昨年秋から闘病していた母が 1月に亡くなりました。 ご臨終に間に合い看護師さんから 「お疲れ様」と言われ、 これでやっと母は身体が楽になったという思いと、私も毎日面会に通い心身共に消耗していたので正直安堵の気持ちになりました。 その後葬儀の準備等いろいろ 忙しく悲しむ余裕もなく過ぎたのですが 亡くなって一ヶ月たち落ち着きを取り戻しつつある今、 急に寂しさと悲しさが押し寄せてきています。母がいなくなって話しが出来ない ということがどうしようもなく辛いです。 生きる気力も湧かず 事故にでもあってあっという間にあの世に行けないかなぁとか毎日そんな事ばかり考えています。 よく、時間が経てば悲しみも癒やされると言われますが今の私にはそのような 言葉もしっくりきません。 なんとか頑張らなければと思いますが 一日一日を消化するのでいっぱいいっぱいです。 この先どのように生きて行けば いいのでしょうか。 アドバイスいただければ幸いです。 よろしくお願いいたします。
幸せとはどのような状態なのでしょうか? 宜しくお願い致します。
私の家は、所謂「本家」になり、私はその長男となります。 私の実家や、現在の私の住まいの近くには、先祖から続く墓があり、私は両親から「墓を守っていってほしい」と言われ続けてきました。 私は結婚しており、2人の娘(長女は中学生、次女は小学生)がいます。 私の正直な気持ちを申し上げますと、将来、長女又は次女が婿を迎え入れ、墓を継いでくれれば一番だと思っています。 しかし、このことについては、妻が反対しています。 墓を継ぐために子供たちの就職先等が縛られ、活躍の場が制限されるのは絶対に嫌だというのです。 私は、両親からの言いつけもあって、事なかれ主義的な気持ちで、娘に婿を迎えるのがベストと考えてきましたが、妻の言うこともよく理解できます。 昨今においては、女性天皇、女系天皇の問題をよく耳にします。私の家は、地方都市の中流家庭で、皇室に準えることができるような立派な家柄ではありませんが、この問題を我が家に置き換えてみますと、娘に婿を迎え入れて墓を引き継いでいっても、無意味なのかなという気持ちにもなってしまいます。 私は、このことに非常に頭を悩ませており、時々一人で墓参りに行っては、お墓に向かって謝っています。 そこで質問なのですが、墓じまいというのは、御先祖を思えば、絶対にやってはいけないことなのでしょうか? また、そうすることで、御先祖の怒りを買ってしまい、私は死後も御先祖に顔向けできない存在になってしまうのでしょうか?教えて下さい。お願いします。
はじめまして。私は23歳実家暮らし社会人の女です。 親は高齢出産のため両親ともに60歳です。私は小さい頃から家族が大好きで、そして家族、大切な人の死が常に怖く、最近特にその事を考えてしまって一人で泣いています。 母にもその不安を話したのですが、母はいずれは人は死ぬ来る運命に従うんだよと私よりも何倍も強い気持ちです。しかし、私はやっぱり耐えられません。ずっとずっと仕事中も両親のことを考えてトイレで泣いてしまいます。大学生の頃、一人暮らしをしていたのですが、両親のことを考え、少しでも恩を返そうと実家に戻りました。感謝はできるだけ伝えたいのですが、やっぱり死を考えるだけで辛いです。 また、遠距離恋愛をしています。片道4時間程の距離ですが、いずれ自立して彼の元へ行こうと思ってます。しかし、両親のことが心配でならないのです。両親は子供が幸せならいい、自由に生きてほしい方針なのですが、私が心配でならないのです。本当に不安です。彼の元へ行きたい気持ちも両親のことが心配な気持ちふたつあって辛いです。精神的に自立して前向きに生きたいです。 心療内科も予約済みなのですが、それまで時間があります。この常に抱えてる親の死の不安、精神的自立の仕方どうかご享受願いたいです。 日々不安で辛いです。助けてください。
いつも有難うございます。 私も一心になってお参りしようか、と思っていますが 名前は晒せませんが(プロフィール欄ご覧いただけますと幸いです) ある新宗教の信者になろうか悩んでおります。 でも菩提寺とそこで行われる法要には顔を出さず (供養はお布施を必ずお渡しして、毎月の命日も欠かしません) 別のお寺に熱心にお参りする事に罪悪感で一杯になり すごく悩んでいます。 回答しずらい内容で申し訳ありません。 一般人ではなく、お坊様方のご意見を頂きたく質問させて頂きました。
2015年の4月に離婚し、ばつ二回になりました今は一人で派遣社員の仕事してます、二回の結婚で実の子供が三人いまが子供たちにわ 父親らしいことは何一つ出来てなく養育費も渡してない状況ですこんな自分が情けなく子供たちに申し訳なく日々、死にたい気持ちと格闘してます。 でも死ぬ勇気がない自分が情けなく思います こんな自分がこの世の中、生きてる意味有るのでしょうか、こんなくそみたいな世の中、生きてる意味有るのでしょうか?お金がないと何も出来ない世の中…
現在私は、学校で言ってしまえば1人なのです。 一年の最初も原因はふわふわとしたことで追い出され、その後おいでと言われた所でも、じゃれてやる様なこちょこちょが嫌だったと結果的に言われ、イジメのように追い出され。 その後もそのような事が2回ほど続き、結果的最近までは何とか学校を卒業したいと思い、辞めずに普通に過ごしていました。 安定してきた、絶対一緒に行動すると言うような子はいませんでしたが、皆と楽しく過ごしこれなら大丈夫と思っていたのですが、数週間前から、以前こちょこちょが嫌だったと私を追い出したリーダー格の女が私に近づいてきて、もう許したから来てもいいよ。と。 ですので女からも話しかけてくるのでそれに応じて楽しくやっていました。所が数日前からまた、おかしいのです。私と目を合わせようとしなく、話しかけても来ません。なので今日もリーダー格のその女は私の目の前で他の皆だけでUNOをしたりしていました。何となく一緒に行動していた子までそこにいるのです。 お昼もその子と保健室に行って食べてたのですが今日は、その周辺で食べている仲のいい子と食べると言い出したのです。と言うことは、私がそこについて行っても楽しくないのです。話に入れないし、UNOもさせてくれないし。 1人で保健室に行くしかないかもしれませんが、今まで2人で行っていたので何だかあれですし。 ほかのクラスに友達と呼べるであろう人はいますが、その子もクラスのグループがあります。そこに入るのもまた厄介だと思うんです。 今月にもバス見学もあるし、クラスマッチも…。 本当に辛くて。こんな事何回繰り返すんだろう。私そんなに悪いのかな。嫌われてるのかな。でも、そのリーダー格の女はもっと悪い所があるとみんな言うのにのにな。 他の人に聞いてみても、私どこか悪い所あるのかな?と聞いても、うーん?どうなんだろう。とか、親や先生親戚にすべて話しても私が悪いと言われたことはありません。 なので、どうすればいいのかもう分からなくて。やってもやってもこうなる。死にたくなります。涙が出ます。私は何かいけないんでしょうか。 クラスは二人づつ固まっていて、私の入る隙間はありません…。 どうするべきだったんでしょうか… 長くなって申し訳ありません。 もう切羽詰っていて…助けてください。明日も怖いです。通学中死にたいです。
私は、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」という作品が、昔からいろいろに解釈できて、ずっと不思議に思っていました。 最初に読んだとき(子どものとき)は、 ①カンダタは莫迦だなあ、自分ならきっと、みんなと力を合わせて、みんなで極楽にたどり着くのに と思った ちょっと時間がたって(思春期) ②どうせ私もカンダタと同じだろう、きっと誰でもエゴが勝ってチャンスをだめにしてしまうに違いない と思った またしばらくして(反抗期) ③お釈迦様って何様なんだ!(お釈迦様だけど。)教養もなく悪人として生きてきたカンダタを、カンダタが成功しそうにない極限状況で試すなんて。助ける気なんかもともとないじゃないか、この話に正解も救いもないじゃないか と思った また少しして(青年期) ④カンダタが蜘蛛の糸を見ても登ろうと思わないくらい達観していたら、もしくは落語の江戸っ子のように、「一度地獄に落ちた身分の自分が、いまさら蜘蛛の糸などにすがってたまるか」と居直っていたら、お釈迦様は確実にカンダタを助けていたのかも と思った そして今(中年期) ⑤芥川が絵本として子供向けに書いた以上、一周回って、①の子どもらしい慢心(カンダタを通した戒め)が作者の意図した一番素直な読ませ方なのでは とも思う そこで質問です。 カンダタが確実に極楽に上がるためには、どうすればよかったのでしょう。 回答者陣のお坊様方は、自分の仏教に関するすべての見識や体験をふまえたならば、助かりたいカンダタに何とアドバイスしますか? それともこれは、カンダタはどうやっても助からないというお話なのでしょうか? その他、この作品に対してどう解釈しますか?
無理心中したら一緒に死んだ相手と一緒にいれますか? 一緒にいれない場合はその相手はどこに行って私はどこにいくのでしょうか。 死後の世界を教えてください。
両親は10年ほど前から家業を持ち、私に後継者になる人との結婚を望んでいます。私は一人娘です。今、結婚したい人がいますが、その人は後継者にはなれない別業種の人間です。 両親は、私が後継者と結婚するということを条件に、私のやりたいことを全て許してくれました。その約束を具体的に交わしたのは大学進学時です。それから10年以上経ちますが、今になり、その約束を守る覚悟がなかったことに気づきました。この約束は自分の夢を簡単に叶えるために安易に交わしたもので、事の重大さに気づかずに過ごしてきました。かといって、今の私にはこの約束を果たすことはできません。 両親はただ一つの望み(後継者との結婚)を信じ、これ以上ないほど慈しみ育ててくれました。私の自己実現のために惜しみなく援助してくれました。何も落ち度はありません。また、後継者との結婚を前提に経営を進めています。 ですが、親と交わしたこの約束を反故にしてしまいたい。 子として、どのような誠意がみせられるでしょうか? また、この約束を反故にすることは因果応報するのでしょうか?
お寺の後継者について悩んでいます。 私の家は両親と私の3人家族です。 ・私が専門尼僧堂に行く→2年の修業が必要で、おりるときは29歳に。結婚は?出産は?そもそも修行に耐えられるのか? ・お坊さんに婿に来てもらう→御縁がない。 ・父の代で終わらせる。 些細なことでもかまいません。 御意見をお待ちしております。
お経を読むことがなぜ先祖や自分に関わりのある仏様の供養につながるのか? 大変罰当たりながら、そのような疑問を抱いてしまいました。 仮に例をあげますと、日蓮宗では法華経を読んで先祖供養などをされると思います。 法華経は釈迦が悟りを開いて亡くなられる前に最後の教えを説いたもので、 数ある経典の中でも最上の教えとされていると聞いたことがあります。 その素晴らしい教えを守り、帰依しますと宣言する=「南無妙法蓮華経」と題目を唱える。という事になるのでしょうが、なぜそれが供養につながるのか疑問です。 自分は先祖や仏様との何らかのつながりがあるから、その自分が題目を唱えることで先祖や仏様の過去の罪が軽くなり救われる。=先祖や仏様も成仏できるという考え方も確かに一理あると思います。 しかし、お経というのはただ聞いたり意味を知らずに読んだりすれば、まるで呪文のようでいかにも効果がありそうに思いますが・・・。 現代語に訳して意味を分かるようにしてみると、一つの物語をただ読んでいるにすぎないように思えてしまいます。 とてもありがたい教えが書かれていることは理解していますが、客観的に考えれば子供に絵本を読み聞かせているようなものではないかと思ってしまうのです。 子供ではなく対象が先祖や仏様へ、絵本がお経という物語へ変わっただけではないでしょうか・・・。 物語を読み聞かせる行為がなぜ供養につながるのか? 先祖供養のためによくお経を読む者として、大変疑問に思っています。 どうか教えてください。
私には婚約者がいて、もうすぐ結婚する予定です。 本来なら幸せなはずなのに、不安です。 それは、婚約者の仕事が上手くいっていないようで、結婚式がおわった後、辞めるかもしれないということ。 そして、彼は近い将来、彼の実家で同居しようと考えていること。 仕事に関しては、結婚式前には辞めると世間体が良くないと思ってのことか、今は我慢して働いているようで、結婚式がおわったら辞めるかもしれないと言われました。 彼の両親との同居に関しては、付き合ってる頃からなんとなく、同居を希望しているのは、彼の言動からして感じていましたが、この前、家探しについて話している時に、将来の同居について言われました。 同居はイヤだということと、できれば将来は同居じゃなくてせめて彼の実家の近くでアパートを借りて住むのはどうか?と言ったのですが いずれも却下され、将来同居することを納得してほしいと言われました。 彼の両親はあまり体がよいほうではないし、一人っ子なので、実家で両親の側で暮らしたいそうです。 彼には、「君は自分のことしか考えていない。」と言われました。 周りの友達を見ると、新築を建てた友人、又は家を建てるために夫婦でお金を貯めている友人、旦那様が公務員、旦那様の給料がいい、豪華な結婚式場で豪華な結婚式や二次会をする友人、自分の実家で旦那さんが同居をしてくれてる友人、、、言い出すときりがないですが、とにかく周りの友人と比べるて羨ましく感じてしまいます。 私の彼の給料は良くないどころか仕事を辞めてしまうだろうし、その上、彼の両親と同居するということが近い将来に待っています。 私はこうしてこれから先も、周りの友達と自分を比べて羨ましがって、、、こんな気持ちで一生生きて行くのかと思うと辛いです。 そしてこんなにも人と比べてしまい、人の幸せが素直に喜べない自分がとても嫌です。 最近ではfacebookすら見るのが嫌です。 こんな自分がとても嫌です。 周りと比べてしまい、自分が幸せに感じません。 私は、将来のパートナーを、中身ではなく、どれだけハイスペックかで判断するような人間なのかもしれません。 結婚式の準備や家探しなどいろいろやることがあるのに、最近は気分が憂鬱でなかなかはかどりません。
僕は日々陰鬱に生きていて、変わらなければならい節目を迎えた時、生きる意味について考えるキッカケを授かりました。生きる意味というか、今、生きているということに納得する理由がほしくて。僕はその理由をなんとなく自分の中に見出しました。 それは「人は善を為そうとし、真に為し得ない。優しくあろうとし、真に優しくあれない。愛そうとし、真に愛せない。」その善を為そうと、優しくあろうと、愛そうと努力することこそが生きる悦びだと、僕はそう納得していました。そしてその「生きる意味」を職業(カウンセラー、精神科医、臨床心理士、お坊さんなど)にしようと、大学を入り直すことさえ考えました。 しかし、その友達は、僕の生きる理由を「現実を決済する」こと、僕が信じる「美しいものを美しいものだと感じる心そのもの」を妄想と否定し、浄土、成仏の存在を真っ向から否定しました。 僕は、その友達の考えを否定することはできませんでした。かといって僕の本来持っていた考えを否定する気を起こそうとも思いませんでした。 またある人は「誰かがあなたに、本音や弱音を告白しているときに絶対に言ってはいけないことがある。正論です。」と言いました。 浄土、仏性、成仏は、そして仏教は、自己満足させるためだけの嘘なのでしょうか?美しいものを美しいものだと感じる僕のこの心は妄想でしかないのでしょうか? それは僕が在る、と考えれば在る、のだと信じておりますが、僕はこの途方もないやるせない気持ちをどうにかしたいのです。 僕は恐らくこの(実存哲学?という)正論を信じると一生不幸だと思い、しかも僕はそれに対してどうしようとすることもできないのです。 僕は、仏様から授かった自分の寿命を全うするために死ぬまで生きようと思っておりましたが、その考えが不安定にならざるを得ないのです。 僕はこの儚い気持ちにどう向き合えば良いのでしょうか?お智慧をお貸しください。 長く稚拙な文章となってしまい申し訳ありません。また仏教思想を自分勝手な解釈で捉えております。それは違うというところ、誤解があれば、感謝と敬意をもってお説教を受け賜わります。 便宜的に、思想的に、僕はその人を友達だと書きましたが、本当はツイッター内において、フォローフォロワーの関係にすらなっていない、赤の他人です。 (´・ω・`)...
お願いします。 災害についてはどのように捉えたらよろしいのでしょうか。意外に同様の質問が見つからなかったので、お願いします。 記憶に刻まれた大震災の数々、この世でいうところの善人も悪人も区別なしに命を落としました。 もし、これが何かの意思によるものならば、無差別テロのようにも思えてしまいます。 明日を信じていた者もいるでしょう。受験、スポーツ、出産。未来を信じて生きていく思い、願いはこんなにも簡単に途切れてしまうのです。家族の未来を願っていた者もいるでしょう。残された者には更なる悲しみが続きます。亡くなった方がた以上に残酷にも思えます。 私たちは乗り越えられる試練しか与えられない。という考えも聞きますが、残された者にとって、これは命が続く限り決して乗り越えられない悲しみに思えてしまいます。 何か意味があるならばお考えを教えて下さい。 それとも、起こる事象には何ら意味がないのでしょうか。加えて、この世の未来を願うことは仏教においては何の意味も持たないのでしょうか。
この世の中には ①子供がほしいのにどうしても授からない人。 ②子供が欲しくないのに何人も産み落とし、あげくの果てに育児放棄したりする人。 ③子供が欲しくて授かりさらにその子が障害児でもきちんと育て上げる人。 子供も親もお互いに選べない中例えば、病気や障害、もしくは親の虐待ですぐに死んでしまう子供はなんのために授かるのでしょう。 私は10年以上鬱病で、満足に子供達と遊んであげたりすることができませんでした。主人や母、さらには義父母などの力をかりてやっと育ててきたぐらいのダメな母親です。私のところに来てくれた子供達が時々不憫でなりません。
中2の息子が6月中旬から学校に行けなくなりました。 前の月あたりから家でイラつくようになり、思春期が本格的になってきたのかな・・・と思っていましたが、学校でしつこいからかいのようなことがあったようです。 次第に夜ふかしをしたりするようになり、朝起きるのが大変になってきて、とうとう休んでしまいました。 今までいろんなことを頑張ってきた子なので、学校でうまくいかないことも相まって、疲れてしまったのかもしれません。 休むようになり、一時期は昼夜逆転になってしまいましたが、今は落ち着いています。 終業式にも行けないまま夏休みに入りました。 息子もこのままではいけないと思っているようです。 担任や部活の顧問先生も訪問してくださったり、部活の友達は一緒に行こうと声を掛けてくれます。 そのときは行く気になるのですが、朝になると起きられません。起こしても無視されます。その後は不機嫌になり不安定になります。 もうどうしたらいいかわかりません。 毎日泣けてきます。
私の家は浄土宗の檀家です。 浄土宗(浄土真宗も同じだと思います)では、「ただ南無阿弥陀仏を唱えれば、臨終に際して阿弥陀様が現れて浄土に連れて行ってくださり、そこで悟りをひらいて救われる」という思想だと理解しております。 しかし、どうしても心の中にもやもやが残ってしまいます。 といいますのは、「南無阿弥陀仏を唱えれば浄土に連れて行ってもらえ、悟りをひらける(=救われる)」というのを裏を返せば、「南無阿弥陀仏を唱えない人は悟りをひらけない(=救われない)」ということになってしまわないかと思うのです。 「自分に帰依しないもの、信じないものは救わない」などと、阿弥陀様はおっしゃるようには思えないのです。そんな心の狭い方ではないと思うのです。 おそらく「信じるものは救われる、でも信じてない人も救ってあげるよ」とおっしゃると思うのですが、ではそうなると「南無阿弥陀仏」をお唱えするのに果たして意味があるのかどうか、唱えても唱えなくても救われるのであれば、なぜ「南無阿弥陀仏を唱えると良い」とされているのかという疑問がわいてきます。 つまり 「南無阿弥陀仏を唱えないと救われない」→阿弥陀様はそんな心の狭い方だろうか? 「南無阿弥陀仏を唱えなくても救われる」→じゃあなぜ南無阿弥陀仏を唱える必要があるのか? という板ばさみといいますか、ジレンマに陥った気分になるのです。 これについて、お坊さんの見解をお聞きしたく、よろしくお願いします。
死後の事についてご相談があります。 私は宗教という考え方やそれに基づいた慣習、イベント自体は好きですが、私自身が何かの宗教に属することは避けたいと思っています。 私の知る上では各々の宗教の考え方と私自身の観念が合うことが少ないからです。 ただし、宗教のパロディである空飛ぶスパゲッティ・モンスター教には共感いたしておりますので、自称するときはパスタファリアンを名乗っています。 そこで、私が死んだ後、葬式をあげてほしくないと思っています。 特に仏教式の葬式です。 なぜなら、戒名をいただいた時点で、仏教徒になってしまい、仏教という枠に囚われてしまうからです。 悟りも輪廻も御免被りたいです。 衛生的な観点からは火葬自体はしても構わないのですが、法律が許しませんが、できればその後はゴミ箱にでも捨ててもらって処分してもらいたいと思っています。 家族にそのことを話すと、死んだら終わりだから死後の事など心配するなと言われるのですが、そうではなく、私がそのくくりにとらわれてしまうことを決定づけられることが不服なのです。 死後の世界云々は信じておりませんが、生きているうちはそのことが囚われであり、心配であります。 ただ、信じずとも無いことの証明は極めて難しい以上、ある可能性は0ではないというのが論理であり、公理です。 (論理、公理とは数学上の意味です。) ですから、その0ではない可能性で、仏教の枠に入ることで、悟れなければ輪廻を繰り返してしまうという観念に囚われてしまっているのです。 ただし、重ねて申し上げますが、悟り自体は御免被ります。 渇愛は人間の人間たる、また、人間の動物たる所以と思います。 私は人間らしさを捨てたくはありません。 仏教に従事していらっしゃるお坊さま方には相容れない考え方かも知れませんが、これが私の中の公理です。 さて、これは私の考え方を変える努力をして見たほうが良いのでしょうか? それとも、家族を説得するようにしてみたほうが良いのでしょうか? 相談する相手を間違っているような気もしますが、意見を伺えるかもしれない機会を捨てることはないと思い、ご相談差し上げます。 よろしくお願いします。