳から3年が経ちました。想定外の人生を歩きながら、いつ逝ってもいい心境です。決して自分の人生は空虚なものばかりではありませんでした。母の大きな愛を感じながら、できる範囲の細やかな楽しみを許してくれました。僕は生きている事自体に喜びを感じながら過ごして来ました。 しかし幼い頃からの決心が揺らぐ事はありませんでした。余生を楽しむ様な気持ちで、今母の天寿を待ち続けています。 僕は他人の人生と自分の人生を比較した事がありません。余りにもかけ離れていました。母に尽くすだけの人生でした。もっと困難を抱えた人生もあるのかも知れません。でも、誰の人生も想像する事ができないのです。 この場で人生を説明した理由もはっきりとしません。生き続けたいという未練もありません。話せる場らしい、という感覚だけです。何を言って貰いたい、という言葉も求めていないのです。 ひたすら虚しい。それだけです。持病は今の医療では完治しません。医学の進歩にあまり進展がなければ、自身の寿命は平均で60代です。僕は遅かれ早かれ、体の限界が来る可能性があります。