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検索結果: 533件

既婚の姉が既婚者と不倫の末家出しました。

10年前に5年程お付き合いした後結婚した姉夫婦ですが、初めは子供も欲しいと考えていたようですが、姉が働くようになり、子供は要らないと言い出し、喧嘩も絶えませんでした。 義兄は、私からしたら全く厳しいとは思えず、私の母や私とも関係は良好でした。旅行に連れて行ったり、姉の趣味も自由にさせていたりと、口煩い様子ではありませんでした。 しかし、姉は数年前から結婚後すぐに就職した会社内で一つ年上の既婚男性と付き合っていたようです。 私も母も気づかず、不倫が義兄にバレ、一度は別れると約束した後また続いていることが義兄に発覚し、大喧嘩になり、家出しました。 私も母も不倫の件は姉が居なくなってから義兄に聞きました。 会社にはいるようですが、何処に住んでいるのかもわかりません。会社に出向こうと思いましたが姉の事を考えると他の人の目もあるため出来ません。 連日姉に連絡をしていますが出ません。母も私も義兄が不憫で仕方が無く、申し訳ない思いでいっぱいです。 相手の男性が姉と一緒になるとは到底思えず、姉はどうやら貯金も使い果たしているようです。 姉に何と伝えれば目を覚ましてくれのか、また離婚するならば、このまま義兄を縛り付けない為にはきっちり清算させないといけないと思っていますので、何か手立ては無いものかと毎日悩んでいます。 母も私も限界に来ています。このまま私達は、縁が切れてしまうのでしょうか。悲しくて仕方がありません。この悲しみはどうしたら姉に伝わるのでしょうか。教えて下さい。

有り難し有り難し 50
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お寺変えるべきか悩んでます…

昨年長男である旦那が正式に墓守に。 去年墓経時に棚経もお願いしても連絡なし棚経も来てもらえず。 今年も盆前墓経時に棚経をお願いしてて、連絡なしで7月末にポストに名刺だけあって夜に連絡をしたら「棚経に行ったけど不在だった」と。 連絡もなく来て不在と言われても共働きで常に家に居るわけじゃないし、日時を指定してもらってその日は電話を切りました。 棚経は午前中との約束だったので、義母も9時前には我が家に。10時過ぎ確認も兼ねてお寺に電話。 「住職が他所回ってるから午前中は無理、午後に行く」と。 11時半過ぎに電話がかかってきて「午後は施餓鬼があるから棚経は無理。お寺来たら一緒に棚経のお経あげてあげてもいいけど?」 去年はお願いしても無視、 今年は連絡もなく勝手に来てその後約束した日時は来れず、上からの物言い。 何のための約束か⁈と旦那も義母もブチ切れ。 実は仏壇開きもやってもらえるまで2年かったという経緯が。 元は旦那の祖母が檀家、義父と曽祖母の位牌を義母が管理をしてました。(祖父は祖母が勝手に集合墓地に遺骨を巻いてしまいこの時は位牌なし) 当時、義母の再婚があり長男である旦那はまだ未成年。墓守は無理で、出来る歳になるまではお寺に位牌を預ける形をとりました。 5年前に祖母が他界。その際叔父が別宗派で葬儀、納骨もしないまま2年。叔父の方から祖母の位牌と遺骨をそっちでどうにかして欲しいと連絡があり、これをきっかけに成人した結婚もしたと旦那も墓守を決意。菩提寺になるお寺で祖母の戒名と祖父の相談、位牌の引取りをお願いしました。 はじめはお寺も対応が早く、 叔父から位牌遺骨引取り→その日のうちにお寺へ行く事ができて、4人の位牌も早くに受け取る事ができたのですが… その後からはぐだぐた。 お寺へ行ったのが秋の終わり。 これから寒くなるから納骨は春先、その時に仏壇開きも、との事。 春になりでも連絡はなく、こちらから連絡。納骨当日はその日別の方の納骨があってそのついで?な扱い。 仏壇開きも仏壇等を揃えた状態でお願いしてましたが、納骨以降仏壇開きの連絡なし。墓前法要の度に直接話しても「また連絡する」の繰り返しで、我が家が引っ越す話をしてやっと返事がもらえて漸く…な流れ。 こんなに適当なら同じ日蓮宗の別のお寺さんに変えた方がいいのか?と思ってしまうのですが…。

有り難し有り難し 40
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修行の道を選ぶことは社会の弱者より自分を優先すること?

(すべての宗派がそうではないことは理解していますが)座禅をすることによって悟りへの道が開かれる、ということへの質問です。何十年も修行をしたり座禅をしたりすることは確かにその僧侶にとっては悟りへの一歩かもしれません。 でも、その間に途上国ではその日をも生きられるかわからないひとたちがたくさんいます。この日本でも貧困層は存在します。もしも座禅をするかわりにそのひとたちの手をとってくれたら、パンを与えてくれたら、生き延びる道を一緒に検討してくれたら、助かる命もたくさんあるはずです。 修行の道(とくに長い期間社会から断ち切る行為)というのは、ある意味で自分を選択、優先することになる、と思ったことはありませんか?(これは侮辱ではなくて、本当に疑問、のレベルです。本当に本当に悪い意味でいっているのではないことをご理解ください) 自分の道に専念するその思いは素晴らしいと思う。そして得たものを周りのひとに伝えていこうとする気持ちも。でも、現実のこの社会のなかで、仏教が天台宗で言うような「一隅を照らすひとになる」ことが大切だとすれば、それはどこか矛盾していると感じてしまうことは間違っているでしょうか。 僧侶として、途上国や先進国を問わずに、貧困や飢餓などで今日をいきられるかわからないひとたちを前に仏教はなにができると思われますか?

有り難し有り難し 86
回答数回答 4

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