先日、ご相談させて頂いた際にはお世話になりました。 そのことと関係してご質問させていただきたいことがございます。 20年前にお付き合いしていた男性が、5年前に銀行を辞めて実家のお寺を継いで僧侶になっていたことを、とあるお寺のホームページを見て知りました。 お付き合いしていた時、彼は法律事務所でアルバイトをしている大学生で、その法律事務所での就職が決まっている状況でした。当時は「地元に帰る気はない。帰ってこいって言われてるけど3年くらい帰ってない」と言っていました。 法律事務所から、銀行へ転職し、そこからの新発意で、その時の年齢はおそらく38歳だと思います。得度式を受け、正式に僧侶になるまでにどれくらいの期間を経て、彼はどのような勉強をしたのか、そしてそれからはどのような修行や勉強をしているのか、とても気になっています。一般的なことで良いので教えていだけたらと思います。よろしくお願いいたします。 また、彼のお寺は周りに何もない、里山にひっそりとあるお寺のようですが、そこにいつもいるとゆうことでしょうか。 …(今頃、どんなお坊さんになっているかしら。。。)
前回からの続きです。 以前、仲良くなりたいお坊さんがいると相談しましたが、 偶然にも共通の知り合いがおり、連絡先を交換することができました。 仲良くなったのは良いのですが、会話の中で同期の仲間とよく風俗に行っていることが発覚しました。 知り合って間もないものの、彼は誠実で真面目な人だと思っていたのに、女性をお金で買うようなこと(私はこの世で一番悲しいことだと思います…)を平然としていることに、ショックが隠せません。 御祈願など彼に執り行ってほしい、お経を上げて頂きたいと思っていたのに、このような人間に私の悩みや胸の内を話しても理解されないのではないかと思ってしまいます。 彼氏に話したら、笑っていましたが『そういう場所を利用するのは良いけど、客の自分達にはバレないように配慮すべきだね』と言っていました。 上記の理由でいきなり交遊を断つのも失礼なのはわかりますが、気分的に我慢できません。 護摩、供養を上記の理由で断っても構わないでしょうか? 彼より上の立場の方に聞かれた時には別の理由話すつもりです。 彼氏はこのまま彼に御祈願を任せても良いと言っていますが、気持ちの持っていきようがありません。 仏道に邁進すべきはずの人がなぜこのような事を? それとも、お坊さんには良くあることなのでしょうか? 彼との縁を継続するにせよ、辞めるにせよ、悩むばかりでお諭しを下されば幸いです。
友人と話している際に仏教の話になりました。 仏教ではこの世は苦しみであり私たちは輪廻の中にいる。と以前聞きました。 hasunohaで教えて頂いた事や今までの自分の経験から考えたのですが、 輪廻から抜け出した時に本当の世界が見えるのか。 この世が苦しみの世界ならば、苦しみを減らす生き方が楽なのではないか。という答えにたどり着きました。 それを友人に伝えたところ、その考え方は「諦め」だと言われました。 今ある世界が本当の世界! 死んだら無になる、輪廻などない! そんな事をしたら生きている意味がなくなる! この世は地獄なんだよ! 苦しみを減らす生き方は諦めである! と言われたのですが、 私の考え方は諦めなのでしょうか?? 生きていたら、(自分から見てですが) 良いことも悪いことも同じだけあって、 良いことには感謝すれば良いし、 悪いことには苦しみがあって、 それをどう受け取るかで世界は変わると思うのです。 そうやって肉体と精神で苦しみを減らして行くのは諦めや逃げですか?? ご助言いただけましたら幸いです。
先日、祖父の家の物置小屋を探検していました。私が知っているのは、祖父の家は江戸時代から13代続く家です。 そのため、小屋にはなんか凄いの入ってそうだな、という木箱や竹籠が沢山あります。 色々見ていたところ、主に朱塗りのお膳セットや陶器でした。 しかし、父がふと この木の棒なんだ? と、足元の樽の上にあったものを手に取ると。 仏像でした。私は仏教は好きでお釈迦様の教えなどは好んで知ろうとするのですが、仏像に関しては分かりません。 その仏像は30センチくらいの立像で観音様でしょうか。 スラッとしていて右手は人差し指と親指をくっつけて上を向き、左手は下を向いている美しい仏像でした。 仏像の乗っている台の下には 先祖代々永享元年 と書かれており、調べてみると室町時代だとか。 もうひとつも立像で、胸の下あたりに法界定印(調べました)を組んだ お地蔵さま?お釈迦様?です。 これは、年代は不明です。10センチから15センチくらいです もうひとつは、20センチくらいの扉のついた彫り物です。3センチ程の人物が3人いて、御一方は不動明王様でした。 長くなりましたが、無造作に埃まみれの小屋において置くのも嫌だなと、見つけたのも何かのご縁かと思い、汚れを拭き取り綺麗にしました。 これらは、仏壇で一緒に手を合わせていいものでしょうか。 良ければ教えてください。曹洞宗です。
祖父、父母がなくなり、また、菩提寺の住職もなくなり、菩提寺の住職は遠方のお坊さんが通い出来てくれています。自分の葬儀は知り合いのお坊さんにお願いしたいと思っています。何十年も菩提寺としていたお寺を、お坊さんが常時おられるお寺に菩提寺を替えたいと考えていますが、どのように考えていったらいいのでしょうか。
私は、信仰するということの概念について悩んでいます。何故なら、私は、神様や仏様の存在を信じてはいるのですが、それは人間の心の内にある概念に過ぎず、形而下で捕捉できるものではないと思っており、この考え方が取っ払えない以上は心底から神仏を信仰することは叶わないのではという疑念を抱いているからです。 私がこのような考え方をもったきっかけは、遠藤周作さんによる著書「沈黙」を読んだことです。ご存知でない方に簡単にあらすじを説明しますと、キリスト教の弾圧があった江戸時代に、ある宣教師が拷問の末に棄教したという報を受けてその弟子が真相を求めて来日し、救いを求める弱い隠れキリシタンや彼らを拷問にかける大名と出会いながら、仏教との相違や絶対神の是非について考え、葛藤するというものです。 私がこの小説で衝撃を受けたのは、諸行無常の考えを礎とした仏教を信仰しているはずの大名が、キリシタンだというだけで農民の魔女狩りを行い、キリスト教の弾圧に執心していたことです。 宗教というのは、固まった思想を提示することで人々の心を安定させたり、民衆を統制させる側面があるとは思うのですが、劇中のように政の道具としての扱いにとどまったり、科学が普及した現在において金稼ぎのダシに成り下がってしまったりする宗教文化を多々見ると、もしかして心の底から神仏の存在を信仰することは最早なり得ないのではないか、という疑念を感じずにはいられません。 こうした疑念に輪をかけるのが、自然の脅威です。現在猛威を振るうコロナウイルスや、台風、地震などといった災害は、私たちにとっては害悪でしかなく、早期の収束や撲滅を願われるばかりですが、それらの現象は我々の嘆願とは関係なくただ事実として存在するのみであり、これらを既成の宗教概念によって説明するには限界が生じるのではないかと思います。それを考慮すると、我々に都合の良い神仏への疑念が益々助長されるばかりです。 私は、目的によっては多少の方便は許されても良いと思っていますが、神仏を本気で現実のものと信じている方々のことを考えるとどうしても後ろめたいものを感じます。こうしたことについて、僧侶の皆様はどう思われるのでしょうか。冒涜と思われるのでしょうか。それとも、これも信仰と思われるのでしょうか。 大変無礼な質問であると承知しておりますが、何卒宜しくお願いいたします。
ご相談させてください。 40代後半の僧侶(副住職)の方と知り合い、デートをしたり旅行に行ったりする仲になりました。 そんな中先日私の妊娠がわかり産みたい旨を伝えましたが、責任は半分なので中絶費用は半分・同意書は自分でなんとかしてください・病院にも一人で行ってくださいとだけ言われました。 どうしても産みたいと言うなら会社や身の回りの人に言い生活の術を奪いますとまで。 そんな矢先に流産してしまい、命に対しての罪悪感でいっぱいでとても苦しいです。 彼からは、お互いに少しクールダウンして向き合いましょうと言われました。 とにかくとにかく苦しいです…
曹洞宗の在家の朝のおつとめはどの順番で読んだら良いですか? 宗務庁から出ている「曹洞宗在家勤行聖典」という経本を買ったのですが宗務庁という官から出ているという事を通販で買って家に届いてから知りできれば民間から出ているものを買いたかったという思いです。 理由は他の本も買ったのですが偉そうな印象を受けるのです。 節約をしつこく勧めてきたり、こう生きねばならないという事を断定してきたり、そもそも官から出ていることをホームページではわかりずらくし、曹洞宗代表のようなデザインのホームページにしているのにもずるさを感じてしまいます。 そんなところから出ている経本なので「大丈夫か?」という思いがあります。 いくつもお経などがあるのですが、朝のおつとめは「開経偈→懺悔文→三帰礼文→三帰礼文和訓→三尊礼文→摩訶般若波羅蜜多心経→本尊回向文→四弘誓願文」という順番になっています。 できれば永平寺式にいきたいのですがこれと永平寺式は異なったものでしょうか? それとお線香やリンを鳴らすタイミングはいつでどのようにすれば良いでしょうか? それと昼や夜にお経を読む場合は何をどのように読んだら良いでしょうか? 来週の火曜日に初めて買った仏壇が届き今まで仏壇にふれる事が皆無なものでなにもわかりません。 教えてください。 お願いします。
道元禅師様について書かれた本を読んでいました。 そこに「本来本法性 天然自性身」と教典にあるのに、なぜ修行をしなければならないのか、と道元禅師様は当初疑問に思っていたとありました。 その疑問から、如浄禅師の「坐禅はすべからく身心脱落なるべし」という言葉で解き放たれた。とありました。 そこで... ①なぜ修行をするのでしょうか ②修行とはなんでしょうか ③修行の目的はなんでしょうか ④なぜ道元禅師は如浄禅師のその言葉で、この疑問から解放されたのでしょうか。 曹洞宗の和尚様はもちろん、いろんな宗派の、いろんな方のご意見を聞いてみたいです。 私は強がっていますが、精神的に弱く、心が不安定になりやすいです。 いろんな方に支えられ、助けられて生きていると実感しています。 常に100%の心ではなくて、上下することの少ない、安定した心を持てるようになりたいです。
(編集部より。投稿の一部を変更しています。回答者の指名はできません。) この前、「ヤクシニー」の件で質問です。「コロナウイルス」が、鬼神って事は、「守ってくれる」んですか?それとも、「 かからせちゃう」って事ですか?
私は、仏教の勉強がしたいです。 おすすめの本などはありますか?
実家が寺で、仏教系の大学に通っている僧侶見習いです。 僧侶が社会システムにおいて必要とされる意義が「人に仮初の夢を見せて心のケアをする」以外しか見いだせなくてこれからの将来に絶望しています。 僧侶は、昔みたいに医者の代わりや教員の代わりをする訳でもなく、月回向や葬儀関連で人々の心を慰めるくらいしかしていません。 僧侶が利益(りえき)を得ることを人々は否定します。実際、聖職であるが故に本来は金銭を対価に何かをするというのはあまりに俗に塗れているような気がします。布施はそれ自体が神聖なものであることは分かっています。 しかし結局のところ、(観光という商売をしている寺は除いて)寺やそこにある僧侶という存在は「嘘をついて金を檀家さんや信者さんから貰う」ものに過ぎないのではないか?と思ってしまっているのです。 道徳を説くならそれはカウンセラーでも哲学者でも構わないわけです。 では僧侶が持つ他とは違うアイデンティティとは何かと言ってしまえば「仏教という仏になる為の指針」なのですが、結局のところ今の今まで人の身で完全に釈尊(応身)と同じステージに立った者もいない訳で。 本当に仏となることが出来るかも分からない教え、しかも数多の偽典があるであろう経典の内容を引いてきて、悩める人々に滔々とそれを説く。自分の中ではこれから自分がなる僧侶という職は、そんなもののように思えてしまいます。 私よりも遥かに経験を積み、たくさんの経典を読んだここにいらっしゃるお坊さんの方々に、私の悩みをただ、聞いて欲しいです。そして願わくは、自分の中の仏教に対する、僧侶に対する悪感情を解く何かを教えて欲しいです。 散文的になってしまい、申し訳ありません。宜しくお願いします。
いつもお世話になっております。 この様な時間に申し訳御座いません。 今年の3月に最愛の父を亡くしました。間もなく5月に四十九日を迎えます。 生前の父からは、「人としてあるべき姿」や数え切れない程の処世術を学びました。 私が人間関係で苦悩する時には、一番の相談相手でした。又、就職氷河期で行き迷う私を、正社員になれるよう全力で応援してくれたのです。 人の魂がこの世にとどまれるのは、四十九日の間であるそうですね。 あの世にあがった魂が、この世に降りて来れる季節などは御座いますでしょうか。父の存在を感じることができたら、心強いです。 お教え頂けると幸いです。 宜しくお願い致します。
浄土真宗のお勤めについてお聞きしたいのですが、正信念仏偈を読んだあとに御文章を読むのでしょうか? あと御文章は聖人一流章や信心獲得章など5つにわかれていますがどれを読んだらいいでしょうか? それとお仏壇の前でお勤めをする時の作法があれば教えてください。 最後に家のお仏壇が浄土真宗でありながら坐禅はやってもいい事なのでしょうか? よろしくお願いします。
いつもお世話になっております。主人が亡くなりもうすぐ四十九日です、今までは主人かいた頃に戻りたい、今、主人が好きだったものに囲まれて過ごしている日々が止まってほしいと思ってました、でも時間だけは誰もが平等に過ぎていく、1秒ごとに新しい朝を迎えるごとに、これは確実にいつか主人に会える日が少しずつ近づいているのだから、やっぱり時は止まらず戻ることもなく毎日進む方がいい夜になると明日に向かってゴーと思うのに、朝になると毎日横に寝ていたはずの主人がいない現実をつきつけられます、四十九日が終わったら私は仕事復帰です、今までは1日職場であった嫌なこたや面白かったこた、夕飯を食べながら話すのが日課でした、体調が悪い時はいつも主人が仕事を休んで病院につれていってくれました、これからはそうはいかず何でも1人でしなくちゃいけない、はじめての1人暮らしです、仕事は続けなければ生活ができません、このまま仕事に復帰して1人で生きていけるのか不安でたまりません、どうしたらいいか教えて下さい。
葬儀の際に ぎょうじょうぶん というものがあると聞いたのですが、 いったいどういったものなのでしょうか? いろいろ調べてみたのですが、全く出てきません どういった漢字を書くのかもわかりませんでした ぜひご教示ください
はじめまして。 私には少し難しいので、こちらでご質問させていただきたいと思いました。 私事なのですが、仏教アートに触れる機会がございまして、関係者の方に、「先のイベントまでに好きなお釈迦様の手の形を一つ決めておいて下さい」と言われました。 あまり仏教には詳しくないものですから、調べてみても様々なお釈迦様の手の形があることにまず驚くばかりで、決めかねております。 もしよろしければ、アドバイスをいただけますでしょうか。 よろしくお願いいたします。
火の鳥鳳凰編で、死後、輪廻しても虫やカメにしかなれず、この世がなくなるまで永久に人間になれないという輪廻が描かれていました。(「火の鳥 茜丸 トラウマ」などで画像検索するとそのシーンが出てきます。) 漫画ですが、こうした輪廻は仏教的なのでしょうか? 仏教の輪廻の教えは、どのような救いがあるのでしょうか?
二度目の投稿です、以前、主人が亡くなって26日目ですというタイトルで相談させていただきお二人のお坊さんから、目には見えなくても、あなたが想うとき必ずご主人は優しい眼差しであなたを見守ってくれています四十九日が過ぎても、ずっとそばにいてくれますよと回答いただき涙が溢れ心から嬉しくありがたく思いました、でもまた私の心は揺れています、毎日、時間ごとに分刻みに揺れ動きます、大変失礼な言い方だとわかっているのですが、お坊さんだって生きている人間なのにどうして亡くなった人がそばにいるとわかるのでしょうか?大切な人を亡くしてしまったらそのようにおもわなければ生きていけないから、そういう考え方をするんでしょうか?わからないんです、いくらそばにいてくれると思っても私には見えないし声も聞こえない何も感じない主人と出会って30年以上、今年の6月は結婚28年目でした、今思えば不思議なことに去年の結婚記念日には私が初めて手作りのケーキを作り、その前の年は主人が初めて、いつもありがとうと書いたケーキを買ってきてくれました そして娘がお腹にいる時の日記を読み返していたらなんの記念日でもないのに3月13日パパがママにピンクの花を買ってきてくれましたと書いてあり3月13日は主人の命日です、それと私はブラックなコーヒーが大好きだったのに主人がいなくなってからそれが突然飲めなくなり主人の好きだった甘い缶コーヒーを毎日飲んでいます、出会ってからずっと会えない日もあったけど声を聞かない日はなかったので亡くなってからずっと声が聞こえない手を握れないのがたまらない毎日作っていたお弁当はキッチンに置いたままです、失礼な質問かもしれませんがどうか教えて下さい。
ヤクシニーの能力って、どんな感じ何ですか?植物(木とか、)生やしたり、「8つの音」で、人に化けるって、本当ですか?