ある方から新興宗教への誘いがあり、お経というものに初めて触れました。 自分の人生色々あったので、懺悔とかそう言った意味での読経してみようと思い始めました。 ただ、その人と付き合い会うたびにその人のお友達を紹介され、その友達によるとSNSの情報は間違っているだのとか、 他の宗教は正しいお経を読んでいないから、うちのは正しい教えに沿っているから功徳があるとか、 持っているお守り、お札は功徳を得るには邪魔だから処分しろとか、読経を続けていれば社会がどうなろうと守られるとか言われました。 お守りやお札はとても大切なもので処分することは耐え難いものです。 宗派によってそう教えるものがあるものでしょうか。 そう言ったことを言われこの宗派での読経は止めるか迷っていますが、読経自体は辞めたくないと思っています。
子どものことを「がき」ということがありますが、これは仏教語の「餓鬼」からきた言葉なんでしょうか?
いつも多くのお知恵をありがとうございます。 今日は仏教のことで疑問に思う点があり、質問を失礼します。 仏教と一口に言っても、多くの宗派があるのですが、 死後すぐに仏となり極楽へ。 という宗派や、閻魔様の裁きを受ける。とする宗派もあります。 生まれてから死ぬまで、ずっと一つの宗派で、一族皆が同じ宗派であれば良いのでしょうが、 親戚であったり、知人であると宗派はどうしても変わってきてしまいます。 その際考えるのが、 私の死後に行く世界は、 相手の方のいく世界とは異なっており、 あの世で再会することは叶わないのではないか。 一方は四十九日と言わず極楽へ行かれ、一方は裁きを待ち、地獄へといくかもしれない。 などといった具合です。 実際にあった事例としては、法要の時に「今彼女は輪廻のためにあの世で修行をし、乗り越えているところです」というような説法を受けたのですが、別の宗派ではそうではないのだろうな。と、思ったような事です。 実際には死んでみないと分からないことなので、考えても仕様のないことだとは思うのですが。 お坊さまの皆さまは、こういった宗派による教えの違いにから生じる、死後の世界の違い(四十九日の捉え方、三途の川を渡る渡らない)など、どうお考えになられているのだろう。と、質問を失礼しました。
先日、父親の葬式がありまして代々檀家としてお世話になっているお寺のお坊さんに来ていただいたのですが、お坊さんの態度とか振る舞いがなんとも偉そうなカンジで親類一同イヤな思いをしました。 まずはお経をお願いするためにお寺に電話した時から上から目線で日にちや時間を指定されました。 お経をあげる前にお布施を前払いで要求したりお布施の金額を指定してきたりするのは普通なのでしょうか? 今まで参加したお通夜ではお経の後に親族を励ますような説法をしてくれたりしているとこが多かったように思うのですが、事務的にお経をあげて挨拶もそこそこにさっさと帰って行かれました。親戚の叔父さんの話では、お坊さんが代替わりしてから檀家からの悪評をあちこちで聞くらしいです。お坊さんは世襲で檀家の者はお坊さんを選べないんですかね? 私の兄弟も檀家をちがうとこにしたいとか言ってました。インターネットで調べても最近檀家を抜ける人が多いとか出てますが、しかし先祖代々お世話になっていますから簡単にはかないようにも思いますし… どうなんでしょうね? 宗派に不満とかは無いので同じ宗派の別な檀家に入れてもらったりするのは可能なのでしょうか? あるいは本山に連絡してお坊さんを変えてもらったりできないのでしょうか? これから行事毎にそこのお寺にお願いして来ていただくことが苦痛になりそうです。 最近インターネットでお坊さんを派遣したりするビジネスがあると聞いて馬鹿々々しくて笑っていたのですが、今回自分がこのような体験してみると派遣して来ていただいたほうが正しいような気がしてきました。 今の時流がひとつ理解できました。 どうするのがよいとおもわれますか?
位牌を作る時、文字の色はどういう基準で決めたら良いでしょうか?
有難き法縁を最近恵まれて、僧侶になることを考えている者です。仏道に生きることは自分にとって良いだけでなく、それを世に広めることは非常に大きな意味があると思っています。教行信証を読んで、これは広めるべき教えだと深い感慨を得ました。寺族でない者が僧侶になる道もいろいろと調べました。 しかし、私が今まで積んできた学業を捨てて僧侶になることは本当に社会にとって最善なのか、と思いました。(現在、米国の大学に在籍し工学を勉強しています。ちなみに浄土真宗の寺に毎週通うようになったのもこの地です。) もちろん、そこには自分が工学をやりつつ仏教もやるという煩悩もありますが、私がここまで工学の勉学を多額の費用が掛かるにもかかわらず進められてきたのも立派なご縁で様々な人のおかげです。技術者になれば社会に貢献できるとも思います。寺族でない者が別の職業に就きつつ僧侶になり寺を開くことは現実的でしょうか。 親鸞聖人は非僧非俗といいました。関東の農民とともに農作業にも励んだと聞いています。今日でも、別の職業に就き世の荒波に揉まれつつ、僧侶として(例えば、毎週日曜日に自宅をお寺にするなど)人々とともに仏道を歩むのは意味があることだと思うのです。 休日を持たない覚悟はあります。また、通常の寺という形に囚われず、布教所のように小さな形でも仏法を広められるのなら良いと思います。しかし、寺族でない人が別の職を持ちつつ寺を開くケースを拝見したことがありません。実際のところどうなのでしょうか。
浄土真宗では往生即成仏を説きます。これは非常にありがたいのですが、煩悩具足の凡夫たる私としては死ぬ前に涅槃、あるいはそれに準ずる安らぎの境地に至りたく思います。これは叶わぬ願いでしょうか?
仏教では生まれれば一切皆苦 四苦八苦 輪廻からの解脱(生まれないこと)を目指すそうですが 反出生主義とある程度重なる所がありますか?
いつもお世話になっております、先月四十九日の法要が終わりとてもほっとした自分がいました、四十九日の法要がいかに大切かということがわかり素晴らしい1日になったと思っています。その後から仕事に復帰しました朝晩読んだことのなかったお経をあげることで1日がはじまり1日が終わります、朝お仏壇に行ってきますと言い帰ってきたらただいまという毎日、ふと思うんです最愛の主人はいつもどこにいるんだろうと、毎日うちで可愛がっていたペットたちと留守番をしてくれているのか、仕事中もずっと私のそばにいてくれるのか?今どこにいるのと毎日何度も思います、仕事の帰りは運転しながら毎日号泣してしまうのですが、そんなとき私の前を走っている車が主人と同じ車だったり信号待ちをしてるとびっくりするくらい大きくてきれいな雲をみたり飛行機雲がみえたりします、そんな時は主人が合図してくれてるんだと思うのですが、夕べは主人が生きててよかったって主人に抱きついている夢をみて目覚めるとやっぱりいないんです、たまらないです、すぐにお仏壇の前に座り私からは行くことはできないから、あなたが迎えに来て私の手を引っ張って連れて行ってと泣いてました、いま主人はどこにいますか?私の姿は主人から見えているんでしょうか?教えて下さい。
いつもお世話になっています。 相談などをさせていただいているときに、懺悔をすれば地獄に行かない。 極楽浄土へ行けるなどといっていただけるのですが、本当にそうだと、誰も地獄に落ちないのではないでしょうか。やはり悪いことをしてしまった人はどれだけ懺悔をしても地獄に行くのではないかと思います。 宗派によっても差はあるかと思いますがお答えいただけますと幸いです。
学習性無力感に陥っているベテラン(若手も?)僧侶をよくお見かけします。そして、それは無理もないと感じています。現場の本音を、差支えない範囲でお聞きしたく思います。 法話で何を話しても響かないし、葬儀や法事の際も、飾りとしてしか求められてない本音を感じるし、一見したところ支持してくれている方も、実は事なかれ主義の惰性だったりで、、。傍から見ていても気づくので、いたたまれない時がややあります。そんな現実の中、気力を振り絞って活動しているお坊さんをよくお見かけします。私にはそう見えますし、時折ボヤくお坊さんが実際におります。責めるつもりは微塵もありません。 ここで本音を語るのは難しいとは存じますが、虚しくなることはないのでしょうか?また、なぜこんな状況が長年続いてしまったのか?今後はどうする方針か? 考えをお聞かせください。 宗教家の宿命なのかもしれませんし、開き直って腐敗していく方も多いようなので、、そんなマジメなお坊さんにこそ、もっと暴れまわってもらいたいです。
仏壇を購入し必要な物を揃えている途中なのですが、位牌は誰の物を置いたら良いのでしょうか? 父方、母方の祖父、祖母は亡くなりました。 両親は生きています。 インターネットで調べても名字が同じの父方の祖父、祖母の物を置くというものや、置きたければ母方も置いてもよいなどありよくわかりません。 標準的な考えを知りたいです。 あと、位牌の大きさなのですが何を基準に考えたら良いのでしょうか? 15号という小さな仏壇を購入したのですが、利用している仏具店からは4寸を勧められました。 大きさを測って仏壇にあててみても大きい気がするのですが基準がよくわかりません。 仏壇と位牌の大きさの関係の基準を教えていただきたく思います。 それと位牌の表の名前の上にある梵字などの一文字はどれをつけたら良いでしょうか?僕は曹洞宗なのですが、位牌の名前の人が違う宗派の場合どうしたら良いでしょうか?また同じ宗派の場合は「空」でよいのでしょうか? よろしくお願いします。
(編集部より。お礼ありがとうございます。回答者の指名はできませんのでよろしくお願いします) 前回このhasunohaで相談させてもらった時に、小林覚城様に答えてもらったことで自分が今後どうするべきでどういう心構えで生きていけばいいかわかったような気がして少し心が楽になりました。 本当に感謝申し上げます。 まだまだ人間的に未熟ですが、しっかりとした人間になれるようにがんばります。 数多くの相談に乗ってる中、自分だけ個人的なお礼で申し訳ございません。
おはようございます。 いつもありがとうございます。 今、毎日朝起きてすぐ、正信偈をあげています。実際に聞いたことがない(覚えていない)のでYouTubeを参考にしています。 発声とか発音とか節回しとか色々あるとは思うのですが、このご時世なのでお伺いを立てる方も方法もなくて、毎日聞きながら読経していると「ここは音を出しづらい」 「ここは最後の音が消えている」と疑問ばかり湧いて、集中できなくなることも多々あります。 お恥ずかしい質問なのですが、こんなにモヤモヤしながらお経ってあげてもいいものでしょうか? しかも、正信偈でいいのでしょうか? 朝起きて、あげるお経が何かもよくわかっていません。 このままだと我流になってしまうのですが、それは冒涜にはならないでしょうか? あと、他にも出来ることがあれば(読経でも写経でも)やりたいと思っているのですが、皆目見当がつきません。 お手数おかけしますが、色々教えていただけると幸いです。 よろしくお願いします。
以前とある聖職者(?)が言っていました。「宗教家は失業すればいい。失業するために頑張っている」 つまり必要とされなくなるために、存在しているのだと。 仏教離れが進みつつ、仏教以外にも悩みを解決する智慧が豊富にある今の時代、お坊さんはどんな気持ちで活動しているのでしょうか? 仏教を大切にすることと、僧侶として生計を立てるのは別であり、どうしても資本主義とは相容れない部分もあるかと思います。そのあたりは、どうお考えなのでしょうか?そこがわかると「宗教とカネ」という悩ましいテーマの理解が進む気がしております。 個人的には、未来の職業僧侶は、少数精鋭になるかと考えています。作家やユーチューバーのように、一部の人が活躍し、その他は趣味のような活動になり、狭き門になるのかと。 率直な意見をお聞かせ下さい。よろしくお願い致します。
先日買った上置きタイプの15号のお仏壇(高さ45センチ)を和机(高さ35センチ)にのせて高さ調節のために9ミリの板を9枚挟んでおつとめをしているのですが、目の高さより8センチほど下にご本尊がきます。 インターネットの情報によるとご本尊は自分の目線より高いところにするとあったり、使いやすいところで良いとあったり色々です。 目線よりお仏壇を高くすると膳引きにりんなどを置いているため、首のあたりまでりんなどがきてしまい使いづらいです。 この場合どうすれば良いのかを教えていただけるとありがたいです。 よろしくお願いします。
今の世の中は情報で溢れています。 スマホって簡単にいろいろ調べることができて、情報で溢れかえっています。 心がツライときや精神的にしんどいときに、 精神的に弱く強くなりたいなぁ 傷つきやすい性格を変えたいなぁと思い、 検索魔になって検索すると、 あれやこれやいろいろ出てきて、 何が良くて何が悪いわけではないと理解していますが、情報が多すぎて、よくわからなくなってきます。 何がホントなのか?何を信じていいのか? きっと私意外にも藁をもすがる思いで、いろいろ検索する人もいると思います。 (確固たる宗教など崇拝してる方は、このような迷いはないかと思いますが…) 信じたいことだけ信じてればいいのでしょうか? 仏教的な目線は下記のことはどのように思われますか? 全ての出来事は引き寄せ? 出会う人や出来事は偶然?必然? 自分に起こる出来事は必ず必要? 乗り越えられない試練はない? 健康に問題があるときは暗示? 仏様にお願い?神様にお願い? 宇宙に任せる? 自分の胸にすーっと収まった言葉こそがご縁があり、その時に、ん?なんか腑に落ちないなって思う言葉は受け入れなければいいのでしょうか? そのような言葉でも後から受け入れるようになるかもしれませんが… 私自身、家に仏壇もあり仏教ですが、正直、意識するときはお墓まいりや法事の時だけです。ですが、今度はお墓があるお寺に仏教講座があるので、参加しようと思っています。 自分勝手な考え、散文、お許し下さい。 お手数お掛けします。よろしくお願い申し上げます。
曹洞宗のおつとめと坐禅のタイミングについてお聞きしたいです。 インターネットで得た情報によると朝のおつとめの前に10分から20分ほど坐禅。夕方のおつとめの後に10分から20分ほど坐禅。とありました。これでいいのでしょうか?また、それ以外に昼の坐禅をしてもいいのでしょうか? それと通販で15号のお仏壇と仏具がセットになっているものを購入したのですが、仏具の色が白で無地の物が届きました。 これは四十九日用のものでしょうか? 通常の時は使わないものなのでしょうか? それと仏壇のろうそくの替え時ですが、短いろうそくを使っているものでおつとめの時新しいろうそくに火をつけて、おつとめを終えて消して、まだろうそくは残っているのですが、次のおつとめの時そのろうそくを使うとおつとめの途中で燃え尽きてしまいます。この場合どのタイミングでろうそくを変えたら良いのでしょうか? おつとめが終わってろうそくが残っていても替えるべきでしょうか? おつとめ中にろうそくが燃え尽きたら替えるベきでしょうか?
まず上置きタイプの仏壇を和机に乗せて座って使ってもいいものなのでしょうか? 次に仏壇に掛ける掛け軸で新金、錆金、上仕立て、もくらんと種類があるようですがどう違うのでしょうか? よろしくお願いします。
今、ご住職がお越しいただくのを待っています、一生懸命自分なりに準備をしてきましたが忘れていることはないかと落ち着くことができません、そんな私を主人は今、みてくれているでしょうか? 何も感じることはできませんが今日は頼むぞ!と主人が言ってるような気もします、どなたか教えて下さい。