2023/07/17私の罪と人生について
私には数年間、誰にも相談できず、自分では抱えきれなくなったことがあります。私は数年前に職を辞し、その際こちらで質問をさせていただきました。
あれから、私は非正規で各地の学校を巡り、働いています。ありがたいことに多くの生徒から慕われていると感じます。しかし、正規の職員になってずっと働いてほしいと言われると、その度に私は耐え難くなって他所へ流れています。
今回質問をさせていただいたのはこの生き方についてです。端的に言うと、私は自分が安定すること、己が将来に希望をもつことのような、一般的に言う人生の幸福を得ることに耐え難い拒否感を抱いてしまいます。
抱えきれなくなって白状することの情けなさは重々承知していますが、ここで吐き出させてください。
私は当時、県下で知らぬ人はいない進学校で勤めていました。以前の質問の最後に書いた学校の隠蔽、それは生徒の自死でした。当時の私たちは、子ども達にその優秀さによって他者から抜きんでる術を教え、世に輩出し、それが私たち自身の優秀さの証左であると自負していました。その自己効力感は、毎日のように続く凄まじい過重労働も平然とやってしまえるほどでした。
それが一面的な価値観であることを理解していながら優越感と自己効力感に酔いしれ、いつしか私もその空気をより濃くする一因となっていました。私たちは少なくとも正しく、感謝されることをしていたはずが、子どもが自ら命を絶ったことで私は目が覚めました。あのとき、私たちにどんな罰が下っても仕方ないと覚悟をしました。しかし学校は事故として処理をし、私たちの罪はなかったことになり、今でもその学校は伝統ある進学校として何も変わっていません。
組織に対する怒りは時間と共に消えていきました。大人も必死で、善意で動いていたのでしょう。しかしその善意が子どもを追い詰め、追い立て、自律を強要し自己責任論を植え付け、結果的に弱者を踏みつけにしていたこと、そこに加担したことに、私自身への怒りが消えません。
学校は社会を映す鏡なので、どこも大して変わりません。根付きたくないのは自己効力感に酔う過去の自分に戻ることが怖いからです。それでも私はこの職と技術に縋ってしまうのです。キャリアを積むことを拒否しながら、目の前の生徒を笑顔にすることで贖罪を感じるような刹那的な生き方を辞められません。私はどうしたらよいのでしょうか。
有り難し 6
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