私は、最近よく読書をするようになり、そのなかで「禅」に興味を持ち、「100歳の禅語」や「道元『禅』の言葉」などを読んでもっと学びたい、もっといろいろな事を知りたいと思うようになりました。 本屋の宗教や自己啓発のコーナーなどで「これだ」と思う本を探していますがなかなか良いものに巡り会えません。 何かお坊さんオススメの本のはありますか? 「禅」や「仏教」以外の分野でも「これはためになる」「この本はぜひ読んでほしい」「これはおもしろい」というような本があればぜひ教えて下さい。
以前テレビで島田紳助さんが以下のように述べていました。(ブログからの抜粋です) 「仏教っていうのはね、自分のための拝む人へのもの。 両手を合わせた瞬間に、自分の心の中が穏やかになる。 そこに極楽が生まれんねん。例えば、あーもうムカつくわ、競馬まけた博打負けたから墓参り行こうって思う人はいないのよ。心が乱れてるから墓参り行こうとは思わない。ある日、ふとあ、長いこと行ってないな。お墓参り行こうか。と思う。その、お墓参り行こうか、と思った時、自分の心が穏やかになる。その瞬間、心に極楽が生まれんねん。だから、お墓参りの行為自体よりも、行こうと思った時の穏やかな心、それが大事なの。仏壇だってね、仏様が中にいるけど、あれは職人さんか誰かが木かなんかを彫ったものだよ。所詮。もしあれがほんとに仏様なんだったら、供えてある花も、仏様の方を向けて供えなくちゃいけない。でも実際はそうなっていないでしょ。向こうからしたら、花の裏、葉っぱの裏しか見えないよ。拝む人に向かって、拝む人の心に向かって供えてあるから。だから仏教っていうのは、心の中、拝む人の心の中に極楽があり、仏があるという教え。」 私はこのような考えに感銘を受けました。実際、極楽というにはこのようなものなのでしょうか?お坊さんたちの意見が聞きたいです。
お盆やお葬式でお坊さんがお経をあげますが、そこで読まれるものは全部同じものだと思っていました。 この前ある仏教の本を読んでいて、宗派によって読むお経が違うことを知りました。 それぞれどういうお経がメジャーなのですか?お盆のときはこのお経とか使い分けとかあるのでしょうか?
以前もお世話になりました。今回もまたお聞きしたいことがありましてお邪魔しました。 人付き合いがあまり得意ではなく、基本的には皆さんとつかず離れずの距離を保ちつつ生活しています。好かれたいわけでも嫌われたいわけでもなく、毒にも薬にもならない、明日になればそんな人いたかしら?と思われるくらいの存在感でいたいと思い、そのように生きているつもりです。 しかし、何か困ったことがあると頼られたり、アテにされたりすることがあります。引き受けますが本当はとても嫌です。褒められるのも好きではありません。 目の前の席の人の機嫌がよろしくないと、わたしとその人の席の間にある物入れに八つ当たりのようにペンをしまったり、引き出しを大きな音を立ててしめたりします。これもビクビクしてしまいます。 わたし以外の人たちがどこかに集まってひそひそ話をしていることがあります。どうせあの人いなければいいのにと言っていることでしょう。 このように並べると、わたしはもしかして人に好かれたいのかなと思うことがあります。でも本当に存在感のない生き方をしたいのです。誰にも覚えていてもらわなくていいのです。 こういう些細なことを気にせず、皆さんに忘れられるように生きるにはどうしたらいいでしょうか。 よろしくお願いいたします。
初めまして 元々、顔も頭も性格も悪いのであまり人に近づかないで学生時代を過ごしておりました。 就活やバイトで、まともに他人と話さざるを得なくなりましたが、他人が怖くて話せません。 今のバイトは接客ですが、笑顔が固い、雑談にも加わわらないから仲良くしたくても取りつく島が無いとバイト先で言われました。 正直、仕事以外で他人と話すのも親しくするのも大嫌いです。 しかしそれは治した方がいいと言われ、相談に上がりました。 何卒宜しくお願い致します。
初めまして。 三歳の一人息子を持つ母です。 親の都合で一人っ子にしてしまう事への意見を頂きたく相談します。 経済的理由、 私の未熟さからこれ以上の子供を育てる自信がない事、 息子が大事すぎて二人目を妊娠・出産する事になった時に息子に寂しい思いをさせるのが嫌な事、 前回の妊娠中に私の体調面で周りに迷惑をかけた事、 などから一人っ子にしようと思っています。 主人も特に二人目を望んではいません。 でも周りは違うんです。 「2人目はまだ?」と何度も言われ、「一人っ子は可哀想」攻撃。 息子を同時期に出産したママ友はみんな二人目を出産済み。 四人家族の楽しい話を聞くと、息子に兄弟を作ってあげられない事に 罪悪感も感じます。 本当は私自身が二人目の子供を欲しいのかもしれません。 でもこれからの生活費の不安や、やっとらくになってきた子育て、 また一から新生児のお世話をする精神的余裕がないんです。 もう出産しなくていいんだと思うと心が楽になったりもします。 周りは子供が2人・3人が当たり前の環境で一人っ子を育てていく アドバイスを頂けませんか。 こんな親の都合で兄弟が持てない息子は、やはり可哀想な子なのでしょうか。
小学生の時のいじめ(暴言、金銭詐取、閉じ込め)が原因で、人生の半分以上「死にたい」と思いながら生きてきました。いじめが終わっても、この気持ちは消えません。むしろ年々「頑張らなきゃいけないこと」が増えて、生きるのが本当につらいです。 「どうせすぐ死ぬから」が口癖。学校に行くだけ、人と話すだけで死にたくなってしまいます。周りは「もっと頑張れ」と言うけど、どうやっても気持ちがついてこない。頑張り方が全く分かりません。 去年の春から、学校のある日だけ昼ごはんが食べられません。人前で突然話せなくなることもあります。病院に行くべきなのは分かってるけど、面倒だし、変な心配されるのが嫌で誰にも言えません。 周囲の大人(先生、親)は、私の「勉強すると死にたいほど追い詰められる」状況に全く気づいてくれません。 模試の点数が悪いと「もっとやれ」「お前だけじゃない」の一点張り。進路指導の先生には「平日5時間、休日10時間やれ」「環境のせいにせず工夫しろ」と精神論を押し付けられています。 先日、先生に怒鳴られ泣いていたら「なんで泣いてるんだ。こっちのほうが泣きたいに決まってる」と言われました。 過干渉な母と暮らしていて、自分の時間がなくストレスが溜まっています。 勉強しなきゃいけないのに集中できず、成績は下がる一方。このままじゃ周りが望むような大学も無理。親の期待も重い。模試が増えて自分の時間が削られるのが本当に苦痛です。模試は理系科目が壊滅的で、国公立・私立ともに諦めムードです。 添削課題をため込んでしまった自分にもイライラするし、文化祭でミスして友達に「邪魔だ」と言われたことも引きずっています。「こんな自分はいないほうがいい」と本気で思います。 これ以上頑張れるわけがありません。人に迷惑をかけたくないから実行しないだけで、自分の存在をなかったことにしたい。 勉強しようと思ってやっているのですが集中できないし夜更かししているわけでもないのに疲れがずっと取れません。1年くらい何もしないでゆっくり休みたいなと思いますがそんなこと言っている状況でもなく小学生の時から休んだら学校にいけなくなるかもしれないなと思っていたのでよほどのことがない限り毎日無理やり学校に行っています。 本当に生きているのが疲れてしまいました。
外国育ちでよく理解できていないのですが(変な質問ですみません)、祖父母はすでにおらず宗派などもわからず(お墓も不明)、両親も檀家などではないのでお世話になっているお寺もないのですが(あえていえば考え方としてこころにとめている宗派はあるのですが直接信者などというわけではない)、こういう場合、お葬式などでは宗派など聞かれた場合どうしたらよいのでしょうか。キリスト教のように洗礼を受けたりというのもないようですし、たとえば、天台宗の思想がとても自分の考えにちかいからそこでお願いしたい、などそういうことをしてもよいものなのでしょうか。またある宗派の信者になるということは仏教ではどういうことなのでしょうか?(海外の宗教とは違うのでよくわからず、くだらない質問で本当にすみません)
主人が亡くなり2年が過ぎました。 それまでお寺とはご縁が無かった上、いきなりの事で選択する余裕など無かった為、紹介されたお寺の檀家となりました。 葬儀を引き受けていただく際に檀家になる事が条件で、断れない状況でした。 今まで親戚や知人の葬儀に参列した事が何度もあり、通や・葬儀・初七日法要・初盆など、必ずお経の後、ひと言ふた事有難いお話をしてくださり、心が和んだものでした。 しかしながら、主人の通やから、三回忌法要まで、一度も法話らしきものがなく、お経が終わるとサッサと帰られます。 私ひとりの時は構わないのですが、沢山参列してもらった時には、違和感を感じております。 40代のご住職なので、お若いわけではありませんし、お布施も少し大目にしているつもりです。 臨済宗ですが、全く法話をしない宗派があるのでしょうか。 また先日の三回忌に、数珠なしでお経を唱えておられる事に気付きました。 大事な法要ですのに、ショックです。 聞くのは遠慮しましたが、きちんと供養になったのか心配です。 今までの立ち振る舞いや葬儀社からの印象など、仏に仕えている立派なイメージがなく、尊敬できません。 主人にも申し訳なく、檀家をやめたいくらいですが、簡単にいかないでしょうし悩んでおります。
AI、VR、AR、アンドロイド等の話にひどく恐怖を覚え、暗い気持ちになり、他の事が手につきません。 最近、テレビ番組でもネットでも書籍でも、未来技術についての話が非常に多いように感じます。己が気にしているから目に入りやすいのかもしれません。これらの話題やそれに対する好意的な意見を見ると、自分にとって非常に怖い未来がくるように思えてひどく落ち込んでしまいます。 技術の革新は素晴らしいことです。私が今こうして会ったことのない方に質問ができているのも技術革新とそれに貢献した方々の努力のおかげです。感謝しなければなりません。昔より、健康で長生きもできるようになりました。しかし、AIの目覚ましい発展により働かなくても生きていけるようになると言われると、社会の中で必要とされる手段がなくなると考えて怖くなりますし、仮想現実を通して、人とコミュニケーションがとれたり、異世界にいけると言われれば、人間がどんどん人との接触をさけながらコミュニケーションの快の部分だけを得ようしているように思えて怖くなります。 例えば、機械音声が発達していけば人気のあった声優の声を完璧に模倣していつまでも仕事をしてもらう事も可能になるいうのです。 どんどん考えていくと、本物の存在価値がわからなくなっていって、自分の趣味すら意味がないように思えてきます。そして、これらが必ずやってくると記事は豪語してきます。多少大げさに言っているのだと頭では考えるのですが感情が付いていきません。私は、現実で旅行に行きたいし、筆を持って絵を描きたいのです。それを構成する全てが模倣されても。しかしそう思わない人が多くいるように、記事を見るたびに感じます。必要が無い、煩わしいと思う所にもしかしたら、自分にとって大切な物や好きな物がころがっているかもしれないのに、どうしてそんなにも身軽に投げ捨てることができのでしょうか?自分と同じ考えのない未来に行く事がとても怖いです。しかし、未来は変えられませんから、今を大切に生きるしかないとも考えます。しかし、未来がそうなると思うと、ひどく悲しく怖くなって、何もできなくなるし、したいとおもえません。かれこれ、三年ほど同じ事を考えています。人は他人を排除しながら生きていきたいのですか?それは自分を否定する事ではないですか?苦しいです。この悩みから抜け出したいです。
すいません。後から気づいたのですが2回同じ質問してしまってました。 こっちが本当です。 私の学校は仏教の学校です。 学校でのお坊さんの教えでは生きてるうちに良い行いをすれば極楽浄土へ行けるといったものでした。 私はそれを信じて今までちょっとした発言や行いで人を傷つけてしまったことを悔いてそのことを今一度悔いて謝ろうとも思っていましたし、少しでも人のためになるような良い行いをしていこうと心がけどのようにすれば良い人間になれるのだろうや一度罪を犯してしまうとその人は救われないのかなどいろいろ調べていると、たまたま見た記事に日本人はみな地獄行きというのがあり怖くなりついつい見てしまったのです。 するとそこには虫などを殺すと地獄行き、お酒を飲めばもっと怖い地獄行きなど他にも地獄レベルが書いてあるのがありました。 それはお坊さんが知ってることなどが書かれていたのです 私は、最近では虫を殺すのは悪いことだと思い今では蚊すら殺してなかったのですが今までは殺してしまったりしてました。 私達は、今までは罪を悔いて良い行いをしていれば人に好かれる人間にもなれるし極楽浄土へ行けると信じてきましたし地獄は殺人や人を傷つけても平然と後悔することなく生きている人間が反省するための場所と思っていました。 なのにそんな事実をつきつけられ私は、どうすればよいのでしょう。 1日1日を良いことをしても、どうあがいても逃れられない地獄へ行く恐怖をもちながら生きていかねばならないのでしょうか? 今まで学校で教わった教えはなんだったのでしょうか? すぐ泣いてしまう私なのにショックと信じられないという思いですぎて涙もでません
初めまして。 私は、横浜で会社員をしている伊藤と申します。先日、テレビでこちらのサイトが紹介されていまして、仏教の教理に関して長年疑問に思っていたことがありましたので、質問させて頂こうと思い書き込みを致しました。 私は、大学生のころから仏教に興味を持っておりまして、仏教に関する本をいくつか読み、修行の真似事もさせて頂いたことがあります。仏教との出会いは、私の人生の中で非常に貴重なものでした。これからも、修行を重ねていきたいと思っています。 ただ、その中で未だに釈然としないことがあります。それは仏教の説く「死後の世界観」がなぜ宗派によってここまで大きく異なるのか、ということです。 仏教では、もともと「輪廻からの解脱」が一番の目的であったと聞いています。それが、現代の仏教では死後の世界観について「極楽浄土で仏弟子となる」といった立場や、「死後のことなど考えず、今を生きる」といった立場など、様々に分かれています。 私は、どうしても理屈っぽいので、このように死後の考え方が異なっていることに疑問を感じてしまいます。例えば、「極楽浄土に行けるなら、今は努力せず楽をしていた方が良いではないか。」と思うこともありますし、「死後の輪廻転生を否定するなら、そもそも修行する必要さえないのではないか」と思うこともあります。 先日、上座部仏教のお坊さんの著書を拝読して、私の考えに近いことが書いてあって共感を覚えました。そのお坊さんは、「死んですぐ極楽浄土に行けるのなら、どうして早く自殺しないのでしょうか。」といったことや、「輪廻転生が無いなら、どうして修行する必要があるのでしょう」といったことを述べておられました。 もし、輪廻転生があるのであれば、私もなるべく善行をしようと努力すると思います。逆に、輪廻転生がないと考えると、やる気を削がれ厭世的な気分になってしまいます。 人間がこのような気分になることを見越して、お釈迦様は死後の輪廻を説かれたのかもしれません。しかし、今の私にはそれ抜きで前向きに生きる心構えを持つこともまた難しいです。また、死後の輪廻を否定するならば、自殺を否定することもまた難しくなるのではないでしょうか。 こういった点を、お坊さんはどう考えているのか、どうしても気になったので質問させて頂きました。失礼なことを伺ってしまい申し訳ありません。
昨年祖母が亡くなりました。 葬儀は密葬で行い、お寺を通さなかったので祖父や曾祖父母が入っているお墓に納骨しておりません。 当方は結婚して実家を出ている為、このお墓に今後入る予定はないのですが実の両親はこのお墓に入りたくないので祖母のお骨も入れていません。 両親がこのお墓に入りたくない理由としては祖父が他界した時(約20年前)このお寺から戒名代もかなりな高額で、その時の住職さんやお寺関係者の態度も傲慢だったのが父には我慢出来なかったそうです。 その後、事あるごとに実家にとって高額なお布施やとうば代を要求するお寺のやり方についていけないのもあり、お寺の方針を受け入れられないのです。 その為両親はお寺に不満が溜まり、祖母と話し合った結果、祖母のお骨は手元に置いておくという約束を生前の祖母としたみたいです。(当方は祖母から実際にこの話を聞いていないので両親が本音で話しているかは不明ですが…) しかしこの決断を受け入れられない叔父や親戚から「祖母をきちんとお墓に入れるべき・お金の問題ではない・祖母が可哀想」と言ってきます。 父は断固として叔父や親戚の意見を受け入れずにいます。 私は嫁に出た立場なので何も言えませんが、故人のお骨で家族や親戚がいざこざ起こすのは祖母が一番悲しむと思います。 私は今後どのようにしたら良いでしょうか? 私は祖母の意思を尊重してあげたいとも思うし、交友があった親戚が祖母をお参りしたい気持ちも分かります。 ただ喪主である父の意思が固すぎるので何を言っても父は受け入れてくれません。