是非、お坊さんにこの疑問を解決してもらいたくて書きます。 ズバリ、「あの世にも人間関係は有るのか?」です。 先日、渡哲也さんがこの世を去り、石原裕次郎さんとあの世で酒を酌み交わしてるなんていってましたが、あの世って沢山の人が行く訳だから、そこにも人間関係は存在するのではと思いました。 酒を酌み交わしてる時に邪魔者でも入らないかどうか…。 そもそもあの世の概念も分かってないので、その辺も解説して頂ければ幸いです。
日頃から念仏(南無阿弥陀仏)を唱えています。しかし、ずっと声に出していても息が足りなくなって疲れたり、また声に出さなくても、勉強をしているときなどは心のなかで唱え続けることもなかなか出来なかったりで、法然上人の言う行住坐臥の念仏にはなかなか達しません。 一念で往生が决定するのは存じていますが私のように自力の念が絶えない者は常に念仏とともに有りたいと思ってしまいます。 農作業などだったら文字通り常に念仏をすることができたのでしょうが、現代における行住坐臥の念仏とはどんなものであるべき、あるいはあり得るでしょうか。
こんばんは。 私は不動明王と他多数仏様を家で拝んでいます。全て開眼されたものです。 私には発達障害と精神疾患があり、日によって具合が違います。 読経できるほど元気があるときもあれば、もう何もしたくないというときもあります、 私は仏様が大好きでお招きしました。 自分の病気平癒や、夫の仕事の大成などを祈ってます。 そこで質問なのですが、仏様のお水やお菓子はやはり毎日変えるべきでしょうか? お菓子は、毎日変えるとお金がかかるのとたぶんやっていたらたべきれなくなってしまいます。 お水は元気のある読経時に変えたりしています。やはりお水だけは毎日お取り替えした方がいいでしょうか? 仏様をみているととても心が癒されて。 読経もするととってもすっきりします。 自分でもお招きしたからにはちゃんとしないとは思っているのですが、なかなか心と体がついていかず。 一応懺悔文なども読経しております。 また日々の感謝も読経時させて頂いてます。 そういうお祀りの仕方ではやはりダメでしょうか?もし毎日じゃなくてもいいならだいたい何日に一度ぐらい変えればいいでしょうか? 稚拙な文章ですみません。ご教授の程よろしくお願いします。
こんにちは、 私は一年前かその前くらいに、母と雑談をしていた時、調子に乗って 父の事を大仏のようだと比喩(のんびりしている、ぐうたらしている) と言ってしまいました。 その頃の私は仏教に対して全くの無知でした。 しかし最近、ハスノハを見るようになり、 仏教の素晴らしさと、お坊さんの言葉の数々を知り、なにより、善に溢れた仏教に感銘を受けました。 大仏様のあの姿々も悟りを開き、心の底から善の心を持っているからこそ、あのような姿をしているんだなと、自分の意識が180度変わりました。 あの頃の無知な自分が恥ずかしく、 仏様を怒らせてしまったのではないか? と思ってしまいます。 また、過去の過ち、反省を仏様は認めてくれるのか? と、考えてしまいました。 これからは、少しずつですが、仏教を通して 自分を成長させていきたいと思います。 このような愚行がある私でも、見守ってくださるでしょうか? よろしくお願いします
お寺での生活や、僧侶として従事する方の日頃の暮らし、なぜ仏門に入られたのかきっかけ等に興味があり、件名の通りの質問をさせていただきます。 不躾な質問でしたら申し訳ございません。 お寺や宗派によってもまた違うかと思いますが、できるだけいろんな方の回答を伺えたら幸いです。 質問数が多くなってしまい大変申し訳ありませんが、差し支えのない範囲でご教示いただけますと幸いです。 何卒よろしくお願い申し上げます。 ①一般的に、住宅街にあるような比較的小規模な寺院には、住職以外のお坊さんは大体何名ほどいらっしゃるのでしょうか? ②お坊さんが一通りの修行を終えたとされるのはどのような段階ででしょうか? ③修行を終えたのち、学校職員など他の職業と兼任しながら、お寺に住み込みで役僧や僧職員として住職のお手伝いをして暮らす言うことはあるのでしょうか? ④お寺に住み込みで働く場合、住職にご家族がいらっしゃる場合、同じ場所で暮らすのでしょうか?別棟などが用意されてるのでしょうか。 ⑤実家がお寺で家業を継ぐ以外で、お坊さんになられた方がいらっしゃいましたら、なぜ仏門を目指されたのかお話を伺えますと幸いです。 以上です。 もし失礼なことを伺っていたら申し訳ありません。
四十九日法要のために、お坊さんサービスを介してお坊さんを頼みました。 直接、お坊さんからご挨拶のお電話があった時に、初盆と四十九日をいっしょにするなら、初盆の分を半額にしますよと言われました。しかし、四十九日はお盆を過ぎた後ですので、初盆は来年のはずですし、四十九日とは死者があの世に向かわれる日で、お盆とはあの世におられる死者の霊を迎える日ですよね?それでは、四十九日で送り出した数分後にまた呼び戻すということですか? 最近は合理化の為、葬式の日に初七日もいっしょに行なったりするようですが、四十九日と初盆を同時にというのも一般的なのでしょうか? 私には違和感があり受け入れられませんので、当然お断りいたしました。
(編集部より。投稿の一部を変更削除しています。) ハスノハの先生に感謝しています。母が新興宗教の会員ってほどではないですが、関係しています。 最近、母が亡くなり部屋を整理していたら会の お経が書かれた掛け軸が見つかりました。 そして、最近、会の女性2人が私の家に訪問してきました。 1、掛け軸を処分(一応、仏様に失礼な言い方でしょうが…)したいです。 仏様が宿る掛け軸ですので、どう処分したらいいか教えてください。 2、会員の女性たちが再度訪問してくるのが怖いです。 私はこの宗教に全く関わりたくありません。我が家は浄土真宗にお世話になっています。 角のたたないお断りのしかたがわかりません。 教えてください…。困っています。
初めて質問します。 私は宗教に興味を持ち、勉強したいと思っています。 しかし、大学の専攻として仏教を学びたいわけではなく(他に学びたいことがあるので…)仏教の考え方を知りたいと思っています。 そこで欲張りではありますがいくつか質問させてください。 ①仏教はいろんな宗派があると思うのですが、それぞれで考え方は大きく変わるものでしょうか。もし変わるとしたらどの宗派を学べば良いのですか ②私はお経は南無阿弥陀仏しか知らないのですが、お経の解釈は独学でもできるものですか ③お寺などで仏教について学ぶことはできますか。やはり僧になる人でなければだめなのでしょうか ④結果手始めに何から学べばいいのですか 以上四つの質問です。ネットで検索してたら他の方の質問の回答もあって見てみたのですが、よくわからなかったので質問させていただきました。 だいぶ欲張ってしまったような気がするのですが、どうか回答よろしくお願いします。 また言葉遣い等失礼があったら申し訳ありません、今後気をつけるようにするので教えていただけるとありがたいです。
昨日、母の初盆で自宅にお坊さんに来ていただき、読経していただきました。 今まで無宗教だのあの世は信じないだの威勢のいい言葉を並べて生きてきましたが、母の死に直面して、純粋に「苦楽から解放されてあの世では安らかに過ごして欲しい」との思いで父方の宗派の浄土真宗大谷派のお寺さんにお願いして節目の法要をお願いしています。 お坊さんの法話で、私たちが心配しなくても極楽浄土で過ごされているから心配は無用なんだとの旨を教えていただき、少しずつ自分でもネットで調べて仏教に触れ、今まで無知だった仏教に対しての印象も段々と変わってきました。 そんな私のお坊さんに対する疑問ですが、母の法事のお坊さんの読経中は生前の母は「こんなことあったな」「あんなことあったな」と色々思いを馳せたり、お坊さんの「南無阿弥陀仏」が聞き取れた時はお坊さんの言葉に重ねて頭の中で南無阿弥陀仏と唱えているのですが、未熟なものでそのうち「お経長いな」とか「お坊さん、歌うまそうだな」とか「お経は何て言ってるのかな」とか色々と雑念がわいてきて、母や法事と無関係なことを考えてしまいます。正直お経の意味すら知らない自分が読経に合わせて手を合わせることに意味があるのかなんていう素朴な疑問もよぎります。 自分でも失礼だと思うし、「せめて今日ぐらいはお袋や先祖さま、お袋も可愛がっていた先代のペットのことを考えてやれよ!」と自分自身に突っ込みをいれたくもなるのですが、失礼な言い方ですが読経に自分でか「飽きてしまってる自分」もいるのだと思います。 そこでお坊さん方にお聞きしたいのですが、法事はもちろんこれからも参列する機会もたくさんあると思いますが、お葬式やお通夜など含めてお坊さんの読経中はどういった心持ちでいるべきなのでしょうか? もし同じような雑念が出てきてしまったら、どのように持ち直す?脱線を修正したらよいでしょうか? またお坊さんたちは自身のお勤めの際、どのようなお気持ちで読経なさるのですか?例えば劇の時のように、感情を込めてそのたちばになりきるように、お経の中の言葉の意味に思いを込めて唱えられるのでしょう?また同じような雑念がわくことはありますか? 子供じみた質問で申し訳ありません。
人生がつらいので少しでも楽になりたくて仏教の勉強をしているものです。 お釈迦様の説いた教えについて質問です。 最近、初期仏教の経典スッタニパータを読みとても感動しました。 その結果お釈迦様はこの世の全てが縁起によって繋がっており結局は全てが同一の価値ある存在である事を理解すれば最終的には自己に囚われることもなくなり現世の苦しみをなくすことができると説いているのではないかと自分なりに解釈しました。 しかしそう考えるといくつかの疑問が浮かびました。 スッタニパータでは父母や我が子に対する愛執を捨てる事を悟りへの道とする一方で、父母に従うことが幸せであり老いた父母を養わない者は卑しいと書いてあります。 しかし無我の境地を目指すのであれば血縁関係に固執してはいけないのではないでしょうか?何故父母に限定して言及したのでしょうか?目の前で父母と知らない人が同じ様に病気や貧困や老いに苦しんでいてどちらかにしか手を差し伸べられない状況の時、知らない人を切り捨てて親子だからと特別扱いして父母に手を差し伸べるのは果たして正しいのでしょうか?両親が仏法を汚す人間であってもそれに従うことが幸せなのでしょうか? 私の父親は酒に溺れた非常に暴力的な人間で犬や猫に対して無益な殺生もしていました。母も暴力的な人間でしたし噓つきでした。私はこの両親に従うべきだったのでしょうか?老後の面倒も見なくてはいけないのでしょうか? また怒りや嫌悪についても疑問があります。 スッタニパータでは怒りや嫌悪を煩悩とし捨てることのできないことをなまぐさと言い汚らわしいことだと言う記述があります。 しかし世の中ではしばしば想像を絶するほど卑劣で残忍な事が起こります。 例えば女子小学生に乱暴して殺害した犯人をたまたまニュースで見て犯人に怒りや嫌悪感を覚えるのはなまぐさなのでしょうか?実際に知り合いの僧侶はその事件について犯人を殺してやりたいとまで言っていましたが彼は僧侶失格なのでしょうか? 自分の周りでより強いものによって不当に傷つけられている弱者を見ても怒らず苦しみも感じないことが美徳なのでしょうか? 他の記述が自分の人生価値観を根本から変える素晴らしいものだっただけに、私はこの二つの疑問に苦しみ悩んでいます。 悟りを目指す僧侶の方々にお話を聞きたいです。
度々こちらでお世話になっております、高校2年生の庄子と申します。 近々ピアスの穴を開けようと思っているのですが、仏教の視点から見てピアスはOKなのでしょうか? 最近法然上人に関する本を読み、ますます仏教に興味が出てきたので気になります。 また、ピアスをしていると神聖なお寺や仏様から疎まれることもあるのでしょうか? 自分でも考えすぎかと思いましたが、素人が考えても分からず、実際のお坊さんから答えをいただきたく質問させていただきました。 既に似た質問がありましたらすみません。回答よろしくお願いいたします。
初めまして。 「有難うございます。」 伝えたくて投稿致しました。 一年くらい、ハスノハさんの隠れファンです。私、自身過去に沢山の人を傷つけて生きてきました。(自己認識できていない事象さえあると思います)時折、それらが何かのはずみで、思い起こされ、罪悪感から解放されたいという身勝手な気持ちが芽生え、「許しを得るために謝りたい」「あの人は今頃幸せになっているだろうか」「傷を抱えていないだろうか」と思い悩み、この場を借りて、詳細を聞いて頂き、楽になるために懺悔をしたいなと思うことが何度かありました。いつか抱えきれなくなったらこの場を借りて懺悔させて下さい。 毎日アップされる相談を見ると、 本質的には、非常に似た要因や背景、思考で悩まれ、自分と向き合い、後悔し、受け入れるための努力をしようと(それをお坊さん方が支えようと)されているなと感じます。 なので、他の方の問答を拝見し、自分を客観的に省みることが出来、落ち込んだり、落ち着いたり、反省したりしています。こうした効用が、ハスノハ凄いところだと思います。 時折、「このお坊さんの回答は、ちゃうやろ!違和感有り」と思うこともありますが(笑)。貴重な時間を割いて、向き合おうとされるご姿勢だけでも。感謝です。 長くなり、すいません。 ここからが本題です。今日、カンブリア宮殿という番組をみて、築地本願寺が取材されてました。 人口減少に、コロナも重なり、お寺も、存続していくのに、今本当に大変なんだと改めて認識しました。当たり前ですが、お坊さんにも家族がいたり、生活があります。ハスノハで、相談にのって下さるお坊さんは、確か回答も無償で対応下さっています。親切に個別アドレスで対応下されてる方も見受けます 民間の心理相談サービスなら一相談や、数十分できっと数千円から一万円くらいで、提供されているはずです 人の心に、真摯に寄り添って下さるお坊さんや、お寺が永く続いていくように、自分も超超僅かながら、「おきもち」を使い支えていければと思いました。 今、大苦境の飲食店が、常連さんに応援されているように。素敵なお坊さんを、ハスノハユーザーも応援していく、世界が出来たらいいですね 〉事務局さん ライトな有難し感覚で数百円位から、あってもいいかもしれません。メルペイ可等。 最後に、私、決して関係者ではありません!有難うございました
いつもありがたいお言葉ありがとうございます。 ただいまお盆参りの時期で大忙しだと思います。そんな時期に申し訳ないのですが、この時期にもらって嬉しいプレゼントを教えてください。食べ物、飲み物、衣類、雑貨、何でも構いません。 暑い日が続きますが、気をつけてお過ごし下さい!
以前お世話になった者です(名前は変えました)。 先月から就労支援に通ってます。その行き帰りに近所の地蔵尊にお参りしてます。 その際、「見守ってくれてありがとうございます。ここのお地蔵様に縁がある人が救われます様に」とお線香をお供えして、般若心経と舎利礼文と回向を読んでいます。 お地蔵様に失礼でしょうか?
こんばんは。 私は最近仏教に興味を持ちはじめました。基礎を学びたいと思っているのですが、なにかおすすめの入門書はあるでしょうか? また、教えはもちろんのことですが、文化のことも知りたいと思っています。お坊さんが普段用いる道具や服飾、寺院の造りに関すること、お坊さんの生活や、行事ごとなどなど。少しでも取り上げている書籍をご存じであれば、こちらも教えていただけると幸いです。 よろしくお願いします。
このようなタイトルを掲げてこちらへ来るのはとても勇気がいりましたが、お坊様側からの見解をどうしてもお聞きしたく質問させて頂きます。 6年前の父の火葬の際、檀家になっている寺の住職がお経を唱えた後、「貴女方お金無いんでしょ?30万円を20万円にしてあげますからご安心を」と周りに人がいるのも憚らず非常に通るいい声でおっしゃられました。 確かに我が家は貧しいのですが、お布施も苦しい生活の中からきちんと納めていましたし、今回の葬儀も安くしてくれとは一言もお願いしておりませんでした。気を使ってくださったのでしょうが、仏に支えるお坊様からお金の話が火葬場で出るとは開いた口が塞がりませんでした。 火葬場まで高級外車で乗りつける姿にも違和感を感じましたが、こんなお坊様は今時そんなに珍しくないのでしょうか? 寺での葬儀後も納骨にはいくらいくら、石材店にはこのくらいと、始終お金の話が絶えずさすがに腹が立って仕方ありませんでした。父を亡くして悲しんでいる家族にビジネス丸出しの言葉ばかりの住職に対し不信感しかありません。 先代の住職は緋の衣を纏うほどの立派な方との事で、祖父の代から檀家になったそうです。 現在の住職はゴルフはするし、高級外車を何台も駐車場に並べています。おまけに意味のない鐘突堂等の建築にも力を入れておられます。 そして肝心の寺の設備と言えば、檀家用のおトイレは和式のままでバリアフリーとはなんぞや?のような古寺です。 あれではお年寄りが気の毒です。 お布施や寄付は一体何に使われているのでしょうか? どんなにありがたい仏様のお話しも耳に入りません。 檀家離れが騒がれる今日、こうした生臭坊主が時代にそぐわないお金儲けに走っている事が原因なのか、そもそもコロンブスの卵のように檀家が減るからお金儲けを始める坊主が出てしまうのか どちらが先か分かりませんが、墓終いをしたくても今度はいくら吹っ掛けられるか怖くて相談も出来ません。 仏の名を借りたそれらしい説教をさ れそうで怖いです。 お寺って昔はそんな人を見下したりする所じゃなかったのに…と悲しみと怒りと今後の不安で夜も眠れません。 私は元々お墓参りやお盆、彼岸の古来からの習慣を大切にしてきました。金金金のお寺さんを目の当たりにして、今後続けていく気持ちが無くなりそうです。どうぞお導きのほどよろしくお願い致します。
いつも質問させていただき、楽しく読ませていただいております。こんにちは。 突然なのですが、私の家では昔から、母より 「私ね~、昔修学旅行が(某山の)お寺で、夜も真っ暗で何も見えないのに修験者?がうろうろしてて、そんな本堂でお坊さんから七不思議を聞いたのよ~。超怖かったな~」 といわれて、何が怖かったのか聞くと「ごめんもう覚えてない」というのが家族の定番ギャグのようになっています。 興味はあるのですが、お坊さんと話す機会と言ってもあまりなく、私も修学旅行は沖縄のちょっとおしゃれなホテルだったので(笑)『お坊さんが話す怪談』というのは馴染みがありません。 人によっては不謹慎とおっしゃる方もいるかもしれませんが、私は怪談をドキドキしながら聞いてしまう方なので、是非教えてほしいです。 お坊さんが、集まった子供たちに言って聞かせるような(いやもっとロックな奴でも大丈夫です!)怪談話はありますか? 失礼な質問で申し訳ございません。よろしければおしえてください。
1.仏教では如来、菩薩、明王、天部とありますが、天部様の役目は何なのでしょうか? 2.天部様は仏様ではなく神様と聞いたのですが、般若心経を唱える時は最初の『仏説』は読まなくていいのでしょうか? 3.神仏習合では大黒天様=大国主様となりますが、大黒天様は大黒天様!大国主様は大国主様!と分けるのではなく、大黒天様=大国主様と考えて問題ないのでしょうか? 私は神棚に伊勢神宮のお札、嚴島神社のお札、大黒天様を祀っているのですが、神様として般若心経を唱える時、『仏説』はつけていません。 詣り方は合っているのでしょうか? 少し前までは大黒天様は天部様だから仏様になると思っており、頭に『仏説』をつけ伊勢神宮(天照大御神様)、嚴島神社(宗像三女神様)とは分けて般若心経を唱えていました。 今ではどれが正しいのか分からず少々混乱しております・・・。 教えて頂けたは幸いです。
浄土真宗について勉強したり、時折り聴聞したりしています。 浄土真宗の念仏は報恩感謝の念仏であり、往生の因ではなく、信心の定まったところから自ずと発せられるもの、というふうに理解しています。 その点を踏まえて1つお聞きしたいのですが、信心が定まっているという実感はいかにして得られるものなのでしょうか。生き方が定まるというか道が見えるというか、様々な表現があるかと思いますが、そういった宗教的実存の転換というものはどのようにして起こるものなのでしょうか。 ちなみに、本で読んだ話ですが、曹洞宗のとある禅僧の方が、「自分が仏になる道を歩む最中、それが無理だと悟りったところに開けた仏教が浄土教をはじめとする他力の仏教であり、計らいを捨てて坐る禅にも通ずるところがある」とおっしゃっておられました。続けて、「前者から出発せずにいきなり他力を実感することはできないからこそ、計らいを捨てて坐るという実践が要請される」というようなことを述べてらっしゃったんですが、やはり「意識的に」そうした実感を感得することは不可能なのでしょうか。
見ていただきありがとうございます。 タイトル通りの質問をさせてください。 私は自分に(普通に生活をしているだけですが)仏教徒という自覚があり、 出来れば自分がどの宗派であるのかも名乗っておけるようになりたいのです。 私の母親(母方の家系)は曹洞宗であり、 父親は宗教全般が合わないと感じるのか無宗教を名乗っています。 私が継いでいるのは父方の家系なので、本来であれば 祖父(故人)の宗派である浄土真宗を名乗るべきなのでしょう。 しかし、浄土真宗は私と考えがあまり合わず、 葬儀での作法も少し面倒になるそうなので、親戚への負担を 考えると納得がいきません。 唯一父方の家系で生きている父方の祖母が天理教に傾倒しており、 会って口を開けばお前は馬鹿だという罵倒や学歴の話とマルチ商法などの 話ばかりをする人なので…連絡を取りたくないです。 父親も私も今はそれを避けるようにして父方の家系とは疎遠です。 そこで質問なのですが、 私はどの宗派を名乗り属せばいいのでしょう? 好きにしてしまってよろしいのでしょうか? 墓地や寺に関してはいつも宗派不問のところに お世話になっているので大丈夫そうなのですが。 可能ならば、考えが合う人や優しい人が多いと感じる 曹洞宗に属したいのですが…