もし、何か関連するものをご存じであれば教えてください。 まず、現在の私の状況です。 ここ何年かずっと続く感覚があります。それは自分のあらゆる「主体」という感覚が薄れているような感覚です。 自分のあらゆる行動、容姿がさも他人であるかのような感覚になります。 今こうして文章を打っているときも、脳波で動くロボットアームを動かしているみたいです。 飲食は車にガソリンを入れているような感覚だし(味覚はちゃんとあります) 鏡に映る自分を見れば、一瞬「誰だ?」みたいな気分になります。 郵便物の宛名で書かれた自分の名前はたまに誤配送を疑うくらい知らない人の名前に感じます。 などなど、そのように基本的にあらゆる自分の状態を超客観的(?)な視点で見てしまいます。 肉体だけ精神と切り離されたような、逆に言えば私の精神だけが世界から切り離されたようななんとも言えない感覚です。 一部の感覚は他人にも当てはまります。 食事や睡眠をとる他人を見ていると、好きでも嫌いでも気持ち悪いとかそんなものは一切なく「あ、食べてる(寝てる)」と不思議な感覚で、フラットに眺めてしまいます。 思考する自分に対しては「主体」としての意識はあるので、ただ肉体と精神が遠ざかっているようです。 距離としては双方それほど遠ざかっていないと思うので、2重人格とかそういったものにはならないと思います。 そういった状況を受けて、さらに最近変化してきたことがあります。 こういった感覚や状態は、俯瞰しているせいか精神の「凪」みたいな状態を招くことが多くなりました。 怒れば心拍数が上がり頭に血が上る感覚がありますがそれも俯瞰 恥ずかしくなれば顔が赤くなりますがそれも俯瞰 昔よりずっと怒りなどの感情を抑える事ができるようになりました(肉体的反応は制御できませんが) 普段はしばしば瞑想をするくらいですが、特にちゃんとトレーニングを積んだわけではありません。 肉体と精神が離れる。そんな感覚をずっと抱えていただけです。 とにかく自分の中でなぜ、どのようにこうなったのかうまく説明がつかない状況なので、もし「それこういったものでは?」となにか引っかかるもの、ご存じのものがあれば教えていただけないでしょうか? 長くなってしまい恐縮ですが、何卒よろしくお願いいたします。
大学で仏教の授業を受けてから、統合失調症になってしまいました。 私にとっては、とても人間に厳しく、怖い教えに感じました。 仏様は私にとって潜在的に恐怖の対象になってしまいました。 仏様は優しい方ですか?
初めまして。浄土真宗の思想についての質問です。 浄土真宗に「悪人正機」という思想がありますが、これはどんな悪人であっても阿弥陀仏様を信じれば浄土に往生することが出来るという意味なのでしょうか? もしそうなのだとしたら、数百万人を粛清した独裁者や数千億円を騙し取った詐欺師も阿弥陀仏様を信じてさえいれば浄土に往生することが出来るということになりますが、何だか不公平な気がしてなりません。 初歩的な質問ですいません。以前からずっと気になっていたので、この場をお借りして質問させていただきました。よろしくお願いいたします。
前回質問への回答追加で、新規で問答立てを、、とのことでしたので質問送らせて頂きます。(別のお坊様がたも、ご意見やコメントなどありましたら、是非お待ちしております) 経典に書かれているからという根拠で、 「確かなる仏縁や功徳が、過去世、現世のどこかにおいてあったのであれば、その後の輪廻転生の中において、多少の紆余曲折があっても、必ずやその仏縁、功徳による果報により、仏の道を外れずに、善き流れを進められる場合があり得る」ということを信じておられるならば、 同じように、経典に書かれているという理由で、世尊が説示なさったという、その具体的方法も信じて実行なさったら良いのでは?と思ってしまいました。 私はその一切悪趣清浄タントラという経典を読んだことがないので、その具体的方法というのが、どんな内容なのか、実行可能か不可能かも分かりませんが、 たとえば他にも、経典に載っていて実行可能なものでいうと、十一面観音や文殊菩薩など、ご真言を○遍唱えれば悪趣へは行かない、などとされる存在があったり、陀羅尼でも、悪趣を回避できる陀羅尼が載っていたりしますよね。 地獄に落ちてでも他を救ったり慈悲や布施で功徳を積めるかも!というお考えには反対しませんし、凄いなぁ、どうかご武運を・・・!という気持ちで拝見しておりますが。 単純に、回避方法もご存知ならば、回避なさったら良いのでは?と思ってしまいました。 経典Aに載ってある内容aを信じるならば、同じ経典A内の内容bも信じるのが筋通っているのでは?と。
私は家で毎日般若心経を唱えているのですが、休日になると経本に書かれているお経を全てではないですが、唱えるようにしてます。 順番は合唱礼拝→懺悔→三帰→三竟→十善戒→発菩提心→三昧耶戒→開経偈→百字偈→観音経偈→舎利礼文→般若心経→本尊真言(大日如来様、弁財天様、大黒天様)→十三仏真言→光明真言→御宝号→祈願文→回向と唱えています。 仏前勤行次第に百字偈と観音経偈を追加しているのですが、この唱え方はやはり間違ってますか? あとお経を唱える際に心掛けるアドバイス等あれば教えて頂きたいです。 よろしくお願いします。
仏教をもっと知りたくて、ネットを活用していたところ、 hasunohaさんを知りました。 過去のQ&Aを拝見させて頂くと、 実際の僧侶の方々のお答えの方が難しい言葉を並べた活字より、 私には馴染みやすいような気がします。 (以下はプロフィールと重複しますが) 縁あって(しかもまったく別件で2度)、真言宗に関わるようになり 30年近くになります。 その頃は少しずつ、作法等を教わったのですが、 2年ほどで絶縁したため、基本を知らず、現在に至ります。 昨年、不思議なご縁の下で ホントに自分がやりたい事は何か?を 時間を掛けて自分に問い、 やはりご縁のあった仏道を進みたい。 今世に生まれた意味を知りたい。 そして少しでも人様のお役に立つのなら・・・ まずは 読んでるお経の意味を知るべきよね、 仏教用語的な言葉の意味も知るべきよね、 と、ネットで検索三昧。 そうなるとどんどん拡大してしまって、 真言宗ってそもそも・・・ 父方は浄土真宗でお寺さんもすぐ近く。 浄土真宗ってどんな考え方なの? 大日如来、阿弥陀様やお釈迦様って? などいろいろと知りたいことが増えてしまいました。 言葉が適切かはわかりませんが、 効率的な学び方を教えて頂きたくてこの場をお借り致しました。
大学で仏教の授業をとっています。辞書で解脱の意味を引くと煩悩から解き放たれるなどとありこれについては納得なのですが、元々の解脱の目的は輪廻のサイクルから抜け出し仏になることだと学びました。今でいう解脱とは少し違ってさらに超自然的なことのように思えます。 しかし一度死ねば自分が来世何になるかなど知る由もありませんし、認知できるのは現世の記憶だけです。となると、自分がどれだけ輪廻をぐるぐるしていようがそこまで苦に感じないのではないでしょうか。わざわざ輪廻から脱する必要はあるのですか?それとも輪廻から脱したいというよりは、仏になりたい、仏が見ているのと同じ景色が見たいということなのでしょうか。 昔の人たちが解脱を目指したことにはどのような意味があるのか教えていただきたいです。
ほんのう(本能)に濁点を付けた瞬間、「ぼんのう(煩悩)」に変わることについさっき気づきましたが、どうやって、煩悩(執着)を捨てることが出来るでしょうか。 肉体を持っているが故の苦しみは、人生のあらゆる場面で現れやすいので気をつけたいものです。合掌。
私の相談をお読み頂きありがとうございます。 前回、仏壇の参り方もご教授頂き本当にありがとうございます。 その後も変わらず、お世話?お参り?させて頂いていると思っております。 今は色々簡素化されて来ており、私の周りにも、「自分が亡き後は我が子の負担になりたくないから法事等も不要だ」と申す者もおりますが、私自身は代々引き継いでもらえればと思う部分もあります。きっとご先祖様はそんな姿を見て下さっていると信じております。 またまた無知な私の質問ではありますが、仏様とご先祖様の関係性が分からなくなってきました。ご先祖様は仏様とは違うのでしょうか? 先ほども仏壇のお世話は私自身は代々引き継いで欲しいとお申しましたが、純粋なお供養の気持ちだけかと言われれば、正直なところ、お恥ずかしい限りですが見返りを求めている部分があるのかもしれません。私は適齢期を過ぎてもまだ独身であります。私がこのまま独り身で亡き後、甥なり姪なりが、どこかで私を思い出してくれれば…だから今は私のやっていることを見て、「あー、叔母さんあんなことしていたなぁ」と頭の隅にでも置いてもらいたいと思っていたします。 そして… 仏様は私たちの願いを叶えて下さるわけではなく(冷酷とかそのような意味ではないです。)温かいお心で私たちを見守って下さっているのだと今現在私は考えております。では、ご先祖様は? ご先祖様も私たちの傍で見守って下さる存在なのだとは思いますが… 悲劇のヒロインを演じたいわけではありませんし、もっともっと大変な方々がいらっしゃる事も承知ですし、こんなこと序の口だとは思いますが、家庭内で上手く行っていないことが長きに渡ったり、ずっと頑張っている婚活が全戦惨敗中で、自分の力不足を棚に上げて気持ちのはけ口をご先祖様に向けているだけなのかもしれません。 ご先祖様はご先祖様のお役目だったり修業があるのだとは思いますが、私たち子孫が温厚な日々を送れる手助けなり道しるべなりを頂戴したいと思うことは私のエゴであり愚かな事なのでしょうか? もちろん、日々私たちがこうしていられるのはご先祖様あってのことですし、軽んじているわけではなく、感謝はしており、だからこそ毎日仏壇のお世話も続けられています。
こんにちは。初めて質問いたします。 お寺や修行のドキュメンタリーを見ることが多いのですが、その中でよく修行僧の方が「○○をさせていただく」(例えば回峰行であれば、歩かせていただくという風に)という表現をよくされることに気づきました。 こちらの表現には何か元となる仏教の精神や教義はあったりするのでしょうか? 初歩的な質問かもしれませんが、よろしくお願いいたします。
ご住職はお経の後、必ず「せしゅふしょおおー」と言われます。 「施主不詳」の意味なのでしょうが、施主は目の前にいる私だと思いますが 何故でしょうか。これまで何十年もずっと私がお墓、仏壇のお世話をさせていただいています。 その宗派ではこのように言うのでしょうか。それとも何かの社会的差別でも存在するのでしょうか。 お坊様が、施主や、ご先祖様が不安に思うような接し方をしてよいものでしょうか。
1.十三仏真言を唱える時に印は結んだ方がよいのでしょうか? 2.僧侶でもない人間が印を結んでも大丈夫なんですか? 教えてください。
こんばんは。 調べてみてもわからなかったので、こちらで質問させていただきます。 親指と中指をつけ、輪を作るハンドサイン(印相?)に心当たりがある方はいらっしゃいますか。 もし存在するのであれば、そのサインの名前や意味、どの仏像に見られるものなのかお聞きしたいです(名前だけでも大丈夫です!) よろしくお願いいたします。
昔に人のお金や物を盗んだりした事があって今年に入ってから昔の悪い出来事を思い出して今現在でもその盗んだ事が頭から離れなくて自分は、この先や生涯で地獄が存在するなら自分は、さまようのでしょうか?
最近、とても疑問に思うことがあります。お坊さんは何のために信仰をしているのでしょう?例えば、信仰して極楽浄土(宗派によって変わるかもしれませんが)に行くためとか...宗教って、信仰する人は良い事があって、それ以外の人はあまり良くない事が起こるってよくある事だと思います(酷い場合は地獄に行ってしまうとか...ちょっと怖いですね)そう考えると、もし自分が特定の宗教を信仰する目的は、地獄に落ちないためとか、天国に行くためっていうことになってしまうのです。ですが、本職のお坊さんは私のように浅い考えで信仰されているとは思いません。実際、私は何回かここで相談した時もお坊さんは本当に真摯に向き合っていただき、適切なアドバイスを頂いてきたので、それがお坊さん自身のためとは思えないです。改めて質問しますが、お坊さんは何のために信仰をしているのでしょうか?
もしかしたら同じ質問あったかもしれませんが、見つけきれなかったので質問させてください。 現在私達夫婦は20代後半ですが、何気なく自分達が亡くなった時の事を話し合った時があり 葬儀の事やお墓の事など色々疑問が出てきました。 まず私達夫婦の実家はどちらとも南無阿弥陀の仏教ですが、私の両親は嫁ぎ先の宗教や慣しに従いなさいと言っていて、 夫の両親は夫は次男だから家の墓には入れないから好きなようにやれと言われました。 そこで、私達には娘が2人なので跡を継ぐ事は無いと思うし、市の共同墓地と言うのでしょうか…子供達にお墓の手入れなど負担をかけない様なお墓に入りたいと思っています。 ただお葬式を家族葬にしてお坊さんを呼ばないお葬式(できるだけお金のかからない方法)にしようかと話してたのですが、その場合四十九日や、三回忌七回忌等も無くなると思うのですが、魂は成仏されるのでしょうか? そもそも私の勝手なイメージですが、お墓=お寺というイメージがあり、お経を上げないお葬式を行ってもいいのでしょうか? 今回は明日死ぬかもしれないという体で話し合ったので、多分十数年生きたら考え方が変わるのかもしれませんが… 直接お坊さんから知恵を頂ければと思い相談しました。 よろしくお願いします。
お久しぶりです。お世話になっております。最近になって、自分は本当に 往生できるのか不安になってきました。 最近になって新しいモーニングルーティーンを組みました。 朝5時50分に起きて床掃除をして、6時になったら勤行(浄土宗檀信徒日常 勤行式)をする…これを最近毎日続けています。 ですが、私は法的ではありませんがたくさんの仏教的罪を犯しました。 たとえば、10代のころ追い詰められていたときにやけを起こして神棚に 石を投げたり、エアガンでお祀りされている阿弥陀如来様を撃ち、右手を 無くしてしまったり…(仏様を傷つけるのは十悪五逆、「悪心出仏血罪」に あたると聞きました)。 また、臨終の際にこの世に未練が残って往生できなかった…という風に なってしまうのではないかと不安です。 モーニングルーティーンに加え、私を支えてくださっている人たちの分も 折を見てはお念仏をしたり、虫や動物の亡骸にもお念仏しています。 お念仏以外にも、可能な範囲でいわゆる「人助け」と言われることを日々 行っています。ですが周囲からは「やりすぎ!」といわれますが…。 ですが、冒頭の通り不安になる時があるのです。本当に大丈夫なの でしょうか?
『100万回生きたねこ』を読みました。 猫が何度も生まれ変わってようやく解脱(?)するところが感動的だったのですが、仏教っぽい気がしました。 他にも、この作品のこの部分は感動したし仏教的に感じる、というようなものがありましたら是非教えて頂きたいです。