いつもお世話になります。 実は、近ごろ気がついたことが、あります。 それは、人間の醜さです。 いじめ 殺人 盗み 性犯罪 子供の虐待 詐欺 セクハラ パワハラ 悪口 ネットの炎上 戦争 独裁者 カルト宗教 弱肉強食の世界 近ごろこんな事ばかりが、頭をよぎるようになりました。 正直 人間の醜さに嫌気がさしてしまいました。 そして人間は死後全員地獄に落ちて然るべきなのではないか?と考えてしまいました。 むしろ人間は、死んだら醜い人間として生まれた罪を背負うべきなのではないか?と考えてしまいました。 現に私のこの書き込みをみてバカにしたり蔑む人がいるかもしれない それが確かな例でしょう。 ちなみに私も醜い部分をたくさん持ってます。 仏教では、この人間の醜さとどう向き合うのでしょうか?
お世話になります 自分は 今仏教を勉強したいと思っています ここには同じようなお考えの質問者様も多数おられて 他の方の回答も読みました ただ仏教の本を読むだけでは勉強にはならず 心から尊敬できる師匠の下で学ぶのが良いという お坊さんのご回答を読みました それで私もそうしたいと思ったのですが どうやったらそのような師匠と出会えますか?? 自分の住んでいる地域で( プロフィールに書いてある職業欄の方が正確な住所です ) 出会えるのでしょうか? 変な話ですが ごく遠い知り合いの地元のお坊さんは ( お客様でした、今は疎遠です ) 女好きで、離婚歴があり 彼女がいるのに私には「 友達 」としか言わず 今女がいないからといっていました ( たまたま彼女さんをお客様として 私のお店へ連れて来て下さり その時、彼女から「 私の彼氏が連れて来てくれた 」という お話をしていて事実がわかりました ( 勿論何事もなかったように接しました ) このお坊さんは典型的な女好きだなと思いました まだばれていない時 彼女さんがいるのに、私のお店で6時間のコースを予約して 店外デートをしてみたいと言っていました ( お金には余裕があるみたいです? ) ( お断りするつもりでしたので、デートはしていませんし 今は疎遠です ) 特に何の関係もなかったですが そのお坊さんは とても笑顔が素敵な方で、お喋り好きな方で 魅力はありました 少し、気になりだした矢先でした(笑) 危なかったです!! ( かなり以前のお話です ) 血液型は関係ないですが その方はAB型で 明るく気さくな反面、いけないことはいけないと とてもハッキリとおっしゃる厳しい面もお持ちでした ( そこにも嫌気がさしましたが ) 話が長くなりましたが 遠い知り合いのお坊さんには このような方もおられ とてもこの方からいくら知り合いでも? 仏教を学びたいとは言えなくて・・・ 心から尊敬できる師匠に出来れば地元で出会いたいのですが どうしたら良いのでしょうか? よろしくお願い致しますm( )m
どうしても気になることがあり、ご質問いたします。 5〜6年ほど前、家族で京都旅行をしていたときのことです。 東山区にある護国神社や高台寺のあたりだったかと記憶しています。 わりと広い坂道を歩いていると、デモ行進をしている団体がやってきて、その中に黒い袈裟を着た優しそうなお坊さんがおられました。 珍しい組み合わせなので思わず注目していると、お坊さんの方もこちらを見ていることに気がつきました。 そして、距離が近づくと、そのお坊さんは私に向かって手を合わせました。 立ち止まっていた私たち家族の後ろに神社があったため、最初はそちらに手を合わせているのかと思ったのですが、父に「お前に向かって手を合わせるんじゃないか」と指摘されました。 たしかに私とそのお坊さんは終始目が合っていたので、私に向かって手を合わせていると考える方が自然です。 でもなんで?どうして?とドキドキしていたのですが、お坊さんは私に手を合わせたあと、そのまま通り過ぎていってしまいました。 とてもにこやかなお坊さんでしたので、全く嫌な気持ちにはなりませんでしたが、通りすがりのお坊さんに手を合わせられたのは後にも先にもこの一度きりなので、不思議な出来事として印象深く記憶にのこっています。 そこで2点ほどお聞きしたいのですが、お坊さんは、通りすがりの誰かに手を合わせることがあるのでしょうか? (それともはやり私たちの思い違いで、お坊さんは神社に向かって手を合わせいらっしゃったのでしょうか) また、そういったことがある場合、お坊さんはどのような意図があって私に対して手を合わせられたのでしょうか? よろしくお願いいたします。
僧侶になりたいと思っています。 私は高校入学をして間もないころにうつ病になり一年間不登校になり、高2の春に通信制高校へ転校しました。 転校後は以前よりも回復し、ボランティア活動へも従事できるほどになっていましたが完全にうつ病が治ったわけでもなく日々人との関りや両親の喧嘩が絶えない家でしたのでそんな家庭のこと、バイトをしておらず親に頼ることへの罪悪感など様々なことに悩みながら過ごしていました。 そんなあるときに、インターネットで日蓮宗のご僧侶の方が主催する唱題の会というのを見つけ、参加してみることにしてみました。 初めて参加したときはびくびくし緊張もしていましたが唱題を進めていくうちに、まるで登山でもしたかのようなすがすがしく心が空っぽになるような感覚を体験し深い驚きと感動を感じました。それから何度か通うようになり僧侶の方のお話を聞くうちに心が軽くなるような、ストレスや悩みを置いていけるような安らぎを感じました。 私は幼いころから今日にいたるまで、一貫して人の役に立つ人の心を支えたい安らぎの手助けをするような人になりたい思っています。高校時代にボランティアを通して東日本大震災の被災地やそこで葛藤しながらも前向きに生きる人たちと触れ合いました。また自分の様にうつ病や家庭のことで悩み苦しむ同級生や友人の姿を多く見てきました。 そのような人たちのために、自分が安らぎを感じた法華経・お題目で人の役に立ちたいと思っています。この様な理由から僧侶になりたいと思いました。 しかし、現実的には師僧の方を見つけることや家庭のことを考えると就職したほうが良いのか、また宗門指定の大学へ進み僧侶になるべく学びその中で師僧を見つけるか、はたまた就職をしてそれから先の人生で僧侶になるかなど日々悩んでいます。また現在もうつ病の気がある私が果たして僧侶になれるのかというのも心配な部分です。気持ちや思いはあるものの現実的な部分が漠然としてしまってます。 唱題の会の僧侶の方とは、昨年末に家庭内が大きく揉めそれが発端で一時期引きこもりのような生活になってしまい、その間唱題会へも行っておらずそれから音信不通になってしまっています。 拙い文が長々となってしまって申し訳ありません。言葉の間違いがありましたお許しください。 どうか、皆様のご意見を頂戴させていただけますようお願い申し上げます。
以前の質問とはうって変わった内容で失礼いたします。 禅宗のお坊様方の中で、ご存知の方がおられましたらお教えください。 Wikipediaの「応量器」の項目に、こんな記述があります。 材質は鉄または土が本則とされ木製は禁じられているが、漆をかけたものは鉄製とみなすとして一般には黒塗りの漆器である ここで疑問に思ったのですが、なぜ木製が禁じられているのでしょうか? 器の腐敗を防ぐため、あるいは木片(ささくれ)がのどに刺さることを防ぐためなのかとも思いましたが、鉄製であれば錆もでましょうし、それがのどに悪影響を与えることもありましょう。 にもかかわらず、なぜあえて木製の器のみを指定して禁じたのか、その経緯をご存知であれば、お教えください。 また、昨今はプラスチックの器が増えておりますが、漆器ではなくプラスチック製を応量器(持鉢)に用いているということは無いのでしょうか?こちらも、お教えいただけましたら幸いです。
私は将来、浄土宗のお坊さんになりたいと思っています。勿論、“修行”する覚悟は有ります。 しかし、浄土宗では、修行はどの位の厳しさなのかは分かりません。禅宗や日蓮宗よりは厳しくないと聞いた事は有るのですが、やはり、仏教は修行有りきなので、浄土宗も厳しいとは思うのですが、どの程度の厳しさなのでしょうか。他宗派の様に、滝行や施餓鬼等もするのでしょうか。 これを御覧になって下さっているお坊様、教えて下さい。どうか、宜しくお願い致します。
瞑想はほんとうに 誰でもできるのでしょうか。 私は昔から はっきりした病名はないですが 体がちぎれるんじゃないかと思うくらいの痛みに悩んでいます。足が地につかない感覚があります。 でも、そんなときに リラックスしよう 深呼吸しようと言われると 腹が立ってきます。 深呼吸?!どうやってこの痛みの中でしろっていうんだよと痛みに堪えるのに必死で そんな言葉を言われると イライラしてしまいます。 そして リラックスって一体なんでしょう。 リラックスがわかりません。 瞑想は体が柔らかくて、 健康で、 心の余裕がある人じゃないと できないものではないでしょうか。 体がガチガチで苦しくてたまらないときに、 そんな時こそ瞑想をと言われますが、 そんなときに瞑想なんてできないのではないでしょうか。 それでも 瞑想はできるものでしょうか。 どっちでしょうか 私の甘えでしょうか。 教えてください
寝ているときは 自分が消滅しているから、 悟ってる状態でしょうか。
素朴な疑問です。 来月法事があるのですが、お坊さんを呼ぶ時、なんてお呼びしていいのかわかりません。 お坊さん? ご住職? 家族で悩んでます(笑) こんな質問で本当に申し訳ありません。 ご回答いただけると有り難いです。 よろしくお願いします。
こんにちは。今日は出家するということの意味について質問いたします。 俗世間は修行の場であるとつくづく思います。この数週間、こちらは夏休みということもあり、毎日仏教について学んだり瞑想したり、とても大きな生きる知恵を得ています。もちろん、知れば知るほど自らの至らなさや愚かさにビックリがっかりして足踏みすることも有ります、仏教初心者ですが残りの人生かけて努力するつもりでおります。 そこで質問です。俗世間は生きてゆく上で避けられない修行の場です。 ですが、出家するということはこの俗的な苦しみを出来るだけ避けて清らかな心にする、悟りに最適の場所を選ぶ、そういうことなのでしょうか。 出家できる環境の人もいればそうでない人もおります。 学校に例えますと、ある専門学校があるとします。そこにいくと専門職につく最適な近道になるわけです。 ところが、学校に行きたいけど状況が整わず行けない人もいます。学校になど行かなくても通信教育を受けたり、別の道は沢山あるでしょうけど、指針がしっかりないのです。 それに、こういう状況を、まあ縁だからしょうがないだろうととることもできるかもしれません。(今世はそういう時でないとか) 出家しないと得られないこととはなんですか? また、出家する人としない人の違いはなんでしょうか? お坊さんがたが、なぜ出家なさって生涯にわたってお釈迦様の教えに忠実に生きて世の中の人々の役に立とうと考えられたのか、ご自身の経験などを教えていただけると幸いです。 子供が三人おりますし、修行のみならず毎日はたくさんの喜びと幸せに満ちていますので、何もほかの人生を望んでいるわけではないのですが、出家されてお寺に従事されておられることが理想的だなあ、とちょっと思ってしまうのです。それは現在に不満があるからなではなく、仏教の生き方がまさに真の道だなあと思うからです。 回答お願いいたします。
ご本尊である阿弥陀如来像の写真をスマホの待ち受けにしているのですが、 今日ふと、「もしかしたら阿弥陀様をスマホに閉じ込めている??」 と心配になりお尋ねしてみました。 鞄には父と阿弥陀様の写真を持ち歩いてもいます。 いつも一緒にと言う思いからです。 カテ違いでしたらすみません、 よろしくお願いします。
ご閲覧頂きありがとうございます。 仏教から見た「他者を助けること」について教えて頂きたいです。 仏教では相手の苦しみを理解し取り除くという慈悲がありますが、どれくらいの意気込み(?)のものなのかよくわかりません。 例えば、困ってる人が近くにいたらできるだけ力になろうと努力する、というくらいなのか 、自分のことを後回しにしてでも助けようとするのか、全てを投げ捨ててでも助けるものなのか、死を覚悟してでも助けるのか…… 仏教ではどのように説かれていますか?よろしくお願いいたします
また来てしまいました。今回もよろしくお願いします。 お坊さんの法話って実際に聞いてみたいと思っています。 普段のストレスから解放されて 心が洗われて また明日から頑張ろうって気持ちになれるんだろうな~って期待と希望に満ちた自分を想像してみたり。 でも、でも、そもそも法話ってどんな話?テーマが決まってたら それは講演? ん~歳だけ取ってますが、無知ですみません。 あと、その時のお布施の金額は...ぶっちゃけいくらぐらいが妥当ですか?
私は先祖代々◯◯◯◯宗なのですが、とある和尚さんとの出会いで真言宗に興味を持ち、真言宗を勉強しています。 月一で参拝するお寺も真言宗のお寺様です。 先祖代々◯◯◯◯宗でそのうち本家の仏壇なども私が見なくてはならないのですが、私は真言宗に改宗したいと考えています。 先祖代々◯◯◯◯宗なのに私の代で真言宗に改宗することは良くないことなのでしょうか? あと改宗するにはどうしたらよいのでしょうか? お寺様に行って改宗したい旨を伝えれば改宗はできるのでしょうか?
父兄は曹洞宗の住職、副住職の僧侶です。 寺族である母が亡くなりました。 その後四十九日、秋春のお彼岸、一周忌、新盆。 何も連絡がありません。 伯母や従姉妹達にも連絡はありません。 亡き母の誕生日に孫達が実家に集まる事も拒否されました。 理由を教えてくれる事もありません。 こちらからの連絡は直接してはならず弁護士を通すように伝えらています。 法要とは故人を偲び、残された遺族が悲しみをのり越えて生きていくために、心の折り合いをつける大切な仏教行事であると思っています。 その機会を尊敬していた僧侶である父兄に一方的に奪われて 驚きと理不尽さと不安で心がいっぱいです。 今年は三回忌になります。 たぶん連絡は来ないでしょう。 お寺で産まれ、一生をお寺の為に尽力した母があまりにも可哀想で不憫でなりません。 今後、僧侶として檀信徒の方々に何を布教していくのでしょうか。 僧侶も人間です。 間違いも犯すでしょう。 保身に走りたくなる気持ちも分かります。 でも、逃げずに向き合う時は必要です。 やってない。俺じゃない。知らない。覚えていない。分からない。 と逃げ回っていても誰も解決などしてくれません。 誤魔化し、嘘をつき、欺くことをやめて 自分の立場を自覚して誠心誠意、他者に対して心を尽くす事を 人して僧侶として今生を生きて欲しいと思っていますが、 無理な願いでしょうか。
今まで様々な事があり(過去の相談内容参照)、異常なまでに取り乱してしまいました。 怒りの煩悩だらけで自分が嫌になります。 しかしどうしても怒りを捨てきれません。 高野山へ参ろうかとも思いましたが、高野山は真言宗で、私は浄土宗です。 そもそも女ですから、高野山には入れない。 怒りの煩悩に苦しめられ抜け出せない私に、現実的なアドバイスをくださるお坊様はおられますでしょうか。 そして、瞑想等で何処か良い場所(できれば和歌山県内)はありますでしょうか。
今現在、出家を考えている38歳、女です。私は今、鑑定師として勤めておりますが、ここまで到達するのに、17年かかりました。何故かと申しますと、言い難いことではありますが、過去にイジメの経験、性的な暴力、犯罪への誘惑、ネット上の誹謗中傷。言い切れないほどの様々な苦難との戦いだらけだったからです。出家したい理由は、欲や戦いから離れたい。嘘を付きたくない。心のざわめきは、もう疲れてしまいました。第二の人生を歩みたいと思っております。しかしながら、出家はどの様にしたら可能なのか、分からずにいます。 ご助言、お待ちしております。合掌。
観音経に出てくる無尽意という方に方について以前よりどういう方か気になっています。 それで、真言宗のお坊様に質問したら80種類位の法門を説く方だと教えて貰いました。 そして、禅宗のお坊さんなら詳しく分かるかもしれないともお聞きしました。 観音経の本や訳を読んでももさっぱり分かりませんでした。
先月に母が亡くなりました。 母は10年以上もの間、寝たきりだったので足も細く歩けません。 浄土への道のりは800里あると知って、ちゃんと浄土までの道のりを歩いていけるのか心配になりました。 御供えにミニカーやミニチュア自転車などをお供えしても良いのでしょうか?
私は転職活動を数年前からしていますが、うまくいきません。いろいろ言われまくりです。価値がない、死ね、女は接待してりゃいいんだよ、等です。 はっきり言って心が折れました。自信をなくしました。 負けるか! そう思えなくなりました。 そこで、お坊さんは心が折れた、自信をなくした事はありますか? そういう時、どう乗り越えられたのでしょうか? お忙しい中、大変恐縮ですがご回答をお待ちしております。 よろしくお願い致します。