父が、死んでしまいました。 あんなに元気だったのに、検査もしていたのに、病気が判明してからは、わずか2か月ちょっと。驚くほどあっという間でした。 こうなることが怖かったから、話をしようと言ってきました。でも、その言葉を正面から受け止めてくれることはありませんでした。 父は本当にすごい人ではありました。地域のボランティアもたくさんしてきました。父が始めたプロジェクトは今もたくさん残り、地域の絆も生まれました。こんなに地域の人がたくさん集まったご葬儀は初めてですと、葬儀場の方に驚かれました。お父さんには本当にお世話になったと、見知らぬ人から何度も声をかけられました。 父にあてた相談の電話を、子供の頃から何度も取り次ぎました。呆れるくらい、ずっと話を聞いてあげていました。 辛いとか苦しいとか、そういう愚痴めいた言葉はとうとう最後まで一度も聞いたことがありませんでした。もうかなり痛みがあると思いますと、お医者様にも何度も言われました。亡くなる直前まで、毎朝ぴしっと背筋を伸ばして起きてきて、自分で身支度をして、おはようと言って起きてきました。 体力を振り絞って、最後に庭にでた日にしたことは、花を植えることでした。この花が、春になるときれいに咲くよと笑っていたそうです。父が亡くなってから、きれいに咲き揃いました。 皆がもっとのびのびと仕事ができるようにと、父が改革をしたときは、現場からは大歓迎の声が上がりましたが、前任者の方には激しく罵倒されたそうです。周囲もかなりはらはらしたそうですが、父は最後まで見事なほど穏やかに対応したそうです。大丈夫だったの?と母が声を掛けたら、「俺はこんなことではくじけんよ」と、そう言って笑ったそうです。 昔、私が学校に行けなくなったことがありました。毎日の生活を何一つ変えない父でしたが、家に閉じこもる私を、黙って職場に連れて行ってくれました。仕事を黙々と手伝い、父の行きつけのお店でお昼を食べ、午後もまた仕事をして帰る、そんな毎日でした。特に何かを話したわけではないですが、あの時間だけは、ずっと感謝しています。 おれはじっとしていられる性格じゃないから、向こうでも、また何か新しいことを始めるよと、最後はそう言って旅立ちました。 もっともっと話がしたかったの。 そう……わたしはただ、あなたともっと話がしたかった。 なぜ、もういないのですか?
癌疑いで精密検査待ちなのですが、数ヶ月前から、身体が弱っていく自覚症状を感じています。 老化かな、とおもっていましたが、昨日、気楽に検査結果を聞きに言ったら腫瘍マーカーや画像診断で異常がみつかりました。 週明けに大きい病院に紹介してもらう予定です。 仏教徒になり、色々学ばせていただき、死生観は自分なりに持っているつもりでしたが、いざ病気かもしれない、今、身体が辛い原因が病気のせい?と考えると、不安になりますね。 治療も辛いだろうなあとまだ診断も出ていないのにゲンナリしています。 最近、目眩で電車で倒れたり、体重が目に見えて減ってしまい、痩せたのに身体が重く、これからもっとそういうことが増えるのか、出来ない事が増えるのだなと、戸惑います。 これも長い生活の中の一部なので、特別な事と思わないようにしようと思いますが、不安だけは拭えません。 その不安も生活の一部と思いたいですが、今は、不安に自分が乗っ取られています。
いつもお世話になっております。 私の母について、相談があります。 去年の9月のお彼岸の頃に父が倒れて意識不明になりました。 私は遠方に住んでいるため、数ヶ月に一度、会社に許可を取って休みをもらい、実家に帰っていました。 「父の状態が悪化した」と連絡があるたび、私の生活は左右されていました。精神的にも辛かったです。それでも、「仕方のない事」と我慢していました。 今週の月曜に「父が危篤」と連絡があり、私は会社の各方面に謝って休みをもらい、今実家にいます。 しかし、直接医師から話を聞いたところ、「いつ死ぬと言える状態ではない。ただ、尿量が減少していて、膀胱に外科的処置をするかどうか、確認の電話を母にした」との事でした。 父の命を餌に話を盛っていた母に、内心怒りを覚えます。 私の生活を振り回されている感じが、腹立たしいです。 ただ、彼女も高齢なので、我慢はしますが、いつかキレてしまいそうです。
前回や前々回の相談からの心情の変化は、梅雨時期なので夜の辛さが辛いです。コロナの流行る前年の年末に風邪を引いたとかで正月を挟むので多めに薬出して貰って年明け1月か2月に定期的な血液検査と言われてた様でコロナが流り近所の開業医の内科に行きたがらなく成りました。昨年の2月の初め夜に風邪が悪化して様で翌朝救急車を呼んで救急病院に。検査の結果風邪をこじらせ肺炎で入院。夏の入院時も夜に悪化翌朝救急車で同じ救急病院に入院。体力も落ち寝返りも難しく成り急ぎで介護認定と訪問看護て自宅治療で退院予定と車椅子椅子でわ過ごせる様に退院楽しみにして母。退院後一月程で亡くなりました。無理やりでも内科に連れていき早めに対処してたらと。あの時こうしてたらと思い出してらと辛いです。
話せる場という事で、最近から変化が起き始めている現状をお話してみようと思います。 僕と母は精神疾患を抱えながら支え合う生活を長く過ごして来ました。お互いを支え合う事だけで精一杯で、疾患から来る身体的な不自由もあり、仕事に就ける体力はありません。 母とふたりで暮らし、家事ぐらいしかやる事がない。コロナがやって来ました。ただでさえ空虚な生活です。外出の自由も許されない。気持ちのやり場がなく、何となく安い画材を購入し始めました。 いざ始めてみると、そこには自由がありました。優劣もなく、競争もなく、せいぜい見る方の好みぐらいしかありません。綺麗な色が好きでした。 コロナも明け行動は自由になりました。描く事にも飽き始め、次第に描かなくなりました。 最近になって、たまたまタイムセールで安いキャンバスを購入しました。購買意欲だけです。5枚セット分だけと決め、絵は最後にしようと思いました。 どうせ最後なら、最後にやり残した事をしよう。根拠のある作品を描く事にしました。自身が統合失調症である事を前提にした創作です。 僕は初めて世間に統合失調症である事をカミングアウトしました。どうせどこの誰とも知れないのです。現実的には何の支障もありません。ただそれでも反応はありませんでした。むしろ見る方は更に減りました。僕は憤りを覚えました。精神疾患であるという差別や偏見から、近しい親戚にも非難を浴び続けている今が重なりました。 思いの丈を書き殴った投稿だけを残し、活動を終えました。それきりです。しかしその投稿に人が殺到しました。非難する声ではありません。共感と応援でした。 同じ病を抱えている。違う精神疾患を抱えながらどこにも居場所がない。私はあなたを差別しない。 その投稿を数万人が目にしました。人生の果てにいる様な場所から、世界は広がりました。 この投稿をきっかけに作品自体を目にする方も増え、作品を購入したいというお話も数件出ました。当時は爆発的な反応でしたが、今では人気だけではない安定的な方々に恵まれています。 僕はこの現状は、精神疾患に対する理解の向上に繋がると考えています。陰で同じ様な苦悩を抱える方々の夢や希望になれる。医師は疾患以外興味がありません。また見捨てられる彼らの絶望を知っています。僕の作品は次第に僕だけの作品ではなくなる。今後金銭的な苦悩もあるでしょう。画業は険しい道です。
いつもお世話になっております。 入ってくれているステーションの 看護師が一人、社会運動標榜ゴロ でした。 なんの脈絡もなく突然「差別、 差別」と私の心を煽ってきます。 いちばんひどかったのが、 「病院スタッフの皆さんが、 患者から暴言を吐かれている のを見るのが辛い」 と私が言ったところ 「障害者差別のせいです」 と無理やりこじつけてきました。 また、 「医療スタッフと患者さんの間には 上下関係ができてしまっているので 僕らは平等でいましょうね」 などと言ってきます。 これを半泣きで主治医に「怖い」 と伝えたら、主治医は自分の スマホを取り出し、ステーションに 連絡して 「当該看護師の訪問は、リケブツ さんには不可能」 と指示してくれました。 診察中にです。主治医の機動力、 脱帽です。 しかし、主治医がそう言うまで、 ステーションの人たちは 「一度対話をして」 となんとか私を説き伏せてこようと しました。 「当該看護師は、仕事仲間の前で そのような発言はしたことがない、 しかしリケブツさんを嘘つきだ とは思わない」 と言われました。 それ以来、訪問看護師さんの 一言一句…たとえば言葉の綾や 記憶違いに過敏になり、 ボイスレコーダーが手放せ なくなりました。 以前通所していた、暴力的な 方法で障害者の存在をアピール する訓練施設のトラウマ的記憶や、 私を子供扱いして、それに対して 抗議したら逆上してきた看護師の 記憶が呼び起こされしんどいのです。 気にしすぎなのはわかっています。 気にしなくていいなら、そうしたい です。 どうすればいいでしょうか?
私の実家は歴史ある大寺でした。父親はカリスマ的な僧侶で尊崇を集め、寺門興隆に努め、諸堂を立派にし、大きな位牌堂を新築し、宗内でも二つある部門のトップをしてるほどの実力者でした。母親もまた名刹の出身で、親は両親とも何でもできる人でした。 その親も父が80歳、母が78歳になりました。いわゆる8050問題に直面しています。 私は長男なので後を継がなくてはならないと無理に宗門大学に行って、心を病み、 父が浄土宗のある部門のトップになった時点で、31歳で完全におかしくなって入院して、33歳の時寺を離れました。 以来年金・手帳を受けて、一人暮らしをしながら病院に通ってリハビリに努め、 寺を出たのが33歳の時でしたから、今年53歳なのでもう20年になります。 40過ぎから働くことを考えて、障害者職業訓練に通ったり、B型就労継続支援事業所に通ったりして、働く準備をして、単発派遣から始めて、職を転々としましたが、短時間のパートが精いっぱいです。 昔は親に死なれたら困るんだとケースワーカーにこぼしていたような気がしますが、最近は、年金とパートで生計を立てるしかないと思っています。 叔父も二人いて、二人ともお坊さんですが、何かと助けてくれるようではありますが、いとことは縁が薄いので、助けてはくれないでしょう。 本当に困窮したら生活保護しかないでしょうが、今のところ働けるし、親族も助けてくれるので無理だと思います。 死にたいとは思いません。が、以前は80まで生きるんだと思ってましたけれども、何か生きがいがないです。 仕事は短時間のパートながら、非常にいいところにつけて、やりがいがありますが、精神状態で休みがちです。なので収入は不安定です。 趣味はありましたが、以前ほど熱は入りません。 最近、物欲も性欲もないです。 50過ぎてから、初老というか、衰えを感じています。 糸の切れた凧のようにふらふらと生きている自分が嫌になります。
前回の問答の続きになりますが 親友が亡くなってから3週間程経ちますが 唯一の友であり35年間の付き合いの長さと言いますか 心に穴が開いた感じがして生きづらい日々が続いてます 親友とホスピスで面会した3日間は本当に幸せでした 別れが来るのが確実の為寝ている顔さえ愛おしく見れましたし 沢山感謝の想いを伝えることが出来ましたので 不思議な事に親友の49日が私の誕生日の翌日で 私の母が親友はきっと自分の誕生日を祝ってから 旅立ちたかったのよと言われて母の前で泣いてしまいました 親友の母親は私の事を良く思ってないらしくて 私と親友の仲を腐れ縁と言われたり 何時までいるんですかと帰宅を促されるような扱いを受けたので 親友の葬儀には呼ばれず親友のお墓の場所も知りません 買い物に行く度に親友の自宅前を通おり 親友の車がまだ残っていて亡くなったのは分かっているのですが 今日は仕事が休みで家に居るんじゃないかと思ってしまう時もあります 恋人も昔はいましたが自分の努力不足で相手が他の男性を好きになり 別れたので自信を無くして作ろうと言う気力も起きません 相手から別れを告げられたのですが逆に辛い言葉を 言わせて申し訳なかったと未だに思ってる位です こんな駄目な自分でも母は居なくなったら寂しいから 元気でいて欲しいと言われて嬉しいですが 私自身性格が歪んでるのが常に自分は駄目な人間だと思ってしまいます 親友からはこんなに思いやりがある人が駄目なわけないでしょと ✉で記載されていましたが私自身は親友の方が真面目で 何でこんなに良い奴が俺より早く亡くなるんだと思いながら生きてます 相談と言いますか母に余り心配かけたくないのと 私自身心が弱くて吐き出すところがないので書かせて頂きました お忙しい中本当に申し訳なく思っております
何事もなく生きて来ましたが、20代半ばで統合失調症を発症し、20年近く療養生活をしています。僕の発症と同時期に母もパニック障害になり、親子2人きりで支え合いながら暮らして来ました。 時間をかけて僕は快方に向かいましたが、母は高齢に差し掛かり、闘病と共に老いから来る体の不調にも今苛まれています。 母を支えながら僕も努力して来ましたが、病気の影響は根深く、働ける体にまでは回復しませんでした。 制度を利用して何とか暮らせていますが貯蓄はなく、闘病から様々な縁も切れ、自身が40代に入る頃から先が暗い人生を意識する様になりました。 いつ何があっても不思議ではない年齢の母を支え続けながら、母を看取るまでが自分の人生の役割であり、その先の人生は絶ってしまおうと決意しています。 その考えは僕の中であまり不自然な事ではありませんでした。幼い頃から環境に恵まれず、10代から40歳から先の人生を想定していませんでした。 今40歳から3年が経ちました。想定外の人生を歩きながら、いつ逝ってもいい心境です。決して自分の人生は空虚なものばかりではありませんでした。母の大きな愛を感じながら、できる範囲の細やかな楽しみを許してくれました。僕は生きている事自体に喜びを感じながら過ごして来ました。 しかし幼い頃からの決心が揺らぐ事はありませんでした。余生を楽しむ様な気持ちで、今母の天寿を待ち続けています。 僕は他人の人生と自分の人生を比較した事がありません。余りにもかけ離れていました。母に尽くすだけの人生でした。もっと困難を抱えた人生もあるのかも知れません。でも、誰の人生も想像する事ができないのです。 この場で人生を説明した理由もはっきりとしません。生き続けたいという未練もありません。話せる場らしい、という感覚だけです。何を言って貰いたい、という言葉も求めていないのです。 ひたすら虚しい。それだけです。持病は今の医療では完治しません。医学の進歩にあまり進展がなければ、自身の寿命は平均で60代です。僕は遅かれ早かれ、体の限界が来る可能性があります。
昨晩、母と出かけて家に帰ってきたら、12歳の猫が母のベッドの上で亡くなっていました。 突然のことで、放心状態になっています。 もしかしたら、どこか具合が悪かったのかもしれません。 最近、私は精神的に不調で鬱が悪化しており、猫の様子を気にかけてあげられませんでした。 亡くなったのは、私のせいかもしれないです。 罪の意識が消えません。病院に定期的に健康診断も連れて行ってあげられていませんでした。 まだ12歳なら大丈夫だと過信していました。 私や家族は罪深い人間かもしれません。 どうしたら、猫に許してもらえるでしょうか。 そして猫は、無事にあの世へ行けているのでしょうか。 最低な人間ですみません。
長文です。90歳の父が2019年より膀胱癌、胃がん(2回)尿管癌、そして今は肝内胆管癌で胆管炎をおこし入院中です。これまで要介護3で認知症の母を父と2人で自宅で介護しながら暮らして来ました。お恥ずかしい話ですが私は来週から無職になり、貯金もわずかです。父の年金を頼りに生きてきました。このたびは父の入院が長引き、今後の生活のことを思うと夜も眠れません。母は週4でデイサービスに通っているために送り出し、迎え入れが必要です。今までは高齢の父にお願いしていました。それまでは病気をしていたにも関わらず、元気だったからです。私はいい年をしてそんな父に甘えて暮らしてきました。働いていたとはいえ、呑気に生きてきました。そんな父が今、もうダメなんじゃないかと思うくらい状態が悪く、毎日のように面会に行くたびに絶望感に襲われます。妹は5年半前に癌で亡くなり、昨年末に定年退職した兄は少し遠くに住んでいます。今回の入院で私は時短勤務を余儀なくされ、また兄には週に2回母の送り出しをお願いしていますが、兄とは今まであまり良い関係ではなく、今もお願いするたびに気を遣うためしんどいです。もし父が亡くなってしまったら母と2人でどうやって生きて行ったら良いのか先が見えません。父は陽子線治療を受けられると、その希望を持って入院中も頑張っていましたが、昨日は酸素に繋がれて呼びかけにもあまり反応がないです。孫たちも仕事や学校があり、また遠方に住んでいるため、頻繁には来られません。お友達はたくさんいますが、皆さんも高齢のため、面会も難しいし、兄は一度も面会に行っていません。主治医は陽子線治療も心臓もかなり弱っておりしても効果はない、それよりも家族との時間をゆっくり過ごしては?と緩和ケアを勧められています。年齢的にも、もう仕方がないとはわかっています。ただ、これからどうやって生きていけば良いのかわかりません。妹の死をやっと乗り越えたけれど、今回は乗り越えらそうにないです。認知症の母は私のことはわかりますが、兄のことはわかりません。不安で消えてなくなりたくなります。こんな弱くて甘い私はやはり消えた方がいいのでしょうか。
私が三歳の時、両親は離婚し、母は私を置いて去りました。祖母と父が私を育ててくれましたが、最近祖母が亡くなりました。この世の中がすべて無意味のように感じており、私は彼女の後を追いたいと思っています。今生きていることに、彼女の生前の私の行動に対して罪悪感でいっぱいです。償いたいと思っても無力で、彼女のところに行って償うことしか考えられず、生きている限り罪悪感の中で永遠に過ごさなければならないのではないかと思っています。 (我三岁时父母离婚,妈妈离开了我,我奶奶和父亲照顾我长大,最近奶奶去世了,我觉得这世上好像一切都没有了意义,我想追随她而去。现在活着对自己在她生前的所做所为充满愧疚。我想要弥补,却无能为力,只能想到跟着她去到另一个世界去弥补她,不然我活着就永远生活在愧疚里。)
アラフォーで夫を病気で亡くしました。 もうこの世に夫が存在しないということがとても苦しいです。Xで、「毎日、夫との思い出の日々から遠ざかるのが辛い」とポストしたところ、同じ境遇の方から「また1日故人に近づいた、と思っています」と返信があり、とても救われた思いがしました。自分が死んだ時に、夫にまた会える、迎えに来てくれる、という想像は、非常に優しく甘美なものに感じました。 しかし、私は個の魂の永遠を信じていません。生命は、肉体の死とともにその意識も永遠に失われると信じています。魂の存在は、科学的に証明できないからです。 私の中に矛盾した考えが同時に存在し、混乱しています。私としては、夫と出会ったことで愛を知り、夫との生活がこの上なく豊かで素晴らしいものであったがゆえに、また別の男性を愛して、共に生きたいという思いがあります。そのために、夫との人生には区切りをつけ、新たな独り身の人生をスタートさせたいと思っています。 しかし、夫は目に見えないだけで寄り添ってくれているのではないか、もう一生分の愛情をもらっているから、私は独りで生きられるのではないか。夫に対して、次のパートナーを探すのは不義理ではないか、最期の時に後悔するのではないか、という思いも湧いてきて、新しい出会いに躊躇してしまっています。 今後幸せに生きるには、夫の死をどのようにとらえていけばよいか、助言をいただきたいです。
今はまだ、世界規模で見れば幸福な環境の中に居ることがわかります。しかし、いつかは死ななければならないし、死んだ後はどんな残酷な世界に産まれるかもわかりません。この世界で起こっているあらゆる残酷なことが、いつかどこかの自分が体験する可能性がある。それが恐ろしくてたまりません。 この人生は、これから繰り返す過酷な自我の前の休憩地点でしかない、と最近感じるようになりました。自我を作っているのは脳味噌と感覚器官なのですから、自分が死んだ後はまた別の生き物の感覚器官が「自分」になってしまいます。だから、できるならばこの命が終わった後はもう存在していたくない、もう二度と物質的世界に生まれたくありません。 けれど、この「生まれたくない」「存在していたくない」「他者から加害されたくない」「とにかく自分の安全がほしい、安心したい」といった煩悩が強い中で成仏などできるのでしょうか。南無阿弥陀仏と唱えればお浄土に導かれるとも言われていますが、信じるのが難しいです。物質的世界とは違った世界があるという確固たる証拠があれば安心して生きられるのですが、そうではないから毎日を不安と絶望の中で過ごしています。 科学によって生き物の在り方が判明し、政治によって私達の未来はどうしたって暗いことが判明してしまいました。故に死を意識するようになり、死んだ後の残酷さに気づいてしまい、繰り返される死へと至る苦痛に怯えるようになりました。これは「死にたかった」私への罰なのでしょうか。 物質的世界の残酷さが強すぎて、精神的世界の温かさや理想論を信じられなくなっています。人間も動物なのですから、自分を守るためならどんな残酷なことだってします。こんな世界なのに、どうすれば「死んだ後は極楽浄土に導かれる」と信じることができるでしょうか。希望を持つことも何かをすることも怖いです。何をしようとしても、「途中で自分の人生が終わらされる」と感じてしまいます。家畜や戦争地帯に生まれる覚悟、できていますか? 私にはできる気がしないのですが、今の世界の仕組みを変えることもできないと諦めている時点で、この世界の残酷さに加担しているという罪を背負っています。いつかは世界のために自分を犠牲にしなければならない時がくるのでしょうか。 この世界の残酷さからは逃れられないという事実に狂いそうになります。どうしたってたどり着く先は絶望。
死んで無になるのが怖いです。 輪廻転生があったとしてもそれは今の私ではないし、いつかこの宇宙は収縮して無くなると言われているので転生先も無くなります。 全部が無くなってしまって私のこの意識も無くなると思うとゾッとします。夜毎気が狂いそうです。
いつもありがとうございます。 介護が辛いです。 母が膵臓がん末期です。 トイレも食事も自立しており、身体的な介護はまだあまり発生していませんが、自分の時間も取れないなかでいつまで続くのだろう?と思ってしまいます。母がしだいに弱っていくのを見ているのも辛いです。いっそ早く終わらないかなと思ってしまいます。母は自宅での看取りを希望していますが正直入院してほしいです。しかし入院したらもうほとんどあえないだろうこと、入院費がかかることから自宅にいてもらうのが現実的だと思われます。しかしもう本当に母と家にいるのが辛くて仕方がありません。どのように心構えをすればいいでしょうか。
先日父方の叔母から連絡を受け、母との離婚から10年近く連絡を取っていなかった父の死を知りました。 仕事をしていたわけではなかったようで、叔母が家に確認しに行った時には死後数ヶ月経ってしまっていました。 一緒に暮らしていた猫も亡くなってしまっていました。 父が母と離婚してから数年は連絡を取りたまに会ったりしていたのですが、私の誕生日に連絡をくれなくなってから「娘の誕生日も連絡をくれないなんて」と思い、疎遠になりました。 それから成人式を迎え、地元を離れて就職、結婚をしましたが一度も連絡をしませんでした。 連絡しようと思ったこともありましたが、無視されたり拒絶されるのが怖くてできませんでした。 葬儀も行わず火葬のみでしたが、その当日も、数日経った今でも後悔と悲しみで涙が止まりません。 死後数ヶ月経っていたこともあり、最後の顔すら見ることが出来ませんでした。 「結婚したことすら連絡しないで親不孝な娘でごめん」 「私がもっとちゃんと連絡を取っていれば何ヶ月も一人にせずもっと早く見つけてあげられたのに」 「父が亡くなったあと、猫はどんな気持ちだったろう」 そんなことをずっと考えてしまいます。 叔母や叔父には「◯◯ちゃんが来てくれて喜んでると思う」と言われましたが、こんな親不孝だった自分を愛してくれていただろうかと思います。 疎遠になってから、お酒好きの父への愛情はほとんどないように思っていましたがいざ亡くなってからこんなに悲しいのは心の底では愛していたからだと思います。 時間が解決してくれること、どんなに後悔しても事実は変わらないことは分かっていますが、乗り越えるための言葉がいただけたらと思い投稿します。
つい先日、持病により大好きな祖父が孤独死しました。 お通夜で久しぶりに見た祖父の顔は痩せこけており、足が悪くなったせいで病院や買い物にも行けていなかったそうです。 葬儀では棺に今までの感謝と謝罪を書いた手紙と、家族の写真を入れました。 今更になってもっと連絡すればよかったという後悔や申し訳なさ、寂しさで心が潰れそうです。 祖父を思い出すと涙が止まらなくなり、その度に遺骨に向かって謝ってしまいます。 質問 ①副葬品について 手紙は読んでくれているでしょうか。 写真の中の私も共に火葬されることで、私の魂のほんの一部でも一緒に祖父といられるのでしょうか。 ②食欲について 痩せ細って亡くなった祖父を思うと自分だけ食事をするのが申し訳なく、食欲が出ず食べても美味しいと思えません。 どうすれば悲しみを克服できるでしょうか。 ③祖父の気持ちについて 会いに行けなかったことや電話出来なかったことについて怒っているでしょうか。 もし怒っているならば赦してもらう方法を教えていただきたいです。 ④合う方法について また祖父に会いたいです。 どうすれば会えるのでしょうか。
キリスト教では、人は禁断の果実を食べた罰でエデンの園から追い出され荒野をさまよって労働して生きるようになった。そして死んだら、神の国で永遠の安寧を得ることになるという。仏教ではなぜかこの世は穢土、娑婆世界、苦しみに耐えないと生きていけない場所だという。浄土宗では亡くなる時は冥途ではなく、極楽浄土からお迎えがくるという。ならば、希死願望は否定できないと思いますが、希死願望は否定できますか?人の死は神仏の判断によると思っています。自殺は神仏に逆らうことで、地獄に落ちると思うので私はしませんが。
私は糖尿病なのでダイエットして体重を落とさないといけないのですが、ついお菓子などを食べてしまい、ダイエットを続けられません。 どうすればダイエットを続ける強い意志を保ち続けられますか?