私の地元に全国的に有名なお寺があるのですが、そこのお坊さんが超高級車であるフェラーリやマクラーレンを長年所有していると知りました。最近は中古価格が1億円を超えることもあるマクラーレンを所有しているそうです。親に聞いて見たところ、昔から地元では有名だったそうです。 私の中でお坊さんと言えば質素な生活をするのが当たり前?だと思っていたので大変驚きました。超高級車を乗り回すなんて煩悩の塊ではないかと思うのですが、お坊さんが超高級車を所有することは仏教の教えやお坊さん達にとって問題のない事なのでしょうか?
四十九日の極楽浄土への旅立ちの時間は何時なのでしょうか。 影膳はいつまで必要なのでしょうか。
皆様が色々と抱えているお悩みのご相談やご質問の中失礼致します。 お寺などにいらっしゃる山務員さんとはどの様な方なのでしょうか??
父を亡くし、先日四十九日の法要を終えましたが、四十九日の法要を行った日は亡くなってから四十六日目であり、本当の四十九日の日ではありませんでした。そこで、 ①父はどのタイミングであの世(極楽浄土?)を目指すのでしょうか。 ②お供えなどは本当の四十九日まで行った方がよいのでしょうか。 ③お供えや話しかけたりするのは本当の四十九日が過ぎてもして良いものなのでしょうか。
お寺で阿弥陀様、仏様にお願いをしてはいけないと聞きました。 神社などで長寿や幸福、などを願うことはありますが、仏様にはそのようなにお願いしてはダメでしょうか?
私は本来なら回答者側にいるはずの坊さん見習い。世襲によって住職になってしまった、檀家さんに顔向けできない三流のダメ坊主です。 仏教大学を卒業してこの世界に入って思ったんだけど ・飲み会多すぎない? ・不必要な会議多すぎない? ・下品なやつ多すぎない? ・どうでもいい修行多すぎない? って思っています。(最後のはうちの宗派だけかもしれない) 元々体育会系のノリでの人付き合いがあんまり好きじゃないコミュ障なので、マジで会議後の飲み会とかいうダブルコンボが辛いです。 なぜ抜苦与楽のために仏教やってるのに私自身が苦しんでるの???ってなってきてます。 下品な坊主多すぎない?って思っています。「どこどこの修行を何回やった」みたいな謎のマウント取りがそのまま地域内での寺ヒエラルキーに影響するような世界に辟易としてます。 実家が寺なので寺そのものを捨てると家族が路頭に迷う関係上、俗世間を離れるのはできないんですけど正直したいくらいに今仏教に疲れています。 ここにご回答して下さるお坊さんの方は、そういうことを思ったりとか、しませんか? したなら、どうやって折り合いってつけてますか?
出家したいです。 わがままですが、曹洞宗か天台宗のどちらかで・・・ 駒澤大学を卒業すれば僧侶になれる、と思っていたのですがそんな甘くないみたいですね。 そこで知恵をお借りしたいのですが どういう手順を踏めばいいのでしょうか? 住職になるつもりはなく、また夜勤でもして食ってく覚悟はあります。 PS 座禅会とか参加したいんですが、僧侶になるため、の下心モロ見えだと思います・・・ 皆様はこういう奴が来たらどう思いますか?
こう言ったサイトに投稿するのは筋違いかも知れませんが、他の方の回答を見て目が覚める想いだったので私も悩みを聞いて欲しいと思います。 私は趣味で小説を書いております。 今悩んでる事は主人公の罪の償い方です。 宣伝する気は無いので詳細は割愛しますが、この主人公は少年時代に過失で爆弾のスイッチを押してしまい、大量に人を殺害してしまいます。 主人公はこの事件がキッカケでトラウマを抱え、引き籠もり家族から空気の様に扱われます。 そんな主人公がある友人との出会いで上記の事件を供養する為に旅をすると言う物語です。 この主人公の様に過失で大量に人を殺めてしまった者でもお釈迦様は導いてくれるものなのでしょうか? またこの主人公はどの様に罪を償えば赦されるのでしょうか? 皆様、実体験を書いてる中、私は架空の話と言うのは心苦しく思いますが、どうかお言葉を賜りたいと存じます。 よろしくお願い致します。
先日、曹洞宗のお寺でお参りしていましたらご詠歌が聴こえてきました。 御詠歌は各宗派にあるものなのでしょうか。 夜勤前、緊張感の中、お参りしていましたが偶然歌を聴き心が癒されました。 御詠歌とはキリスト教の讃美歌のようなものですか。以前より興味が あり質問させていただきました。
不躾な質問をお許しください ある書籍を見て、自分も宝篋印陀羅尼の功徳にあずかり滅罪をしたいと思いました ですが自分のような在家の分際が口に唱えても大丈夫なのか心配です どうか諸大徳のご意見をお聞かせください、お願いします
お世話になります。 久々にこちらに投稿します… 主人が亡くなってからというもの、生活でも何か選択肢があると、 どーしたらいいのかなー夢でいいからヒントをちょうだい、夢で何かしら答えをちょうだい、お願いね… と、声をかけています。 ただ、亡くなった人にはお願い事をするものではないと最近、なにかのネットで拝見しました。 仏になられて、誰しも、仏様に無事を願ったり、〜でありますように、、みたいなので手を合わせがちだと思うのですが… あまり良くない事なんでしょうか?
大学で仏教の授業を受けてから、仏教がとても怖い教えだと思うようになってしまいました。 仏教は怖い教えではないですか?
実家が浄土真宗という事もあり、瞑想に縁が無く、なんとなく勉強もしてこなかったのですが、最近になって仏教の瞑想に興味を持ち、インターネットでざっくり調べてみました。 ですが、まだ分からない部分があり疑問がいくつか解けないままです。 そこでhasunohaのお坊様方に瞑想について詳しく教えていただきたいと思い質問させていただきました。 まず前提として仏教の瞑想には止(サマタもしくはシャマタ)と観(ヴィパッサナーもしくはヴィバシャナ)の二種類があるということ、法相宗の瑜伽や天台宗の止観は止と観を包括することまでは分かりました。 ただ分からないのは禅宗の坐禅と密教の阿字観です 禅は禅定という言葉からして止なのかな?と思ったのですが、臨済宗の公案によって自己を見つめる、というスタイルは観と言えなくも無い様な気がします。 阿字観や月輪観も一見止に思えますが、ウィキペディアの古式の阿字観瞑想の項には、奢摩他(シャマタ)と毘鉢舎那(ビバシャナ)と書いてありましたし、真言宗のお寺のサイトには「阿字観は観を止より重視する」と書かれていました。 真言宗や禅宗のお坊様、或いは仏教の瞑想に詳しい方がいらっしゃれば、お聞きしたいのですが座禅や阿字観は止ですか?観ですか?それとも瑜伽や止観の様に両方を包括するのでしょうか? もし知識としてご存じないなら、実際に瞑想をした体感からくる答えでも構わないので教えてください。 よろしくお願いします。
私は深い呼吸がとても苦手です。 そのため体は慢性的な酸素不足のようで、声も小さく覇気がありません。 深い呼吸をすると、胸のあたりがムズムズして気持ち悪く落ち着かないです。 これは体に異常がある訳ではなく、恐らく精神的なものです。 例えばですが… ジェットコースターに乗った時、「キャーッ!」と叫ぶ人と、「…っ!」と声を出さずに体を固めて身を守ろうとする人の2種類がいると思います。 私は圧倒的に後者です。声を出したら体の力が外に発散されて振り落とされてしまうのではと思います。 私は体が常に緊張状態で、肩に力が入りやすく「肩が上がっている」ともよく言われます。 何故こんなにも体が緊張しているのか考えたところ、私は浅い呼吸をして常に緊張状態でいることで防御体勢を維持し、自分を守ろうとしているのではないかと思いました。 呼吸に苦手意識があるだなんて人には相談しづらく、お坊さんなら深い呼吸が上手な方が多いのでは?と思ったので質問させて頂きました。 ご回答頂けると嬉しいです。
婚家の信仰している宗派と、私が馴染みある宗派が異なり、受け入れられずにいます。 婚家の宗派を否定するつもりはないのですが、先日も義父が亡くなった際、親戚一同で読経したのですが、私には唱えられませんでした。罰当たりかもしれませんが、冷めた目でしか見る事ができません。 私の実家は婚家とは別の宗派で、信仰が深い訳ではありません。 しかし、やはり小さい頃から仏事などで唱えていたお経の方が心地よく感じられます。 また、私自身の卒業した大学が仏教系の学校で、一般教養の中に入っていたのが、その宗派の授業だったものですから、そちらにも親しみがあります。 今回、私に病が見つかり、心の拠り所として、精神的に落ちつけそうな、写経をしたいと思っています。 私が写経したいのは、般若心経ですが、婚家の宗派は般若心経ではありません。 このような時にはどうすれば良いでしょうか。読経は皆と一緒にすべきですか? また、写経は私の気持ちでしても、良いものなのでしょうか? 拙い文章で申し訳ありませんが、教えていただきたく、お願い致します。
日本の仏教において救いとはどのような事なのでしょうか? 墓参りに行く寺の住職によく話しかけられるのですが 悩み事の話題になっても一切皆苦なので諦めろ的な話しばかりで 1度もスッキリしたことがありません。 寺で人生相談自体が間違っているのでしょうか?
お寺様で 色々おうかがいしたい事がある場合 事務所で聞いたらいいのか?誰に聞くのがいいのかが いまいち わかりません。御住職様に直接聞く事は あまりしない方がいいんでしょうか 聞く人によって違う時があるので 困っています。 ご住職様方はどういう話なら 心よく 答えていただき どういう話しなら 違う人に聞いて欲しいものなんでしょうか?
わたしの家には仏壇がありません。本家ではない家なので生まれた家にもありませんでした。 神道では特に家業があるお宅は家に神棚があったりします。 幸い近い家族親戚みな存命で仏壇を置く予定もないのですが、そういうとき仏様(ご先祖というのではなく観音様などの仏様です)をおうちでまつることはできないのでしょうか? 家である仏様をお祀りしたい、とおもったとき仏壇以外の手段ってありますか?それとも家でまつるのはあまり良くなく、頻繁に近くのお寺にお邪魔した方がいいのでしょうか? 通お寺でお札などを正月に買ったりするので、ちゃんとした居場所みたいなのをつくってあげたいと思っています。 また、道教のお守りや神道のお守りも大事に持ってるので、仏教一筋ではないから家で生半可な気持ちで仏様の居場所などをつくるのはよくないかな?とも思っています。 変な質問ですみません。
初めまして。 現在お付き合いしているお坊さんがいます。 もうすぐ誕生日なので前から欲しがっていた法衣着衣時でも身に付けられる、シンプルな腕時計をサプライズで渡そうと思っているのですが、何か素材やデザインでタブーなものはあるのでしょうか? 今は文字盤とベルトが黒で、ベルトの素材は皮のものを検討しております。 予算がなく高価なものは贈れませんが、彼に喜んでもらえるよう選びたいです。お忙しい中このような質問で恐縮ですが、教えていただけると嬉しいです。よろしくお願い致します。
またよろしくお願い致します。 私は今まで、告別式等で、御坊様があげる「お経」とは 亡くなった人が迷うことなく浄土に辿り着くようにと、 お祈りをしている感じに捉えていました。 しかし、本日、NHKのテレビを見ていたら、 「お経」とは亡くなった人のためではなく、 残された人のために、あげていると聞いて びっくりしました。 これは本当でしょうか? 私は既に終活を始めていますが、 後継者等がいない夫婦なため、最終的に一人になって 自分にとって残された人という存在が無い場合は、 「お経」は必要無いということでしょうか? もう一つ、疑問があります。 よく「亡くなった人の魂を慰める」という言い方を聞きますが、 亡くなった人の魂は、今、生きている人が慰めてあげなくては いけないほど、悲しんでいるということでしょうか? この「慰める」という言い方が気になります。 以前、テレビで見たのですが 夫が病気で激しく苦しみながら息を引きとった時、 奥様が泣きながら「あなた、やっと楽になれて良かったね」と 声をかけたそうです。この気持ち、よく分かります。 たとえ病気で亡くなった人も、痛み・苦しみを持った肉体から 解放され、浄土で安らかにニコニコしていてほしいです。 だから「慰める」という言い方は、浄土でも苦しんでいるみたいで、 違和感があります。