今、中村元先生の「原始仏典」を読んでいます。そこで色々な経典からお話を引っ張ってきて本を書いているので面白いしわかりやすいです。でも、この本を読み終わったらもうちょっと踏み込んで経典を読んでみたいとおもうようになりました。 そこで、皆様のおすすめの経典・これだけは読んでおいた方がいい経典などを教えてください! 私が読んだことがあるのは般若心経だけです。よろしくお願い致します🙇🏻♂️
はじめまして。毎日夜に読経をしています。 すること自体は落ち着きますし、ありがたいのですが、基本的に怠け者なのでやりたくない時も出てきます。 出家された方は朝に夕に祈念されているわけで、この程度の事で音を上げていて申し訳ないのですが、「こんなことをしていて何になるのかなあ」という迷いや、「やらないと良くない事が起きるのでは」というような妙な不安、一日さぼると二日三日とどうでもよくなってくる心が出ます。 どのようにしたら薄くなるのでしょうか?
浄土真宗について勉強しています。が、少々わからないことがあり、質問させていただきます。 諸法が無我であることを鑑みると、阿弥陀仏や極楽浄土も我ではなく実体的な本質を持たないということになるような気がしたんですが、お寺で聞くお坊さんがのお話からはあまりそういった印象を受けません。この点は、僧侶の方々はどのように理解されてらっしゃるのかお聞かせ願えたら幸いです。 唯信鈔文意や自然法爾章にそれに近いことが書いてありましたが、やはりお寺できく阿弥陀仏の救いの話とは若干の距離感を感じます。やはり阿弥陀仏や極楽は実体として捉えるのが主流なのでしょうか。
南無阿弥陀仏と唱えるときには目は、開けるものですか閉じるものですか、それとも半眼でやるものですか?
先日、千日回峰行を2回も行われた酒井雄哉さんの「一日一生」という本を読みました。とても読みやすく、酒井さんがこれまでの人生や行を通して学ばれた人生におけるものの考え方や、日常の小さな幸せに気づかせてくださる本でした。 ところで、千日回峰行のようなきつい修行は止めるなら死ぬ、というルールがあるみたいですね。このような感情を持ってはいけないのかもしれませんが、なんだか馬鹿馬鹿しい、と思ってしまいました。 『毎日毎日仏様にお祈りし、行をすることで、いったい世の中の何の役に立つのか?』と疑問に思いました。 千日間毎日山の中をぐるぐる回ってお祈りしても、今あらゆることで困っている人々が助かるわけじゃないですよね? お坊さん方に失礼なことを言っているのは分かっています。ただ純粋に疑問に思ったので質問してみました。
仏教の教えでは、自殺した人は地獄へ落ちると書いています。しかし、酷いいじめを受けたり親の暴力に耐えれなかったりして自殺する人もいると思います。そういう人も含めて地獄に落ちますか? もし落ちるなら、それは可哀想すぎるなと思います。最近だったら木村花さんがあんな酷い目にあい1人で抱え込んで自殺しました。彼女みたいな人も地獄に落ちるんですか?仏様の慈悲はないのでしょうか? 回答よろしくお願いします。
自分も相談させていただいたことがある立場で恐縮ですが、素朴な疑問です。 お坊さんはこちらのサイトだけに限らず、普段からたくさんの人に相談されているかと思いますが、 それって肉体的にも精神的にも疲れたりしないのですか? もちろん疲れるとは思うのですが、「もうヤダヤダ!(;_;)」みたいなモードにはならないのでしょうか? 私は普段から人に相談されることがそこそこある方かと思いますが、重めな内容で一日4件以上になると、もうヤダヤダ!モードになり、かなり疲れます。 もしそうならないのであれば、もともと器が大きいのか、修行で修得したものとかなのでしょうか?
いつもお世話になっております、愛する夫を亡くしてから、なんとか毎日生きています。亡くなってからリビングと寝室の壁一面に思い出の写真を飾りどこを向いても主人の顔が見られるようにしています、2人で暮らしていたのでそうすることでいつも主人と一緒にいる気持ちでいました、先日そうやって暮らしている私に父親が、そんなことは未練でしかない誰もそんなことまでする人はいない夫はもういないとちゃんと自覚して前を向いて歩くようきつく言われました、もういないんだとはっきり言われたのは初めてで頭ではわかっているのですが急に身体が重たくなり何もできません。もういないわかっていますが、できるだけ家の中は2人で過ごしたままの状態にしていますこれも未練でしかないのでしょうか?これでは主人は成仏できないのでしょうか?いくら私が寂しくてもどうかどうか主人は安らかであってほしいと朝晩は仏壇の前でお経をあげています。 どう想ってどう生きるのがいいのかわかりません、教えて下さい。
充実した人生と空っぽの人生はどちらの方が価値がありますか? 価値という物差しを捨てる方法はありますか?あれば捨てたほうがいいですか?
先日、テレビで高野山の内部や空海さんの事をあつかった番組を見ました。 空海さんは世界が滅びたとしてもいらっしゃる。祈り続けている。 というナレーションがありました。 私は空海さんのお名前は知っていましたが、どのような高僧であられたのか等、全く知りません。 お忙しい中、申し訳ありませんが空海さんは何故、世界が滅びたとしても祈り続ける。とおっしゃったのか?そしてどのようなお坊様だったのかを教えてください。テレビで高野山を見て神秘的な何かを感じました。 同じ仏教でも真言宗のお坊様は印を組まれたり、ご真言をおとなえしたり、ご法要の時に特別な法具を使われたりととても一般人にはわからない部分(神秘的)があるように私は思いました。 真言宗の事を分かりやすく教えて頂けないでしょうか? 急ぎませんのでどうぞ宜しくお願いいたします。
お坊さんは読経しただけでお経の意味が分かりますか? ある部分の意味を悟るとかの意味ではなく、読んだだけで漢文が読解出来るかという意味です。 ちょっと気にして読めば分かりますか? 読経の時以外に意味を取ろうとして読めば全て分かりますか? それとも日本語訳や解説本、師僧からの指導などがなければ分かりませんか? 般若心経のような短いお経ではなく、観音経全文以上の長さのもの対象です。 そんな事気にするのはどうたらという回答は不要ですのでそのように回答したい方は回答しないで下さい。 臨済宗や曹洞宗系の派ではないので、ご自身の宗派の思想内でこじつける回答はしないでください。 上から目線で回答すれば良い場所でもないと思いますので「喝!」などというアホなことは書かないでください。
仏教では無我や無自性を説きますが、それが否定するのはあくまでもインド哲学に於けるアートマンであって、日本あるいは他の文化の持つ「自我」とは必ずしも同一ではないと思います。「永続する魂」たる「アートマン」が存在しないことを理解すれば、即ち諸行無常を理解すればそれで良いのではないか、と思ってしまいます。 釈迦は八正道など自身の心がけを要することを勧めていますので、「無我」とは「ぼーっと生きる」ことでは断じてあり得ないと思います。 インド文化に住まない我々が「無我」の道を生きて行くとは、どういうことを意味するのでしょうか。
昔から家は仏教徒で、私も産まれてから仏教を信じなさいと育てられてきました。 小学生の頃、学校環境になれず拒食症になってしまい、食べ物を見ると吐き気を催すようになりました。 その時に母が、「先祖が苦しんでいる。それがあなたに出てきてしまっている。きちんとお経をあげないから、ものが食べられなくなってしまったの」と教えられました。 その時は真に受止めお経を上げました。ですが、考えてみると、ストレスによるものではなかったのかと思うようになりました。 月日が流れ社会人になった時、やっかいな病気にかかり、毎日不安で泣いていました。 他の兄弟は、病気になることも無く、ごく普通にすごせているのに、私だけなぜこんなにも不幸が降りかかるのかと。 母に聞くとやはり、「先祖が苦しんでいるからだ」の一点張り。 私はただ不安な気持ちを聞いて欲しいだけなのに、私のせい、私のせいと言われ続け、仏教とは私を苦しめるものなのか?と思ってしまうようになりました。 確かに、先祖があってこその自分ではあるが、もし仮に母が言っていることが本当だとして、私ばかり苦しい思いになる理由も分からないです。 私ばかりお経をあげて、時間を使わなくてはならないのかと、疑問に思ってしまいます。 他の兄弟は、お経はおろか、仏教を信じていません。ですが、結婚もし、子供も生まれ、幸せな家庭環境を築いています。 このような場で、仏教やお経に対して罰当たりな事を書くのをどうぞお許しください。 私はどうやって生きていけば、普通に生きられるのでしょうか。お経を上げなくては私は幸せになれないのでしょうか。
昨今の陰鬱とした情勢の中、多忙を極められておられるであろう僧侶の方にご相談をさせて頂けることに感謝いたします。 私は、宗教や哲学などの学問に興味があるのですが、仏教における「解脱」という考え方に一抹の不安を覚えています。 といいますのも、この概念は様々なしがらみから解き放たれ、心が安らぐという点で素晴らしいと思う一方で、考えようによっては自己研鑽や他者との競争といったものを一蹴し、様々な枠組みを冷めた目線で見る無情で腰の引けた概念にも捉えられるのではないか、と思っているからです。 例えば、世俗では結婚を是、独身を非とする意見を度々耳にするのですが、私自身は伴侶の有無だけで人の貴賎が決まることはない、もっと言えば、そんな二項対立などで張り合いしないで平和の範疇で気楽に生きればいいのにと思っています。 ところが、ある時似たような意見を呟いた方が、ネット上で「生存競争についていけなかった腰抜けの負け惜しみ」、「生命や家族の尊さが分からない薄情者の言い草」といった罵倒を浴びせられているのを見て、この意見は既婚者の方や婚活を本気で行っている方に対して無自覚の批判や無粋な発言になり得ると悟らされたことがあります。 私自身は、特定の誰かを見下そうという気は全くないのですが、多くの人は何かと甲乙つけたがるものらしく、今に至るまで自身の本心が話せず度々肩身の狭い思いをしています。 そして、私が何より恐れているのは、この考え方を極限まで突き詰めた結果、今回の相談含め、全ての悩みについて「んなもんどうでもいいから腹でも切ってさっさと涅槃においでなさい」と強引に押し切られることです。こうなると最早立つ瀬がありません。 ただ、一つ思う所があるのは、「救世を考えるお釈迦様や僧侶の方々がそんな本末転倒な事言う?」ということです。 思えばこれまでハスノハでお世話になった方々からそんな極端なコメントを頂いたことは全くないですし、私が浅学の身で解脱という概念を持ち上げる余り甚だしい見当違いをしているとも思われます。 長々と語らせて頂き申し訳ないですが、私の悩みはこんな感じです。 今一度断っておきますが、私はこの概念を弱さの言い訳や他人を足蹴にする詭弁に使うつもりは毛頭ないです。 そのことを踏まえて、本職の方に解脱という概念について忌憚なきご意見をお聞きしたいと思う次第です。
初めて質問させていただきます‼︎ 私はもともと、お坊さんがお経を唱える?読み上げる?時の声が好きで、お坊さんに興味がありました。 3年前くらいに、親戚の家で法事があり、いつものように60〜70歳くらいの住職さんが来られるのかなと思っていたら、若いお坊さん(20代後半〜30代前半)の方も来られて、その方の読経が素晴らしくタイプでした‼︎ 一度、お話してみたいな〜って思ったのですが、檀家でもなければ宗派も違うので、お寺に行ってもいいのだろうか…?と思いながら三年も経ってしまい…でもやっぱり一度だけでもいいからお話とかご挨拶したいなーって思う気持ちがあり…これは行かねば後悔するかも!と思ってます! ○檀家でもない、宗派も違う人間がど田舎のお寺に顔を出すと不審に思われますか…?!(一応アポはとるつもりです)(ど田舎なんです~汗) ○お坊さん的に、読経の声が好きとか言われたら引きますか…?! ○この方に限らず、お坊さんとお喋りしてみたい、お友達になってほしい!と思うのですが、こういう気持ちで行くのは失礼ですか…?! 他の方の質問とかぶってたらすみません!ご回答お待ちしております…!(>_<)
祖父の葬儀の時に「死後の世界はこうなっています」と何層かになっている図の説明を受けました。 仏教に限らず死後の世界、天国地獄も含めて「あることは知っているでしょ」からはじまることが多く、「なんでだれも見たことないのにあるということになっているのか」が解りません。 さらに私の認識では例えば仏教はゴーダマシッタルーダが釈迦のペンネームで小説を書いてそれを各宗派の開祖が読んで読書感想文を広めた、というイメージなのです。そう考えないと宗派毎の教典の違いや祭事の違いなど差が出てくることが理解できません。 宗教が絶対のもので揺るぎがないものであれば解釈が変わったり宗派が分かれたりするものではない。会派が別れたり解釈が変わるのは不完全な創作物である証かと思います。広めるために土着信仰と結びつくなどその尤もたるところです。 かなり偏った意見になっているのですが「こういうことになっている」だけで「なぜそういうことになっているのか」「それが間違いない検証は取れているのか」を説明しているものがあれば教えていただきたいと思います。 化学実験でいえば「再現性」、こうすればこうなる、というものです。それがなければ「どうなるか解らないのに信仰するの?」となってしまいます。 また、どうしても論理的に根拠がしっかりしているものでないと認められない性格なのですが、「いやいや宗教というのはそういうものじゃないんだよ」というのがあれば教えていただけないでしょうか。
こんにちは。 最近仏像や曼荼羅などの仏教美術にすごく興味があります。 私自身も何かを作る人間なので、自分の作品にも取り入れたいと思っています。 わからない事は自分なりに調べてみてはいるのですが、仏教に関する専門知識はほとんどありません。 何となくいいなと思った程度で作品を作ってしまって良いのでしょうか? また、私の知り合いで宗教をモチーフに作った作品に誤った知識や解釈が含まれており、かなり厳しい批判をされてしまったという人もいます。 私も自分の作品をインターネットで公開したりします。作りたいものは決して仏教を貶すような内容の作品ではないのですが、宗教というデリケートな要素を含む作品は公開しない方が良いのでしょうか?よろしくお願いします。
小一の息子が最近、『隕石が怖い、どうしたら悟りを開けるの?』と真剣な顔で聞いてきました。理由をよく聞いてみると、以下のようなことでした。 宇宙に関する教材で、地球にはその昔たくさんの隕石が落ちて来たこと、そのせいで恐竜は絶滅したことを学んだ。さらに、これからも落ちて来る可能性があると聞いて、隕石に対して強い恐怖を感じている。 また、別の日にTVでたまたま見た仏教の番組で、人は何度も何度も新しい人生を繰り返し生きる輪廻の話を聞いた。そこから脱するためには悟りを開くしか方法がない、ということを知った。 だから、自分がお爺さんになって死ぬまでに隕石が落ちて来なかったとしても、次の人生がまた来てしまうから、早く悟りを開かないと、隕石の恐怖からは逃れられない!と考えて先の質問をしたようです。 毎晩思い出してしまい、眠れなくなるほどで、本人はかなり真剣に悩んでいます。色々と安心させる言葉をかけてみましたが効果なく、、専門家の皆さまのお力をお借りできますと大変有り難いです。よろしくお願いいたします。
竹内まりやさんの「いのちの歌」が好きです。歌詞も曲も心にしみるものがあります。 ところで、竹内まりやさんは、見た目、あまり仏教徒ではない感じがするのですが、「いのちの歌」って仏教の教えに通じますか? あまり仏教の知識もないのですが、諸行無常とか諸法無我にも通じるのかなと自己解釈しております。 私自身、門徒ですので、特に浄土真宗の僧侶の皆さんにお聞きしたいと思います。よろしくお願いいたします。
菩提寺がないまま仏壇を買いました。 開眼式と過去帳の記入をしたいのですがいきなりお寺に連絡してやってくれるものなのでしょうか? 宗派は曹洞宗です。