こんばんは。 初めて相談してみます。 皆さまは、どの瞬間に 自分の人生の目的を掴み、確信しましたか? 私は、30歳を目前にして、 人生の目的、過ごし方に疑問を持つようになりました。 これまで、有難い事に家族、友人をはじめ、周りの人たちに恵まれて、不自由のない生活を送ってこられました。 縁があった場所で、良いこと悪いこともありましたが、それなりになんとなく過ごしてきました。 しかし、ここ最近のコロナ禍の中で、 私はなんのために生きてるんだろう?とふと疑問に感じました。 ただ働いてお金をいただき、生活する。 職があり、衣食住に困っていないなら、それで十分だろうと頭では理解できているのですが、 果たしてこの生活に意味はあるのか? もっと強烈な生きる事への目的があるのでは? と感じてしまいました。 かといって、生きる目的として確信できるようなものは、今のところ見つからず……。 宙ぶらりんのままで、ただこのままなんとなく生きるのは嫌だ、と焦るばかりです。 どうしたら、人生の目的は見つかりますでしょうか? 教えていただけたら、幸いです。 長い文で失礼致しました。
クソみたいな人生でした。 子供の頃に両親に逆らえなかったのが、いけなかったのだと思います。 「勉強」以外に価値を認めない両親。 「絵を描きたい。」「友達と遊びたい。」と言っても「くだらないことをするな。」と否定されました。 そして、両親に言われるままに「勉強」ばかりしてきて、気が付けば何のとりえもない、面白みもない人間に成り下がっていました。 吐きそうになるくらいつまらない毎日を、ただ生きるためだけに働いています。 正直、死にたいです。
夫婦でのんびり暮らしています。 夫も優しく、夫の実家との関係も良好。 仕事も順調で、幸せそのものです。 ですがその平和・幸せが、嘘や作り物のような感覚になることがあります。 原因は一応自覚していて、私の実家は暴言・暴力が激しい家だったので、ギャップが激しすぎるんだろうなと。 暴言暴力が当たり前だった家がどうしても苦しく、成人後に断絶を選びました。そのことに後悔はありません。 現在は平和で、暴言どころか嫌味すらないのが当たり前。そのことに、時々びっくりします。 穏やかな日常を望んだからこそ実家から離れたはずなのに、平和で幸せであるということを、急に強く実感することがあり、なぜかギョッとします。 「ああ幸せだなぁ…」としみじみできるはずのところで、そわそわして不安になります。 また、時々なんの理由もないのに死にたくなります。 前述の、「いまの幸せを作り物のように感じる瞬間」に死にたくなる……ならば、分かりやすくて良いのですが そういうことでもなく、不規則なタイミングで死にたくなります。 変な言い方ですが、家に帰れば夫に会える。または家にいれば夫が帰ってくる。 嬉しいですし幸せです。 つまり互いに必要とし、必要とされている。ここはちゃんと実感があります。 なのにいまだに「自分は死ななくてはならない存在である」という波?のようなものがやってきます。 その時は、自分が生きていることが許せないような、消えなくてはいけないような気持ちになります。正直申しまして辛いです。 映画や物語的に、幸せや満たされた気持ちによって死にたい感覚は消えるというようなイメージがあったのですが 実際そんなことはなく、共存できてしまうのだと分かりました。 こういうのは時間薬だという人もいます。 時間薬だとして、それはどれくらい先のことになるんだろう。 時間薬が私にも効くと、信じて良いのでしょうか。 それともやはり、一生付き合わざるを得ない感覚なのでしょうか。 誰にもうまく言えません。そんなに幸せなのに贅沢だ!と言われてしまうのが怖いです。
私は今年で20代半ばになります。 高校出て早々に社会に出て仕事をしたものの僅か半年で仕事を辞めその一年働かず引きこもりその後フリーターで何となく今日まで生きてきました。 親もだいぶ年を取ってきていつまでも頼っちゃいけないと思うのですが、いざ一人で生きていけるかと言うと怖くなり不安な事や恐ろしい事まで考えてしまいそれが更なる不安へと繋がっていきます。 どうやったら強く生きていけるのか、どうやったら一人でも大丈夫なのかと考えては結局答えが見つからずにいつまでも甘えてしまうのです。 生きてく事を考えるだけで不安になるくらいなら一層の事死んだほうがいいのではと思ってしまう事もあります。でも結局そんな勇気もなくひたすらに不安になって終わります。 私はこの先を一人でも生きていけるでしょうか? どうしたら強い人間になれるのでしょうか? どうかお言葉をお願いします
今までありがとうございました。さよなら。死んだらいいと思います。さよなら。
死にたいと思う気持ちが毎日消えません。 早くいなくなりたいです…
私はここ数ヶ月間勉強というのに手が付けられないです。 理由は行く大学諦めてしまってるのとやる気、集中できないなどがあげられますが高一からテストや模試など大事な時に限って勉強しなかったりして失敗を繰り返して今に至ります。 どうしても原因がわからないのです。もしかしたら発達障害かもしれませんが(医者に言われたが確証ではない) 親はどこでも良いから大学行ってやりたいことはそこで決めろという意見です。 正直今なにがしたいかなどが明確ではなく適当に偏差値の低い大学(ボーダーフリー寄りの大学)に行くのは後悔すると思います。 親の意見に全く私の意見を通してくれず、浪人でもしまた今みたいになったらどうするの?とよく言ってきます。 お金もないとも言われます。確かに親が言ってることも理解できますし正しいとは思います。 学力がない私が悪いのもわかりますが、このまま大学に行ってやりたいことがわからず過ごし生きていくことに全く希望が見い出せないです。 そんなことするくらいなら死にたいです。私は自分が嫌いです。何もかも失敗ばかりで成功したことすらないです。だから夢や目標がほしいのです。叶うなら自信がつくと思うからです。 これを浪人中に勉強しつつ考えていきたいです。 こんな私は浪人すべきですか? 確かに親には期待されてませんし失敗する原因を探す必要があります。どうしたら自分の原因を見つけれますか?
先日、鑑定士に人生を見てもらいました。この方は能力があり死期が近づいていると死臭がして寿命がわかるそうです。実際に当たると言うより見えていること前提で話しています。娘は右足が短く足の長さが違うのですがそれも言われました。主人の母方の家系は高血圧で、それも言われました。性格に関しては当たったり外れたりでしたが、私だけ現在の腸内環境のことだけ言われて先の健康のことは言われず、さらに肩の上をチラチラ見ていたのが今になって気になります。でもその方は、霊がいますとかそんな商売はせず、霊がいる証明をできないから不安を煽ることは言わないと母から聞きました。鑑定料はお気持ちで壺とか石とか売られるわけではありません。人の人生を豊かにしようとされています。ここでも何度も相談させていただいた私の恩師はそんなものを一切信じませんでした。目に見えた物しか信じない。そして鑑定士もまた、目に見えた物しか信じないし、四柱推命の力も少し使っているけど9割は頭であなたを見ている。信じなくてもいいけどね。と言っていました。私個人としては、鑑定士は四柱推命と心理テクニック、鋭い勘と観察眼の他色んなことを勉強し努力しているから"見える"と言って通用しているんだと思います。でも、娘の足などの他にも見える以外で説明がつかないことが多いのです。私は極端な性格で寿命や死後の世界、カルマなど白黒つけて答えが出ないものが怖いです。それに鑑定士よりも恩師の方が私のことを理解してくれています。亡くなった今でもです。鑑定士が見えても私は見えないから信じない。仮に1年後に死ぬと言われてもやることは変わらないし自殺しない。これでいいのです。仮に寿命を言われたとしても、余命半年と言われた恩師の方が余程怖かったと思います。恩師のような何事にも惑わされず、何でもかんでも答えを出そうとせず、曖昧なことはそのままに、在るがままに生きたいのです。頭では分かっています。あとは自分の思う生き方を実行するだけ。それなのに短命なのか死ぬのか鑑定士という掴みようない人、力に振り回されています。恩師と鑑定士どちらにも同じアドバイスをされ2人の信念や似ている所があるのに決定的な所が真逆です。もっとインチキ臭ければ一蹴するのに対極にながらも生き方が似ているので戸惑ってしまい2人に共感しています。恩師の教えを胸に私らしく生きたいのです。鑑定士のことは忘れて。
自分は生まれた頃は三世代の六人家族で生活してて毎日喧嘩ばかりだったんですが、楽しかったかもしれません。 今は親父は離婚して出て生き、祖父母は死んで、親戚たちは母の悪態に愛想をつかして、姉は結婚して出ていき、今は盆正月も私が実家に帰って二人ですごくくらい静かな家庭になりました。 私は仕事もあまり上手くいかず職を転々として今はなんとか2年半くらい勤めてます。 でも今の会社でも散々噂を立てられ何もしなくても悪い風に思われ目の上のたんこぶの様な感じに扱われ、いつ辞めても良さそうな雰囲気であてにはされてない感じです。 恋人もここ10年くらいおらず、デートはしますが本格的に付き合うということにもならず未婚のままです。 地元には数人友達がいますので、人付き合いがそんなに下手だとは思ってないのですが、周りからするとなんだか付き合いにくいようで、噂を立てられやすい性格でどんどん追いやられ、結局一人でいる方が楽になっています。 なんで自分の人生というか、自分の家系はこんなに寂しく孤独なんだろうと思います。 何かこれも意味があるのだろうと思ってずっといきてきました。 実家の母親が70歳で半身麻痺的な身体障害で、母親が死んだら自分は別に生きてなくてもいいんじゃないかなと思ってしまいます。 周りの人はご家族も祖父母もいたりして経済的にも賑やかさもうちほどには困窮してないように思い、自分の相談は重過ぎてなかなかできません。 なので、あっけらかんと過ごしていますし、苦労ないんでしょなんて言われます。 こんな人生、自分でなんとかできるのでしょうか? なんで自分は一人なんでしょうか?
24歳です。16の時に約16mの崖から飛び降り、半身麻痺で生き残りました。 その時もうつ病で、飛び降りる直前からの記憶ははっきりと残っています。 当時は「死ななきゃ」と思っていました。 鬱病で学校にも行けず。片親で母親からは死ねばいいと言われ、弟にもこんな姿を見せ続けるのは恥ずかしい。 飛び降りる直前、下を眺めて足がすくみ下を眺めていたら、背後から待って!と見知らぬ方に叫ばれました。 その時に、「早く飛び降りなきゃ」と思って飛び降りたんです。 その方が通報して下さって治療が早かった為か助かりました。 それから、怪我の治療に半年以上入院して、精神科病棟にも半年程入院、その間に私のために行動してくださった方が沢山いて。 頑張って生きようと、行政を介して親の元を離れ一人暮らしをして、就職をし、1年半会社に務めましたが、直属の上司に警察沙汰に発展するストーカー行為をされ、その上司は懲戒解雇となりましたが、それ以降メンタルを崩し、退職。 3ヶ月後にペットショップにてバイトをしておりましたが、 あまりのワンオペや、数日の休み(店長指示)明けに行くと、世話を放棄された動物が大量死、その処理はバイトの私任せ。休みの日も自分が世話をしに行くしかなくて。動物が大好きな私は耐え難かった。 果てには、出張(イベント出店)先で初めてお会いした他店舗の社長に会う前から嫌われており、店舗の方全員に丸3日虐められ、挙句には飲みの席で薬物を勧められた為、バイトを辞めました。 その後、生活保護を受けてただベッドの上で天井を眺めている毎日。 私は、もう頑張れない。頑張りたくない。気力が本当になくて。もう生きていたくないし、血税で生かされていたくもない。あの飛び降りた日、雲一つない青空を見て決意したあの日から、死にたいと言う強い気持ちは何も変わってない。変われなかった。 でもこんな私のことを心から想ってくれている友人達がいて。 1人は、元夫を自死で亡くしており、もう1人も、友人を自死で亡くしていると。 他にも想ってくれている方がいる。でも特にその友人達に、辛い思いをさせたくはない。 でもそれで生きられる程強くないんです。もうつかれたんです。もう、生きていたくない。 許されないでしょうか、死を、死を自ら選ぶことを。 許して欲しいです。生きるのを辞めることを。
自宅にて療養中の母が、数日のうちに旅立ってしまうかもしれないと医師に言われました。私自身にも精神疾患があり、ここ数年は母を支えに生きてきました。そんな母を失くすことの恐怖と、これから母のいない人生が始まる不安から自殺を考えています。 自殺はいけないことだと、もっと生きたいのに生きられない人がいるのだと言いますがそんなにいけないことでしょうか。 自殺で死んでしまうとあの世で母に会えませんか?あの世で一緒には暮らせないのでしょうか? このまま独りで孤独に寿命を待ち続けるのは気が遠くなるほど辛いです。 自殺でもあの世で一緒に楽しく暮らせると思いたいです。 ご意見をいただけますと幸いです。
私は孤独です。 自分の心に人が踏み込んでこないように自分からも踏み込まないように生きてきました。 気づけば回りに友人と呼べる人は一人もおらず、希薄な仕事の人間関係だけになりました。 大切に思う人も思ってくれる人もおらず気がつけば30代半ばです。 根底にあるのは人に対する恐怖心なのです。このまま心が安らぐことなく死んでしまうのかと思うと、どうしようもなく悲しくなります。 なぜ、あのときもっと人に話しかけなかったのか?なぜ、もっと人の事を考えなかったのかと後悔の連続です。 最近は自分が死んだときの後片付けを考えます。自分から死ぬ気は無いですが向こうから死が近づいてきているような気がします。 死んだ先に人は居るのでしょうか? 人が居ても居なくてもどちらに行くのも嫌だなと考えてしまいます。
いつもお世話になっております。 最近、人間はどう生きていけば良いものか、 悩んでいます。 まず私は、肉を食べることに罪悪感を覚え、 ヴィーガンになろうかと悩んでいるのですが ヴィーガンになって何になるんだろうというのが分かりません。 ヴィーガンになっても、生きている限りは どこかで間接的にでも他の生物の命を奪わなくては まともに生きていけないでしょう。 そこで、もういっそ死んでしまいたいと 思ってしまいます。 また、先日私たち家族は、話し合ってペットショップから猫を飼いました。 でも後々になって、ひどく恐ろしいことをしてしまったような気分になって… 人生なにが起こるかわかりません。 ある日突然、家族みんな死んでしまうかも… ある日突然貧乏になって、猫を養えなくなってしまうかも… そういうことを考え出したら、 あの時しっかり猫を飼うことに反対していれば、という後悔が止まらなくなりました。 また似たような話で、子供をつくることについてなのですが、 世の中には、「子作りは親のエゴで、子供の同意なく、なにが起こるか分からないこの世に産み出すことは道徳的に良くない」 という主張があります。 子作りが親のエゴだというのは、 私も同意します。 でも、欲しい。…そうなったときに、子供を産んでしまった親は、彼らの言うように、最低な人間なのでしょうか。 許されないのでしょうか。 私は自分のエゴとどうやって付き合っていけば良いのか、もう分かりません。 いっそ死ぬしかないのではと、思ってしまいます。 責任を持つことが大事なのですか? 感謝をすることが大事なのですか? 責任を持つ、なんて、人生なにが起こるか分からないのに、簡単に言えることでは無いような気がしますし 感謝をするのは、私たちに食べられるために殺された動物や植物たちに、許された気分になるためにするだけなのではと、思ってしまって 私は、私が生きていることが、感謝しても済まされないような残酷なことのように思えて仕方ありません。 人間のエゴは、許されませんか。 そもそも、許す許さないの話では無いのですか。
まずはご不快にさせてしまうかもしれない事、お詫び申し上げます。 私は幼い頃から母子家庭です。 小学校からいじめに遭い、転校先で教師から強制猥褻を受け不登校になり、母は激務と心労の末躁鬱になってしまい働けなくなり、以来母子共に生活保護のお世話になるようになりました。 中学校でもいじめに遭い、教師からの助けも望めず、母に相談する事も出来ず、時に虐待や心中未遂も起こされ、そんな母には大事な相談も会話も出来る状態ではなく、遂に高校に行く事も叶わず中卒で働く事になりました。 私なりに必死でした。バイト先の男性方に強姦されても母を追い詰めたくなくて誰にも言えず働きました。18を過ぎた頃には風俗でも働きました。 しかし20代前半で私も心身を壊してしまい、それ以来働く事も出来ず、ほとんど外出もせず、ただ何も出来ずに家に引きこもっています。 今になって当時の色んな恐怖が襲ってくるのです。 精神病院には通院しています。 けれど未だ外に出るのが怖くて、電話すら怖くて、そのまま30歳になってしまいました。 このままでは駄目だという事は重々理解しています。 なけなしの勇気でケースワーカーに通信でもいいからせめて高卒になりたいと打診しましたが無意味だと却下されてしまいました。 ならば資格をと言っても、実務経験が無ければそれも無意味だと。 中卒で職歴もない、働く事も出来ないほど精神的に脆く無価値な私には人並みの人生は望めない事はわかっています。 無縁仏になる覚悟も出来ています。 けれどこの先を生きていく自信がありません。 しかし母より先に死ぬ事だけは最大の親不孝と思い自害する事も出来ません。八方塞がりです。生きていくのが怖いです。 最後に、支離滅裂で不快な内容になってしまい改めてお詫び申し上げます。
最近「希死念慮」という言葉を知って、まさに自分が思っていたことだと思いました。 自ら命を絶ちたいとまでは思いませんが、何のために生きているかわからないと思って毎日過ごしています。 趣味はありますが、生きているからやるのであって、趣味があるから長生きしたいとは思いません。 なぜ希死念慮があるのか、自分なりに考えた結果、肉体的に少しずつ衰えはじめていること、配偶者や子どもがいないので張り合いがないこと、「早く逝きたい」が口癖の祖母の存在の3点によるものと考えました。 一度希死念慮があることを知り合いに言って自殺願望と勘違いされたので、それ以降は誰にも話せず、もちろん家族にも話せず一人で悶々としています。終わりが見えずに苦しくなって、最近は残りの寿命を15年と仮定して人生について考えるようにしています。 昨日、母代わりだった祖母が老衰で亡くなりました。91歳まで生きました。そこで改めて希死念慮について考えているうちにこちらのサイトを見つけました。 私のような考え方はおかしいでしょうか。またどうしたら長生きしたいと思えるようになるのでしょうか?
戦争が始まってしまいました。 紛争から発展して〜などというものではなく、宣戦布告をもっての古典的な戦争です。 たくさん人が死ぬでしょう。 たくさんのものが壊されるでしょう。 とても悲しいことです。こんなことにはなって欲しくなかったです。 私の人生はどうだっていいものだったんだなぁと思います。このような人の生き死にに比べたら、私の好きなものがどうとか推しが心配でどうとか、とてもとても些末なことに感じられます。 私が何かを叫んでも何の役にも立たないどころか、大事な人にまで飛び火するかもしれません。私には何も出来ません。 私はもうこの世に見切りをつけた方が良いのかもしれません。 あれだけ各国で平等だの平和だの声高に叫んでいるんだからこれから人類が少しづつでも良くなっていくかもしれない、などと思わない方が良かったのかもしれません。所詮こんなものだったのでしょう。 もう人類を見限るべきでしょうか? もう何も良くなることなんて無いのでしょうか?
神様へ祈ってる途中、頭に悪魔を思い浮かべてしまい、祈ってしまいました。 祈った内容に関わらず、悪魔には取引したと思われて死んだら地獄に落ちてしまうのでしょうか。 それとも脳で思い浮かべただけなので特にそういったことはないのでしょうか。不安です
私は嫌なこと、辛いことがあるとすぐに逃げ出してしまいます。 仕事、人間関係、それなりに上手くやれているはずなのに、ひとつ駄目になると全て投げだしたくなります。恐らく、周りから見れば大したことの無い失敗でも、とても不安になって、悪い方、悪い方へ考えてしまいます。考え込んでるうちに、大丈夫、何とかなる、逃げてしまおう、と急に楽観的になれたり、また不安になったり。情緒が不安定で、死にたい、どうして生きているのか?、いつも考えます。 死んでしまいたい、消えたいと思いつつ、死んだ後家族がどうなってしまうのか怖くて、ただだらだらと逃げながら生きています。家族のことが好きで、多分家族も私を大切に思ってくれていると思います。自分が死ぬことで、家族が苦しい、悲しい時間を過ごすことになってしまうのはとても苦しいです。でも、今のまま苦しい事から逃げながらだらだらと生きているのも苦しいのです。 結局はどうしたいのか、こんなことを書き込んで何を求めているのか自分でも分からず、稚拙な文章になってしまいすみません。 逃げることは、悪いことでしょうか。やはり恥ずかしい行為でしょうか。 情けないと思いつつずっと変われないのは、私が弱いからでしょうか。 長々とすみません。ご意見頂けますと幸いです。
私のせいで彼が自死しました。 私はバツイチで小学2年生の女の子がいます。 1年半ほどお付き合いした彼と別れました。 子供と彼の関係がうまくいっていないことが原因です。 彼とは、子供の関係性について何度も話し合ってきました。彼もすごく努力してくれ、子供の事も大切にしようとしてくれていました。 でも、子供の精神面やどうしてもぬぐいきれない不安があり別れを決めました。 別れを告げた翌日、彼は自殺しました。 今までも、別れ話になると自殺をほのめかすことを言ったりする人でしたが、その度によりを戻してきました。 でも、今回は私の気持ちが変わらないと思ったのか、本当に死んでしまいました。 今回は何の前触れもなく、遺書もなく逝ってしまいました。 私のせいで彼は死んだのです。 私なら彼の自死を止められたはずです。 もっと慎重に話すべきでした。 子供がいなければ、彼と別れることはありませんでした。 私のことを心から愛してくれ、幸せになるために努力を惜しまない努力家の彼でした。 私も彼を心から愛していました。 だから、別れを決めたのは私なのに彼がいなくなってしまったことが受け入れられません。 彼は、どんなおもいで亡くなったのか… 私は本当に酷いことをしてしまいました。 彼の命を奪ってしまいました。 彼は1人になることをすごく怖がっていました。私のいない人生なんて生きていたくないと言っていました。 なのに、1人にしてしまいました。 彼は亡くなって辛さや悲しさから解放されたのでしょうか?? 今は幸せですか? 亡くなってからも辛い思いをするのは可愛そうです。どうしたら彼は報われますか?
いつもお世話になっております。 わたしは耳鳴り持ちで、また緑内障になる可能性があり、将来の難聴予備軍でもあります。 電話をとる仕事をしていましたが、データ入力のみのチームに回され目を酷使しています、 好きな読書や執筆も目がいたくてできず、やはり仕事を辞めようと決意し、今日話します。 緑内障は近視からも可能性ありなんで、耳も目も異常でたら、生きていけないし迷惑をかけます。ただ、両親も高齢だし私も病気があれば治療が必要です。次が見つかってからが理想でしたが、去年から耳鳴り持ちになりいろいろ有りすぎて少し休みたくて。 しかし、休んだからって耳鳴りがなおるわけじゃないし、このまま稼げない底辺のまま怯えて生き地獄を味わって死ぬのかなあと怖くて。 保険も抜けますし。大学でて若いときに正社員になれば良かったなと後悔してます。 生き方を間違えました、ツケがまわってきたんですね。このまま生き地獄を味わうか、死んで終わらせるかとか、両親の死を見届けるまでは生きるかとか、皆なにかあれば、ニュースでみたような一家心中が頭によぎります。