お世話になります。 久々にこちらに投稿します… 主人が亡くなってからというもの、生活でも何か選択肢があると、 どーしたらいいのかなー夢でいいからヒントをちょうだい、夢で何かしら答えをちょうだい、お願いね… と、声をかけています。 ただ、亡くなった人にはお願い事をするものではないと最近、なにかのネットで拝見しました。 仏になられて、誰しも、仏様に無事を願ったり、〜でありますように、、みたいなので手を合わせがちだと思うのですが… あまり良くない事なんでしょうか?
大学で仏教の授業を受けてから、仏教がとても怖い教えだと思うようになってしまいました。 仏教は怖い教えではないですか?
実家が浄土真宗という事もあり、瞑想に縁が無く、なんとなく勉強もしてこなかったのですが、最近になって仏教の瞑想に興味を持ち、インターネットでざっくり調べてみました。 ですが、まだ分からない部分があり疑問がいくつか解けないままです。 そこでhasunohaのお坊様方に瞑想について詳しく教えていただきたいと思い質問させていただきました。 まず前提として仏教の瞑想には止(サマタもしくはシャマタ)と観(ヴィパッサナーもしくはヴィバシャナ)の二種類があるということ、法相宗の瑜伽や天台宗の止観は止と観を包括することまでは分かりました。 ただ分からないのは禅宗の坐禅と密教の阿字観です 禅は禅定という言葉からして止なのかな?と思ったのですが、臨済宗の公案によって自己を見つめる、というスタイルは観と言えなくも無い様な気がします。 阿字観や月輪観も一見止に思えますが、ウィキペディアの古式の阿字観瞑想の項には、奢摩他(シャマタ)と毘鉢舎那(ビバシャナ)と書いてありましたし、真言宗のお寺のサイトには「阿字観は観を止より重視する」と書かれていました。 真言宗や禅宗のお坊様、或いは仏教の瞑想に詳しい方がいらっしゃれば、お聞きしたいのですが座禅や阿字観は止ですか?観ですか?それとも瑜伽や止観の様に両方を包括するのでしょうか? もし知識としてご存じないなら、実際に瞑想をした体感からくる答えでも構わないので教えてください。 よろしくお願いします。
私は深い呼吸がとても苦手です。 そのため体は慢性的な酸素不足のようで、声も小さく覇気がありません。 深い呼吸をすると、胸のあたりがムズムズして気持ち悪く落ち着かないです。 これは体に異常がある訳ではなく、恐らく精神的なものです。 例えばですが… ジェットコースターに乗った時、「キャーッ!」と叫ぶ人と、「…っ!」と声を出さずに体を固めて身を守ろうとする人の2種類がいると思います。 私は圧倒的に後者です。声を出したら体の力が外に発散されて振り落とされてしまうのではと思います。 私は体が常に緊張状態で、肩に力が入りやすく「肩が上がっている」ともよく言われます。 何故こんなにも体が緊張しているのか考えたところ、私は浅い呼吸をして常に緊張状態でいることで防御体勢を維持し、自分を守ろうとしているのではないかと思いました。 呼吸に苦手意識があるだなんて人には相談しづらく、お坊さんなら深い呼吸が上手な方が多いのでは?と思ったので質問させて頂きました。 ご回答頂けると嬉しいです。
婚家の信仰している宗派と、私が馴染みある宗派が異なり、受け入れられずにいます。 婚家の宗派を否定するつもりはないのですが、先日も義父が亡くなった際、親戚一同で読経したのですが、私には唱えられませんでした。罰当たりかもしれませんが、冷めた目でしか見る事ができません。 私の実家は婚家とは別の宗派で、信仰が深い訳ではありません。 しかし、やはり小さい頃から仏事などで唱えていたお経の方が心地よく感じられます。 また、私自身の卒業した大学が仏教系の学校で、一般教養の中に入っていたのが、その宗派の授業だったものですから、そちらにも親しみがあります。 今回、私に病が見つかり、心の拠り所として、精神的に落ちつけそうな、写経をしたいと思っています。 私が写経したいのは、般若心経ですが、婚家の宗派は般若心経ではありません。 このような時にはどうすれば良いでしょうか。読経は皆と一緒にすべきですか? また、写経は私の気持ちでしても、良いものなのでしょうか? 拙い文章で申し訳ありませんが、教えていただきたく、お願い致します。
日本の仏教において救いとはどのような事なのでしょうか? 墓参りに行く寺の住職によく話しかけられるのですが 悩み事の話題になっても一切皆苦なので諦めろ的な話しばかりで 1度もスッキリしたことがありません。 寺で人生相談自体が間違っているのでしょうか?
お寺様で 色々おうかがいしたい事がある場合 事務所で聞いたらいいのか?誰に聞くのがいいのかが いまいち わかりません。御住職様に直接聞く事は あまりしない方がいいんでしょうか 聞く人によって違う時があるので 困っています。 ご住職様方はどういう話なら 心よく 答えていただき どういう話しなら 違う人に聞いて欲しいものなんでしょうか?
わたしの家には仏壇がありません。本家ではない家なので生まれた家にもありませんでした。 神道では特に家業があるお宅は家に神棚があったりします。 幸い近い家族親戚みな存命で仏壇を置く予定もないのですが、そういうとき仏様(ご先祖というのではなく観音様などの仏様です)をおうちでまつることはできないのでしょうか? 家である仏様をお祀りしたい、とおもったとき仏壇以外の手段ってありますか?それとも家でまつるのはあまり良くなく、頻繁に近くのお寺にお邪魔した方がいいのでしょうか? 通お寺でお札などを正月に買ったりするので、ちゃんとした居場所みたいなのをつくってあげたいと思っています。 また、道教のお守りや神道のお守りも大事に持ってるので、仏教一筋ではないから家で生半可な気持ちで仏様の居場所などをつくるのはよくないかな?とも思っています。 変な質問ですみません。
初めまして。 現在お付き合いしているお坊さんがいます。 もうすぐ誕生日なので前から欲しがっていた法衣着衣時でも身に付けられる、シンプルな腕時計をサプライズで渡そうと思っているのですが、何か素材やデザインでタブーなものはあるのでしょうか? 今は文字盤とベルトが黒で、ベルトの素材は皮のものを検討しております。 予算がなく高価なものは贈れませんが、彼に喜んでもらえるよう選びたいです。お忙しい中このような質問で恐縮ですが、教えていただけると嬉しいです。よろしくお願い致します。
またよろしくお願い致します。 私は今まで、告別式等で、御坊様があげる「お経」とは 亡くなった人が迷うことなく浄土に辿り着くようにと、 お祈りをしている感じに捉えていました。 しかし、本日、NHKのテレビを見ていたら、 「お経」とは亡くなった人のためではなく、 残された人のために、あげていると聞いて びっくりしました。 これは本当でしょうか? 私は既に終活を始めていますが、 後継者等がいない夫婦なため、最終的に一人になって 自分にとって残された人という存在が無い場合は、 「お経」は必要無いということでしょうか? もう一つ、疑問があります。 よく「亡くなった人の魂を慰める」という言い方を聞きますが、 亡くなった人の魂は、今、生きている人が慰めてあげなくては いけないほど、悲しんでいるということでしょうか? この「慰める」という言い方が気になります。 以前、テレビで見たのですが 夫が病気で激しく苦しみながら息を引きとった時、 奥様が泣きながら「あなた、やっと楽になれて良かったね」と 声をかけたそうです。この気持ち、よく分かります。 たとえ病気で亡くなった人も、痛み・苦しみを持った肉体から 解放され、浄土で安らかにニコニコしていてほしいです。 だから「慰める」という言い方は、浄土でも苦しんでいるみたいで、 違和感があります。
全体: 仏教はこの世が苦しくてたまらない人が解脱or楽になる為に信仰している。 今回のタイトル: 全く楽にならない。 なぜ 1楽にならない助けて!というと本人の思考、もしくは生まれる前の前世が最悪だったからというどうしようもない提案をされる。 さてその本人の考え自身も、彼自身が会得したものではないという事すら苦しみなのです。 人を殺めていいという環境に生まれた人が、別環境に押し込められて考え方を根性で変えよ!というような暴論。 また前世は証明されたわけではないのにどうしようもない変えようがない物をあげて耐えろ!という暴論。 2信じないのなら離れろ!という暴論 信じないのなら離れて、消えて。みたいな事を言われます。だとしたら楽にならないけど仏教を続けて一部の人は楽になるのに一部の人は楽にならないわけでそれ自身が苦しみになるのでは? ブッダの考え方はとても好きだけど、その後の仏教の考え方が嫌いな場合でも信仰をやめて離れろよ?的な暴論が苦しい。 論理を求めたから仏教にたどり着くのに論理がしたいなら仏教の論文でも書け!みたいな無理な事を求めるのは根拠はない!根拠は俺!みたいな考えではないですか?それこそ私が嫌いなものです苦しみの根源です。 3圧倒的な不幸な人より煩悩にまみれた仏教徒の方が幸せ スマホに、結婚や性行為に、家に、車に、欲しい物に、他の生物を食べて生きる事、を普通にやってて、それ以下の苦しみしか得てない人は一切幸福が得れない。 結局煩悩を満たす為に欲を満たすしか方法がないという事なのではないか?という結論に至りそう。 4論理的に反論できない時は、修行が足りないorその人に聞いてみろ。その人の不幸は実際に本人の気持ちにならないとわからないという逃げ。そしてその中に内包するお前はそんな事情も知らないで嘆いてるんだろ?という攻撃。 修行なんていつまで続けるか?という区切りがありません。だとしたら楽にならないのでは?という事。また早く死ぬ可能性もあるわけで惨憺たる人生のまま亡くなってしまう事もあるわけでその人自身は苦しむ為に生まれたの?を否定できなくなる。 5織田信長は天下を取れたという事。 彼は焼き討ちしたのに幸福な人生を生きた。 ↓ 楽になりたいのです。さて上の説明を含めてどうすれば良いでしょうか?
今の状況を好転させたい時、願望を叶えたい時、負の出来事を寄せ付けたくない時、自分を愛し許したい時…引き寄せの法則、願い叶えるノート、アファメーション等色々とありますが、お坊さんも、アファメーション等を試して成功したり叶ったりした事はありますか? または、別な方法や誰かの言葉で救われた経験がありましたら教えていただきたいと思っています。 よろしくお願い致します。
なんとなく、気になったんですが、閻魔様の大好物って、そばと、こんにゃく以外、他に、何が好きなんですか?(そばの件はそば閻魔の落語で、知りましたけど。)
先日、先祖の因縁で不幸になるのかと質問させて頂いたものです。ブッタの教えや仏教の本を読ませていただいたり、近くのお寺のお坊さんに話を聴いていただき今までの信仰はちがっていたと気がつかせていただきました。 どうしても一つだけ疑問が消えなく、また教えていただきたく質問させていただきます。その宗教の法要には真言宗の館長さんがよくおみえになってました。なので私もちゃんとした仏教だと信じてました。 仏教には先祖の因縁はないのに、なぜその館長さんはいらしてその宗教をおほめになっていたのでしょうか。真言宗には先祖の因縁というのはあるのでしょうか? それと、新興宗教をやめるにあたり、そこで使っていたお経本とか本とかはおたきあげしたほうがいいのでしょうか? これからお話をきいてくださったお寺にいかせて頂き刹那的ではない信仰をしていこうと思います。 お答にくい質問かもしれませんが教えてください。
先日プライベートでたびたび心が乱れたことがきっかけで、ご縁があり禅宗(臨済宗)に関心を抱くようになりました。 説法を拝聴したり書籍を読んだりしていますが、そこで疑問を抱いたのは、お寺などでお願い事をしても良いのか、ということです。 仏教においては求不得苦という苦しみがありますが、何かを熱心に求めたり望んだりし、それが叶うように願うことは、お釈迦様の考えに反してはいないでしょうか? 以前、お寺でお願いごとをしたときに、疑問を抱きました。 回答よろしくお願い申し上げます。
僕は来年僧侶になる予定の高校生です。 お坊さんの戒律の現状に関して皆様の意見を教えてください。 明治以降、国の政策によってお坊さんは肉食、世帯、飲酒、その他諸々の戒律を守らなくてもよいことになりました。 そして国家の規定による持戒は戦後の信仰の自由の徹底化によって可能性はほぼ無くなりその状態は今現在も続いています。 以前こちらでも活躍されている大慈さんの配信で僧侶の肉食、世帯に関する質問をしたのですがその際に ・肉食は栄養の問題で必要だし仏教の教義としても問題ない ・世帯は無条件の良い事では無いが寺を継ぐ後継者を育てていくためにも必要 ・これらの問題は全てを解決できる答えが無いから考え続けることが大事 という様な答えを頂きました。 僕も大慈さんのお考えに感銘を受け、すぐに結論を出さすこの問題に向き合う事にしました。 しかしすぐに結論を出さないという事は問題に向き合う事に消極的になるという事では無く様々な意見、主張を聞き考え続けることだと思います。 そこでここにいらっしゃる僧侶の方々の肉食、世帯に関する意見をお聞かせください。 また、大慈さんは戒律の問題を一括りにはせず肉食と世帯を別の理由でもって語って下さいました。 確かに一つ一つ事情は異なっているので僕も個別に考えようと思います。 そこで肉食、世帯に加えて飲酒や金銭に関する問題もお伺いします。 今現在の僕の意見としては、しょうがない理由のある肉食や世帯と違い嗜好品としてのお酒やお寺を支えるため、生活するため、将来のための貯えを超えた過度な儲けと散財はある程度宗派、教団で規制してもいいんじゃないかと思うのですが皆様はどうお考えですか?
高校生の時から、たびたび弥勒菩薩様に救っていただいているので、 今以上に弥勒菩薩様のお気持ちに応えるには、どうしたらいいのかアドバイスが欲しいです。 高校3年の夏、進路に悩んでいたら、 夢の中に、弥勒菩薩様が現れました。 有名な広隆寺の仏像の姿で、 「あなたの魂は、炎のように燃えていますね」とおっしゃいました。 私はそれを聞くと、元気になって走り出すという夢でした。 私には生まれつき、発達障害という脳の障害があります。 また、母が目の前で自死し、 それが元で、母方の祖父や父方の叔父などに死ねと言われました。 しかし不思議と、今も命があります。 精神科医も「よく生きてたね」と驚いていました。 弥勒菩薩様が守ってくださったんだと信じています。 今は、毎朝、般若心経と弥勒菩薩様の真言を唱えたり、 広隆寺のお守りや弥勒菩薩像のポストカードを持ち歩いて、つらくなったら見たりしています。 それは正しくないよ、とか、 もっとできることがあるよ、とか、 もしアドバイスがあったらお願いします。
前に授業で仏教について習った時、仏教の最終目的は解脱して輪廻転生から抜け出し、あらゆる苦しみから解き放たれて「無」になること、と習い、驚きました。私は自分の意識が無になることが1番怖いと思います。お坊さんは死ぬのが怖くないのだろうか?と不思議に思いました。どうなんでしょうか?
20年前に亡くなった母親のお墓の移動についての相談なのですが、県外に住む姉が一昨年父親を姉の家近くの老人ホームによび寄せて入居する時にお仏壇は姉が自分の家に持って行きました。 最近になりお墓も姉の近くの墓地に持って行くと言いうので、反対をしました。 お墓は近くてもお参りはそんなには出来ていませんが、なかなか姉の考えに納得出来ないのです。 お墓とお仏壇が別々に遠くに在るのはいけない事なのですか? お墓まで持って行かれるのは嫌なのです。 どうかご意見を頂きたいです。宜しくお願いします。
お世話になります。日々、皆様のお悩みとお坊様の御回答を拝見して勉強させて頂いております。有難うございます。 本日は、仏教各宗派の、流派について質問させて頂きたいと思い投稿致しました。 例えば真言宗を例にとりますと、高野山真言宗、智山派、豊山派、醍醐派、新義真言宗等々の流派があります。 また、浄土系の宗派もまた然りです。 これらは多くの場合宗祖の教えの解釈による相違かと思われますが、禅宗の場合は、「曹洞宗・日本達磨宗・臨済宗・黄檗宗・普化宗」であって、事に曹洞宗の場合は真言宗や浄土系のそれとは違い、流派がないと聞きました。 これは真実でしょうか。 真実であるとすれば、流派に分派しなかった理由をどうお考えでしょうか。 ご教示頂ければ幸いです。