好きであるとは、心に懸けるとは
失礼致します。先日はご教示ありがとうございました。
このたびはご質問をさせていただきたく存じます。
生活していると、ある物や趣味、またある人間に対して「好きである(好きになる)」という表現が用いられることが多々あります。
この「好き」という言葉につきまして、自身の中で不安定な部分があり、お伺いする次第です。
自身にも少ないながら趣味があります。ただ最近、その「好き」が趣味そのものではなく「趣味を嗜んでいる自身」に向かっていることに嫌悪感・罪悪感や不安を抱かずにいられません。
自らの存在価値がないと感じられた折、「趣味を嗜んでいる自身」にすがって心を保った経験があり(自死などを選ぶよりは遥かにマシである、といった風に)、そのような場合にはある程度有益な見方では、とも考えられました。
ですが、精神的に最悪の状況から少しなりとも抜け出してなお、その見方がなされてしまうのは、いかがなものでしょうか。趣味に対する冒涜のように感じられる部分が拭いきれません。職業でこそないにしても、自身にその道を歩む資格があるのかと疑われ、真に心を入れて取り組んでいる方々を思うにも不甲斐なさが付いて回ります。
人を好きになることについても似たように考える節の無いこともありません。
正常な形とは言えない執心を断ち切らんと、なぜ自身がその人に執着しているのかを自問したところ、その理由は一つではなく、過ちを謝罪したいと思っていたことなどいくつか考えられました。その中にはやはり「彼女を好きである自身」に拘っていた部分も見出され、これは単なる自惚れではないかと気づいた次第です。
純粋にその物事や人を「好きである」と言い、心に懸けるとは、少なくとも現在の自身にはたいそう難しいことのように感じられます。
ただ、趣味・人のいずれにしても、関わっている自身を心のうちで称揚することは、一方では対象への敬意・感謝であるとも解釈できるのではないでしょうか。それがあってこそ、その人がいてこそ自らの心身が救われたという具合です。
「好きである」ということはどうあるべきか、そもそも「どうあるべきか」という基準を意識する必要はあるのか。
ご意見をお伺いしたく存じます。よろしくお願い致します。
長文失礼致しました。
ご高閲ありがとうございました。
有り難し 13
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