小一の息子が最近、『隕石が怖い、どうしたら悟りを開けるの?』と真剣な顔で聞いてきました。理由をよく聞いてみると、以下のようなことでした。 宇宙に関する教材で、地球にはその昔たくさんの隕石が落ちて来たこと、そのせいで恐竜は絶滅したことを学んだ。さらに、これからも落ちて来る可能性があると聞いて、隕石に対して強い恐怖を感じている。 また、別の日にTVでたまたま見た仏教の番組で、人は何度も何度も新しい人生を繰り返し生きる輪廻の話を聞いた。そこから脱するためには悟りを開くしか方法がない、ということを知った。 だから、自分がお爺さんになって死ぬまでに隕石が落ちて来なかったとしても、次の人生がまた来てしまうから、早く悟りを開かないと、隕石の恐怖からは逃れられない!と考えて先の質問をしたようです。 毎晩思い出してしまい、眠れなくなるほどで、本人はかなり真剣に悩んでいます。色々と安心させる言葉をかけてみましたが効果なく、、専門家の皆さまのお力をお借りできますと大変有り難いです。よろしくお願いいたします。
竹内まりやさんの「いのちの歌」が好きです。歌詞も曲も心にしみるものがあります。 ところで、竹内まりやさんは、見た目、あまり仏教徒ではない感じがするのですが、「いのちの歌」って仏教の教えに通じますか? あまり仏教の知識もないのですが、諸行無常とか諸法無我にも通じるのかなと自己解釈しております。 私自身、門徒ですので、特に浄土真宗の僧侶の皆さんにお聞きしたいと思います。よろしくお願いいたします。
菩提寺がないまま仏壇を買いました。 開眼式と過去帳の記入をしたいのですがいきなりお寺に連絡してやってくれるものなのでしょうか? 宗派は曹洞宗です。
とても親しくしているお坊さんがいます。 すごく大好きで、信頼しているんですが、SNS等で、私以外の女性と仲良くしてるのを見ると、やきもちしてしまいます。 遠距離で、中々一緒にいられないのもあって、寂しくて辛いのもあります。 お坊さんが、忙しいから仕方ないとは、思いつつ、もっとかまってほしいです。 わがままして迷惑にならないように、気を付けてるけど、かまって攻撃するのは、迷惑ですか? 本人に聞けないので、ここで聞いちゃいます。
皆様がこの不安な世の中を生きるために苦しい胸の内をご相談されているなか、このような質問をするのは忍びないですが、是非ともお教え願いたいです。 最近、神社やお寺をお参りしていて、四国に住んでいるのもあり、四国霊場のお寺を順番は関係ないですが行ける時に行ける範囲の所へ足を運んでいます。 昨日、子供たちを旦那が見ていてくれるというので、少し距離はありましたが香川のお寺にお参りにいきました。 14時を少し過ぎて到着し、御朱印帳を用意して納経所へ行ったのですが誰もいらっしゃらず、インターホンがあったので鳴らしました。 次にお寺に行った時はお線香をあげさせてもらいたいな、と思っていたので、初めてだし質問してみようかなとワクワクしながら待っていました。 すると別の建物から若め?のお坊さんが出てきてくれたのですが、あからさまにめんどくさそうな顔をされ、会釈をしても、お願いしますと声に出して言ってみても無視され、御朱印帳もぱっと取られ、お釣りの小銭も御朱印帳の上に置いて返されました。 お礼はなんとか言えたのですが、内心すごくショックで、お線香のことも聞くに聞けずでした。 自分なりに大事にしている御朱印帳なので、小銭置きにされたのは正直腹が立ちましたし、それなりの時間をかけて子供たちも旦那に預けてお参りに行っていたので本当に残念でなりませんでした。 しかし家に帰る途中、ひょっとすると神社とお寺の御朱印を一緒にしていたのがいけなかったのかな、それとも緊急事態宣言が解除されたとはいえ、このご時世の中来ないでほしかったのかな、と頭によぎりました。 今まで行ったお寺では、特に何を言われるでもなく、ようお参りくださいました、とまで言ってくれる方もいたので、謎です。 もしかして、14時くらいからお坊さんのお昼ご飯は始まるのでしょうか。 なにか私に悪いところがあれば、納得もいきますので、どうかお教え頂きたいです。
父の勧めで武蔵野女子学院、短大卒、浄土真宗本願寺派の門信徒です。5年前位からビハーラ僧侶の資格を取り、生きとし生けるもの、万人の苦しみに寄り添いたいと思うようになりました。今年、中央仏教学院専修課程に願書を提出希望なのですが菩提寺の印が必要です。寺に相談した所、税金がかかる?との事でした。私が通学、得度を希望する事によってご住職にご迷惑をお掛けする事になるのでしょうか。
いつもお世話になっております。私が最近通い始めた法座(読経会)の お寺の住職先生が、法話や説法を邪道とみなしているようです。 法座が終了し、私がノートを片手にお経について聞きに伺うと、 「本当のことを知っているのはお釈迦様しかいないから、説いてはいけない」 「僕のいったことも参考程度に耳に挟んでおいてね」 「説いちゃいけないって書いてあるから(確かに法華経にはそんな文言が あったと思いますが)」 「もしそれを説いて、その人の言ったことを信じてしまったら、変な新興宗教 ができちゃうよ」 「お経を直接読んで、自己解釈するように」(逆にそちらの方が危険な気が… 例:理趣経。それに漢文や中国語の文法が理解できない人はどうするの でしょうか)などと言い、教えていただくことができません。それどころか、 最後の文言のように、かえって危険な事態を招きかねないことを言われます。 法句経ーダンマパダには「教えさとせ」という文言があったような 気がします。対機説法という概念もあったと思います。 それに、積極的に法話会を開いている先生方もいらっしゃいます。 この先生のおっしゃることは、信頼しても良いのでしょうか? 私個人的には「う〜ん…」といったところです。
今、死んだら主人に会えますか? 主人は私を抱きしめてくれますか? いつもそばにいてくれると思い込むことで日常が過ぎています、でもやっぱり1人は寂しいなんの希望もない、ただただ主人に会いたい、会えるなら死にたい
もうすぐ50歳になりますが、昔恋人の死をきっかけに日蓮宗にご縁を頂きました。もともと強い霊媒体質で数年前に霊障で苦しんだ時、一心に祈り法華経に感銘を受けご住職に従事し出家を志していましたが、仕事や家庭の事情で断念しました。 それから数年が経ち子供も手を離れやはり法華経、お祖師様、お題目に惹かれ、読誦すると感涙して有難い、ご縁を頂けたことに感謝の念がこみ上げてきて尼僧になりたい思いが諦めきれません。 もし女僧になる事が出来たら、少しでも人の役に立って苦しんでいる人に寄り添って法華経の素晴らしさを伝えていきたいです。 ですが、年齢的にも、仕事もしているし難しいでしょうか。今は正社員ですが、来年以降はパート勤務になれるかもしれません。 ですが、現在師僧になって頂ける方もありません。 お忙しいところ申し訳ありませんがよろしくお願いします。
子供のことでトラブルがあります。 妻が、それを親交のある住職に相談しているようですが、2人で居酒屋に行ったり、それも自宅から離れたところに出向いたりしているようです。 相談を受けた住職として、こういう対応はよくあることなのでしょうか。 なんとなく、相談はお寺でさせていただく印象があって。。 アドバイスいただけたら幸いです。 よろしくお願いします。
お坊さんには失礼な質問と思い躊躇ったのですが、やはり聞いておきたいので質問 します。お釈迦様は無常を説き、人生は無価値である語ったと聞いたのですがお坊 さんという立場は価値のある人生なのでしょうか。私は今、瞑想をして個人的に 心を浄化をいている最中で気になって質問しました。大変不躾にな質問で申し訳 ありません。 生きとし生けるの全てが幸せでありますように。
初めての相談です。 私はこれまで、人を憎み、虫を殺し、ネットのルールも守れず、盗みを働き、 友人の物も盗み、勉強もせず、人に嘘をつき、家族に嘘をつき、酷い生き方をしてしまいました。 私はあの世について調べていました。 そしたら死んだら悪人は地獄に行く、 現代人の半数は地獄に落ちる、地獄は存在する、臨時体験で地獄を見た、という恐ろしいことが書いてありました。冗談ではない、子供の教育の為の嘘ではないのだと。 懺悔をしても、心は報われません。 死ぬのが怖いです、自主しようと思いましたが、元々家族に信頼されていないと思い、周りに影響する酷いことをしたのだと 罪悪感で、震えが止まりません。 後悔しても仕切れません。 本当に私は、悪い人間です。仏教の教えを知らずして、悪い事ばかり頭が働いてしまう自分が情けないです。 今こうして平然と生きていることが、嫌になります。犯罪者の身なんだと、見守ってくれているご先祖様や、仏様に申し訳ない気持ちでいっぱいです。 過去にした出来事は、戻すことは出来ない 自分を悔みます。 怖くて苦しいです。 これからが不安になりました。いい行いを これから出来るのか、完璧にならなくては、好きなことを我慢しなくては。 毎日自分のしたことの罪悪感で心が潰れてしまいます。 現実は厳しい世界です、仏教の教えも、 やはり厳しいのでしょうか、六道輪廻という言い伝えがあるのをネットで拝見しました。苦しいことを繰り返す。 人はまた人には生まれ変わることはない。 アニメを見過ぎている私は、転生する、 命は循環している。そう今まで思っていました。そう信じて生きてきました。 限られた命、好き放題してしまって、情けないと思いました。地獄は 炙られて、切り刻まれて、叫び声が聞こえて、骨になり、活活と鬼が言うと、また体が戻される。 想像しただけでも、恐ろしいです。 いい人になりたい、親孝行をしたい、 でも自分は死後、49日も、恐ろしいです。臆病者です。純粋な頭の悪い人間です 長文で申し訳ありません。 返答よろしくお願いします
六道輪廻では、ヒトと動物を明確にカテゴライズする立場があるかと思います。(あくまで大雑把な区切り、とする見解があることは知っております) 遺伝子工学(ヒトの遺伝子を含んだブタの誕生、デザイナーズベイビーなどの事例)やペット葬儀が発達する昨今、葬儀をすべき生命としなくてもよい生命の区切りを、どのようにお考えでしょうか? もしその区切りが恣意的なものであれば、無縁仏は困るから供養してくれ!みたいな話は一体なんだったのでしょうか?というか、過去の葬儀文化そのものが、疑わしく思えてしまいます。 まさに諸行無常や諸法無我を見える化するような技術が、更に発展していく見通しです。仏教界は死刑制度などの発信にも慎重なようですが、個人的には今こそ仏教の出番だと思います。 https://www.google.com/amp/s/www.kyoto-np.co.jp/articles/amp/149140 そのあたりは、どんな状況になっているのでしょうか?宗派ごとの見解というより、お坊さん個人ごとの発信ばかりを目にします。組織的な働きかけを期待して待つのは、間違っているのでしょうか? よろしくお願い致します。
ある方から新興宗教への誘いがあり、お経というものに初めて触れました。 自分の人生色々あったので、懺悔とかそう言った意味での読経してみようと思い始めました。 ただ、その人と付き合い会うたびにその人のお友達を紹介され、その友達によるとSNSの情報は間違っているだのとか、 他の宗教は正しいお経を読んでいないから、うちのは正しい教えに沿っているから功徳があるとか、 持っているお守り、お札は功徳を得るには邪魔だから処分しろとか、読経を続けていれば社会がどうなろうと守られるとか言われました。 お守りやお札はとても大切なもので処分することは耐え難いものです。 宗派によってそう教えるものがあるものでしょうか。 そう言ったことを言われこの宗派での読経は止めるか迷っていますが、読経自体は辞めたくないと思っています。
子どものことを「がき」ということがありますが、これは仏教語の「餓鬼」からきた言葉なんでしょうか?
いつも多くのお知恵をありがとうございます。 今日は仏教のことで疑問に思う点があり、質問を失礼します。 仏教と一口に言っても、多くの宗派があるのですが、 死後すぐに仏となり極楽へ。 という宗派や、閻魔様の裁きを受ける。とする宗派もあります。 生まれてから死ぬまで、ずっと一つの宗派で、一族皆が同じ宗派であれば良いのでしょうが、 親戚であったり、知人であると宗派はどうしても変わってきてしまいます。 その際考えるのが、 私の死後に行く世界は、 相手の方のいく世界とは異なっており、 あの世で再会することは叶わないのではないか。 一方は四十九日と言わず極楽へ行かれ、一方は裁きを待ち、地獄へといくかもしれない。 などといった具合です。 実際にあった事例としては、法要の時に「今彼女は輪廻のためにあの世で修行をし、乗り越えているところです」というような説法を受けたのですが、別の宗派ではそうではないのだろうな。と、思ったような事です。 実際には死んでみないと分からないことなので、考えても仕様のないことだとは思うのですが。 お坊さまの皆さまは、こういった宗派による教えの違いにから生じる、死後の世界の違い(四十九日の捉え方、三途の川を渡る渡らない)など、どうお考えになられているのだろう。と、質問を失礼しました。
先日、父親の葬式がありまして代々檀家としてお世話になっているお寺のお坊さんに来ていただいたのですが、お坊さんの態度とか振る舞いがなんとも偉そうなカンジで親類一同イヤな思いをしました。 まずはお経をお願いするためにお寺に電話した時から上から目線で日にちや時間を指定されました。 お経をあげる前にお布施を前払いで要求したりお布施の金額を指定してきたりするのは普通なのでしょうか? 今まで参加したお通夜ではお経の後に親族を励ますような説法をしてくれたりしているとこが多かったように思うのですが、事務的にお経をあげて挨拶もそこそこにさっさと帰って行かれました。親戚の叔父さんの話では、お坊さんが代替わりしてから檀家からの悪評をあちこちで聞くらしいです。お坊さんは世襲で檀家の者はお坊さんを選べないんですかね? 私の兄弟も檀家をちがうとこにしたいとか言ってました。インターネットで調べても最近檀家を抜ける人が多いとか出てますが、しかし先祖代々お世話になっていますから簡単にはかないようにも思いますし… どうなんでしょうね? 宗派に不満とかは無いので同じ宗派の別な檀家に入れてもらったりするのは可能なのでしょうか? あるいは本山に連絡してお坊さんを変えてもらったりできないのでしょうか? これから行事毎にそこのお寺にお願いして来ていただくことが苦痛になりそうです。 最近インターネットでお坊さんを派遣したりするビジネスがあると聞いて馬鹿々々しくて笑っていたのですが、今回自分がこのような体験してみると派遣して来ていただいたほうが正しいような気がしてきました。 今の時流がひとつ理解できました。 どうするのがよいとおもわれますか?
位牌を作る時、文字の色はどういう基準で決めたら良いでしょうか?
有難き法縁を最近恵まれて、僧侶になることを考えている者です。仏道に生きることは自分にとって良いだけでなく、それを世に広めることは非常に大きな意味があると思っています。教行信証を読んで、これは広めるべき教えだと深い感慨を得ました。寺族でない者が僧侶になる道もいろいろと調べました。 しかし、私が今まで積んできた学業を捨てて僧侶になることは本当に社会にとって最善なのか、と思いました。(現在、米国の大学に在籍し工学を勉強しています。ちなみに浄土真宗の寺に毎週通うようになったのもこの地です。) もちろん、そこには自分が工学をやりつつ仏教もやるという煩悩もありますが、私がここまで工学の勉学を多額の費用が掛かるにもかかわらず進められてきたのも立派なご縁で様々な人のおかげです。技術者になれば社会に貢献できるとも思います。寺族でない者が別の職業に就きつつ僧侶になり寺を開くことは現実的でしょうか。 親鸞聖人は非僧非俗といいました。関東の農民とともに農作業にも励んだと聞いています。今日でも、別の職業に就き世の荒波に揉まれつつ、僧侶として(例えば、毎週日曜日に自宅をお寺にするなど)人々とともに仏道を歩むのは意味があることだと思うのです。 休日を持たない覚悟はあります。また、通常の寺という形に囚われず、布教所のように小さな形でも仏法を広められるのなら良いと思います。しかし、寺族でない人が別の職を持ちつつ寺を開くケースを拝見したことがありません。実際のところどうなのでしょうか。
浄土真宗では往生即成仏を説きます。これは非常にありがたいのですが、煩悩具足の凡夫たる私としては死ぬ前に涅槃、あるいはそれに準ずる安らぎの境地に至りたく思います。これは叶わぬ願いでしょうか?