こんにちは。いつもありがたいお話をしていただきありがとうございます。 お聞きしたいのですが、時々自分の心を見つめても何が原因なのかよくわからない時があります。そういう時はどうすればいいのでしょうか。 今執着しているな、これは慢心だな、などとラベリングすることで心が軽くなることもあれば、心を見つめてもよく見えずずっと何かに囚われている感覚がすることもあります。 うまく言葉にできず分かりにくくなってしまい申し訳ありません。 しかしそういう時はそういうものだと受け入れるしかないのでしょうか。
当方無宗教です。無勉強をお許しください。 悩みがある時に参拝させて頂く神社が、 霧島六社権現の一つである神社です。 心が穏やかになり 手を合わせるときには 感謝の気持ちをお伝えしています。 神社には、霧島六社権現を整備された 天台宗の性空上人さまの像があり 見守って頂いているような 気持ちになります。 煩悩ばかり、過去の過ちもありますが こんな私でも 信仰心をもって 天台宗について 知識を深めたいと思っています。 何から始めるべきなのでしょうか?
三界から想受滅を経て解脱する際に、五蘊の中の色薀は無色界で消え、想薀・受薀は想受滅で消えますが、残りの行薀と識薀はどうなるのでしょうか? また今後新たに解脱する人が現れることはあるのでしょうか?
いつもお世話になっております。 先日、認知症の人に絡まれました。 無視して距離を取ったら、今度は 私のそばにいた少年に絡んでいま した。 その人は私の事を指さして何やら 捲し立てていて、少年は困り果てて いたので 「お兄ちゃん、その人無視しな!」 と伝えて逃がしました。 そこでふと考えたことが あります。 「知的障害の人が性犯罪 (邪婬)をした」 「認知症の老人が、同じ病室 の人を殺害した」 などの痛ましいニュースが 流れてきます。 先述したほか、 知的障害の方から怖い事を されたことがありますし、 私自身も、「悪い障害者と 同一視されたくない!」と 思うあまり、精神病院の最寄り 駅で患者とみられる人を捕まえ 暴言(悪口=あっく)を吐いて しまったことがあります。 彼らは、現世の司法の下では 「心神喪失者」と呼ばれ、 刑務所ではなく、刑務所とは 別の、専門の矯正施設へ送られ ます。 しかし、死後はどうなるの でしょうか? 仏様はどう見ている のでしょうか? 心神喪失とは、いわば 「やっていい事悪い事が 生まれつき(同然に)わから ない」 状態です。 彼ら彼女らは画一的に「殺生を したから」と地獄に堕ちて しまうのでしょうか。 それとも、阿弥陀様などの 仏様が迎えに来て、懺悔と 修行、つまり、やり直しの 機会を与えてくれるの でしょうか?
不空大可畏明王観世音菩薩様までは知っているのですが、調べても一部のみで詳しい内容が出てきません。仏教から名を消された方なのでしょうか? 陰陽道と関わりあると聞いていますが本当のことはよくわかりません。
仏道を真に体現している方にお会いしてみたいのですが、どうすればお会い出来るでしょうか? 座禅会などには行っているのですが、これはと思うほどの方には出会えていません。 僕の観る目がないのかもしれません。そもそも、何をもって正師かどうか判断すれば良いのかもわからないです。 アドバイスいただけたら、ありがたいです。 よろしくお願いいたします。
最近になり、死について深く考え始め、このままだと自分は無間地獄に落ちる身だと気づきました。それからというもの、生きるのが辛くなってしまい、座るのが辛くなってしまったり、ご飯を戻してしまったり、過去のトラウマの幻聴がずっと聞こえてきて泣くのをやめれなかったり、体調が悪くて学校に遅れて行く事が増えてしまいました。このままじゃ行けないとは本当に分かっています。死後が怖いからって今生きるのを諦めていけないのもわかっています。でも、浄土真宗に出会い、阿弥陀如来様の事を知れました。でもやはり疑蓋が外れません。どうしても疑ってしまうのです。阿弥陀如来様の救いはすぐ側にあるはずなのに、完全に信じることが出来ません。余計にがんじがらめになってしまいました。今ここで死んだら無間地獄に行くんだと思うと余計に焦ってしまう自分がいます。もう自分には無理なのかもしれないと思ってしまいます。もし皆様から疑蓋についてや浄土真宗の心構えなどあれば教えていただけると幸いです。
地蔵菩薩さまのお姿を紙に判子で押し水に流す印仏作法(地蔵流し)の記事を見つけたのですが、他の仏様(例え聖観音様等)で行っても良いのでしょうか? また、印仏作法を学べる書籍やお寺があればご教授下さい。 宜しくお願い致します。
お世話になります。物騒な タイトルで申し訳ありません。 今、お寺に行くため電車で 移動中です。 席に座っていたら、向かいに 座っていた精神もしくは知的 の障害の男が、私の隣の席が 空いた途端、座ってきました。 怖かったので移動しました。 移動した先の席で、隣の席の 旦那様が 「ははは、大丈夫かい?」 と声をかけてくれました。 私は 「驚いてしまって。申し訳 ありません」 と答えました。 そこでふと疑問に思ったのが、 (仏様や天女様は、あらゆる 暴力を受けた際、どのように 対処するか?) という事です。 ここでは特に、性の暴力に 対して思います。 私は実際、お寺で出会った人 から性暴力を振るわれたことが あります。そのときは、警察 さんの力を借りて解決しました。 たとえば仏様や天女様が、 電車の中で痴漢被害に遭ったら? 路上で付きまとわれたら? 突然暴漢に襲われて、レイプ されたら? どうするのでしょうか? 毅然とした態度で相手を悔い改め させるか、甘んじて受け入れるか。 私は、戒を授かった身として、 どのように振る舞えばいいの でしょうか? 実質、仏になることが約束 されているようなものですから。 それに私には不動明王という 想い人がいます。やすやすと 彼らを受け入れるわけには いきません。
僧侶の方に質問です。僧侶の方の多くは家がお寺でそのまま継いだという人が多いと思いますが、ぶっちゃけ家がお寺じゃ無かったら僧侶になってましたか?目指してましたか?僕が小学校の頃家がお寺の友達いましたが家がお寺じゃ無かったら僧侶にすらなってなかったと言ってました
現世利益を求めることは卑しい事でしょうか 特に浄土真宗では
おはようございます。お坊様に質問があります。 観音様とお地蔵様の写仏を行う時に、食材の感謝として、願意に鳥獣魚介類昆虫類万霊供養と書いているのですが、問題はないでしょうか? 又、農家さん・漁師さん・猟師さんの安全も祈るために願意に彼らの守護祈願も書きたいのですが、失礼はないでしょうか? お時間がある時に、お答え頂けると幸いです。
いつもお世話になっています、以前永代供養について質問させていただきましたが、いまだに永代供養を行なっていません。親の遺骨です。実は家は真言宗らしいのですが、死んだ親は無神論者で全ての宗教の神を信じていませんでした。それは死ぬ時まで変わりませんでした。それで永代供養をお願いしようと考えているのですが、本人は死後の事は何も言っていないのでどうすれば良いのか、悩んでいます。宗派が違うお寺さんに頼んでも故人には影響ないのでしょうか?それともやはり真言宗にした方が良いのでしょうか?また他の宗派に頼むとなると、その宗派の檀家に入るということになるのでしょうか?やり直しがきかない事なので詳しい回答をお願いいたします。
最近、仏教に興味が湧き、手始めに仏教関連で気になった言葉などを調べています。宗派などの考え方の差異にはまだ触れられてません。 仏教関連の言葉を調べている中で度々目にする「涅槃」と「浄土」、どちらも煩悩から解き放たれた悟りの先のように捉えているのですが、その2つにもそれぞれ種類があって意味が違うという話を耳にしてなんだかわからなくなってきました。涅槃と浄土が意味合い的に少し違うことは何となく理解しているのですが...。 涅槃と浄土にはどういった違いがあるのでしょうか?また、浄土に行くことと解脱するのことはイコールで結ばれないのでしょうか?
変わったご相談で申し訳ございません。 昔の禅僧がお書きになった言葉を一緒に読み解いていただけませんか。 古岳宗亘(1565-1548)という禅僧の語録集『生苕稾』を読んでいたところ、ふと心をひかれて気になった文章がありました。 それは、幼くして亡くなった子供の供養を依頼されて肖像に賛を書いた文章だと思うのですが、いかんせん漢文に疎くてどんな言葉が残されているのか、なかなかわかりません。 亡くなった子供を雪山童子になぞらえているのだろうとは思いますが、特に後半の意が掴めません。 大聖国師はどのようなことを説いておられるのか、なぜかこの肖像文がとても気になっております。 何卒お力をお借りできませんでしょうか。 よろしくお願いいたします。 以下原文と書き下し、解釈案です。 小児肖像 熊岡息男 你於二月十三而脱胎、 先雪山童子涅槃者日云二、 你於四月十六而帰寂、 後雪山童子降誕者日云八、 日異月同互換出没、 産此寧馨、老妪何物、 手中雀児、是死是活、 無限丹青肯難描出、 你(なんじ)は二月十三において脱胎し、 先雪山童子涅槃は日二なると云ふ。 你は四月十六において帰寂し、 後雪山童子降誕は日八なると云ふ。 日異なれども月同じくして互換に出没す。 産は此(かく)の寧馨なり。老妪は何物なるか(?)。 手中の雀児、是死せるか是活くるか。 限り無き丹青、肯へて描き出し難し。 あなたは二月十三日にこの世に生まれ、 雪山童子の涅槃は四月二日であるという。 あなたは四月十六日にこの世を去り、 雪山童子の降誕は二月八日であるという。 日付は異なるが月は同じく、生まれた月と亡くなった月が互いに取りかわるようにして、あなたも雪山童子も生まれて亡くなった。 産まれるということはこのようなものである。 老いた女性は何物であるか(?)。 手の中の雀の子は、これは死んでいるのか生きているのか。 限りない絵の具を以ってしても、あなたを描きだすのは難しい。
イスラム教はキリスト教の派生と思われますので、キリスト教に集約して考えます。 キリスト教の原理は「神との契約を破り、禁断の木の実を食べたアダムとイブ」で、原罪としてエデンの園から地球に追放され、以降我々も同じ罪を犯していると懺悔します。 即ち「生」が罪としています。 釈尊の仏教について金剛般若経の初めの箇所に次のような記述があります。 「右のような逆説に満ちた教えを信ずるものがありえようか」という題で 「スプーティよ、そのように『そもそも将来、のちの世、のちの時代--正しい教えが滅びるようなのちの五百年代ーになったとき、これらの経典のことばがこのように説かれたばあい、それを真実だと理解しうるものがだれかいるでしょうか』などと語ってはならない。(後略)」 この中の「正しい教えが滅びるようなのちの五百年代」と語っている部分から想像すると,釈尊の没後500年後には「正しい教え」が滅びているという未来が「天眼明」によって確認されていることになります。 この滅びた「正しい教え」が何であるか確定しなければなりませんが、滅びる原因が多分「自己否定」だと思われますので、「阿含経」ではないかと思います。 即ち「生」が否定されていますので、キリスト教と同じ原理となります。 三大宗教が共に「生」を罪とするならば、社会的には、現在生きている人間はすべて欲深い「悪人」の集まりです。生きる為には大部分の人が動物の殺生を余儀なくされています。食用は勿論、蚊や蠅迄。 また常識とは逆に人口の減少(少子化)が好ましく、同性婚が奨励されるという珍妙な判断となります。
日々、色んな方々と接してきて、阿修羅の様な方とか仏様みたいな優しい方とか、物欲等に執着してる餓鬼のような方とか、いらっしゃるので六道輪廻とは今生きる人達に向けたことなんじゃないかなと思うのですがお坊さん達はどう思いますか❓ (言い方悪かったらすみません。)
1月9日に母親が亡くなり、菩提寺に連絡したのですが、日頃からする事もしないでと怒られ電話を切られた。自分は、お寺に対して日頃から何もせずにいたからだと思いました。そして、叔父とお願いに行ったのでが住職に、物凄い勢いで怒鳴り付けられ断れた。お寺を紹介され、お願いに行き事情を話したら承諾して貰い、無事、通夜葬儀を終える事が出来ました。感謝しています。そのお寺に遺骨を預かって貰っていましたが、ご住職から、菩提寺に預かって貰うようお願いしたらと提案され、お願いに行き何とか預かって貰う事が出来ました。母は、元気な時はお寺に対して色々とやっていたと思います。それなのに、通夜葬儀にも来て貰えない事があるのですか。母親は、可愛いそうです。考えられません。49日法要、納骨も行う予定ですが、葬儀に来ていないお寺を呼ぶよう言われ、結局3人になります。 とにかく、こちらの意見・思い・考えも聞いて貰えず一方的です。毎日、法要・納骨の事を考えると憂鬱で眠れません。辛いです。 また、預かって貰っているので、お参り行く時に必ずお布施(1000円)を持って行きます。通夜葬儀に来て頂いたお寺に、いくらお布施をしたのか聞かれました。まだ、49日・納骨等の打ち合わせはしてないのですが、何を言い出すか分かりません。自分の家には、仏壇がありません。以前、実家にはありましたが、処分してしました。月命日に来ると思いますが、葬儀等にかなり使い仏壇を購入できません。どのようにすればいいでしょうか。 このようなお寺・住職とどのようにつき合えばいいのか教え下さい。お願いします。
旦那が神道、私が仏教徒でお供え物をする際旦那に「日本では神、仏と神が先に来るからお供え物は先に神棚」と言われました。 それって常識なんですか?またお供え物は神棚から降ろした物を仏壇の観音様にお供えしては罰当たりではありませんか?