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大晦日の日に父と大喧嘩し今も怒りが治りません

新年早々すみません。 大晦日の日、家族で食事をしている際に父と喧嘩しました。 理由は、酔っ払った父が、社会人一年めのわたしに向かって、突然 「お前にサラリーマンは向いていない」 「会社なんてやめて早く嫁に行け」 と怒鳴りながら言いだしたからです。 突然すぎて、なぜそんな事を言われなければいけないのかわからず、怒りと困惑で涙を流しながら、「どうしてそんなことをいうのか」とききました。 するとその様子を見た父は、 「ほら、こんなことを言われたくらいで泣いていて、仕事が勤まるとおもっているのか」「お前は日頃から感謝の気持ちが足りないんだ。上司もきっとそうおもっている。見ているだけでもわかる。」 というので、「会社でのわたしの働く様子も見ないでなぜそんなことがいえるのか」と言い返しました。そもそも父に仕事に対して不満を言ったこたもなく、日頃からわたし自身一生懸命仕事には取り組み、職場の人間関係もうまくいっていると思っています。 その後も「見ているだけでわかる」の一点張りで、泣きながら言い返すわたしに対して、「親に向かってその言い方はなんだ」とまで言ってきました。挙げ句の果てに「もうでていけ!」とまで。 酔っ払った状態であれ、古臭い考え方に腹が立ったのと、何故ここまで言われなければいけないのかがわからず、思わず食事を飛び出し、その後、日がかわっても一度も口を聞いていません。 日が変わった今も父の顔を見るだけで腹が立ちます。どうにか怒りの感情をおさえることができませんでしょうか。アドバイスお願いします。

有り難し有り難し 69
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幸福は不平等なのにその後も生きる意味は?

人生における幸福の量、ある一定の幸福を得るための努力の量、「幸福である」と感じられる幸福の度合いは不平等で、しかも、生まれつき決まっているようなものですよね? だったら、生きていく意味ってなんなのでしょうか? 発展途上国でその日暮らしをしている人たちからすれば、どんなに貧相な食事であっても、一日三食食べられれば途方もない幸せなのに、多くの日本人からすれば、一日三食貧相な食事、というのは不幸な部類だったりしますよね。 金持ちの家系に生まれてくれば、極端な話、親のお金で働かなくても食っていけますが、その一方で、どんなに働いても成り上がれずに貧乏人のまま一生を終える人はたくさんいます。 超進学校では地方の国公立大学に行く人は負け組扱いされて、その一方で地方の国公立大学に行きたくても行けない人が山ほどいます。 容姿端麗でスポーツ万能で成績優秀な人もいれば不細工で運動音痴でアホな人もいます。 後者がとんでもない努力を積んでも、前者と同じくらいの幸せや願望を得られる可能性は途方もなく低いです。生まれつきその人の疾患等はゲノム解析で概ねわかりますし、能力や容姿も同じですよね。知能も筋力も大きく遺伝します。 他人は簡単に努力すればいい、死ぬほどの努力をしない奴がごちゃごちゃぬかすな、などといいますが、自分が相当な努力をしなければ得られない幸福をほとんど何の苦労もなく手に入れていく人間がいるという事実は確かですよね。 努力すればいい、というのは努力が報われる勝者の論理に近いと思います。 世の中には努力が報われない人間は山ほどいる。 それとも、報われなかった努力は努力ではない、とでもいうのでしょうか? 「身の丈に合った幸せ」、などと言いますが、人が皆、生まれながらにして押し付けられた「身の丈に合った幸せ」のレベルに合わせて生きていかなければならないのであれば、そのレベルが低かった人間が、そのことに気づいた後も生きていく意味ってなんなのですか? ある意味人生自体が一種の敗戦処理みたいなものになるわけですよね? 生まれながらに押し付けられた、華やかな人生を送る人たちに比べれば遥かにちんけな「身の丈に合った幸せ」を必死にありがたがって生きていく人生なんて、惨めなものでしかないと思うのですが意見を聞かせてください。 因みに幸福は考え方次第とかいう詭弁が非論理的でとても嫌いです。

有り難し有り難し 138
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2022/11/30

仏様を拝む意味を教えてください。

仏様を拝む意味を教えてください。 例えば、仏様を一生懸命拝んで合格祈願をしても、 全く勉強しなければ合格することはないように、 お願いごとをするために、つまり私利私欲の成就のために仏様を拝んでも、 意味がないように感じます。 (なお、本人が勉強すなわち努力しないと仏様は助けてくれない、  と言う人もいましたが、仏様がそんな選り好みをするとは思えないですし、  思いたくもありません。) むしろ、私利私欲の成就ために拝むならば、 たくさん拝むことはそのまま欲望の大きさにつながり、 これまた心の安寧という意味では意味がないどころか、 欲望を強める結果にもなってしまいそうです。 これらのことは、例えばお坊さんが、信者など誰かのために拝むことも、 そういう私利私欲のために拝むことになり、同様のように思われます。 (お坊さんには私利私欲なく、すなわち信者の願いが叶ってほしいとは  思っておらず、 信者の願いを仏様に伝えているだけ、  ということも考えられますが、この場合、お坊さんがそうする意味が  よくわかりません。  お坊さんから伝わった方が、仏様は願いを叶えてくれるということは  ないように思いますし、仏様がそうであるとは思いたくないです。) ところが、お坊さんを含め、多くの方が、仏様を拝んでいます。 その際、呪文のような言葉(真言?)や、お経を唱えていたりもします。 その内心はわかりませんが、お寺の絵馬には様々なお願い事が書かれており、 また、お寺ではご祈祷・ご祈願がなされていることからすると、 何らかの欲の成就のためのように思われます。 拝んでも願いは叶わないなかで、 ①仏様を拝む意味(祈願以外の意味)は何でしょうか。 ②なぜ、ご祈祷・ご祈願がなされているのでしょうか。 ③また、お寺では、お勤めとして、朝晩、お坊さんは仏様を拝み、  お経を読んでらっしゃるようですが、これは、何のためでしょうか。  (書かれているお経の意味を理解・確認等するためであれば、   仏様の前で木魚を叩いて音読するよりも、   自室で黙読すれば足りると思われます。) なお、②につきましては、宗派により考え方に大きく差があるようでしたら、 御回答いただかなくても結構です。 どうぞよろしくお願い申し上げます。

有り難し有り難し 64
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