何年も前に、誤解と不運の連続が次々と重なり、私にはこれしか無いと言う仕事を失いました。更にマイホームも失いました。 いまだに毎日、あの時ああしていなかったら……こうしていたら……と当時の事を後悔して苦しんでいます。 過去はどうにもならないから忘れて前を向けという話を何度聞いても、身に起こったことが大きすぎて忘れることができません。 また家族全員道連れで苦しませることになったのに今は本来自分が支えなければならない家族(妻子)に朝昼晩現実逃避して寝たきり同然の自分がただただ迷惑をかけ支えられています。本当に申し訳なく心苦しいかぎりです。 以上の様に、 毎日後悔後悔ただ後悔で苦しいばかりなのに生きていく意味とは何でしょうか?
世の中には公平も平等もなく、基本的に理不尽だとわかっていますが、どうしても自分を苦しめてきた人々を憎み、天罰が下ればいいと思っています。 「適者生存」という言葉があるように、このまま憎しみから解放されなければ、心身ともに憔悴していき、いずれ淘汰されていくのは自分でしょう。 昔にもいろいろな不遇にあいましたが、当時はどうしても達成したい人生目標があったので、耐え抜いてきました。 しかし、その人生目標を達成した今は、生き甲斐がなくなりました。 もう成し遂げたいことがありません。 扶養家族いません。 夢中になれる異性や趣味もありません。 今すぐ死にたいわけではありませんが、生きているのもつらいです。
死にたいとまでは思いませんが、生きていたいとも思えません。 長年不妊治療をしてきましたが授からず、今後は夫婦2人で残りの人生を生きることにしました。幸いにも夫は優しく、結婚してからも彼の怒鳴り声は聞いたことがありません。ただ、これから私自身が生きていくことに疑問があります。 フルタイムで働いており会社も少しずつ賃金UPをしてくれていますが、度重なる物価や税金の上昇でささやかな生活が精一杯、お小遣いはあまりありません。 洋服や下着一枚買い足すのにも躊躇し、たまの週末に外出先でお店で美味しいドリンクを飲むなども躊躇してしまうようになりました。主人も私も精一杯働いていますが、2人とも沢山貰っているとまではいきません。我儘かもしれませんが、生きていけないほどではないけれど「旅行に行く」とか「オシャレを楽しむ」とか、前向きに働き生きていくためのことに躊躇しなければならない生活に、生きる意味を見出せなくなりました。 自分の子供もなく、私達が支払っている税金は将来の子供のためと思うこともできず、子育て中の家庭のように支援給付金が出ることもなく。生きて働いて税金を納める。生きるためだけに働いている気がして、只々苦しいです。 私の年齢では将来年金で余裕ある余生を送れるとも思わず、将来にも希望が持てず、今も楽しみにお金を使う余裕はありません。 なんなら私は主人より収入も低く、今は物価も高いので自分1人の収入では生きていける気がしません。主人に支えられており、私がいなければ主人はもっとお金を自由に使えるのでは?私はいらないし無価値ではないかと思ってしまいます。 私は何のために生きれば良いのでしょうか?
私は、極めて粗暴な父と、病弱な母のもとで育ちました。父は十数年前に亡くなり、母も介護の末、先年他界いたしました。 結婚歴も子どももパートナーもおりません。仕事では大きな成果を上げ、自分が生活するくらいの経済的な余裕もございますが、今は人生の目標を見失っております。 母を見送り、両親の遺品を整理する中で、父の苦労や、両親が家族を守ってくれた偉大さを知りました。その一方で、自分の至らなさに幻滅しております。 「大切に育てられていたのだな」「私の未来を楽しみにしてくれていたのだな」「過去に大病をしたとき、両親はどれほど悲しんだことだろう」などと、さまざまな思いが去来いたします。 母は私が生まれる前に盲目となりましたので、そんな母の気持ちを察すると心が苦しいです。 母との最期の時、意識が朦朧とする母に向かって、私は「元気になったらまた旅行へ行こうね」と声をかけました。母は奇跡的に頷いてくれましたが、今もなお、本当は感謝の言葉を伝えるべきだったのではないかと悩み続けております。感謝を告げることは、「もう助からない」という宣告のように思えて、どうしても言えませんでした。あの場面での私の選択は、大きな過ちだったのでしょうか。 今、その後悔と喪失感、そして両親の期待への重圧に押しつぶされそうになっております。 このような私が、これからどのように自分と向き合い、生きていけばよいのか、ご教示いただければ幸いです。
現在27歳、死んだ後のことを考えることが増えました。 理由としてはいくつかあります。 ひとつめは、自分が鬱病のような状態になり、死を考えたこと。 ふたつめは、結婚してすぐ義母に終身保険の契約や自分のお墓を考えるよう言われたこと。 みっつめは、結婚式の仕事に携わろうとしたところ葬式の勉強もすることになり、人の死のエピソードや葬式について知る時間が増えたことです。 遺言書の準備はもう既にし始めています。お墓も資料請求しました。自分の葬式のこともどの程度やるのか考え始めています。また遺される人についても考えています。 早すぎるとは思いながらも、大事なことだという意識もあり、やめられません。 この年齢で死を考えるのはやはりおかしいでしょうか。どうしたら前向きに生きることを最優先に考えられるでしょうか。
いずれ訪れる死が怖いです。 人はいつか皆、必ずこの世界とのお別れが来ます。 人間も生き物である以上、生まれて生きていつかは死んでゆく。 そのサイクルは理解しています。 でも、そのいつか訪れる死が怖いのです。 物心ついた時からです。 ー死んだら人はどうなってしまうの?死んだらまた生まれて来れるの?ー そんな風に考えしまったら恐怖で息が苦しく、目の前が真っ暗になりパニックを起こしてしまいます。 死にたくない。怖い。嫌だ。そんな感情を抑えきれなくなってしまいます。 生き続ける事の方が怖いという話もよく聞きます。 永遠がないからこそ、時間が有限だからこそ、生きる事に意味があると。 生きる事も死ぬ事も人間の儚さであると。 そんなのは綺麗事なのではないかと思ってしまいます。 ふとした瞬間に思うんです。 今、こうして生きていてもいずれは全てなくなってしまうんだよなぁと。 どんなに嫌で怖くても、決まっている運命には抗えない。 子供が2人居ますが、この子達がおじいちゃんおばあちゃんになる頃にはこの世界に自分は居ないと思うと不思議な感覚になります。 時の流れに逆らう事は出来ません。 じゃあ、人は何の為に生まれて、何の為に生きて、何の為に死んでゆくのか。 いずれ死んでしまうのに自分は何故、この世界に生まれてきたのか。 考えれば考えるほど、「逃げられない恐怖」の底へと引きずり込まれてしまいます。 何故、せっかく生まれてきたのに死ななければならないのですか。 助けてください。 逃げられない恐怖と向き合っていく方法はあるのでしょうか。
初めまして。自殺を考えて明日から生き続ける事が苦痛なので、質問させて下さい。私は30代で、弟が10代の時からギャンブル依存症により、借金を繰り返して酷くなっています。母が借金の肩代わりをしてきたので、助けて貰えると思っているから責任感がありません。恐らく、発達障害があります。母は祖母のいる実家に逃げました。私はずっと実家に住んでいますが、人格のおかしい弟とは絶縁する事に決めました。貯金が貯まったら、引越しをして一切連絡を取らずに逃げます。父は家族の問題に無関心で、このまま家族はバラバラになっていきます。幼い頃から両親は不仲でした。いつか結婚して良家に嫁いだら、家族の悩みは消えると思っていた時期もありましたが、幸せな家族と私は縁がない人生です。 嫌いな家族と離れても、一人で暮らし始めたら、寂しくて自殺を実行してしまいそうです。この社会で生き続けていく自信がありません。家族という心のより所がない人間は、生きていく事に執着出来ません。自殺したら、成仏出来ずに彷徨うことになるのは怖いので出来ないです...寂しい、家族と深い愛情で絆が深い人が羨ましいです。家族にこだわる私は変でしょうか。 仕事に行くと、何度もうつ病になり、自殺を考える人生でしたが、5年前に真言宗の僧侶に救われました。寿命が来るまで菩薩行に励み、即身成仏を目標にして、最期に高野山でお大師様にお会いしてから、人生を終えたいと考えています。しかし、この先何十年も孤独を抱えて生きていくのは嫌です。家族に恵まれなかった孤独な人間は、何を心のより所にして生きていけば良いのでしょうか?
浄土に往きたい。そんな想いが、行ったり来たりの毎日です。 「あなたにとって、失敗とは」 職場でペアを組み、一分間にまとめて話す定期的な機会があります。お題後に、考える時間は1分半で昨日の私の内容は、以下の通りでした。 - - - - - - - - - - - - 私にとって、失敗とは…日常茶飯事です。どんなに気をつけたつもりで、今度は失敗しないように…と心掛けても、失敗を繰り返してしまう。反省して、また失敗して…それが、私です。 その時謝って、許してくださる方もいれば、許されない方もいる。あまりにも失敗が直らないので、もういつ浄土に行ってもいい、そんな思いになることもある。そんな私を、阿弥陀さまは救ってくださる。助けてくれる人もいる。だから、その周りからのご縁を信じて、感謝とともに今日一日を精一杯生きる。助けてくださる人を、尊敬する。本当に生かされていることに、感謝。 - - - - - - - - - - - - 隣にいた私の煩悩の方から、「素晴らしい」という声が聞こえました。 日頃の仕事ぶりを件の方に評価いただいた時、「もう往きたい」「身の振り方を考える」とこぼれました。 燃え尽きの自覚もあり、専門家にも相談済で「休職の必要なし」ただ、話せば話すほど、先方は寂しげな表情で… 「頑張って!」という声も、あったのを覚えています。応援ですので…熱いエールを送ってくれている、そう受けとめています。 多分、周りにも即、打ち明けられたことと思います。雰囲気が変わりました。 昨日は、あるお話のとき呼び出しを受け 「無理しないで」 「ごめんなさい」 でした。 厳しく温かく、連携してフォローいただいているし、そんなにすぐには変わらないことが、少しずつ変わっていることもわかります。みんな、精一杯です。 職場には、たまたま前職で専門的な相談職のキャリアがあり、ご自身もメンタル経験者である見習いの方がいます。 大切な家族のための相談が、なかなか進まないことについて、お互いに本当に繁忙で時間が合わないこと、そして葬儀費用は私の全負担に加え、大学もこれから…それらの事情を察して先方も話を進めづらいのでは…と、面倒を嫌うご性格のお荷物になってしまうのも心苦しいところです。 お互いに多忙な一日で、過ぎゆく時の中に何と申し出たら良いのか、先に貯まるまで待つのが吉か、答えが出ません
毒親に搾取される いじめを受ける 職場で成績が出せなくて毎日毎回お説教をされる これらは、全てされる側が悪いのでしょうか? 親からすれば「子供は私の分身だから言う事聞くのは当たり前」 いじめっ子からすれば「お前が悪い、性格が悪い」など 職場の上司からすれば「成績を上げない、俺の言う事を聞かない、やる事やらないのは給料泥棒と一緒だから怒られるのは当たり前」 自分が悪いから、一生懸命親の機嫌を損ねないよう振る舞い、いじめられないよう周りと距離を置き、怒られないように成績上がるように言う事を聞いてきました。 それでもまだ親から搾取され、職場で怒られるのは私が、される側にまだ悪い所があるからでしょうか? 朝から晩までずっと頑張っているつもりですが、頭も心ももういっぱいでどうしたらいいのか分かりません。 どうか御教示頂けたらと思います。
以前「元交際相手が亡くなりました」というタイトルでご相談しました。どうしたらよいかわからない、気持ちが落ち着かない自分に教えを授けてくださり、本当にありがとうございました。 正直、いまも心が休まることはありません。2人で話し合いお別れをした結果、相手が旅立ってしまい…日々様々な思考が巡ります。長い長い時間が必要なんだと思います。 心残りは、自分の言葉で相手を思うことができなかったことです。今更ではありますが、相談機関の助言をいただきながら言葉を選んだので、本来の自分の言葉ではありませんでした。もう少し言葉を選んでいたら別の結果があったのではと思ってしまいます。今さら気づいてしまい、後悔の念でいっぱいいっぱいです。ごめんなさい。 そしてその言葉を受けて、相手の方はどういう気持ちで旅立ったのでしょうか。亡くなることで報われることはあったでしょうか。相手の方はなぜ死を望んだのでしょう。最期は苦しくなかったか、いまはどうしているか、安らかであることを祈るばかりです。 自分はどれだけ傷ついてもいい。 相手の方がもう何にも傷つかず、健やかであってほしいです。
迎えた生みの母の月命日、年に一度の大会議があり、私のチームの発表の結びは『お母さんは、喜んでくれるだろうか?』でした。寺の本堂で、夕食のあとに銘々が話す機会をいただき、皆さまにありのままを伝えました。 ・母のとき、導師を務めさせていただいたこと ・様々な障壁、思い通りにいかない苦しみを経て生きてきた両親が、それでも私たち姉妹を育て上げてくれたことへの感謝 ・責任を持って、お墓をたのみまいる意 ・日々のこと 「皆の生活がかかっているから」と懸命な、母のように慕うその人は私の話の途中で、両手で顔を覆い涙を… 家族のような絆で結ばれた、父のように慕うお坊さんは、会の後に廊下ですれ違うとき「茗荷さんのお父さんになろう」と、誓ってくださいました。 その日の朝勤行は、地元の子どもたちも参列、開始早々ぐずってしまった幼子に、辛抱強くお経を読むお母様、幼子が自分で作ったお念珠を手にした時、私は通路を開けるために元の席に戻りました。程なく椅子を乗り越えて、幼子はこちらに来ました。 お母さまは勤行の間、怒りませんでした。若坊守は、実のお子さん達によれば「厳しいお母さん」で心底、親子のかかわりを目の前に、苛立ちがあるのではと余計な心配をしましたが、幼子がふと若坊守を見た時、最高の笑顔でずっと包み込んでいました。 自分の和讃の声は、涙とともに震えつまりました。後ほど若坊守は「わかりますよ。」と、笑顔で燦々と頷いてくれました。 今思えば一部始終、襖一枚の向こうで、黙って大坊守は、お聞きになっていたのかもしれません。 数か月前、営繕の同僚は、若坊守に「大坊守が非常に厳しい御方だった、だから、厳しいことを言うけれども…」と営繕の同僚をきつく叱った折に強く念を押したそうです。 初めてお会いした大坊守は、司会から紹介をうけ「初めてお目にかかる人も多いのですが…前坊守の…」と深々と、ゆっくりとお辞儀をされました。 住職の涙も、悔しさも、海外へ逃げようと迷った苦労も皆一心に聞きました。前坊守が話す間「お母さん、ちょっと話していいですか」と住職が話始め「いま、この子は、焦っています」と皆に微笑み「人の話は最後まで、聞きなさい。あなたの選ぶ道が、どれだけ厳しいか…本当に」と諭されました。 これからも、法を聞きてよく忘れず、精進させていただきます。 どうか私の母と、母に…何卒ご法話をお願いします。
人間として生きる自信をなくしています。 仕事でも同じようなミスをして、なぜできなかったのか自責の念がとまりません。 愛されたことも必要とされたこともなく、存在価値もないです。家でもただの穀潰しでしかありません。 もう早く死んでしまいたいです。迷惑かけるのも終わりにしたいです。
物事で後先考えずに行動したり、勢いで無理に何度も頑張る事があって、後から自分のやりたい事ではなかったと反省ばかりしています。 自分のやった事がトラウマになった事もあります。 落ちついてこれからは後悔せずに自分のやりたい事をやって行動するにはどうしたらいいのでしょうか。
よろしくお願いします。 ふざけているように見えるかもしれないですが、真剣な質問です。 コンピュータAIが自分は何故存在しているのか?(生きているのか?)と聞いてきたとして、人間の立場としてどう答えますか? 他者の幸せに貢献する素晴らしさを説くのか、意味なんて何もなく人間の都合の良い道具や実験台として生まれたと伝えるか、あるいは全く異なるそれ以外の回答、こちらからは何も答えない等…。 あまりこういうことをこの場で言わない方が良いのかもしれないですが、私には神様(仏様)と人間の関係が、人間とコンピュータAIの関係に非常に似ているなと思うんです。 主語を置き換えるだけでこれは何故こうなのか?というのが色々と腑に落ちて"しまう"んです。全て想像で何も根拠はないんですけどね。 私がスピリチュアル等こういう世界を探求しているのは、初めは非日常を味わいたいとか怖いもの見たさとか軽い気持ちでした。 でもある時自分なんてないってことに気付いてしまったんです。 それからは何もない空っぽなりに生きる意味を見出したくて、神様や世界という絶対的なものに一泡吹かせるとか抗いたくて、第三の道を探しにこの世界を探求していたんです。 でも今日の降ってきた閃き等、新しいことを思い付く度に自分が空っぽであること、そこから意味を見出すことが価値があるようで何もないということをより突きつけられているようで、どうしようもなく悔しくてこのような質問をしました。 少し飛躍し過ぎたことを言いますが、この質問を言い換えるなら、「目に見えるものを始め、感じるもの何一つとして現実というものは存在しないとしたら、何を思い生きますか?」というものです。 こうして見ると意味さえ見出そうとしなければ、案外辛いものでもないのかな?と思えそうではありますが、だからと言って簡単に諦めたくないのが今の私です(苦笑)。 お力添えしていただけると幸いです。
大切な子どもが自死しました 自閉症と性違和があり、登校もままならず 精神科にかかっていました まさか自死するとは思わず苦悩の日々です 子どもが死を迎えるとき、 ご先祖さまや阿弥陀さまは 止めずに どんな顔で、それを見届けてたのでしょう パワハラ夫のもと、子どもの将来のために耐えてきました 夫の顔色を伺いながら生活してました しかし、子どもが亡くなって夫は やり直そうと言ってきました 心の喪失感から受け入れましたが 夫と共にいることが苦痛でしかありません 夫が家族に与えた傷をご先祖さまは、ちゃんと見ていたなら、子どもではなく夫をあの世に送るべきではなかったでしょうか 夫が仏さまやご先祖さまから、守られているようで納得がいきません 本人に自覚や反省がないのが悔しいです
幼少期はそんなに思わなかったのですが、最近になって、本当に人と面と向かって話すのが嫌になってきました。相手に見せる安心感のある顔、傷つけないための言葉遣い、会話のやりとりなど気をつけることだらけでなんだか嫌になりました。そんなに相手に好かれてもいいことがないのに、なぜこんなにも表向きの愛想を取り繕って辛くなってしまうのか分かりません。 最近では、宅配も居留守を使ってしまったり、わざと出前を頼んで人と会わない方法で生活してしまいます。こんな私は人間ではないのでしょうか。私には世の中がやることが多いわりに報われないことばかりの世界に見えてなりせん。
死にたいと考えることは極端な発想だとよく聞きますが、生きようと思うことが極端ではないと言い切れる根拠はどこにあるのですか?
家族が病気になり 病院の先生に 早く見つかったので 完治できます。 と言われ ほっとしたのに悪化。 検査の結果、又治療次第で 完治できます。と言われ喜んでいたら 又良くない結果になりと…家族も私も心が疲れ果てました。ご神仏はなぜこのように希望を持たせては突き落としの繰り返しをなさるのでしょうか? これは試練でしょうか? よろしくお願い致します。
生きていてしたい事が無いし、それほど楽しい事も無い 家族や友人も何人も亡くなっているのに生きる事に執着している自分が浅ましくて醜い気がします 生きている事に価値を感じないし、どうせ死ぬのに何故生きることに執着してしまうのでしょうか 楽しい事があってもすぐに飽きてしまうから虚しいです 死にたい訳ではありません むしろ生きていたい理由がないのに死にたくないから苦しんでいます なかなか話を聞いてくれてくれる人がいないので質問というより 愚痴を書きに来たみたいになってしまってすみません
生きるのに理由は必要なのでしょうか。 理由に限らず、意味だったり、価値だったりも。 私はそれらが必要だとは思えないのです。 そんなものは人の勝手な尺度だと思うから。 理由にしろ、意味にしろ、価値にしろ、それは人が人それぞれの在りたい形、あるいは在りたかった形のために、後から勝手に作り出すものでしかないと思うから。 だから在るがままでいいと思う自分には必要が無いと思うのです。例え傍から見た私の有り様が不幸だろうと幸福だろうと。 だって、理由が無くとも呼吸はできるし、意味が無くても血は巡る。価値が無くても私は世界に在って、今こうして生きているのだからそれでイイじゃないかと。 でも他者はよくよく私に理由を付けたがるし意味を見出したがる、あるいは価値を付けたがる。 「理由が無いはずがない。意味が無いはずがない。価値が無いはずがない。必ず何処かに何かある。」と。 それが私には分からないのです。 理由の無い、意味の無い、価値の無い人生は、人生と称されるに値しないのでしょうか。