hasunohaの僧侶の皆様方、こちらで幾度か質問させていただいておりまするると申します。 プロフィールに記載しておりますように、私はうつ病再発予防のために現在も服薬を続けております。 治療を続ける中で自分の心の問題を薬に頼り切りにせず、自身で調和が保てるようになりたいと思い坐禅を始めました。 坐禅の習慣を続けていくにつれて以前より確実にパニックや不安に陥る頻度が減り、日々を落ち着いて過ごせるようになりました。 また坐禅をしている際に、自らの内に湧いた雑念を冷静に見つめてその雑念から離れる瞬間を幾度か体験し、とても安らかな気持ちになれました。 そして、道元禅師の「ただ坐禅に打ち込む姿にこそ仏がある」という教えを、ほんの片鱗ですが理解できるようになりました。 ただ私は過去の質問で相談いたしましたが、何があっても我が身を救ってくださる阿弥陀様の教えも信条の根っこに抱いており、阿弥陀様の優しさが好きです。 坐禅をする者を阿弥陀様はどう見ていらっしゃるんでしょうか。 逆に、阿弥陀様を信じる者が坐禅をして悟れるのでしょうか。
夜遅く申し訳ございません。 僕は今年26歳になります。浄土宗総本山知恩院おてつぎ運動にも参加しています。 毎日勤行は行っています。 家族親族にいつも言われるのは、なぜそこまで若いのに仏教に興味あるのか、仏教を信仰するのは年老いてからだと。 信仰の自由を知らないんですかね。歳が何歳でも、仏教、浄土宗の教えを信仰してもいいですよね。 なぜ浄土宗かといいますと、出身の高校が浄土宗系の高校であったため、浄土宗の授業がありまして、そこで興味を持ちました。 心理の学校の先生でも、融通念仏宗の僧侶をされながらカウンセラーをされておられる方がいらっしゃいます。 その先生とはすごくお話していて面白いのでいつもお話をしているんですが、僕がこの歳で仏教信仰するのはおかしいですか、と尋ねたところ、驚いてはいらっしゃいましたが、すごく受容してくださり、こちらとしては嬉しいという答えをもらえました。 しかし、まだ自分の中にはほんとにいいのかなという気持ちがあります。ひとりで法然上人二十五霊場の寺院を訪れ、参拝し、御朱印をいただくのが好きなんですが、やはりそこらへ行けば周りの目が気になります。 なんで若いのにここに来てるの、という目線を感じます。 最後に、この歳で自ら菩提寺を探し、浄土宗の教えを信仰することはおかしいことでしょうか。 長文、ご拝読ありがとうございました。 合掌
最近仏教に興味を持ちました。 浄土真宗では、南無阿弥陀仏と称えれば救われるというのを知りいろいろ調べてみました。 阿弥陀仏の生起本末を疑う事なくそのまま受け入れお救い頂ければ浄土へ成仏を叶えていただける。 これは凄い!と思い早速自分もと思いましたが、さっぱり上手くいきません。 どうやら疑蓋というものがある為に阿弥陀仏の本願を聞き入れる事ができないようです。 ところがその疑蓋は自力で外す事はできず、阿弥陀仏に外して頂くとの事でした。 どうやって外して頂くかといえば、阿弥陀仏の生起本末をよく聞き受け入れる。 でも、疑蓋がある為に聞き入れられない。 堂々巡りです。 疑蓋とかの自覚は全く無いし、知覚出来るようなものでも無いのでしょう。 法話などは一度も聞いた事は無くネットで調べてるだけなので、いまいち理解が足りないのかもしれません。 法話を聞きに伺う時間の余裕は、全く無いのですが、ネットで調べているだけでは、疑いが晴れることは無いのでしょうか?
今年母の新盆なのですが、私は東京なのですが埼玉にお墓があります。 自宅にお坊さんに来てもらうか、お墓のほうに行ったほうがいいのかわかりません。 後、お膳やお供え物は毎日新しいものに変えるのでしょうか。 それからマンショんで部屋が狭く人数座れませんそんな時はどうしたらいいか、 座布団を買ったほうがいいのか 仏壇の隣に祭壇を置くスペースもあまりありません そろそろお坊さんにお願いしたいのですがまずどこでやるのががわかりません。 迎え方や送り方もどのようにしたらいいかわかりません。お墓から連れてくるには遠すぎると思うんですが どうしたらいいでしょうかマンションでやるかお墓でやるか。 大好きな母に幸せになって欲しいです。迷ってしまったら悲しいです。 姉が言っていたのですが お盆前にお墓参りに行くものなのでしょうか 後コロナ対策で今どんなやり方がありますでしょうか どうか教えて頂きたいです。よろしくお願いします
先月父を亡くしました。 本当に仲の良い家族で、いつも一緒にいました。家族思いの父が本当に大好きです。父はいつも周りから羨ましがられているくらいでした。 その日も普段通り仕事から帰ってきて、たくさん話をしました。いつも通りの夜でした。頭が痛いと言って普段から頭痛持ちなので、暑さもあり、水分を取るようにお茶を渡したり薬を渡したりしました。本人もマシになったようで、ご飯を食べたりしていました。 夜中に変ないびきをしていて、見に行くと意識がなく、すぐに救急車を手配しました。 病院までなんとか頑張ってくれましたが、亡くなりました。 なんの覚悟もありませんでした。 私含め、家族みんな信じきれない様子です。いつも帰って来る時間に帰ってこない、座っている場所にいないのが辛すぎます。 私が夢を叶え、もうすぐ働く姿も見せられなかったし、定年後、行きたがってた海外旅行にもいけませんでした。後数年で定年だったのにと思うと私達のために精一杯働いてくれた父が無念でありません。亡くなったことも本人は気づいているのか、、などずっと考えてしまいます。 私たちが精一杯生きて、いつか大好きな父と再会できますか? 父は亡くなった愛犬とも再会できていますか?
大学院に通う22歳です。 将来、浄土真宗本願寺派で得度させていただきたいと考えています。 しかしながら、実家は寺院ではなく、無宗教で所属寺院もなければ、現時点で私は門徒でも無いため、どのように立ち回ればよいのか悩んでいます。 近隣に本派の寺院はあるのですが、学生の身分で足を運ぶのはすこし勇気がいることで、なかなか難しいのが現状です。 もともと宗門大学で4年間仏教について学び、より深く学びたいと思ったため、今年4月からは同大学の大学院に進学しました。 得度したいと思うに至ったのは、僧侶として生計を立てていきたいという訳ではなく、この大学で4年間過ごしてきたなかで様々なご縁を頂き自分の中で信仰心が芽生えたこと、またもっと深く知りたい学びたいと思ったこと、そして自らが仏教をこの先も研究していく過程においてやはり実践者として知見を心得ることは重要になるのではないかと考えたからでした。 正直なところ、このような動機で得度したいと言って良いのか、お門違いで身のほど知らずなのではないか、と考えることもあります。この点についてもご意見を賜りたいと共に、こういった場合はどのように動き、ご縁をいただくのが良いのか、ご助言をいただきたく思っています。 何卒よろしくお願い申し上げます。
長文失礼します。Youtubeで地獄という動画を見て個人的にどうかなと思ったので質問させてもらいます。 よく自殺したら地獄へ行く。両親より先に死んだらさいの河原で石を積みあげ、無益な殺生や戦争などで人を殺したりするとそれに対応する地獄へ行き罪を償うと拝見しました。また転生の際は前世の行いによって生まれ変わる条件や生物までもが決められると知りました。欲深く生きていると豚、嫉妬深いと蛇といった感じでした。私にはそれが理解出来ません。 皆仕事や受験で他人を蹴落として上に上にと高みを目指し時には他人を恨みそして欲望の限りお金を儲ける。無益な殺生であれば蚊やゴキブリといった虫を誰もが殺すし戦争であればお国の為にと戦った兵士が何故地獄へ行くのか。自殺した人が地獄へ行くのもどうかと思います。現世でいじめやパワハラ、生きにくい世の中に絶望してその人にとっては楽になりたい、この苦しさから逃げたい、生きている方が地獄だという思いで自殺すると思います。なのに死んでからも地獄は理不尽ではないでしょうか?両親より先に死ぬのにも病気や事故、天災といった理由でもさいの河原で石を積みそして地獄へ行くのはおかしいと私は考えています。 地獄、あの世も時代と共に変化する必要があるのではないでしょうか?自殺した人で地獄へ行くのは殺人などの重い罪を償わず逃げる為に自殺した人は地獄へ、現世で苦労した末に自殺した人は次の人生では幸せな人生を送れるようにするべきです。また仏様はその人が越えられない壁は人生に作らないと聞きましたがその人が壁を越える事ができなかった時のことは考えているのでしょうか? 是非、お坊さんの意見を聞きたいです。
初めてご相談します。納骨を前に、悩んでいることがあります。この度、父を亡くし、父の強い希望で、我が家の家族のために、墓の敷地をある浄土真宗のお寺から購入していました。父は急逝だったため、お坊さんや墓の今後の引継ぎなど、簡単な経緯しかしらないまま、亡くなりました。 昨日、父の一周忌がありました。母はまだ気持ちの整理がつかないため、父の遺骨は家に置いておきたいと言います。ただ、震災などが起こった際には、遺骨をかかえて避難することは年齢的にも無理だと言っていた中で、ある出来事がありました。 一周忌の法要で、お墓のあるお寺さんで、お経をあげて頂きました。 同日、何組か1時間おきに、法要の予約が入っているのがわかりました。 そのためか、父の生前の名前を間違えていました。もう一方の部屋で待たれていた家族のご苗字でした。父のための大切な法要が間違えられたことに、非常に悲しみを覚えてなりません。このようなお寺にお世話になるべきか悩んでいます。どうしたらよいでしょうか。宜しくお願い致します。
物凄い盛況ぶりのなか、くだらない上に、人によっては失礼と感じられるかもしれない質問ですみません…; 私は趣味で漫画を描いていて、お寺に関連するキャラクターもいつか描いてみたいなと思っています。自分なりに色々調べているのですが、あくまで趣味の範囲のものですので、直に取材に行くようなことはなく…この度、快適インターネットでお坊さんに直接聞けるサイトがあるということで思わずおおっ…となってしまいました。 いつもお世話になっているお寺さんのご住職から、祖父が亡くなった時に「今まで好きだった人が亡くなった途端に不浄な存在になるわけないだろう」と言われ、葬儀場に泊まるのをずずいっとされた経験があります。 確かにその通りで、昨日までおじいちゃん死なないで~とか言っていた人が怖い存在になるわけではないと納得はしたのですが、それでも10年たった今でも葬儀場の横を通るのはなんだか怖いし、無人の集合墓地とか、廃病院の感染症病棟の跡とか、かつて生きていた人がいる場所を通るのはちょっと怖いです。だからといって、不浄だから?と聞かれると、不浄とは…?となります。 そこで思うのは、毎日敷地内にお墓がある環境で生活していらっしゃるお坊さんが言う「不浄なもの」って実際は何ですか? お坊さんが怖いものってあるんでしょうか?…不浄なものですか…? また、その「不浄なもの」というのはホラー映画や漫画等に登場するキャラクターの中に存在するのでしょうか? 長くなってしまってすみません。よろしくお願いします。
いつもお世話になっております。 仏教の教えに興味があり、ちょっとかじろうかななんて思っています。 実家は浄土真宗なのですが(葬儀やお盆のときにお世話になる程度)、他にも様々な宗派があり、宗派の中にも宗派(?)があることを知りました。 「これは、闇雲に勉強しても自分に合ってるところを見つけるのは難しいぞ」と思ったのですが、つまるところ「いの一番に尊敬できるウンメイの人を探したい」と言っているようなものだなとも思い、迷子になってしまいました。 あらかじめご縁のあるところにお世話になるのもいいかなと思うのですが、祖父の金ピカで豪奢なお仏壇や、来てくださるお坊さんと価値観が合わず、自分で他の宗派を探そうと思っています。 どのように探せば、いわゆる「推し」の宗派を見つけられるでしょうか。 それとも、無理に探すものではなく、「推し」のようにある日突然めぐりあうようなものなのでしょうか。
今、中村元先生の「原始仏典」を読んでいます。そこで色々な経典からお話を引っ張ってきて本を書いているので面白いしわかりやすいです。でも、この本を読み終わったらもうちょっと踏み込んで経典を読んでみたいとおもうようになりました。 そこで、皆様のおすすめの経典・これだけは読んでおいた方がいい経典などを教えてください! 私が読んだことがあるのは般若心経だけです。よろしくお願い致します🙇🏻♂️
はじめまして。毎日夜に読経をしています。 すること自体は落ち着きますし、ありがたいのですが、基本的に怠け者なのでやりたくない時も出てきます。 出家された方は朝に夕に祈念されているわけで、この程度の事で音を上げていて申し訳ないのですが、「こんなことをしていて何になるのかなあ」という迷いや、「やらないと良くない事が起きるのでは」というような妙な不安、一日さぼると二日三日とどうでもよくなってくる心が出ます。 どのようにしたら薄くなるのでしょうか?
浄土真宗について勉強しています。が、少々わからないことがあり、質問させていただきます。 諸法が無我であることを鑑みると、阿弥陀仏や極楽浄土も我ではなく実体的な本質を持たないということになるような気がしたんですが、お寺で聞くお坊さんがのお話からはあまりそういった印象を受けません。この点は、僧侶の方々はどのように理解されてらっしゃるのかお聞かせ願えたら幸いです。 唯信鈔文意や自然法爾章にそれに近いことが書いてありましたが、やはりお寺できく阿弥陀仏の救いの話とは若干の距離感を感じます。やはり阿弥陀仏や極楽は実体として捉えるのが主流なのでしょうか。
南無阿弥陀仏と唱えるときには目は、開けるものですか閉じるものですか、それとも半眼でやるものですか?
先日、千日回峰行を2回も行われた酒井雄哉さんの「一日一生」という本を読みました。とても読みやすく、酒井さんがこれまでの人生や行を通して学ばれた人生におけるものの考え方や、日常の小さな幸せに気づかせてくださる本でした。 ところで、千日回峰行のようなきつい修行は止めるなら死ぬ、というルールがあるみたいですね。このような感情を持ってはいけないのかもしれませんが、なんだか馬鹿馬鹿しい、と思ってしまいました。 『毎日毎日仏様にお祈りし、行をすることで、いったい世の中の何の役に立つのか?』と疑問に思いました。 千日間毎日山の中をぐるぐる回ってお祈りしても、今あらゆることで困っている人々が助かるわけじゃないですよね? お坊さん方に失礼なことを言っているのは分かっています。ただ純粋に疑問に思ったので質問してみました。
仏教の教えでは、自殺した人は地獄へ落ちると書いています。しかし、酷いいじめを受けたり親の暴力に耐えれなかったりして自殺する人もいると思います。そういう人も含めて地獄に落ちますか? もし落ちるなら、それは可哀想すぎるなと思います。最近だったら木村花さんがあんな酷い目にあい1人で抱え込んで自殺しました。彼女みたいな人も地獄に落ちるんですか?仏様の慈悲はないのでしょうか? 回答よろしくお願いします。
自分も相談させていただいたことがある立場で恐縮ですが、素朴な疑問です。 お坊さんはこちらのサイトだけに限らず、普段からたくさんの人に相談されているかと思いますが、 それって肉体的にも精神的にも疲れたりしないのですか? もちろん疲れるとは思うのですが、「もうヤダヤダ!(;_;)」みたいなモードにはならないのでしょうか? 私は普段から人に相談されることがそこそこある方かと思いますが、重めな内容で一日4件以上になると、もうヤダヤダ!モードになり、かなり疲れます。 もしそうならないのであれば、もともと器が大きいのか、修行で修得したものとかなのでしょうか?
いつもお世話になっております、愛する夫を亡くしてから、なんとか毎日生きています。亡くなってからリビングと寝室の壁一面に思い出の写真を飾りどこを向いても主人の顔が見られるようにしています、2人で暮らしていたのでそうすることでいつも主人と一緒にいる気持ちでいました、先日そうやって暮らしている私に父親が、そんなことは未練でしかない誰もそんなことまでする人はいない夫はもういないとちゃんと自覚して前を向いて歩くようきつく言われました、もういないんだとはっきり言われたのは初めてで頭ではわかっているのですが急に身体が重たくなり何もできません。もういないわかっていますが、できるだけ家の中は2人で過ごしたままの状態にしていますこれも未練でしかないのでしょうか?これでは主人は成仏できないのでしょうか?いくら私が寂しくてもどうかどうか主人は安らかであってほしいと朝晩は仏壇の前でお経をあげています。 どう想ってどう生きるのがいいのかわかりません、教えて下さい。
充実した人生と空っぽの人生はどちらの方が価値がありますか? 価値という物差しを捨てる方法はありますか?あれば捨てたほうがいいですか?
先日、テレビで高野山の内部や空海さんの事をあつかった番組を見ました。 空海さんは世界が滅びたとしてもいらっしゃる。祈り続けている。 というナレーションがありました。 私は空海さんのお名前は知っていましたが、どのような高僧であられたのか等、全く知りません。 お忙しい中、申し訳ありませんが空海さんは何故、世界が滅びたとしても祈り続ける。とおっしゃったのか?そしてどのようなお坊様だったのかを教えてください。テレビで高野山を見て神秘的な何かを感じました。 同じ仏教でも真言宗のお坊様は印を組まれたり、ご真言をおとなえしたり、ご法要の時に特別な法具を使われたりととても一般人にはわからない部分(神秘的)があるように私は思いました。 真言宗の事を分かりやすく教えて頂けないでしょうか? 急ぎませんのでどうぞ宜しくお願いいたします。